シャルトル司教座聖堂ノートル=ダム
La cathédrale Notre-Dame de Chartres
シャルトル司教座聖堂ノートル=ダム(ノートル=ダム・ド・シャルトル)の主要部分は 13世紀に建設されました。聖堂内部の東西の長さ 130メートル、聖堂内部のヴォールトまでの高さ
37.5メートル、地上から屋根までの高さ 51メートル、北側鐘楼の高さ 115メートル、南側鐘楼の高さ 105メートル、翼廊内部の南北の長さ
63メートル、西側ファサードの南北の幅 48メートルを誇るゴシック建築の精華であり、カトリックの大巡礼地でもあります。1979年にはユネスコの世界遺産に選ばれています。
【シャルトル司教座聖堂の歴史】
・古代からロマネスク時代まで
350年頃、当時アウトリクム (Autricum) と呼ばれていたシャルトルの初代司教アウェンティヌス (Aventinus) により、シャルトルを囲む城壁のそばに聖堂が建てられたと考えられています。この聖堂は8世紀中頃、西ゴートがシャルトルに侵入した際に略奪を受け、焼け落ちました。
またその後に再建された聖堂も、858年6月12日にヴァイキングの略奪を受け、ふたたび焼け落ちました。
その後、シャルトル司教ジルベール(Gislebert/Gilbert de Chartres 在位 859 - 878)が再建した三代目の聖堂は、以前よりも大規模なものでした。現在のシャルトル司教座聖堂にはふたつのクリプト(地下聖堂)があり、主祭壇の真下にあるクリプト(内側のクリプト
l
a crypte interieure)はサン=リュバン (Saint-Lubin) と呼ばれる殉教者廟あるいは納骨堂(マルティリウム)となっていますが、このサン=リュバンはジルベールが建てた聖堂の遺構です。876年、フランク王シャルル2世
(Charles II le Chauve, 823 - 877) はこの聖堂に聖遺物「聖母マリアのヴェール」を寄進しました。
962年8月5日に三代目の聖堂が戦乱で焼け落ち、その後四代目の聖堂が建てられました。しかし 1020年9月8日に四代目の聖堂も火災に遭い、その後シャルトル司教フルベール
(Fulbert de Chartres, c. 960 - 1028/29) によって五代目のロマネスク式聖堂の建設が始まり、1037年10月17日に献堂されました。現在の地下聖堂は1020年の建設で、フルベールによる五代目の聖堂の遺構です。
・現在の聖堂の建設
1134年9月5日、シャルトルは大火に見舞われて壊滅的な被害を受けましたが、5代目のロマネスク式聖堂は焼失を免れました。現在のシャルトル司教座聖堂はこの5代目の聖堂を改築する形で建てられました。
まず 1134年から1155年にかけて、現在目にすることができる西側正面のファサードが建設されました。正面北側の塔(鐘楼)の建設も始まりましたが、1150年頃に作業が中断しました。1142年から
1150年には王の入り口 (le portail royal) とその彫刻群が作られました。1145年からは正面南側の塔(鐘楼)の建設が始まり、1170年までに完成しました。
1194年6月11日、聖堂はふたたび火災に見舞われましたが、西側正面のファサードとふたつの塔、サン=リュバン(上述のマルティリウム)を含む地下聖堂は無事でした。聖母マリアのヴェールもサン=リュバンに安置されていたので焼失を免れました。周歩廊に嵌め込むはずであったステンドグラス作品「ノートル=ダム・ド・ラ・ベル・ヴェリエール」(Notre-Dame de la belle verrière 美しき大ステンドグラスの聖母)は、まだ嵌め込まれていなかったために、幸運にも焼失を免れました。
現在のゴシック式聖堂の建設は火災の後すぐに始まり、西側正面と地下聖堂以外の部分はすべて建て替えられました。1240年までにステンド・グラスが完成し、1260年に献堂式が行われました。
【聖堂各部、聖像等】
・西側正面の塔と鐘楼
シャルトル司教座聖堂の大きな特徴のひとつとして、西側正面にあるふたつの塔(鐘楼)の形が大きく異なることが挙げられます。北側の塔は初期ゴシックの基部に後期ゴシックのフランボワヤン式(火焔式)の鐘楼が載っています。これに対して南側の塔の鐘楼は装飾の少ないデザインとなっています。
・西側正面ファサード 「王の入り口」のタンパンとまぐさ石に見られる彫刻群
西側正面には3つの入り口があり、これらをまとめて「王の入り口」(les portails royaux) と呼んでいます。この名の由来は、これら3つの入り口の脇柱が旧約時代のユダヤの王たちの像で飾られていることによります。
既述のように「王の入り口」は 1194年に焼け落ちた五代目の聖堂の一部ですが、この部分の建築時期はフランスにおける教会建築の初期ゴシック期にあたります。それゆえシャルトル司教座聖堂の「王の入り口」は、今日では部分的にしか原型をとどめないサン・ドニ聖堂の入り口に倣って製作され、初期ゴシック彫刻で飾られています。
また入り口の各部分、すなわちタンパン(ティンパヌム)、アーキヴォルト、まぐさ石、脇柱の構成は、モワサックのサン・ピエール修道院のようなロマネスク期の聖堂建築に見られるものとたいへん似通っています。
(下の2枚) モワサックのサン・ピエール修道院 (Abbatiale Saint-Pierre de Moissac) 入り口とタンパン。エミール・マールは「12世紀のフランス美術」
(Émile Mâle,
L'art religieux du XIIe siècle en France, 1922) において、この入り口を絶賛しています。
シャルトル司教座聖堂西側の、最も南(向かって右)にある入り口を飾る彫刻は、キリストの受肉をテーマにしています。まぐさ石の下段左端にある
マリアへのお告げから始まり、
エリサベト訪問、イエスの聖誕、羊飼いへのお告げへと物語が展開し、上段では幼子イエスの神殿への奉献が描かれています。
タンパンと2段のまぐさ石を注意深く観察すると、中央を通る垂線上に、常にイエスがいることがわかります。まぐさ石下段において、幼子イエスは聖母が横たわるベッドの上方、祭壇の上に寝かされています。まぐさ石上段において、幼子イエスは神殿の祭壇に立っています。タンパンにおいて幼子イエスは聖母の膝の間にすわっていますが、聖母の膝も祭壇との類似性を有します。
それゆえこの彫刻群は単なるイエスの幼少期の物語であるにとどまらず、ミサにおいて日々新たに捧げられる犠牲、
キリストの御体である聖体の秘蹟を表していると解釈することができます。
(下) シャルトル司教座聖堂西側の南入り口にあるタンパンと、2段のまぐさ石
タンパンの中央に置かれている聖母子像は、聖母がイエスの「座」になる形式です。この像においてイエスは本を手にしてはいませんが、12世紀のシャルトル司教座聖堂が学校として重要な役割を果たしていたことを考えると、この聖母を
「知恵の座」(SEDES SAPIENTIAE) の聖母と解釈することができるでしょう。実際、まぐさ石とタンパンを囲むアーキヴォルトには自由学芸七科を象徴する像が配置されています。自由学芸七科は自然の光すなわち理性の働きの発現である哲学に支配されていますが、神の似姿として創造された人間に自然理性を与えたのは神であって、人間の知恵は究極的には神に由来すると言うことができます。この彫刻群において、人間の知恵は神の知恵あるいはロゴスである幼子イエスと鮮やかな対照を為しつつも、イエスすなわち神から出て神に戻ることが示されています。
人間の知恵と神の関係については、
こちらをご覧ください。
シャルトル司教座聖堂西側ファサードの北側(向かって左側)入り口は、キリストの昇天に関連するモティーフの彫刻群に飾られています。タンパンにはふたりの天使に伴われて昇天するキリスト、上段のまぐさ石には地上に向かう天子たち、下段のまぐさ石には本来12人であったと思われる使徒たちが刻まれ、アーキヴォルトは黄道12宮とそれぞれの季節の労働を表す彫刻群に飾られています。
(下) シャルトル司教座聖堂西側の北入り口にあるタンパンと、2段のまぐさ石
上述のように、南(向かって右)の入り口はキリストの受肉、北(向かって左)の入り口はキリストの昇天を表していますが、中央の入り口の彫刻群においてはキリストの再臨、最後の審判がテーマになっています。
キリストはマンドーラ(mandorla アーモンド形の後光)に包まれ、「ヨハネの黙示録」 4:7に登場する
四つの生き物に囲まれています。まぐさ石には 12人の使徒たちに加えて、メシアの再臨に関する預言を行ったエノク (Enoch *注1) とエリヤ (Elijah
*注2) の姿が見えます。
アーキヴォルトに並ぶ多数の人物は、「ヨハネの黙示録」 4:4に登場する24人の長老です。アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」(ユダ書 1:14 - 15 新共同訳)
*注1 創世記 5:18 - 24によると、エノクは父イエレドが 162歳のときの子で、365年生きて、神によって天に引き上げられました。現在は偽典とされているエノク書の著者に擬されており、エノク書
1:9とみられる内容が、新約聖書のユダ書 1:14 - 15において上記のように引用されています。
*注2 エリヤは旧約聖書列王記上、列王記下、歴代誌下、マラキ書に登場する大預言者で、弟子である預言者エリシャの眼前で、火の馬に引かれて現れた火の戦車に乗って、嵐の中を天に上ってゆきました(列王記下 2:11)。マラキ書 3:23において、大いなる主の日(最後の審判の日)に先立ってエリヤが遣わされる、と書かれています。
(下の2枚) シャルトル司教座聖堂西側の中央入り口にあるタンパンとまぐさ石
以上のことから、シャルトル司教座聖堂西側ファサードの「王の入り口」は、キリストの受肉、昇天、再臨という救済史を表していることがわかります。
・西側正面ファサード 「王の入り口」の脇柱に見られる彫刻群
シャルトル司教座聖堂「王の入り口」の脇柱彫刻群は、かつてサン・ドニ聖堂の入り口を飾っていた彫刻群と同様のものと考えられています。サン・ドニの彫刻群に表現された旧約聖書の王たちは
ダヴィデの家系であるイエスの祖先であるとともに、フランスの王家の
前表という意味も担っていました。シャルトルの彫刻群もサン・ドニの場合と同様に旧約聖書時代の王たちを表し、さらにフランスの王権の正当性の証しするという役割をも果たしていたと考えられます。脇柱の王たちは上下に細長く引き伸ばされて、アーキヴォルトの彫刻群に頭部を接しています。これは神と王の強いつながりを表現したものであり、フランス王家の支配権が神に由来するものであるという主張と捉えることができます。
・ステンド・グラス
シャルトル司教座聖堂は 176点、総面積 2600平方メートルに及ぶ 13世紀のステンドグラス作品群が、非常に良い状態で今日まで残っていることで知られています。これらのステンドグラス作品には聖書物語や
「レゲンダ・アウレア」に取材したテーマが描かれています。
(下) 西側ファサード中央の薔薇窓
・迷路
シャルトル司教座聖堂の身廊には、その幅いっぱいに描かれた迷路があります。この迷路は1200年頃の作品で、長さ 260メートル以上もある一本の「道」でできており、この道は迷路の外から入って同心円状のパターンを描いて進み、迷路の中心部に至ります。迷路全体を見渡すと、十字架の形が浮き上がっています。
シャルトル司教座聖堂の迷路は「エルサレムの道」 (Chemin de Jérusalem) と呼ばれていますが、このエルサレムとはパレスティナにある地上のエルサレムのみならず、天上の新しきエルサレムあるいは神の国をも意味しています。この迷路を巡礼者は瞑想しながら歩き、懺悔する者は膝で歩いて、神へと近づいてゆきました。
【巡礼地としてのシャルトル司教座聖堂】
シャルトル司教座聖堂はその建設当初から、カトリック信徒が巡礼に訪れる重要な聖地としての役割を担っており、大勢の巡礼者を収容できるように後陣の回廊(英
ambulatory, 仏 déambulatoire)が広く作られています。近年では 1912年から 13年にかけて、高名な作家であり神秘思想家でもあるシャルル・ペギー
(Charles Péguy, 1873 - 1914) がパリからシャルトルまで徒歩の巡礼をしたことが引き金になって、当地への巡礼がふたたび盛んになりました。
シャルトルはパリを通ってサンティアゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼路が通過する場所でもあり、サンティアゴを最終目的地とする巡礼者が立ち寄る聖地にもなっています。
巡礼者が崇敬するふたつの聖母子像、「ノートル=ダム・ド・ス=テール」(Notre-Dame de Sous-Terre 地下の聖母)と「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」(Notre-Dame
du Pilier 柱の聖母)については、
別ページをご覧ください。
【その他】
クローヴィスが西暦496年にランスで受洗して以来、フランス国王はランス司教座聖堂で戴冠するのが慣わしでしたが、アンリ4世 (Henri IV,
1553 - 1610) だけは 1594年2月27日、シャルトル司教座聖堂で戴冠式を行いました。
アンリ4世はもともとナバラ王エンリケ3世で、プロテスタントでしたが、サン・バルテルミの虐殺の際にいったんカトリックに改宗して難を逃れ、その後プロテスタントに戻りました。その後、フランスを統治する必要上、戴冠の時点ではふたたびカトリックに改宗していましたが、当時ランスは政敵マイエンヌ公の支配下にあったために、ランス司教座聖堂で戴冠することができませんでした。そこで、シャルトル司教であったニコラ・ド・トゥ
(Nicholas de Thou, 1528 - 1598) がランス大司教ニコラ・ド・ペルヴェ (Nicolas de Pelleve,
1518 - 1594) から権限を委託されて代理を務めるという形で、シャルトル司教座聖堂において、アンリ4世を戴冠させたのでした。
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