パリ、ラマルシュによるアール・ヌーヴォーのカニヴェ 「聖フィロメナ」 (図版番号 212) 日本風の切り紙細工に黒色インクのインタリオ 114 x 74 ミリメートル

SANTA FILOMENA, Sainte Philomène, Lamarche Éditeur, pl. 212


フランス  1890年代頃



 十九世紀初頭に墓所が発見され、前世紀半ばまで公的崇敬の対象であった少女、ローマの聖フィロメナのカニヴェ。十九世紀末にフランスで刷られた品物で、稀少な完品です。裏面の祈りはカスティジャ語(スペイン語)によります。





 本品は切り紙細工風の美しい透かしがある良質の無酸紙を使用しています。表(おもて)面にはローマの聖フィロメナの半身像が大きく描かれています。

 十三歳で殉教したとされるフィロメナは、襟に宝石飾りのある王女の衣を身に着け、波打つ長い髪に薔薇の冠(ロゼール、ロザリオ)を戴き、まなざしを天に向けています。フィロメナの豪奢な着物は、イエスのマリア・ルイザ修道女(Maria Luisa di Gesù)が 1833年に体験した幻視に基づきます。

 フィロメナの首には縄が掛けられ、錨に結び付けられています。右手には矢と一本の白百合を持っています。錨と矢は殉教者聖フィロメナのアトリビュートです。フィロメナは剣で斬首されて殉教しましたが、それ以前に幾多の責め苦に遭っており、錨と矢は責め苦の一部を象徴しています。白百合は、フィロメナが地上の命を落としてまでも守り抜いた純潔と、神による選びを象徴しています。これらの図像的要素は、すべてイエスのマリア・ルイザ修道女の幻視に基づきます。





 聖女像の背景にはティベル河が流れています。そのほとりには、聖女が幽閉されていた牢の城塞が見えます。

 聖女像の下端に接して、「版元 パリ、ラマルシュ 図版番号 212」(Lamarche Éditeur à Paris, planche 212)の文字が刻まれています。その下にはカスティジャ語(スペイン語)及びフランス語で「聖フィロメナ」(西 SANTA FILOMENA 仏 Sainte Philomène)と記されています。この面の文字は活版ではなく、すべてグラヴュール(エングレーヴィング)によります。


 聖女像の周囲は、切り紙風の透かし細工による日本風植物文となっています。植物の種類は一見してわかりにくいですが、百合と薔薇を判別することができます。百合と薔薇はキリスト教の象徴体系における重要な花で、前者は純潔、神による選び、摂理への信頼を、後者は愛、救い主の受難、聖母への祈りを、それぞれ象徴しています。

 日本美術を範とする左右非対称の写実的植物文は、アール・ヌーヴォー様式によります。十九世紀の終わりから二十世紀初頭のヨーロッパにおいて、アール・ヌーヴォーはジュエリー、家具、建築など、あらゆる分野の装飾美術を席捲しました。カニヴェの切り紙風細工をはじめ、この時代の小聖画もアール・ヌーヴォーの深い影響を受けています。





 1830年代から二十世紀初頭は、細密な金属版インタリオが長足の進歩を遂げた時代でした。本品に刷られた聖画もインタリオによる小品版画であり、この時代ならではの極めて美しい作品です。

 本品において、少女フィロメナの滑らかな肌はポワンティエ(スティプル・エングレーヴィング)で、優雅な衣文(えもん 衣の襞)のある衣と波打つ髪は線状のグラヴュール(エングレーヴィング)で、薔薇の冠と右手に持つ百合、首に掛けた縄、背景の塔、波、地面の植物はオー・フォルト(エッチング)で、それぞれ制作されています。オー・フォルトはグラヴュールに比べて緻密さに劣る場合がありますが、カニヴェは画面が小さいので、たとえオー・フォルトであってもグラヴュールと同等のきめの細かさを実現しています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。肌のポワンティエは一ミリメートル四方におよそ二十個の点が打たれています。すべての点は手作業で打たれており、その直径と深さを精密に制御することで、滑らかな肌の明暗を断絶なく表現しています。目、鼻、唇の細部は、もはや顕微鏡でも判別が困難なほど細かい点で描かれています。まつ毛、瞳、瞳孔、涙腺をはじめとする目の細部や、可愛らしい唇の膨らみは、生身の少女を眼前に見るかのごとき写実性を以て描写・再現されています。これら各部のサイズは一ミリメートルに足りませんから、版画家は百分の一ミリメートルのオーダーで精密かつ正確な作業をしていることがわかります。

 十三歳の少女フィロメナは、無原罪の御宿りを髣髴させます。ベラスケス(Diego Velázquez, 1599 - 1660)とアロンソ・カノ(Alonzo Cano, 1601 - 1667)の師にあたるマニエリスムの画家、フランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco del Río, 1564 - 1644)は、1649年にセビジャで出版された「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」("Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649)において、次のように述べています。日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲みました。

      Sin poner a pleito la pintura del Niño en los brazos, para quien tuviere devoción de pintarla así, nos conformaremos con la pintura que no tiene Niño, porque ésta es la más común...     両腕に幼子を抱く聖母を我々が描くのは、抱かれる幼子への信心ゆえである。[それゆえ聖母とともに]幼子を描くことに、我々は反対するわけではない。聖母は幼子を抱いて描かれる場合が最も多い。
      Esta pintura, como saben los doctos, es tomada de la misteriosa mujer que vio San Juan en el cielo, con todas aquellas señales; y, así, la pintura que sigo es la más conforme a esta sagrada revelación del Evangelista, y aprobada de la Iglesia Católica, la autoridad de los santos y sagrados intérpretes y, allí, no solo se halla sin el Niño en los brazos, más aún sin haberle parido, y nosotros, acaba de concebir, le damos hijo...     [しかしながら]学識ある人々が知っているように、[単身の聖母を描いた]この絵は、福音記者聖ヨハネが天国で見(まみ)え、彼(か)のあらゆる印を有する神秘的な女性を描いたものである。それゆえ私が範とする絵は、福音記者に示されたこの聖なる啓示に最も合致しており、カトリック教会、諸聖人の権威、及び聖なる学者たちに是認されているのであって、両腕に幼子を抱いていないのみならず、未だ幼子を産んでいない。この女性は懐妊したばかりであり、我々は彼女に一人の息子を与えるのである。
      Hase de pintar, pues, en este aseadísimo misterio, esta Señora en la flor de su edad, de doce a trece años, hermosísima niña, lindos y graves ojos, nariz y boca perfectísima y rosadas mejillas, los bellísimos cabellos tendidos, de color de oro; en fin, cuanto fuere posible al humano pincel.     それゆえに、いとも清らかなるこの神秘のうちにあって、最も美しい年齢である十三歳の聖母を描くことが必要なのである。十三歳の聖母は誰よりも美しい少女であり、その眼は澄んでいて軽はずみなところが無く、鼻と口は完璧な形である。頬は薔薇色で、最高に美しい髪は長く、金色であり、つまりは人間の筆で描ける限り[の美しさでなければならない]。
         
     「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」 セビジャ、シモン・ファハルド書店 1649年    "Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649






 カニヴェの裏面には聖フィロメナに執り成しを求める祈りが、活版による文字で刷られています。言語は少し古風なカスティジャ語(スペイン語)で、内容は次の通りです。日本語訳は筆者(広川)によります。カスティジャ語の綴りの誤りは、断りなく訂正しました。筆者の訳は正確ですが、こなれた日本語となるように心掛けたため、逐語訳ではありません。

    ORACIÓN A SANTA FILOMENA   聖フィロメナへの祈り
         
     ¡ Oh Santa Filomena, cuyo corazón nunca conoció la inmundicia del pecado ! Paloma sin mancha, que ofrecísteis a Dios, en un doloroso martirio, vuestra vida en expiación de los pecados ajenos, sed nuestro ángel protector cerca de la Virgen María y del mismo Dios, a fin de que, a imitación vuestra, nos sea concedido sufrir con constancia los males que a El le plazca enviarnos ;    聖フィロメナ、罪の汚れを知らざる心の持ち主よ。いわれなき罪を償うために、殉教の苦しみを通して、神に命を捧げし穢れ無き鳩よ。処女マリアと神ご自身の傍らにて、我らの守護天使となり給え。我らが数々の試練に遭うを神が良しとし給うとき、我らが汝を範として、勇敢に耐えることができますように。
    inspiradnos vuestra intrepidez y vuestro fervor, para que, como vos, podamos aspirar a la vida feliz en la eternidad. Amen.    汝の大胆さと熱意を我らに吹き込み、我らが汝と同様に、永遠の命を望むことができるように計らい給え。アーメン。
     
212 図版番号 212
         
    A. Lamarche, éditor, rue des Grands-Augustins, 9, Paris   ラマルシュ パリ、グランドギュスタン通九番地






 本品はおよそ 130年前のカニヴェですが、良質の無酸紙に刷られているうえに大切に保管され、古い年代のものとは俄かに信じがたいほど綺麗な保存状態です。類品中とりわけ繊細な切り紙様細工にも破損は無く、たいへん稀少な完品です。

 1802年に墓所が発見され、1904年以降その崇敬に慎重論が広まった処女(おとめ)殉教者フィロメナは、十九世紀のカトリシズムと共に歩んだ聖女と言えます。またインタリオによる美麗なカニヴェも、十九世紀のフランスに特有の美術品です。日本美術の影響のもと、アール・ヌーヴォー様式の草花文に十九世紀ならではの細密インタリオを重ね、聖フィロメナを描き出した本品は、キリスト教信心具の歴史上ただ一度だけ、この時代のフランスにおいてのみ生まれ得た美術品です。





本体価格 33,000円 (簡易な額装付き) 販売終了 SOLD

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