ロバンの原画に基づくフォトグラヴュール 「戴冠した聖心の聖母 望みなき諸事を援け給う守護者」 1889年11月 ブールジュ大司教による印刷許可 (ドプテ 図版番号不明)
113 x 71 mm
フランス 1889年頃
フランスで制作された美麗なカニヴェ。カニヴェの表(おもて)面には、イスダンのバシリカに安置されている聖母子像「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」が、古典的技法のフォトグラヴュールにより、大きく描かれています。周囲の切り紙細工は「イエスの愛」「マリアの愛」「マリアによる庇護」をテーマに制作され、良好な保存状態です。裏面には「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」に捧げる祈りが記され、イスダンの大信心会が簡単に紹介されています。
1867年頃の作例において、「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」の聖母子は戴冠していませんが、本品では聖母子とも戴冠しています。本品の制作年代は 1889年頃と思われます。
カニヴェの表(おもて)面には、小さなカドリロブ(四つ葉型)と十字架の連続模様を背景に、マンドルラ型の光背を有する聖母子像「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」(Notre-Dame
du Sacré-Cœur フランス語で「聖心の聖母」の意)を描きます。この聖母子像はイスダンの「聖心の聖母のバシリカ」内部正面に安置されている像、及び像の背景となっている内陣のステンドグラスに描かれている像を写しています。
古い絵葉書より
聖母子像「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」はジュール・シュヴァリエ神父 (R. P. Jules Chevalier, 1824 -
1907) による意匠に基づきます。聖母の前に立つ幼子イエスは、あまりにも強い愛ゆえに炎を噴き上げて燃える聖心を左手で示しつつ、右手を挙げて人々を祝福しています。イエスの後ろに立つ聖母は蛇を踏み付けて広げた両腕を斜め下に向け、イエスのもとに罪びとを招いています。聖母のマントはとても大きく、聖心の聖母がすべての罪びとをかばい給う「マドンナ・デッラ・ミゼリコルディア」(madonna della misericordia イタリア語で「憐れみの聖母」)であることを示しています。
聖母子の光背「マンドルラ」(伊 mandorla 仏 mandorle)は、もともとイタリア語でアーモンドのことですが、美術史においては紡錘形の光背を指してこのように呼んでいます。マンドルラの外側にはフランス語で次の言葉が刻まれています。
NOTRE-DAME DU SACRÉ CŒUR, PATRONNE DES CAUSES DÉSESPÉRÉES. ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール(聖心の聖母)、望みなき諸事に援けを給う守護者
「パトロンヌ・デ・コーズ・デゼスペレ」(patronne des causes désespérées) とは、実現があまりにも困難な計画を、それでもあきらめずに成し遂げようとする者に援けを与え、守り給う女性のことです。1854年、30歳でイスダンの教区司祭になったジュール・シュヴァリエ神父は、イエスの愛を象徴する聖心(サクレ・クール)への信心を広める宣教師会を設立したいと考えましたが、必要な資金がありませんでした。シュヴァリエ師が聖母にノヴェナ(九日間の連祷)を捧げると、ちょうど九日目の
1854年12月8日、奇しくも無原罪の御宿りが教義と宣言されたまさにその日に、匿名の人物から 20,000フランの寄付がありました。シュヴァリエ師はこれを「聖心の聖母」が援け給うたのだと信じました。
写真では分かりませんが、マンドルラの最下部を高倍率の瑕見(きずみ ルーペ)で見ると、"Lobin pinxt" という画家の署名がうっすらと読み取れます。"Lobin
pinxt" は "Lobin pinxit" の略記です。"pinxit"(ピーンクシット)は、「描く」という意味のラテン語の動詞
"pingo"(ピンゴー)の変化形のひとつ(直説法能動相完了三人称単数形)で、「描いた」という意味です。すなわち "Lobin
pinxt" は「ロバンが描いた」という意味です。
写真では分かりませんが、聖画を囲む四角い枠内の最下部を高倍率の瑕見(きずみ ルーペ)で見ると、極小の文字によって次の言葉が書かれています。
J. Chevalier missionaire du S-C invt 聖心の宣教師ジュール・シュヴァリエが [この聖母子像の意匠を]
案出した。
Chef des missionaires de N-D d'Issoudun [ジュール・シュヴァリエ師は] イスダンの聖母宣教師会の指導者である。
"invt" は "invenit" の略記です。"invenit"(インウェーニット)は、「案出する」という意味のラテン語の動詞
"invenio"(インウェニオー)の変化形のひとつ(直説法能動相完了三人称単数形)で、「案出した」という意味です。すなわち
"J. Chevalier invt" は「ジュール・シュヴァリエが(この聖母子像の意匠を)案出した」という意味です。
その下の部分を高倍率の瑕見(きずみ ルーペ)で見ると、次の言葉が読み取れます。
NOTRE-DAME DU SACRÉ CŒUR, PRIEZ POUR NOUS. 聖心の聖母よ、我らのために祈り給え。
100 jours d'indulgences (Pie IX, 26 Juin 1867) 1867年6月26日 ピオ9世による百日間の免償
本品の聖画はスティール(鋼)版のインタリオ(intaglio イタリア語で「凹版」)による細密版画です。カニヴェの聖画によく用いられるインタリオの技法はグラヴュール(エングレーヴィング)とオー・フォルト(エッチング)ですが、本品には第三の技法「フォトグラヴュール」(フォトグラヴュア)が使用されています。カニヴェの聖画にフォトグラヴュールが使用されるのはたいへん珍しいことです。
フォトグラヴュール (photogravure) は、「光」を表すギリシア語「フォース」(φῶς) の語幹「フォート」(φωτ-) と、「彫刻、製版」という意味のフランス語「グラヴュール」(gravure)
を、ギリシア語系合成語に使われる繋ぎの音「オ」(-o-) で接続して作った語で、「光を利用して版を刻む技法」という意味です。フォトエッチング、グラヴュール・ア・ラクアタントともいいます。エッチングやアクアティントと同様に、金属板を酸で腐食させて版を作る技法です。
現代の「スクリーン・フォトグラヴュア」(screen photogravure)、いわゆるグラビア印刷も同じ「フォトグラヴュア」という名前で呼ばれていますが、現代のスクリーン・フォトグラヴュアでは回転するシリンダーを使って帯状の紙に印刷を行うのに対し、19世紀のフォトグラヴュールは平たい金属の版を手作業で製版し、シート状の紙に一枚ずつ刷ってゆきます。またスクリーン・フォトグラヴュアの印刷物を拡大すると網点が見えますが、19世紀のフォトグラヴュアはエッチングの一種に分類される版画であり、網点が存在しません。
下の写真の右側は現代の美術印刷で、左側の本品と同じ面積を撮影しています。定規のひと目盛は 1ミリメートルです。本品に網点は存在しません。
なお上の写真の右側は、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン (Rogier van der Weyden, 1399/1400 - 1464)
による「聖コルンバの三翼祭壇画」中央パネル、「マギの礼拝」に描かれた幼子イエスです。この作品は現在ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに収蔵されています。
(下・参考画像) Rogier van der Weyden,„Columba-Altar“ oder "Die Anbetung der Heiligen Drei Könige.", um 1455, 138 x 153 cm, München, Alte Pinakothek
このカニヴェにおいて、画家ロバンは戴冠した聖母子を描いています。幼子イエスの胸には、あまりにも強い愛ゆえに炎を噴き上げ、まばゆい光を放って聖心が燃えています。聖心は茨の冠に取り巻かれ、脇の槍傷から血を流しています。
下の写真に写っている定規のひと目盛は 1ミリメートルです。イエスの目鼻口はいずれも 1ミリメートルに満たない極小サイズですが、形が美しく整っています。唇に微かな微笑みが浮かべたイエスの表情は、幼い年齢にもかかわらず愛と威厳にあふれ、見る者を跪かせる力を持っています。
聖母は若々しい姿ですが、伏し目がちなその表情には、神とイエスに対する愛とともに、イエスにやがて訪れる受難ゆえの悲しみが宿っているように見えます。
「聖心の聖母」は「望みなき諸事を援け給う守護者」(patronne des causes désespérées)、すなわち実現しがたいことを実現させるべく援けを与え給う守護者ですが、汚れなきわが子イエスが受難して救世を成し遂げるのを十字架の側で見守ることこそ、母マリアにとって最も実現しがたいことであったはずです。信仰に抑えられた悲しみを宿す聖母の視線はイエスに向けられ、イエスの視線と一体になって、カニヴェを見る者に優しく注がれています。
裏面には聖心の聖母に捧げる祈りと大信心会の紹介がフランス語で書かれています。内容は次の通りです。日本語訳は筆者(広川)によります。
PRIÈRE TRÈS-EFFICACE |
効ある祈り | |||
Souvenez-vous, ô Notre-Dame du Sacré Cœur, de l'ineffable pouvoir que votre divin Fils vous a donné sur son Cœur
adorable. |
聖心の聖母よ、憶え給え。御子の崇むべき心を動かす言いようもなき力が、御身に有り給うことを。その力を御身に授け給うたのは、御子自身なのです。 | |||
Plein de confiance en vos mérites, nous venons implorer votre protection. O céleste Trésorière du Cœur de Jésus, de ce Cœur qui est la source intarissable de toutes les grâces, et que vous pouvez ouvrir à votre gré pour répandre sur les hommes tous les trésors d'amours et de miséricorde, de lumière et de salut qu'il renferme ; | 御身の功徳への信頼に満ちて、われらは御身による保護を嘆願しに参ります。イエスの聖心の宝を、天上にて守り給う御方よ。イエスの聖心はすべての恩寵の枯れることなき泉。御身は思いのままに御子の聖心を開き、その内にしまわれたる愛と憐れみ、光と救いのあらゆる宝を、人々の上に注ぐことがおできになります。 | |||
accordez-nous, nous vous en conjurons, la faveur que nous sollicitons..... Non, nous ne pouvons essuyer de refus ; et, puisque vous êtes notre mère, ô Notre-Dame du Sacré Cœur, accueillez favorablement nos prières, et daignez les exaucer, Ainsi soit-il. (100 jours d'indulgence, une fois par jour, pour les associés. Pie IX, 1867.) | われらは懇願いたします。われらが求め奉る厚意を許し与え給え。われらが願いを拒まれることなどありはしません。御身はわれらの御母であり給うのですから。聖心の聖母よ。われらの祈りを優しく受け容れ給い、聞き入れ給え。アーメン。(信心会会員に、一日につき一度の免償 ピオ九世 1867年) | |||
N. B. L'Archiconfrérie en l'honneur de N.-D. du S.-C., est établie
dans la Basilique des Missionnaires du S.-C., à Issoudun (Indre), pour
le succès des causes difficiles et désespérées ; 435,000 actions de grâces
en 25 ans ; Associés 15 millions. |
注 聖心の聖母を崇敬する大信心会は、困難であり絶望的と思われる諸事のために、イスダン(アンドル県)の聖心宣教会バシリカ内に設けられている。二十五年間で四十三万五千回に及ぶ恩寵の働きが報告されている。会員数は千五百万人である。 | |||
Pour en faire partie et gagner les indulgences qui y sont attachées, il suffit d'envoyer son nom de baptême et son nom de famille, et de dire une fois le matin et le soir : Notre-Dame du Sacré Cœur, priez pour nous. | 大信心会に参加し、会員に許された免償を授かるには、自分の氏名を書き送り、次の祈りを朝夕に一度ずつ唱えればよい。「聖心の聖母よ、われらのために祈りたまえ。」 |
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Imprimatur C.-A Arch. de Bourges. Novembre 1889. | 印刷許可 ブールジュ大司教 C.-A. 1889年11月 |
カニヴェは繊細で美しいレース状の切り紙細工を特徴とします。多くの作例において、切り紙細工は単なる装飾ではなく、そのカニヴェに描かれた聖画や、裏面に記された祈りと、内的連関を有する意匠となっています。このカニヴェは「望みなき諸事に援けを給う聖母」「聖心への執り成し手である聖母」をテーマに制作されていますので、切り紙細工の四か所、時計で言えば十二時と六時、及び九時と三時の位置に、このテーマにふさわしい意匠が造形されています。
すなわち十二時と六時に関して見ると、十二時の位置にはイエスの聖心が、六時の位置には「アウスピケ・マリアエ」(AUSPICE MARIAE ラテン語で「マリアの庇護の下に」)を表す「アー・エム」(AM) のモノグラムが、それぞれ切り出されています。九時と三時に関して見ると、九時の位置には
"N D" の文字と共に聖母の聖心(汚れなき御心)が、三時の位置には "J" の文字と共に再びイエスの聖心が、それぞれ切り出されています。"N D" は聖母の尊称である「ノートル=ダム」(Notre-Dame)
を、"J" は「ジェジュ」(Jésus) を、それぞれ意味しています。
本品はおよそ百五十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にかかわらず非常に良好な保存状態です。インタリオによる19世紀フランスの聖画は、大抵の場合グラヴュールまたはオー・フォルトを使用していますが、本品はフォトグラヴュールを採用し、写真のようなそのテクスチャにより、あたかも生身の聖母子を眼前に見るかの如き錯覚さえ感じさせます。本品のような古典的フォトグラヴュールは、次の世紀になると姿を消し、制作されなくなります。
本品は別料金にて額装を承ります。上の写真に写っている額は樹脂製で、サイズは縦 20.5センチメートル、横 15.5センチメートル、厚さ 2.5センチメートル、ベルベット張りマットを含む価格は
6,800円です。この額は自立式ですが、ご希望により壁掛け式の金具を無料で取り付けいたします。
下の写真に写っている額は木製で、職人に特注した一点ものです。この額を使用した額装料金は 16,800円(額、マット、ベルベット、工賃、税込)です。