エウカリスチア(聖餐、聖体拝領)におけるキリストの現存
the real presence of Jesus Christ in Eucharist (Holy Communion, The Lord's
Supper)
(上) Hyeronymus Bosch,
Mass of St. Gregory (details of the closed back of the triptych "The Epiphany"),
c. 1495, El Museo del Prado
新約聖書には、イエズス・キリストが受難の前夜に十二使徒とともに食事をしたという記述が見られます。この「最後の晩餐」あるいは「主の晩餐」を儀式化したのがエウカリスチア(聖餐あるいは聖体拝領)で、イエズス自身によって定められたものです。ギリシア語エウカリスチア
(εὐχαριστία) はもともと「感謝」の意味です。また、エウカリスチアは聖体拝領で用いられる小麦のパンとぶどう酒をさす場合もあります。
イエズスと十二使徒たちは当時大部分のユダヤ人とは異なる暦を採用して、通常の「過越(すぎこし)の祝い」よりも一日早く「最後の晩餐」を行いました。したがって「最後の晩餐」は「過越の祝い」にほかなりません。ちなみにイエズスの暦はエッセネ派のものと同一です。「最後の晩餐」について、新約聖書には次のように書かれています。
マタイによる福音書 26:
26 -
30 (新共同訳)
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーヴ山へ出かけた。
コリントの信徒への手紙 第一 11: 23 -
25 (新共同訳)
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
これらの聖句において、パンと葡萄酒は「キリストの体」「キリストの血」である、と述べられています。しかし常人の目にはパンはパンにしか見えませんし、葡萄酒もそれ以外のものではないように思えます。そこでこれらの聖句をどのように解釈すべきか、パンや葡萄酒がどのようにしてキリストの体やキリストの血でありうるのかという問題について、神学者の間にさまざまな意見が生じました。
ここではそのいくつかを取り出して対比することにより、パンと葡萄酒がどのようにしてキリストの体と血でありうるのかを考えます。
エウカリスチアに関するプロテスタントの考え方
プロテスタントは無数の教派に分裂しており、教義も千差万別ですから、すべての教派について論じることはできません。ここでは正統的プロテスタントの両極にあって主張の相違が分かりやすいツヴィングリとルターについて論じます。
ツヴィングリの主張 象徴説 memorialism, Memorialismus, la doctrine mémorialique |
Zwingli, Die Wasserkirche, Zürich
フルドリッヒ・ツヴィングリ (Huldrych Zwingli, 1484 - 1531) は聖餐において神秘的、超自然的な要素をまったく認めません。 ツヴィングリによると、キリストは父なる神の右に座しておられるのであって、パンや葡萄酒の中に臨在してはいません。聖餐(エウカリスチア)はキリスト受難を記念して信者の間で行われる単なる会食です。パンはパンであり、葡萄酒は葡萄酒であって、それ以上のものではありません。したがって、それを食べたり飲んだりしたからといって、信仰心が生じたり救いに与ったりすることはありません。
ツヴィングリによる以上の主張,、「象徴説」
は、一見したところ非常に明快で分かりやすい考え方です。しかるにツヴィングリが自らの神学的主張の唯一の拠り所とした聖書は、主の晩餐に関して、「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」等と明確に述べています。ツヴィングリの主張とこれらの聖句は、互いに矛盾するように思えます。
この問題を解決するために、ツヴィングリは聖句において用いられている繋辞(ギリシア語 "τούτο εστί το σώμα μου"
における εστι、ラテン語 "HOC EST CORPUS MEUM."における EST)を、文字通りの「・・・である」という意味ではなく、「・・・の象徴である」という意味の隠喩として解釈しました。すなわち、ツヴィングリの主張によれば、イエズスは「受難を記念し象徴する会食として、聖餐を行いなさい」と使徒たちに命じたことになります。
これがイエズスの言葉に込められた真の意図であるとツヴィングリは主張するわけですが、この主張の根拠となっているのは、「人が救われるのは自らが持つ信仰のみによる」というツヴィングリ自身の考え方であるように思えます。もしもそうであるならば、ツヴィングリの議論は循環論法であって、論理学的に健全でないことになります。
「人が救われるのは自らが持つ信仰のみによる」というツヴィングリの主張、すなわち「信仰による自力救済」の考え方は、ルターを含むすべてのプロテスタントに共通して見出される要素ですが、それが最も先鋭に現れたのはツヴィングリにおいてでした。プロテスタントには洗礼も聖餐も行わないという極端な教派もありますが、聖餐を行う正統的プロテスタントのなかで、ツヴィングリはプロテスタント的発想を極限まで推し進めたといえます。
聖餐の問題に関して、プロテスタントの中のプロテスタントとも言うべきツヴィングリと、カトリックに近い立場をとるルターは意見を異にし、1529年のマールブルク会談
(Marburger Religionsgespräche) においても最後まで意見の一致を見ませんでした。現代のプロテスタント教会において、ツヴィングリの象徴説はバプテスト派により受け継がれています。
ルターの主張 共在説 sacramental union, sakramentliche Einigkeit, union
sacramentelle |
Lucas Cranach,
Martin Luther
聖餐(エウカリスチア)に関するルター (Martin Luther, 1483 - 1546) の考え方は、ツヴィングリとはまったく異なっています。ルターにとって、聖餐のパンと葡萄酒は単なる象徴では決してありません。「アウグスブルク信仰告白」第10条によると、キリストの体と血は、パンと葡萄酒の形を取って、パンと葡萄酒とともに、パンと葡萄酒の中に、概念的にではなく現実的に臨在します
(die Realpräsenz Christi すなわち 「物 RES として」の臨在)。聖餐に与る信徒は、パンと葡萄酒に臨在するキリストによって信仰を強められ、罪の赦しを受けます。
ルターは聖餐を「キリスト受難の再現」と考えない点においてカトリックと異なりますが、パンと葡萄酒におけるキリストの臨在を認め、聖餐が持つ超自然的な効果を認める点においてカトリックと共通しています。
ただしルターにおいては聖餐のパンと葡萄酒はそのうちにキリストの体と血を宿しながらも、パンと葡萄酒でもあり続けると考える点がカトリックと大きく異なります。聖別後のパンはその本質においてキリストの体であるとともにパンでもあり続け、聖別後の葡萄酒はキリストの血であるとともに葡萄酒でもあり続けると考えるのです。
さらにルターによると、聖餐のパンと葡萄酒は、聖別されることによって、その時点からキリストの体と血になるのではありません。なぜならば、キリストは世の初めから存在し、牧師による聖別の時点から存在し始めるのではないからです。このことからは、また、空間的に限定された意味で、キリストが聖別されたパンと葡萄酒のうちに内在するのではないという主張が生まれます。パンと葡萄酒におけるキリストの臨在が時間的・空間的に限定される現象ではないと考える点において、ルターの共在説はドゥンス・スコトゥス
(Blessed Johannes Duns Scotus, O.F.M, c. 1266 - 1308) の聖体共存説 (consubstantiationism)
と区別されます。
ルターの主張は以上の通りですが、キリストの体と血がどのようにしてパンと葡萄酒に臨在しうるのかという理論的な分析・説明は為されません。共在説はただ信仰上の事実として主張されます。
エウカリスチアに関するカトリックの考え方 実体変化 TRANSSUBSTANTIATIO
(上) Adriaen Isenbrandt (1480/90 - 1551),
The Mass of St. Gregory, El Museo del Prado
エウカリスチアはローマ・カトリック教会における7つの秘蹟のひとつであり、司教と司祭のみがこれを行うことができます。ローマ・カトリックとギリシア正教において、キリストは聖別されたパンと葡萄酒のなかに現実的に
(REALITER) 臨在します。
キリストの臨在の様態が「現実的」であるとは、ツヴィングリが考えたような隠喩でもなく、キリスト自身は別の所に居ながらその力をパンと葡萄酒に送り込むという意味でもありません。司祭が行う聖別によって、ただのパンに過ぎなかったものがキリストの真の体に変わり、ただの葡萄酒に過ぎなかったものがキリストの真の血に変わるのです。この現象を「実体変化」(TRANSSUBSTANTIATIO,
μετουσίωσις 註1) あるいは「聖変化」といいます。
「実体変化」は古代以来の神学思想ですが(註2)、「実体変化がどのようにして起こるのか」、「実体変化後もパンと葡萄酒の化学組成は同じであるのに、それらがもはやパンと葡萄酒ではなく、キリストであるとどうしていえるのか」ということに関するカトリック神学の考え方は、アリストテレス哲学とスコラ哲学を援用することにより、容易に理解することができます。
アリストテレス哲学及びスコラ哲学において、物すなわち自存する実体 (RES SUBSISTENS seu SUBSTANTIA) は、質料
(MATERIA) と形相 (FORMA) の複合によって成り立っています。実体に内在する形相は、本質 (ESSENTIA) と言い換えても構いません。質料が基体
(SUBSTRATUM, SUBJECTUM) となり、その基体が本質を受容・分有することによって、自存する実体が成立します。
パンと葡萄酒は、形相あるいは本質(FORMA, ESSENTIA) と質料 (MATERIA) が複合した自存する実体 (SUBSTANTIA) です。しかるに聖変化の際、キリストとの関係においては、これらの実体が基体 (SUBSTRATUM, SUBJECTUM) となり、本質 (ESSENTIA) としてのキリストを受容・分有すると考えればよいのです。
このように考えるとき、パンであったものは、実体変化後にはもはやパンではありえません。また葡萄酒であったものは、実体変化後にはもはや葡萄酒ではありえません。なぜならば基体たるパンと葡萄酒は実体変化によってキリストの本質を受容・分有したから、すなわち本質においてキリストとなったからです。
実体変化後もパンと葡萄酒の外見、化学組成を保ち続けることは、「実体」(SUBSTANTIA) と「偶有」(ACCIDENTIA) の観念により理解できます。この場合の「実体」とは、上述のような「自存するもの」「本質と質料の複合によって成り立つ個物」という意味ではなく、字義通り「下に」(SUB-)
「あるもの」(STANTIA) のことであり、「本質」(ESSENTIA) と同義です。カントの「物自体」(Ding an sich) のようなものと考えれば分かりやすいでしょう。この「実体」あるいは「本質」は、感覚器官の働きによって直接捉えることができません。そして「実体変化」(TRANSSUBSTANTIATIO)
は、文字通り、感覚で捉えることができない「実体」(SUBSTANTIA) に起こる変化なのです。
しかるにパンと葡萄酒の外見、化学組成は感覚器官の働きによって捉えることが可能な「偶有」(ACCIDENTIA) であって、「実体」あるいは「本質」とは区別して考えられるべきものです。「実体変化」はあくまでも「実体」が起こす変化であって、必ずしも「偶有」の変化を伴わなくとも構わないわけです。平たく言えば、パンと葡萄酒は実体変化によって「たまたまパンのように見えているキリスト」「たまたま葡萄酒のように見えているキリスト」になるのです。
パンや葡萄酒のような物がその本質としてキリストを受容・分有することなどありそうに無いことと思えます。しかしパンと葡萄酒の実体変化は、キリストにおける神格と人格の位格的結合
(UNIO HYPOSTATICA) と類比的に考えれば了解できます。
トマス・アクィナスの「スンマ・テオロギアエ」第3部第75問から77問は、エウカリスチアの際に起こる実体変化について詳しく考察しています。(註3)
「実体変化」(TRANSSUBSTANTIATIO) という言葉は、ラヴァルダン(またはトゥール)のイルドベール (Hildebert de
Lavardin/Tours, c. 1056 - 1133) の著作において1079年頃に初めて現れますが、1200年までに広く使われるようになりました。教皇インノケンティウス3世のもとで1215年に開かれた第4回ラテラノ公会議の決議においても、この表現が使われています。(註4) また反宗教改革の旗印のもとに開かれた1551年のトリエント公会議においては、この言葉を使って実体変化の教義が確認されるとともに、ルター派やカルヴァン派の誤謬が断罪されました。さらに、実体変化の教義に加え、聖体と聖血にはキリストの体と血のみならず、霊と神性を含むキリストのすべてがあることが改めて宣言されました。(註5)
実体変化後の聖体(パンであったもの)と聖血(葡萄酒であったもの)は神なるキリストですから、礼拝
(ADORATIO EUCHARISTICA)
の対象となります。またミサは歴史上の出来事であるイエズス・キリストの受難の完全な再現であり、このふたつはひとつの同じ出来事であると考えられます。
聖堂において、キリストの体である聖体は聖櫃(せいひつ)に保管されます。聖櫃の聖体は聖体礼拝の対象であり、また病者の聖体拝領、臨終の聖体拝領に備えて保管されています。
聖体を礼拝する少女
当店の商品です。
註1 ギリシア正教会においては「ストイケイア(元素)の変化」(μεταστοιχείωσις) という表現のほうがよく使われます。
註2 SANCTI AMBROSII MEDIOLANENSIS EPISCOPI
"DE MYSTERIIS", LIBER UNUS 50 - 54
50. Forte dicas: Aliud video, quomodo tu mihi asseris quod Christi corpus
accipiam? Et hoc nobis adhuc superest ut probemus. Quantis igitur utimur
exemplis! Probemus non hoc esse quod natura formavit, sed quod benedictio
consecravit: majoremque vim esse benedictionis quam naturae; quia benedictione
etiam natura ipsa mutatur.
51. Virgam tenebat Moyses, projecit eam, et facta est serpens (Exod. IV,
3, 4). Rursus prehendit caudam serpentis, et in virgae naturam revertit.
Vides igitur prophetica gratia bis mutatam esse naturam et serpentis et
virgae? Currebant Aegypti flumina puro aquarum meatu, subito de fontium
venis sanguis coepit erumpere; et non erat potus in fluviis (Exod. VII,
20 et seq.). Rursus a prophetae prece cruor cessavit fluminum, aquarum
natura remeavit. Circumclusus undique erat populus Hebraeorum, hinc Aegyptiis
vallatus, inde mari clausus: virgam levavit Moyses, separavit se aqua,
et in murorum specie congelavit, atque inter undas via pedestris apparuit
(Exod. XIV, 21 et seq.). Jordanis retrorsum conversus contra naturam in
sui fontis revertit exordium (Jos. III, 16). Nonne claret naturam vel maritimorum
fluctuum vel fluvialis cursus esse mutatam? Sitiebat populus patrum, tetigit
Moyses petram, et aqua de petra fluxit. Numquid non praeter naturam operata
est gratia, ut aquam vomeret petra, quam non habebat natura? Merrha fluvius
amarissimus erat, ut sitiens populus bibere non posset. Misit Moyses lignum
in aquam, et amaritudinem suam aquarum natura deposuit (Exod. XV, 23 et
seq.), quam infusa subito gratia temperavit. Sub Elisaeo propheta uni ex
filiis prophetarum excussum est ferrum de securi, et statim mersum est.
Rogavit Elisaeum, qui amiserat ferrum: misit etiam Elisaeus lignum in aquam,
et ferrum natavit (IV Reg. VI, 6). Utique et hoc praeter naturam factum
cognoscimus; gravior est enim ferri species, quam aquarum liquor.
52. Advertimus igitur majoris esse virtutis gratiam quam naturam, et adhuc
tamen propheticae benedictionis numeramus gratiam? Quod si tantum valuit
humana benedictio, ut naturam converteret (III Reg. XVIII, 38); quid dicimus
de ipsa consecratione divina, ubi verba ipsa Domini Salvatoris operantur?
Nam sacramentum istud quod accipis, Christi sermone conficitur. Quod si
tantum valuit sermo Eliae, ut ignem de coelo deponeret: non valebit Christi
sermo, ut species mutet elementorum? De totius mundi operibus legisti:
Quia ipse dixit, et facta sunt: ipse mandavit, et creata sunt, (Psal. CXLVIII,
5.De Consec., dist. 2, c. In quibus, § Cujus clare) sermo ergo Christi
qui potuit ex nihilo facere quod non erat, non potest ea quae sunt, in
id mutare, quod non erant? Non enim minus est novas rebus dare, quam mutare
naturas.
53. Sed quid argumentis utimur? Suis utamur exemplis, incarnationisque
exemplo astruamus mysterii veritatem. Numquid naturae usus praecessit,
cum Jesus Dominus ex Maria nasceretur? Si ordinem quaerimus, viro mixta
femina generare consuevit. Liquet igitur quod praeter naturae ordinem Virgo
generavit. Et hoc quod conficimus corpus, ex Virgine est: quid hic quaeris
naturae ordinem in Christi corpore, cum praeter naturam sit ipse Dominus
Jesus partus ex Virgine? Vera utique caro Christi, quae crucifixa est,
quae sepulta est: vere ergo carnis illius sacramentum est.
54. Ipse clamat Dominus Jesus: Hoc est corpus meum (Matth. XXVI, 26). Ante
benedictionem verborum coelestium alia species nominatur, post consecrationem
corpus significatur (De Consec. dist. 10, § Haec et his). Ipse dicit sanguinem
suum. Ante consecrationem aliud dicitur, post consecrationem sanguis nuncupatur.
Et tu dicis: Amen, hoc est, verum est. Quod os loquitur, mens interna fateatur:
quod sermo sonat, affectus sentiat.
註3 該当箇所の長大なテキストをすべて引用することはできませんので、それぞれの設問の表題のみ記します。
QUAESTIO LXXV. DE CONVERSIONE PANIS ET VINI IN CORPUS ET SANGUINEM CHRISTI
QUAESTIO LXXVI. DE MODO QUO CHRISTUS EXISTIT IN HOC SACRAMENTO
QUAESTIO LXXVII. DE ACCIDENTIBUS PEMANENTIBUS IN HOC SACRAMENTO
註4 de CANON SYNODI, Caput I
"Corpus et sanguis
[Christi
]
in sacramento altaris sub speciebus panis et vini veraciter continentur,
transsubstantiatis pane in corpus et vino in sanguinem, potestate divina,
ut ad perficiendum mysterium unitatis accipiamus ipsi de suo, quod accepit
ipse de nostro. Et hoc utique sacramentum nemo potest conficere, nisi sacerdos,
qui fuerit rite ordinatus secundum claves Ecclesiae, quas ipse concessit
Apostolis et eorum successoribus lesus Christus
."
註5 ルブリケイションはいずれも店主による
de Sessione Decimatertia, DECRETO DE SANCTISSIMO [SACRAMENTO] EUCHARISTAE,
Caput III,
"De excellentia sanctissimae Eucharistiae super reliqua sacramenta"
"Et semper haec fides in Ecclesia Dei fuit, statim post consecrationem verum Domini nostri corpus verumque ejus sanguinem sub panis et vini specie
una cum ipsius anima et divinitate existere; sed corpus quidem sub specie panis et sanguinem sub vini specie ex vi verborum; ipsum autem corpus sub specie vini, et sanguinem sub specie panis, animamque sub utraque, vi naturalis illius connexionis et concomitantia, qua partes Christi Domini, qui jam ex mortuis resurrexit non amplius
ツヴィングリ派等に対する断罪
"DE SACROSANCTO EUCHARISTIAE SACRAMENTO", Canon I
"Si quis negaverit, in sanctissimae Eucharistia sacramento contineri
vere, realiter et substantialiter corpus et sanguinem una cum anima et
divinitate Domini nostri Jesu Christi, ac proinde totum Christum; sed dixerit,
tantummodo esse in eo, ut
in signo, vel figura, aut virtute: anathema sit."
ルター派に対する断罪
"DE SACROSANCTO EUCHARISTIAE SACRAMENTO", Canon II
"Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistia sacramento
remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri Iesu Christi, negaveritque mirabilem
illam et singularem conversionem totius substantia panis in corpus, et
totius substantiae vini in sanguinem, manentibus dumtaxat speciebus panis
et vini; quam quidem conversionem Catholica Ecclesia aptissime Transsubstantiationem
appellat: anathema, sit.
カルヴァン派に対する断罪
"DE SACROSANCTO EUCHARISTIAE SACRAMENTO", Canon IV
"Si quis dixerit, per acta consecratione, in admirabili Eucharistiae sacramento non esse corpus et sanguinem Domini nostri Iesu Christi, sed
tantum in usu, dum sumitur, non autem ante vel post, et in hostiis seu particulis consecratis, qua post communionem reservantur vel supersunt, non remanere verum corpus Domini: anathema sit"
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