トゥールの聖マルタン
St. Martin de Tours
(上) Anthony van Dyck,
St. Martin Dividing his Cloak, c. 1618, oil on panel, 172 x 158 cm, St-Martin, Zaventem
トゥールの聖マルタン (St. Martin de Tours, 316/317 - 397) はローマ時代の軍人で、中世ヨーロッパにおいて最も人気があった聖人の一人です。ガリアにおける聖マルタン伝承は数百か所に分布し、わが国の弘法大師にも譬えることができます。聖マルタンは今日でも多くの人々の崇敬を集めています。
【シュルピス=セヴェールによる「聖マルタンの生涯」】
聖マルタンの生涯については、ほぼ同時代の人である聖シュルピス=セヴェール St. Sulpice-Sévère (スルピキウス・セウェルス
Sulpicius Severus, c. 363 - c. 425 註1)の手による「聖マルタンの生涯」(
De vita Beati Martini) によって知られています。その内容はおおむね次の通りです。
・少年時代
聖シュルピス=セヴェールによると、聖マルタンは当時パンノニアと呼ばれていたハンガリー西部の町、サバリア Sabaria(現在のソンバトヘイ
Szombathely)に生まれました。聖人の父はローマ軍の高級将校 (tribunus militum) でした。マルタンが生まれて後、父はガリア・キサルピナ(Gallia
Cisalpina 現在の北イタリア)のティキヌム(Ticinum 現在のパヴィア)に配属され、マルタンはここで育ちました。マルタンは父に倣って軍人になりたいと思う気持ちの一方で、早くも10歳頃からキリスト教に惹きつけられ、教会に通って洗礼志願者になりました。
・軍人時代 - サマロブリヴァにおけるキリストの幻視
ローマ軍においては皇帝崇拝が行われていましたから、父は息子がキリスト教に心を寄せることを好まず、息子が15歳の時に軍に入隊させました。マルタンは当時サマロブリヴァ (Samarobriva) あるいはアンビアネンシウム・キウィタース(Ambianensium civitas 「アンビアニ人の町」)と呼ばれていたアミアンに駐屯する部隊に配属されました。
アミアンでのある冬の夜のこと、当時18歳であったマルタンが仲間の兵士とともにアミアン市中を巡回警備していたとき、半裸の乞食に出会いました。マルタンは寒さに震える乞食を憐れみましたが、施す物を持っていませんでしたので、自分のマントを半分に切って乞食に与えました。マルタンがその夜見た夢に、乞食に与えたマントの半分を身にまとったキリストが現れ、天使達に向かって「ここなるはいまだ洗礼を受けざるローマの兵マルタン、われに衣を与えし者なり」と言いました。
(下) Simone Martini,
The Dream of St. Martin, 1312 - 17, fresco, 265 x 200 cm, Cappella di San Martino, Lower Church,
San Francesco, Assisi
外套を断ち切って貧者に与えたこの出来事の後、マルタンは約2年間に亙って軍に在籍しましたが、剣を手に戦うことをキリスト教的観点から嫌って、機会があれば除隊したいと考えていました。ボルベトマグス(Borbetomagus 現在のヴォルムス)でローマ軍がガリア人の軍団と対峙し、戦闘の前日になって一人一人の兵士に手当が配られたとき、マルタンは受け取るのを拒み、上官に対して次のように言いました。「私はこれまであなたに仕えて参りましたが、これからはキリストに仕えさせてください。手当はあなたに仕える者にお与えください。わたしはキリストの兵士です。私が戦うのは正しいことではありません。」上官が臆病ゆえに除隊を願うのであろうと問い詰めると、マルタンは「信仰ではなく臆病ゆえと疑われるのなら、私は明日武器を持たずに最前線に立ちましょう。主の御名において、盾と兜によってではなく十字架の印によって、私は敵の布陣を突破いたしましょう。」と答えました。怒った上官はマルタンの身柄を拘束しましたが、翌朝になってガリア人が和平を求めてきたために戦闘は回避され、マルタンはその後まもなく無事に除隊することができました。
(下) Simone Martini,
Saint Martin Renounces his Weapons, 1312 - 17, fresco, 265 x 230 cm, Cappella di San Martino, Lower Church,
San Francesco, Assisi
・聖なる人マルタン
その後マルタンはトゥール(Tours サントル地域圏アンドル=エ=ロワール県)に移って、同年代のポワチエ司教聖イレール(ヒラリウス、ヒラリオ St. Hilaire de Poitiers, c. 315 - 367/8 註2)に合流します。イレールはマルタンを司祭にしようと考えましたが、マルタンはこれを固辞し、祓魔師 (exorcista) となりました(註3)。
トゥールに移って間もなく、夢でお告げを受けたマルタンは、別れを惜しむイレールにふたたび戻ることを約束し、両親をキリスト教に改宗させるために旅に出ます。アルプスを越えるとき、マルタンは盗賊の手に落ちましたが、盗賊を改心させました。ミラノを過ぎたところでは男の姿を取った悪魔に出会いましたが、「どこに行っても悪魔の抵抗に遭うであろう」と言う悪魔に、マルタンが「主が私を助けて下さる。私は人から受けるものを恐れはしない」と答えると、悪魔は消えました。イリュリア(註4)において、マルタンは母を改宗させることができました。父を改宗させることはできませんでしたが、その模範によって多くの人を救いました。この後マルタンはほとんど孤立無援の状態で当地のアリウス派と論争し、鞭打たれて追放されました。
マルタンはイタリアに移り、ミラノに修道院を設立しましたが、アリウス派であったミラノ大司教アウクセンティウス (Auxentius, fl.
c. 355, + 374) の手による迫害を受けてミラノから追放され、リグリア海に浮かぶ当時ガッリナリア (Gallinaria) と呼ばれていた小島(現在のイソラ・ダルベンガ Isola
d'Albenga)にひとりの司祭とともに渡りました。マルタンは島で毒草の根を食べて死にかけましたが、祈りによって奇蹟的に助かりました。
その頃、アリウス派によって自分の司教区から追放されていたイレールが帰国を許され、マルタンはガリアに帰ってふたたび友と合流し、修道院を設立しました。このときひとりの受洗希望者が熱病に罹り、マルタンが三日間留守にしている間に、洗礼を受けずに死んでしまいました。修道院に戻ったマルタンが、遺体の周りで嘆く修道士たちを別室に退かせ、自分の体を遺体に重ねて熱心に祈ると、二時間もたたないうちに死者は復活しました。復活した男によると、彼は身体から脱け出たとき、裁きの場に連れて行かれて厳しい刑を宣告されましたが、ふたりの天使が「マルタンがこの男のために祈っています」と言うと、裁きを行っていた方がこれらの天使に命じて男を連れ戻させ、マルタンに引き渡したということでした。
その後しばらくしてマルタンは荘園を通りがかると人々が嘆いており、縊死した奴隷が部屋に横たえられていたので、マルタンは人払いをして死体の上に重なり、祈りによって死者を生き返らせました。
・トゥール司教聖マルタン
これとほぼ同じ頃である371年に、マルタンはトゥールの市民たちから請われて当地の司教になりました。しかし人望厚い司教マルタンのもとには多くの人が訪ねてきて、心静かに神と対話する時間を確保するのが難しくなりました。そこでマルタンは訪ねて来る人々から逃れるために、372年、トゥールから3キロメートルほど離れた近寄りがたい場所にマルムティエ修道院
(L'abbaye de Marmoutier) を建て、80人の弟子とともに禁欲的な隠遁生活を送りました。
修道院の近くに殉教者の墓と伝えられる場所があり、民衆が祭壇を築いて崇敬していましたが、これを疑ったマルタンが神に祈ると、それが盗賊の墓であることがわかりました。こうしてマルタンは迷信の害悪から民衆を救いました。
またマルタンはある村で古い神殿を破壊しました。民衆は神殿が壊される時は大人しかったのですが、マルタンが神殿の脇に生えていた松の古木を伐り始めたところ、祭司と民衆が強く抗議し始めました。彼らはマルタンに、「もしも神を信頼しているというのなら、われわれ自身がこの木を切り倒すから、あなたは木が倒れるところにいればよいだろう」と言い、マルタンはこれを受けて立ちました。木はもともと斜めに生えていたので、どちらに倒れるかは明らかでした。ところが倒れ始めた木に向かってマルタンが十字を切ると、木はコマが回るように方向を変えて、反対側に倒れました。異教徒たちはこの奇跡を見て全員回心しました。マルタンはその地方の神殿を壊してまわり、神殿の跡地に教会を建てたので、一帯には数多くの教会や修道院ができて、回心した民衆が詰めかけました。
あるときマルタンが通りがかった町に全身が麻痺して死にかけている少女がいました。少女の父に懇願されてその家を訪れたマルタンは、体を地に投じて祈ったあと、少女の口に聖油を垂らしました。すると少女は口がきけるようになり、聖人に触れていた手足が動くようになり、人々が見ている前でしっかりと立ち上がりました。
同じ頃、テトラディウス (Tetradius) という名前の高位の役人に仕える使用人が悪魔に憑かれて苦しんでいました。使用人をマルタンのもとに連れて来ようとしても激しく抵抗するので、テトラディウスはマルタンに、家にお越し願いたいと懇願しましたが、マルタンは異教徒の家には行けないと言いました。テトラディウスは使用人から悪魔を追い出してくだされば改宗しますと約束したので、マルタンは彼の家に行って悪魔を祓い、テトラディウスはまもなく洗礼を受けました。
マルタンはパリを訪れたとき、城門のところで癩者に口づけして祝福し、癩者はたちどころに癒されました。マルタンの衣から引き抜かれた糸はたびたび奇蹟をもたらし、病気に苦しむ者の指や首に巻きつけられると、病気をたちどころに癒しました。
ある日マルタンが自分の房で祈っていると、紫の衣を着て王冠を被り、光輝に包まれた人物が現れ、「わたしはキリストである。地上に降臨する前に、あなたに会いに来たのだ」と言いました。これが悪魔であることを見抜いたマルタンが、「主イエズスは紫の衣を着、輝く王冠を被って現れるとは言い給わなかった。受難の際のお姿で、十字架で受けた傷を示し給わない限り、私はキリストが現れ給うたとは信じない。」と答えると、悪魔は耐えがたい悪臭を残して消え去りました。
マルタンは決して怒ったり嘆いたり笑ったりせず、その表情には天上の幸福が常に表われていました。その口には常にキリストの御名があり、その心には敬虔さと平安と憐れみのみがありました。
【マルムティエ修道院】
(上) George R. Clarke,
View View of Marmoutier-bas-Rhin, 507 x 377 mm, oil on canvas, Worcester City Museums
聖マルタンが訪ねて来る人々から逃れて隠れ住んだマルムティエ修道院は、聖人自身が372年に創建した修道院でしたが、トゥール司教であった聖マルタンが修道院長を兼務することはありませんでした。マルムティエ修道院は独自に院長を選出し、トゥール司教の支配を受けませんでした。
シュルピス=セヴェールの「聖マルタンの生涯」第10章によると、マルムティエの修道士たちはラクダの毛で編んだ粗衣を着て岩穴に住み、聖マルタンに倣って聖性の獲得に励みました。食事は共に摂りましたが、ワインは病気のとき以外口にされませんでした。物の売買は禁じられ、すべてが共有されていました。若手の修道士たちが写本を作る以外に物が製作されることは無く、修道士たちは各自の岩穴にこもって、ひたすら祈りの生活を送っていました。
マルムティエ修道院は853年にノルマン人の略奪に遭いましたが、その後復興、発展し、1096年、1162年にはそれぞれ教皇ウルバヌス2世、教皇アレクサンデル3世によって礼拝堂が聖別されました。ユグノー戦争(1562
- 98年)の初期に再び略奪に遭った後、修道院はいったん復興しましたが、1799年、フランス革命によって廃院となりました。
【フランスにおける聖マルタン崇敬】
・5世紀からフランス革命まで
聖マルタンはガリアにおける修道生活の創始者であり、その崇敬はトゥールを中心に広まりました。
聖マルタンはトゥールの南西およそ45キロメートル、現在のカンド=サン=マルタン(Candes-Saint-Martin サントル地域圏アンドル=エ=ロワール県)で亡くなり、第2代トゥール司教ブリクティウス
(St. Brice de Tours, ST. BRICTIUS, c. 370 - 444) はマルタンの墓の上に礼拝堂を建てました。この礼拝堂を訪れる巡礼者は増える一方で、ペルペトゥウス
(Saint-Perpétue, ST. PERRETUUS, + 490) が第6代トゥール司教となった461年の時点で、礼拝堂は既に手狭になっていました。
そこでペルペトゥウスはトゥールに49メートル×18メートル、120本の列柱を備えた
バシリカ式の大規模な聖堂を建設し、聖人の遺体を石棺ごとカンド=サン=マルタンから移葬しました。この聖堂は通常のバシリカ式建築と異なり、マルタンの石棺に近いアプス(後陣)側にアトリウムがありました。聖マルタンのバシリカをはるばる訪ねてきた巡礼者たちは、聖人を通した恩寵を期待して、聖人の石棺に近いアトリウムに寝泊りしました。
メロヴィング朝のクローヴィス (Clovis, c. 466 - 511) は 496年のトルビアク (Tolbiac) の戦いでアラマンニ人に勝利し、これを聖マルタンの功徳によるものと考えて、アリウス派からカトリックに改宗しました。聖マルタンに対するメロヴィング家諸王の崇敬は篤く、マルタンのバシリカに寄進が行われました。10巻に亙る大著「フランク人の歴史」(
"Decem Libri Historiarum", seu
"Historia Francorum") で有名な第19代トゥール司教グレゴリウス (Grégoire de Tours, 539 - 573 - 594) が「聖マルタン伝」を書き、この聖人への崇敬をいっそう広めたのも、メロヴィング時代のことでした。
751年、キルデリク3世の宮宰であった小ピピン (Pepin le Bref, 715 - 768) がフランク王に選出されると、聖マルタンへの崇敬はカロリング朝に受け継がれました。カロリング・ルネサンスの中心人物として知られるヨークのアルクィン (Flaccus Albinus Alcuinus, +804) は、主君でもあり教え子でもあったシャルルマーニュからマルムティエ修道院の院長に任命され、アーヘンからトゥールに移り住んでその生涯の終りを過ごしました。
聖マルタンのバシリカは何度か火災に遭いましたが、その都度再建されました。ますます増える巡礼者を収容するために、1014年にロマネスク様式の大規模な聖堂が建てられ、1453年には新調された聖遺物容器に聖人の遺体が移されました。この聖遺物容器は国王シャルル7世
(Charles VII, 1403 - 1429 - 1461) と愛妾アニェス・ソレル (Agnès Sorel, 1421 - 1450)
の寄進によるものです。
聖マルタンのバシリカは1562年にプロテスタントの略奪に遭い、聖人の遺体は焼却されて腕の骨片一個しか残りませんでした。聖堂が壊滅的な打撃を受けたのはフランス革命時で、このときバシリカは馬小屋にされた後、完全に取り壊されました。このときは将来に亙ってバシリカが再建されることが無いように、石材はすべて売り払われ、バシリカの跡地は道路になりました。
・19世紀以降 フランスの守護聖人聖マルタン
聖マルタンの墓所 古い絵葉書から
「トゥールの聖者 (le saint homme de Tours)」「聖顔の使徒 (l'apôtre de la Sainte Face)」として知られるレオン・デュポン
(Léon Papin Dupont, 1797 - 1876) が聖マルタンのバシリカ跡地を発掘し、1860年12月14日に聖人の墓所を再発見しました。その後間を置かずに始まった普仏戦争
(1870 - 71) において、プロシアは圧倒的な強さを示し、1870年9月、セダンの戦いで皇帝ナポレオン3世が捕虜になると、フランス政府はパリの陥落に備えて
1870年9月から12月までトゥールに疎開しました。このとき軍人であるトゥールの聖マルタンはフランスの守護聖人とされ、教会は第二帝政の崩壊をナポレオン3世の不信仰に対する天罰であると説きました。バシリカの半壊した鐘楼ラ・トゥール・シャルルマーニュ
(la Tour Charlesmagne) は建てなおすべき信仰心の象徴とされ、聖マルタンの墓の上には仮設の礼拝堂が建てられ、巡礼が押し寄せました。
普仏戦争の敗戦に続くコミューンの動乱が収まり、フランス全土で信仰心が復興すると、聖マルタンのバシリカ再建の機運が高まり、トゥール出身の建築家ヴィクトル・ラルー
(Victor Alexandre Frédéric Laloux, 1850 - 1937) によって、ネオ・ビザンティン式の聖堂、ラ・バジリク・サン=マルタン
(La basilique Saint-Martin de Tours) が建設されました。ヴィクトル・ラルーはトゥール市役所やトゥール駅、パリのオルセー駅等を手掛けたフランス建築界の重鎮です。ラ・バジリク・サン=マルタンの建設は
1886年に始まり、1889年に地下聖堂が、1890年に地上の聖堂が完成しました。献堂は 1925年7月4日です。
ラ・トゥール・シャルルマーニュ(右側の塔)と、バシリカ
フランスの守護聖人としての聖マルタンの地位は、第一次世界大戦によってさらに確固たるものになりました。この大戦には多数の司祭が従軍し、5000名以上が命を落としましたが、彼らはフランスに対する聖マルタンの加護を説きましたし、フランス全土の教会で聖マルタンへの祈りが唱えられました。第一次世界大戦は1918年11月11日、コンピエーニュでドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立して終結しましたが、奇しくもこの日は聖マルタンの祝日でしたから、多くのフランス人が聖マルタンによる執り成しを信じました。
【その他】
聖マルタンはフランスのみならず全ヨーロッパ、さらに東方教会においても崇敬されています。東方教会における聖マルタンの祝日は10月11日です。西方教会における聖マルタンの祝日は11月11日で、この日から待降節(アドヴェント)が始まります。11月11日はもともとゲルマン人の元日、すなわち新年の始まりであった日です。
ベルギーのオースト=フランデレン州アールスト (Aalst) 及びウェスト=フランデレン州イーペル (Ypres) 郡の周辺では、子供は聖ニコラスの日(12月6日)やクリスマスではなく、製マルタンの日にプレゼントをもらいます。
聖マルタンのマントはマルムティエ修道院に保存されていました。このマントは679年に王室財産として記録されています。聖マルタンのマントはフランス王室にとって最も貴重な聖遺物であって、王に同行して戦場に運ばれることもありました。「カペー」(Capet)
という王朝の名は、「聖マルタンのマント」(cappa Sancti Martini カッパ・サンクティー・マルティニー)に由来します。
またこの上なく貴重な聖遺物である聖マルタンのマントは、特に指名された司祭によって厳重に保管されていました。マント係のこの司祭は、10世紀にはカペラニ
(cappellani) と呼ばれていました。この言葉は「シャプラン」(chapelain 礼拝堂付司祭)として現代フランス語に入っています。「シャペル」(chappelle 礼拝堂)という言葉も、聖マルタンのマントを保管した場所であることに由来しています。
聖マルタンは乗馬をする人、バイクに乗る人、補給係の将校、兵士、宿屋、仕立屋、葡萄農家、ワイン醸造業者、貧しい人、アルコール中毒者、馬、鵞鳥、フランスの守護聖人です。マルタンはフランスで最も多い名前(姓あるいは名)のひとつですし、サン=マルタンと名付けられた教会はフランス全土に4,000以上あると言われています。
註1 シュルピス=セヴェール(Sulpice-Sévère, c. 363 - c. 425)はアクィタニアの富裕な家柄に生まれたキリスト教著述家です。ガロ=ロマン期のアクィタニアは文化的な先進地域でしたが、スルピキウスはこの地で高等な教育を受け、知性に優れた学者となりました。トゥール司教マルティヌス(Martinus
Turonensis, c. 316 - 397)よりも少し後に生まれた人であり、ここに一部を引用した「聖マルタン伝」はシュルピス=セヴェールの著作のうち最も有名な作品です。
註2 当時は325年のニケア公会議よりも後の時代であり、三位一体を信じるアタナシウス派がアリウス派を制していましたが、ゲルマン人の間ではアリウス派が勢力を保っており、「西方のアタナシウス」とも呼ばれた聖イレールは、正統教義の立場に立ってアリウス派と戦っていました。
イレールは356年、アリウス派に近い皇帝コンスタンティウス2世 (Flavius Iulius Constantius, Constantius
II, 317 - 361) によって一旦ポワチエから追放され、アタナシウス派の論客としての活動の場を東方に移しますが、アリウス派であった当地の司教たちはイレールが教会の分裂を煽っていると看做して、イレールをガリアに送還するように皇帝に要請しました。その結果イレールは361年にポワチエに戻り、368年頃に当地の司教として没しました。
註3 「祓魔師」(ふつまし)は第二ヴァティカン公会議(1962 - 65年)以前に存在した下級叙階のひとつで、最下級である「守門」のひとつ上に位置します。
註4 イリュリアはバルカン半島の西側沿岸部に位置するローマの属州です。
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