シャルトル司教座聖堂の聖母子像 ノートル=ダム・ド・ス=テールと、ノートル=ダム・デュ・ピリエ
Notre-Dame de Sous-Terre et Notre-Dame du Pilier, Chartres
ノートル=ダム・ドシャルトルには巡礼者が崇敬するふたつの聖母子像があります。ひとつは「ノートル=ダム・ド・ス=テール」(Notre-Dame de Sous-Terre 地下の聖母)、もうひとつは「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」(Notre-Dame
du Pilier 柱の聖母)です。それぞれについて簡略に述べます。
三世紀後半、サヴィニアン (SAVINIANUS/Savinien de Sens) とポタンシアン (POTENTIANUS/Potentien
de Sens) というふたりの宣教師が、ローマからガリアにやって来て、サンス(Sens ブルゴーニュ地域圏ヨンヌ県)で殉教しました。このふたりは、シャルトルに聖母に捧げられた最初の教会を創建した聖人として知られていました。
九世紀になって、二人の墓所がサンスで発見され、十一世紀にはサンス司教の命により、ベネディクト会修道院サン・ピエール=ル=ヴィフ (l'abbaye
Saint-Pierre-le-Vif de Sens) において、両聖人の事績を記録した「大殉教者伝」(la Grande Passion)
が書かれました。聖サヴィニアンと聖ポタンシアンの「大殉教者伝」は、十二世紀にシャルトルに伝わりました。シャルトルではサンスの「大殉教伝」に触発されて、十三世紀にノートル=ダム・ド・シャルトルの奇跡譚が編纂されました。これは
聖遺物「ラ・サント・チュニク」(註1)を所蔵するシャルトルこそが、聖母の嘉(よみ)し給う町であることを証明するための奇跡集でした。また十四世紀の奇跡譚によると、異教時代のシャルトルにおいて、預言者が領主に「処女が救い主を産むであろう」と語り、領主は「ウィルゴー・パリトゥーラ」(VIRGO
PARITURA ラテン語で「子を産む処女」の意)像を立てて崇敬しました。パリ大学総長を務めた神学者ジャン・ド・ジェルソン (Jean Charlier
de Gerson, 1363 - 1429) は、シャルトル司教座聖堂が建つ場所が、もともとは「子を産む処女」に捧げられたケルト宗教の聖地であったと指摘しています。1609年には、シャルトルにおける聖母崇敬の起源を論じたセバスチャン・ルイヤール
(Sébastian Rouillard) の大著「パルテニ」(
"Parthénie, Histoire de la très-auguste et très-devote Eglise de Chartres", chez Rolin Thierry et Pierre Chevalier, Paris) がパリで出版されました。
杉材のノートル=ダム・ド・ス=テール(二代目)
ノートル=ダム・ド・ス=テール(Notre-Dame de Sous-Terre 地下の聖母)はその名の通りクリプト(地下聖堂)に安置されている
「上智の座」の聖母像で、聖母は正面を向いて玉座に座り、膝に乗せた幼子イエスに両手を添えています。聖母子像の基部には「ウィルギニー・パリトゥーラエ」(VIRGINI PARITURAE ラテン語で「子を産む処女に」の意)と刻まれています。ノートル=ダム・ド・ス=テールがクリプトに安置されたのは、十二世紀頃と考えられています。
フランス革命前のシャルトル司教座聖堂に安置されていたノートル=ダム・ド・ス=テールは、梨材で作られた十一世紀の像でした。フランス革命期の 1790年、クリプトが閉鎖された際、ノートル=ダム・ド・ス=テールはクリプトから運び出されて、ノートル=ダム・デュ・ピリエが安置されていた柱上に置かれました。一方ノートル=ダム・デュ・ピリエはクリプトに移され、ノートル=ダム・ド・ス=テールがあった場所に安置されました。1793年に司教座聖堂は閉鎖され、同年12月20日、ノートル=ダム・ド・ス=テールは聖堂西側正面のポルタイユ・ロワヤル(le
portail royal 王の門)前で焼却されてしまいました。(註2)
(上)
"Sœur de St. Paul de Chartres" (Bouasse-Lebel, No. 672) シャルトル聖パウロ修道女会員を描いた19世紀中頃のカニヴェ。サイズ 105 x 67 mm
当店の商品です。
シャルトル司教座聖堂のクリプトは革命後長く閉鎖されていましたが、1857年に再び開かれ、
シャルトル聖パウロ修道女会 (Sœurs de St. Paul de Chartres, Congregatio Sororum Carnutensium
a S. Paulo, S.C.S.) が寄進したノートル=ダム・ド・ス=テールが安置されました。二代目のノートル=ダム・ド・ス=テールは杉材でできており、サイズも元の像より小さくなっていました。
クルミ材のノートル=ダム・ド・ス=テール(三代目)
十一世紀のノートル=ダム・ド・ス=テールについてはサイズの記録が残っており、また十七世紀に作られた複製がシャルトルのカルメル会に残っていましたので、これらに基づく三代目のノートル=ダム・ド・ス=テールが制作され、1976年、クリプトに安置されました。三代目のノートル=ダム・ド・ス=テールはクルミ材製で、聖母は目を閉じ、
シェーヌを模った頂部装飾がある冠を被っています。大樹となるシェーヌは天地を繋ぐ木であり、聖母と共通の属性を有します。ノートル=ダム・ド・ス=テールの背後にはゴブラン織りによる現代美術のタピスリが掛けられ、像の真後ろに当たる部分にはマンドルラ(紡錘形の光背)状の光背か織り出されています。マンドルラは緑の炎のようにも見えます。
緑は生命力の象徴です。
多くの巡礼者を集めるロマネスク期の教会堂には、地上部分の内陣を取り巻く半円形またはU字形の周歩廊と、周歩廊の外側に張り出した礼拝堂が発達しました。シャルトル司教座聖堂にも周歩廊があり、北東側、東側、南東側に礼拝堂が設けられています。このうち北東側に付き出た礼拝堂に、ノートル=ダム・デュ・ピリエ(Notre-Dame
du Pilier 柱の聖母)が安置されています。この聖母子像はヴァスタン・デ・フジュレ (Wastin des Feugerets) という聖堂参事会員が
1507年頃に寄進したもので、クルミ材でできています。聖母の左膝に座る幼子イエスは、
世界を表す球体の上に左手を置き、右手を挙げて祝福を与えています。聖母は左手を幼子の体に添え、右手に果実を持っています。エヴァが食べた「善悪を知る木の実」を思い起こさせるこの果実は、マリアが「新しきエヴァ」であることを示しています。
ノートル=ダム・デュ・ピリエは
「黒い聖母」(vierges noires) のひとつとして知られていました。しかしながら「黒い聖母」には、元々暗色の肌を持つ作例以外に、汚れ等によって黒っぽく見える場合もあります。シャルトルのノートル=ダム・デュ・ピリエは彩色の上に塗り重ねられた塗料のせいで黒っぽく見えていましたが、サントル=ヴァル・ド・ロワール文化局
(la direction régionale des affaires culturelles Centre-Val de Loire) が
2013年に修復を行い、肌の明るい色と衣の鮮やかな色彩が復元されました。なおノートル=ダム・デュ・ピリエは十六世紀の制作当初から彩色されていましたが、現在の彩色は聖母子像が作られた当初のものではなく、19世紀に施されたと考えられています。
修復前(左)と修復後(右)のノートル=ダム・デュ・ピリエ
シャルトル司教座聖堂には聖母のヴェールとされる聖遺物「ラ・サント・チュニク」が安置されており、中世における聖母マリアの一大巡礼地でした。シャス(châsse 大型の
聖遺物容器)に入った「ラ・サント・チュニク」は、銀で被った聖母像と共に、司教座聖堂内陣の祭壇上に安置されていました。当時の内陣は障壁に囲まれていて、聖職者でない者が入ることができない決まりでしたが、巡礼者たちは「ラ・サント・チュニク」と銀の聖母像に近づこうと、勝手に内陣に入り込んでいました。
銀の聖母像の盗難を心配した司教座聖堂参事会は、巡礼者が内陣に入らないように、崇敬の対象となるべき別の聖母像を、内陣障壁の外側に安置することにしました。こうして
1507年頃に新しい聖母子像が作られ、参事会員ヴァスタン・デ・フジュレによって司教座聖堂に寄進されたのでした。新しい聖母子像は巡礼者の崇敬を受けるべく、内陣障壁外側の石柱上に安置されました。1763年に内陣障壁が撤去されると、この聖母子像は四角廊(身廊と翼廊の交差部)の北西角に石柱ごと移設され、1791年にシャルトル司教座聖堂のクリプトが閉鎖された際にはクリプトに移されました。このとき、もともとクリプトにあった11世紀の黒い聖母像ノートル=ダム・ド・ス=テールが代わりに石柱上に据えられましたが、1793年12月20日、ノートル=ダム・ド・ス=テールは焼却されてしまいました。1796年に司教座聖堂が復活すると、クリプトで難を逃れた聖母子像は、元の石柱上に戻されました。
19世紀末から 20世紀初頭頃の絵葉書
1806年、聖母子像は石柱ごと現在の位置、すなわち周歩廊から北東に付き出た礼拝堂に移され、「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」すなわち「柱の聖母」と呼ばれるようになりました。礼拝堂の内装は
1831年に現在の姿になりました。1854年12月8日に「無原罪の御宿り」が教義化されたことを記念して、翌 1855年、ノートル=ダム・デュ・ピリエは戴冠しました。
(下) H. ベルトラン作カニヴェ 「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」 112 x 71 mm (シャルトル、アドリアン・ラングロワ 図版番号不明) H.
Bertrand, sc.
"Notre-Dame de Chartres", pl. inconnu, Adrien l'Anglois, Chartres
当店の商品です。
ノートル=ダム・デュ・ピリエの「ピリエ」(pilier) とは中世の建築物に使われる用語で、ヴォールト(穹窿 きゅうりゅう)の重みを支える垂直の柱を指します。キリスト教の象徴体系において、完全な図形である円は神の住まう天空を表します。高みにあって丸みを帯びたヴォールトは、天の象徴です。これに対して聖堂下部の四角い床は、地を象徴します。それゆえピリエ(柱)は「天を象徴するヴォールト」と「地を象徴する床」を結ぶ
世界軸(アークシス・ムンディー)であるといえます。
それゆえシャルトルのノートル=ダム・デュ・ピリエやサラゴサの
ヌエストラ・セニョラ・デル・ピラル(Nuestra-Señora del Pilar 柱の聖母)が柱上に安置されているのは、神の母マリアが天地を繋ぐ存在であるからです。
ところでシャルトル司教座聖堂には聖遺物「ラ・サント・チュニク」があって、これは
受胎告知の際にマリアが身に着けていたヴェールとされています。この聖遺物を有するゆえに、フランス革命前のシャルトルでは、安産祈願をしたブラウスを歴代の王妃に献上するのが習わしでした。献上されるブラウスは、クリプトにあるノートル=ダム・ド・ス=テールの礼拝堂でノヴェナ(九日間の祈り)を行う間、「ラ・サント・チュニク」のシャス(聖遺物容器)の上に置かれたものでした。
聖遺物「ラ・サント・チュニク」は革命期に切り裂かれて略奪されましたが、やがてかなりの部分が回収され、1876年に最大の切れ端がガラス張りの顕示台に納められました。しかしながらノートル=ダム・ド・ス=テールは革命後六十八年間に亙り、またラ・サント・チュニクは革命後八十七年間に亙り、いずれも失われたままの状態が続きました。
マリ=ルイーズ・ドートリシュ (Marie-Louise d'Autriche, 1791 - 1847) は 1810年に皇帝ナポレオン一世の妃(後妻)となり、翌年に初めての嫡子を産みましたが、この出産前、シャルトル司教座聖堂では革命前の伝統を復活し、皇妃にブラウスを献上することとしました。ただしこのときは「ノートル=ダム・ド・ス=テール」も「ラ・サント・チュニク」もまだ失われたままでした。そこで司教座聖堂では、ブラウスを祝別した後に、ノートル=ダム・デュ・ピリエの行列で運び、これを皇妃マリ=ルイーズに献上しました。1811年
3月 20日、皇妃はローマ王を出産し、同年 6月3日、皇帝夫妻はシャルトルを訪れ、「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」の前で、ローマ王を聖母の保護に委ねました。この出来事の後、「ノートル=ダム・ド・シャルトル」の別名でも呼ばれるようになったノートル=ダム・デュ・ピリエは、子供を守り給う聖母と考えられるようになりました。1866年からはフランス国内のみならず海外の親たちからも申し込みを受け付けて、誕生前から六歳までの子供のために、ノートル=ダム・デュ・ピリエの前で祈りが捧げられるようになり、現在に至っています。
註1 「ラ・サント・チュニク」(la Sainte Tunique) とはフランス語で「聖なるトゥニカ」という意味です。ラテン語「トゥニカ」(TUNICA)
は肩から腰あたりを被う筒型の衣を指しますが、シャルトルの「サント・チュニク」は
受胎告知の際にマリアが身に着けていたヴェールとされています。
「サント・チュニク」は、西ローマ皇帝シャルル2世(Charles II, 823 - 875 - 877 シャルルマーニュの孫)が 876年に
ノートル=ダム・ド・シャルトルに寄進したものです。
註2 フランス革命で焼却されたノートル=ダム・ド・ス=テールには十八枚の衣がありましたが、うち一枚が現存しています。
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