ヘルフタの聖ゲルトルート(聖大ゲルトルート)
Hl. Gertrud von Helfta (Ste. Gertrude de Helfta), Hl. Gertrud die Grosse
(Ste Gertrude la grande)
ヘルフタの聖ゲルトルート、または聖大ゲルトルート (Hl. Gertrud von Helfta, Gertrude die Grosse,
1256 - 1302) はベネディクト会の修道女で、たいへん高度な古典的教養の持ち主であるとともに重要な神秘思想家としても知られます。
【聖ゲルトルートの生涯】
聖ゲルトルートは1256年1月6日、現在ではマルティン・ルターの生地として知られるザクセン=アンハルト州ルターシュタット・アイスレーベン (Lutherstadt
Eisleben) に生まれました。5歳のときに、ハッケボルンのゲルトルート (Gertrud von Hackeborn, 1223 - 1292)
が院長を務めるロダルスドルフ (Rodalsdorf) のベネディクト会修道院に預けられ、院長の妹であるメヒティルト (Hl. Mechtild
von Hackeborn; c. 1241 - 1298) のもとで教育を受けました。
修道院長ゲルトルートは霊的教育とならんで自由学科も重視していました。少女ゲルトルートはこの修道院で古典的教養を身に着け、ラテン語で自由に読み書きするようになりました。ロダルスドルフ
(Rodalsdorf) での勉学を終えた15歳の頃、ゲルトルートはヘルフタ (Helfta) の修道院に移って修道女となり、やがて教師の役割を務めるようになりました。
ゲルトルートは古典文学とラテン語の勉学に情熱を傾けたために信仰生活がおろそかになりがちで、24歳の頃には変化が無い修道生活を苦痛に感じ始めていました。1280年のクリスマスが近づくとゲルトルートの苦悩は大きくなり、抑鬱状態になってしまいます。しかし翌1281年1月27日、25歳になったばかりのゲルトルートは復活のキリストを幻視して、「恐れることは無い。わたしがあなたを救って自由の身にしよう」という声を聞きます。ゲルトルートはこの出来事によって回心し、文学の研究を止めて、聖書研究と祈りに身を捧げる決心をします。
ゲルトルートは1289年に再びキリストの声を聞き、これまでに受けた神の恩寵を書き出すようにと命じられます。ゲルトルートは初めは拒もうとしますが、キリストは他の人たちの信仰生活を励ますために書くことを命じ、ゲルトルートは「神の愛の使者」(
Legatus Divinae Pietatis) をラテン語で著します。これに少し遅れて、ゲルトルートはやはりラテン語で「霊操」(
Exercitia Spiritualia) を著しています。これはゲルトルートの最も重要な著作です。これらの著作は、
アビラの聖テレサ (Santa Teresa de Avila, 1515- 1582) や
聖フランシスコ・サレジオ (St. Francois de Sales, 1567 - 1622) にも高く評価され、今日でも広く読まれています。
聖ゲルトルートの神秘思想は、キリストの聖心に対する信心を広めるのにも与かりました。ある時体験した幻視において、聖ゲルトルートはキリストの胸に頭を凭(もた)せ掛けて、聖心の鼓動を聴いたと言われています。
また聖ゲルトルートのキリストに対する愛は限りなく、神秘的結婚に喩えられます。イエス・キリストは少女時代の聖ゲルトルードを教育したハッケボルンの聖メヒティルトに対して「この世でわたしに会いたい者は、祭壇の聖体にわたしを見出すであろう。またゲルトルードの心のうちにもわたしを見出すであろう。」と告げたと伝えられます。
聖ゲルトルートは1301年または1302年の11月16日に亡くなりました。教会暦はこの日を聖ゲルトルートの祝日としています。同名の他の聖女たちと区別するため、聖ゲルトルートには教皇ベネディクト十四世
(Benedict XIV, 1675 - 1758) によって聖大ゲルトルートの呼び名が与えられました。
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