三度のアヴェ・マリアの聖母、三位一体の聖母
Notre-Dame des trois Ave Maria, Notre-Dame de la Trinité




(上) 三度のアヴェ・マリアの聖母(三位一体の聖母) ラ・バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテにある彫刻


 三度のアヴェ・マリアの聖母(仏 Notre-Dame des trois Ave Maria)、あるいは三位一体の聖母(仏 Notre-Dame de la Trinité)は聖母マリアに与えられた称号のひとつで、十三世紀ドイツの修道女ハッケボルンのメヒティルトが受けた啓示に基づきます。


【三度のアヴェ・マリアの聖母への信心】

 ヘルフタ(Helfta ザクセン=アンハルト州マンスフェルト=ズュートハルツ郡)はドイツの中心からわずかに東、マルティン・ルターの聖地として知られるアイスレーベンの南東にある小さな町です。十三世紀後半当時、ヘルフタ近郊のロダルスドルフ(Rodalsdorf)にあるベネディクト会女子修道院では、ハッケボルンのゲルトルート(Gertrud von Hackeborn, 1223 - 1292)が院長を務めていました。院長ゲルトルートの妹はメヒティルト(Hl. Mechtild/Mechithild von Hackeborn/Helfta; c. 1241 - 1298/99)です。

 ヘルフタの聖ゲルトルート(聖大ゲルトルート)は中世ドイツにおける聖心への信心で知られます。ヘルフタの聖ゲルトルートは五歳の時にベネディクト会ロダルスドルフ修道院に預けられましたが、そのとき若きゲルトルートの教育係を務めたのがメヒティルトでした。伝承によると聖メヒティルトはキリストを幻視し、「この世でわたしに会いたい者は、祭壇の聖体にわたしを見出すであろう。またゲルトルードの心のうちにもわたしを見出すであろう」との啓示を得ました。また死に際しての助けを聖母に求めた際、「わたしはあなたを助けましょう。あなたは一日三回のアヴェ・マリア(天使の挨拶 註1)を毎日唱えなさい」と告げられました。すなわち力を与え給う父(父なる神)に一度目の天使の挨拶を、智恵を与え給う子(子なる神キリスト)に二度目の天使の挨拶を、慈愛を与え給う聖霊に三度目の天使の挨拶を、それぞれ捧げるように聖母はメヒティルトに命じ給うたと伝えられます。

 このときメヒティルドに啓示を与え給うた聖母を指して、三度のアヴェ・マリアの聖母(仏 Notre-Dame des trois Ave Maria)、あるいは三位一体の聖母(仏 Notre-Dame de la Trinité)と呼んでいます。上の写真は三度のアヴェ・マリアの聖母(三位一体の聖母)の彫刻で、三位一体から聖母に向かい、力(仏 puissance 註2)、智恵(仏 sagesse 註3)、慈愛(仏 charité 註4)が与えられています。この彫刻は後述するブロワのラ・バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテに安置されています。

 なお三度の天使の挨拶を唱えるのは、メヒティルトのみの祈り方ではありません。ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc, 1412 - 1431)は戦闘前に三度の天使の挨拶あるいは天使祝詞を唱えるよう兵士たちに求めましたし、フランシスコ会士ポルト・マウリツィオの聖レオナルド(Leonardo da Porto Maurizio, O.F.M., 1676 - 1751 十字架の道の信心を広めた修道士)、レデンプトール会を創設した聖アルフォンソ・デ・リグオリ(Saint Alfonso Maria de' Liguori , 1696 - 1787)、アルスの主任司祭聖ヴィアンネ、ドン・ボスコ(Don Bosco, 1815 - 1888)も日々三度の天使祝詞を唱えました。



【ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテのバシリカ】

 ブロワ(Blois ロワール=エ=シェル地域圏サントル=ヴァル・ド・ロワール県)はロワール河沿いの古都で、六角形のフランス国土の中心から百五十キロメートルほど北西にずれた位置にあります。ブロワからロワールを六十キロメートル遡ればオルレアン、六十キロメートル下ればトゥールに至ります。ブロワは歴史的な地域名であるブレゾワ(le Blésois)の中心地であり、芸術歴史都市(仏 une ville d'art et d'histoire)に指定されています。




(上) 三度のアヴェ・マリアの聖母への祈りを勧める信心書のひとつ


 ブロワはノートル=ダム・ド・ラ・トリニテ(三位一体の聖母)への信心を育んだ場所として知られます。

 聖母がヘルフタのメヒティルトに命じ給うた信心業、すなわち毎日三度のアヴェ・マリアを唱えて三位一体に祈る信心を近代において再興したのは、カプチン修道会(註5)に属するブロワ修道院のジャン=バチスト・ド・シェメリ神父(P. Jean-Baptiste de Chémery, 1861 - 1918)でした。ド・シェメリ神父は三度の天使祝詞の信心を広めることに生涯てを捧げ、三度のアヴェ・マリア信心会(仏 l'Œuvre des Trois Ave Maria)を創設するとともに、「三度のアヴェ・マリアを広める」(仏 Le Propagateur des Trois Ave Maria 註6)と名付けた雑誌を創刊しました。

 ド・シェメリ神父が 1918年に亡くなると、クローヴィス・ド・プロヴァン神父(P. Clovis de Provins)が信心会を引き継ぎました。ド・プロヴァン神父はノートル=ダム・ド・ラ・トリニテ(三位一体の聖母)聖堂の実現に全精力を注ぎました。




(上) ブロワのラ・バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテ 古い絵葉書の写真


 ド・プロヴァン神父は聖母のために能う限り壮麗な聖堂を建設しようと考えましたが、無謀と思える神父の計画は多くの反対に遭いました。しかしながら神父は信念を曲げることなく信心会に喜捨を仰ぎ、多くの会員が神父の呼びかけに応じました。神父は雑誌の購読者にも数度にわたって訴えかけ、購読者たちは喜捨で応えて聖堂建設を支えました。

 1932年、建築家シャルル=アンリ・ベスナール(Charles-Henri Besnard. 1881 - 1945)のもと、ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテ(三位一体の聖母)聖堂はようやく定礎に漕ぎつけました。その後建設工事は一旦中断しましたが、1935年に建築家ポール・ルヴィエール(Paul Rouvière, 1906 - 1939)のもとで再開します。

 ルヴィエールは伝統的工法にこだわらず、新時代の建築材料や工業生産の手法を積極的に取り入れ、見栄えを良くするための表面的装飾を排して形態の純粋性を重んじることで、現代美術の作品とも呼ぶべき聖堂建築を成し遂げようと考えました。この原則に従って、ルヴィエールはコンクリートの表面をびしゃんまたは波型ローラーで仕上げ、ロワールの川辺の小石を表現しました。この表面仕上げにより、聖堂の壁面はコンクリート打ちっ放しとは思えない個性と温かみを獲得しました。




(上) バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテのヴェリエール(ステンドグラス)


 ルヴィエールは聖堂の装飾について各芸術分野の専門家に協力を仰ぎました。聖堂建築に協力した重要な芸術家としては、ルイ・バリレ(Louis Barillet, 1880 - 1948)とジャン・バリレ(Jean Barillet, 1912 - 1997)がステンドグラスと内陣のモザイク画を、ジャン=ランベール・リュキ(Jean Lambert-Rucki, 1888 - 1967)が十字架の道行きと内陣の浮き彫りを、それぞれ担当しています。

 弱冠三十二歳で夭逝したポール・ルヴィエールから聖堂建設を引き継いだ建築家イヴ=マリ・フロワドヴォ(Yves-Marie Froidevaux, 1907 - 1983)の下、三位一体の聖母聖堂は 1949年に落成し、同年に祝別されました。1956年には教皇ピウス十二世によりバシリカの称号が与えられました。


 カプチン会ブロワ修道院は 2016年にラ・バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテ(三位一体の聖母のバシリカ)から転出しましたが、ブロワ司教ジャン=ピエール・バチュ師(Mgr. Jean-Pierre Batut, 1954 - )はヴァンサン・ドラビ神父(P. Vincent Delaby)をバシリカの主任司祭に任命しました。雑誌「三つのアヴェ」(Les Trois Ave)はドラビ神父の下で発行が続けられており、三度のアヴェ・マリアを唱える信心はフランス全土のみならず世界に広がっています。祈りがかなえられたという感謝の手紙や、自分のために祈ってほしいと願う手紙が、ラ・バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・トリニテに日々届けられています。



註1 ここに言うアヴェ・マリアとは天使祝詞の全体ではなく、天使の挨拶、すなわち天使祝詞の前半のことであろう。なぜならば十三世紀の時点で、天使祝詞は未だ現在の形になっていなかったからである。

 十四世紀のブルゴーニュ公領ネーデルラントでは、共住兄弟団・姉妹団(仏 les frères et sœurs de la vie commune)とヴィンデスハイム律修参事会(仏 la Congrégation de Windesheim 羅 Canonici Regulares Sancti Augustini Vindesemensis, CRV)が中心となり、デーウォーティオー・モデルナ(羅 DEVOTIO MODERNA 現代的信心)と呼ばれる信仰改革運動が興隆した。デーウォーティオー・モデルナにおいてはアウグスティヌスからハインリヒ・ゾイゼに至る宗教書研究、毎日幾度も行われる瞑想、秩序立った方法で実行される祈りを重視しており、また福音書の場面に身を置く瞑想も奨励された。このような信仰の在り方に、天使の挨拶の祈りはよく馴染んだ。

 カルトゥジオ会(仏 l'Ordre des Chartreux 羅 ORDO CARTUSIENSIS)はデーウォーティオー・モデルナに強く共感し、これを修道生活に取り入れた。ラインラントにある幾つかのカルトゥジオ会修道院では、百五十回の「天使の挨拶」のそれぞれに、イエスに関する異なる言葉が付加されるようになった。付加されたのは、たとえば「御身の胎の実イエスも祝されたり。イエスはベツレヘムに生まれ給へり」、あるいは「御身の胎の実イエスも祝されたり。イエスは十字架にて死に給へり」というような文言で、福音書の場面に身を置いて黙想する援けとなった。このような中間段階を経て、十四世紀末ないし十五世紀初頭頃、「天使の挨拶」に後半部分が付け加えられ、現在の天使祝詞が成立したのである。

註2 力ある童貞(羅 VIRGO POTENS)は、ロレトの連祷に現れる聖母の称号のひとつである。

註3 智恵の座である聖母は、地上における神の座であるゆえに、ケルビム(智天使)に比される。

註4 慈愛が聖母の重要な属性であることは、マドンナ・デッラ・ミゼリコルディア(伊 Madonna della Misericordia)を引くまでもないであろう。

註5 カプチン会(Ordo Fratrum Minorum Capuccinorum, OFM Cap.)はフランシスコ会から分かれた会派で、聖フランチェスコの教えに厳格に従う修道生活を特徴とする。

註6 ド・シェメリ神父の雑誌「三度のアヴェ・マリアを広める」(仏 Le Propagateur des Trois Ave Maria)は第二次世界大戦後に「三位一体の聖母」(仏 Notre-Dame de la Trinité)と誌名を変更し、更に 2019年には再び誌名を変更して「三つのアヴェ」(仏 Les Trois Ave)になった。



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