聖ジャンヌ・ダルク
Ste. Jeanne d'Arc, St. Joan of Arc
(上) ジャンヌ・ダルク Jules Bastien-Lepage,
"Jeanne d'Arc", 1879, oil on canvas, 254 x 279.4 cm, Metropolitan Museum of Art, New
York
ジャンヌ (Jeanne, 1412年頃 - 1431年5月30日) は貧しい農家の少女でしたが、百年戦争のいくつかの戦いでフランス軍を勝利に導き、国王シャルル7世をランスで戴冠させました。
(上) ドン=レミのジャンヌの生家に保存されているジャンヌの部屋。古い絵葉書より。当店の商品です。
ジャンヌは12歳の頃以来、天からの声を聞き幻視を体験することがたびたびありました。ジャンヌはそれらの声や姿を
大天使ミカエル、 305年頃に殉教した
アレクサンドリアの聖カタリナ、310年頃に殉教した
アンティオキアの聖マルガリータからの啓示であると考えていました。
(下) 啓示を受けるジャンヌ。
当店の商品です。
(下) 大天使ミカエル Simon Ushakov,
"The Archangel Michael Trampling the Devil Underfoot", 1676. 23 x 20.5 cm, The Tretyakov Gallery, Moscow
(下) アレクサンドリアの聖カタリナ Caravaggio,
"St. Catherine of Alexandria", c.1599, oil on canvas, Thyssen-Bornemisza Collection, Lugano-Castagnola,
Switzerland
(下) アンティオキアの聖マルガリータ Francisco de Zurbarán,
"St. Margaret", c. 1630 - 1635, oil on canvas, National Gallery, London
【ジャンヌの時代のフランス】
現在イギリスとフランスは地理的にも政治的・文化的にもはっきりと分かれた別々の国ですが、
1066年にフランス・ノルマンディーの貴族ウィリアムがイギリスを征服して以来、両国は緊密に結びついた複雑な関係にありました。イギリスを治めるのはフランスの血筋を引きフランス語しか話せない人たちでした。少し乱暴な言いかたをすれば、フランス人がイギリスを治めていたのです。
西暦987年から1328年までのあいだ、フランスを治めていたのはカペー朝という王朝でした。このカペー朝が途絶えると、カペー家の血筋を引いていた当時のイングランド国王エドワード3世はフランスの王位継承権を主張して、当時ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分裂して内戦状態にあったフランスに攻め込みます。こうして114年にも及ぶ「百年戦争」(1339年~1453年)が始まりました。
(下) an illustration of the Battle of Sluys; from a fifteenth-century manuscript
of Jean Froissart's
Chronicles (Bib. Nat. Fr., FR 2643, fol.
72).
百年戦争は「イギリス対フランスの戦い」のように誤解されがちですが、国民国家成立以前の中世のできごとであって、この点、後世のナポレオン戦争などとは異なっています。当時イングランド国王は南フランスのギュイエンヌにも領地を持っており、ギュイエンヌの領主としてはフランス国王の臣下でした。つまりエドワード3世はイングランド国王であると同時にフランスの封建領主でもありました。またフランス(カペー家)の王位継承は完全に血統権によっていました。したがってカペー家の男子が断絶したときに、同家の血筋を引くフランス貴族であったエドワード3世がフランスの王位継承権を主張したのは、現代人が考えるほど乱暴な主張ではけっしてありません。
フランスの王位継承における血統権は直系でなければ有効でないので、カペー朝最後の王の息子ではなく甥であったエドワード3世は自動的にフランス王位を継承できる立場ではありませんでしたが、直系でないという点ではカペー朝を継いだヴァロア朝のフィリップとて同じことです。事実百年戦争後期には、フランスの半分(ブルゴーニュ派)はイングランド国王に同調したのです。
百年戦争後期、アルマニャック派と王太子シャルル7世をパリから追い落としたブルゴーニュ派は、イングランドと同盟を結んでフランス国王シャルル6世の娘をイングランド国王ヘンリー5世(エドワード3世のひ孫)に嫁がせ、生まれた子どもを次のフランス国王にするという条約を結びました。つまりアルマニャック派と行動をともにしている王太子シャルルには王位を継がせないということです。
シャルル6世が亡くなると、イングランド国王ヘンリー6世はこの条約に基づいてフランス国王に即位し、パリにはヘンリー6世の叔父がやってきて、ヘンリー6世の代理としてフランス北部を支配しました。いっぽうフランス中部はシャルル7世(王太子シャルル)が支配していました。つまりフランス王国の北と南にふたりの国王が並び立ったのです。
ただしこの両人とも、未だランス (Reims) で国王として戴冠していませんでした。フランク王国を築いたクローヴィスが西暦496年にランスの聖堂で洗礼を受けて以来、フランス国王の戴冠式(国王塗油の秘蹟)はランスで行なわれる慣わしでしたから、国王になるにはどうしてもランスで戴冠する必要がありましたが、ブルゴーニュ派からみればランスは勢力圏外でしたし、当時シノンにいたシャルル7世も途中をブルゴーニュ派に阻まれてランスに近づけなかったのです。
(下) ランス司教座聖堂
【ジャンヌの活躍】
1428年秋、イングランドとブルゴーニュ派の軍隊がフランス中部に進軍し、オルレアンを包囲して攻撃を開始しました。オルレアンを取れば南フランスへの道が開けます。
このころ16歳の少女ジャンヌが「フランスを救え」という神のお告げを聞きます。ジャンヌは文字も書けないごく普通の農民の娘でした。武器を取った経験などもちろんありません。しかしどうにか王太子シャルルとの面会の許しを得たジャンヌは、シャルルと大勢の諸侯がいる部屋に通され、どの人がシャルルであるかを一目で見分けました。ジャンヌを信用したシャルルは彼女に数千人の軍勢を託します。少女ジャンヌは彼らを率いてオルレアンの救援に向かい、わずか1週間ほどでオルレアンを解放しました。
ジャンヌがオルレアンの解放に成功した背景にはさまざまな要因があるでしょうが、ひとつの大きな要因として、15世紀前半が騎士道の廃れかけた時代であったことがあげられます。つまり当時は騎士道によればどう振舞うべきかを各人が知っていながら、その規範が実際には守られなくなりつつあった時代なのです。
イングランド=ブルゴーニュ連合軍はオルレアン城主をすでに捕虜にしていたのに、都市に対する攻撃を続行しました。これは騎士道では許されないことです。騎士道はキリスト教と不可分の関係にあったので、彼らはオルレアンに対する攻撃を続けながらも宗教的な罪悪感を強く感じていたはずです。そこに「神の啓示を受けた」という乙女ジャンヌが大軍を率いて乗り込んできたのです。彼らの動揺はいかばかりだったでしょうか。
ジャンヌに率いられたアルマニャック派はオルレアンを解放したあとも順調に進軍を続け、1429年7月16日、ランスに入城します。そしてその翌日、シャルル7世は正式なフランス国王として戴冠したのでした。
(下) シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ Jean-Auguste-Dominique Ingres,
"Jeanne d'Arc au Couronnement de Charles VII", 1854, le Louvre, Paris
【ジャンヌの死】
ジャンヌは 1430年4月、コンピエーニュに軍を進めましたが、5月23日にブルゴーニュ派の捕虜となってしまいました。イギリス政府はジャンヌの身柄をブルゴーニュ公から買い取り、異端の嫌疑で裁判にかけました。もしもジャンヌが異端者と証明されれば、彼女が主導したシャルル7世の戴冠も無効となると考えたのです。
裁判は最初からジャンヌに不利でした。ローマ教皇カリストゥス3世はジャンヌが異端者ではないことを宣言しましたが、裁判はイギリス側によって一方的に進められ、裁判記録も彼女に不利なように後で書き換えられました。裁判に参加した人達は大部分がイギリスの息がかかった人たちで、そうでない人も脅迫を受けていました。法廷は字が読めないジャンヌが裁判書類の内容を理解していないにもかかわらず、死刑の脅迫をもって署名させ、しかもその書類を後にすり替えました。
(下) ウィンチェスター司教アンリ・ボーフォール (Henri Beaufort, le cardinal de Winchester, 1375
- 1447) の尋問を受ける獄中のジャンヌ・ダルク。
Paul Delaroche,
"Jeanne d’Arc malade est interrogée dans sa prison par le cardinal
de Winchester", 1824, 277 x 217 cm, huile sur toile, Musée des Beaux-Arts, Rouen
異端で死刑判決を受けるには、異端の行為を繰り返すという要件が必要でした。異性装は異端の行為として当時教会によって禁じられており、ジャンヌの男装は問題視されましたが、男装を止めることを宣誓する書類に署名したジャンヌを死刑にするには無理がありました。
ところが署名の数日後、ジャンヌは収容されていた独房で性的暴行を受け、男装に戻ります。男装に戻った理由は、ふたたび強姦されるのを避けるためであったとも、女性用の衣服を盗まれて他に着るものが無かったからだとも言われています。
(下) Jules Eugène Lenepveu,
"Jeanne d'Arc sur le bûcher", 1886/90, le Panthéon, Paris
1431年5月30日、ジャンヌはルーアンの広場で柱に縛られ、火刑に処せられます。イギリス側はジャンヌの遺体が聖遺物にならないように3度にわたって焼き、その灰をセーヌに投げ捨てました。
フランス国立公文書館に残る記録によると、ジャンヌの薪に点火したのは、ルーアンの死刑執行人ジョフロワ・テラージュ (Geoffroy Thérage)
という人物です。ジョフロワの仕事の記録は 1407年から始まっており、ジャンヌが火刑に処された1431年の時点で、死刑執行人として25年のキャリアを持つベテランであったことがわかります。
このジョフロワは、少女ジャンヌを生きながら焼くという残虐な刑に心を痛めていました。また火勢を強めるために油や炭が加えられ、風が送られたにもかかわらず、ジャンヌの心臓が燃え残り、これを燃やすために再び薪に点火しなければならなかったことに怖れを抱きました。仕事の後、兄弟二人のもとを訪ねたジョフロワは、恐ろしい悔恨にさいなまれ、聖女を焼き殺して赦され得ない罪を犯したという恐怖におののいていたとの証言が残っています。
死刑の執行が日常の仕事であり、それまでに数百人の刑を執行していたジョフロワがこれほどまでに度を失うほど、ジャンヌの火刑は残虐であったことが分かります。
ジャンヌ・ダルクという名前について
ジャンヌは「アルクのジャンヌ (Jeanne d'Arc, Joan of Arc)」と呼ばれていますが、ジャンヌが生まれ育った村の名前はアルクではなくドンレミ
(Domremy) です。それにもかかわらずジャンヌ・ダルク(アルクのジャンヌ)と呼ばれるのは、書類の中でジャンヌ自身の名前に続けて父の名前ダルク
(Darc) が書かれ、ダルクがたまたまDで始まる名前であったために、出身地を表すと勘違いされたことによります。
もしもジャンヌの名前に続く「ダルク」が彼女の出身地を表すのであれば、現代フランス語の正書法ではデ (D) とア (A) の間にアポストロフが必要ですが、15世紀はフランス語正書法がまだ確立していなかったので、このような混乱が起こったのです。
なおジャンヌが口述した手紙のうち3通には自身の手による署名が残っており、ジャンヌ (Jehanne) と読むことができます。フランス語ジャンヌはラテン語ヨハンナ
(JOHANNA) にあたります。ヨハンナはヨハンネス (JOHANNES) の女性形です。
ジャンヌ自身による署名
ジャンヌの紋章
ジャンヌの目覚ましい活躍を評価したシャルル7世は、1429年頃、ジャンヌとその家族に貴族の地位と紋章を授け、「デュ・リス」(du Lys) と名乗ることを許しました。ジャンヌの紋章はフランスの色である青を背景に、フランスの象徴であるフルール・ド・リス(百合の花あるいはアヤメ文)の間に置かれた剣が王冠を支えるデザインです。
この紋章は、このウェブページに示したアングルの作品「シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ」において、ジャンヌがまとっている陣中着の正面にも描かれています。
ジャンヌの列福と列聖、守護聖人
ジャンヌ・ダルクは 1894年1月27日、教皇レオ十三世によって尊者とされ、1909年4月18日、ピウス十世により、
パリ司教座聖堂ノートル=ダム(ノートル=ダム・ド・パリ)で列福され、11年後の1920年5月30日、ベネディクトゥス十五世により、ヴァティカンのサン=ピエトロ聖堂で列聖されました。
(上) フランスを恩寵の光で照らす被昇天の聖母、聖テレーズ、聖ジャンヌ・ダルク。ある修道女が1945年に描いた作品。
また1922年には教皇ピウス11世によって、
トゥールの聖マルタン、
リジューの聖テレーズ、
ルイ9世等と並ぶフランスの守護聖人 (une patronne secondaire) とされました。ちなみにフランスの第一の守護聖人 (la patronne
principale) は、
被昇天の聖母 (la Bienheureuse Vierge Marie dans son Assomption) です。
ジャンヌ・ダルクは軍人、及び信仰深いゆえにからかわれる人たちの守護聖人でもあります。
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