稀少・高級品 フランスのアンティーク十字 《銀無垢のクロワ・ジャネット 69.6 x 50.5 mm》 最大サイズの作例 フランス 十九世紀後半


重量 4.1 g



 十九世紀のフランスで制作されたクロワ・ジャネット。高級な銀無垢製品にもかかわらず、当店がこれまでに扱ったアンティーク・クロワ・ジャネットのなかで最も大きなサイズであり、十九世紀当時は普通の人の手が届かない高級品でした。二面は異なる意匠に基づいて制作されており、どちらの面を表にするかによって二通りに使えるのも魅力です。





 一方の面は、十字架の縦木と横木の縁に、槍鉋(やりがんな)で削ったような切り欠きがあります。十字架の交差部には魚子(ななこ 布目模様)を背景にした菱形の窪みを設け、様式化された草花文様を打ち出しています。末端近くの楕円形部分には、やはり魚子を背景に、高度に様式化されたアカンサス文(唐草文)を打ち出しています。交差部にあしらわれた草花のうち、五弁の花は薔薇でしょう。




(上) Sandro Botticelli, "La Nascita di Venere", 1482 - 85, Tempera su tavola, 172 x 278 cm, Le Gallerie degli Uffizi, Firenze


 古代ギリシア・ローマにおいて、性愛と美を司る女神アフロディーテーとウェヌス(ヴィーナス)は、薔薇をその花とします。それゆえ西洋において薔薇は、古典古代以来現在に至るまで、性愛を象徴します。

 ギリシア神話のアフロディーテー(希 Ἀφροδίτη)は海の泡から生まれたとされます。古来の語源説によると、アフロディーテーという名はギリシア語で泡を表すアフロス(希 ἀφρός)に由来します。現代の言語学者の中にはアフロス語源説に異論を唱える人もいますが、オックスフォードのギリシア語辞典古来来の説と同様に、アフロスがアフロディーテーの語源としています。アフロディーテーはローマ神話のウェヌス(羅 VENUS)と同一視されました。ウェヌスはヴェネロル(羅 VENEROR 愛する、慕う)と同源で、性愛の女神の名です。

 ウフィツィ美術館にはボッティチェリの「ラ・ナッシタ・ディ・ヴェネーレ」(ウェヌスの誕生、ヴィーナスの誕生)と「ラ・プリマヴェーラ(春)」を収蔵しています。イタリア語はラテン語から派生したロマンス語派に属するゆえに、ボッティチェリの作品においてアフロディーテーはヴェネーレ(ウェヌス)と呼ばれています。海の泡から生まれたヴェネーレ(ウェヌス、アフロディーテー)は、クローリス(フローラ)を抱いたゼピュロス(西風)によって岸に運ばれています。クローリスの口からこぼれた薔薇の花々が、西風に乗って舞っています。裸のウェヌスに布を着せ掛けようとする女神ホーラは、薔薇の帯を身に着けています。




(上) Sandro Botticelli, "La Primavera", 1482 circa, Tempera su tavola, 203 x 314 cm, Le Gallerie degli Uffizi, Firenze


 「ラ・プリマヴェーラ」では、絵の中央に立つ着衣の女性がウェヌスです。この絵ではゼピュロスに追われるクローリス(フローラ)の口から薔薇がこぼれています。クローリスのすぐ前にいるホーラはやはり薔薇の帯を締め、たくさんの薔薇を抱えて、ウェヌスの周りに撒こうとしています。




(上) Peter Paul Rubens, „Kreuzabnahme“, 1612 - 14, Öl auf Leinwand , 420.5 x  320 cm, die Liebfrauenkathedrale, Antwerpen グラアルは作品画面の右下隅に描かれています。


 古代ギリシア・ローマ以来、性愛、青春、麗姿、復活の象徴であった薔薇は、中世以降のヨーロッパの宗教的コンテクストにおいて、さらに高い精神性を賦与されます。

 ボッティチェリが描く薔薇は十字軍が東方から齎(もたら)したダマスク・ローズで、平たく開いた形をしています。ダマスク・ローズの花の形は、グラアル(独仏 Graal)、すなわちキリストが受難し給うた際、脇腹の槍傷からほとばしる血を受けた鉢を連想させます。グラアルの日本語訳「聖杯」はコップ状の器を想起させますが、キリストの血を受けたグラアルは、深皿あるいは浅い鉢のような器であったと考えられています。

 ルーベンスはアントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画中央パネルに「十字架降架」を制作し、画面の右下隅に深皿状のグラアルを描き込んでいます。ルーベンス研究で知られるベルリン自由大学の美術史家オットー・フォン・ジムゾン教授(Prof. Otto von Simson, 1912 - 1993)は、ルーベンスがこの作品に描き込んだグラアルを、「完全な美を有する『シュティッレーベン(静物)』」(„ein »Stilleben« von vollendeter Schönheit“)である、と評しています(Otto von Simson,„Peter Paul Rubens, 1577 - 1640, Humanist, Maler und Diplomat“, Verlag Philipp von Zabern, Mainz, 1996, S. 126)。

 フォン・ジムゾン教授がルーベンスのグラアルを「完全な美を有する『シュティレーベン(静物)』と評するのは、単に静物画として上手く描けているという意味ではありません。ドイツ語の「シュティレーベン」(Stilleben 静物)は、「静止した生命」が原義です。フォン・ジムゾン教授はグラアルを静かに満たすキリストの血を十字架から降ろされる救い主を重ね合わせ、いまは動きを止め給うた救い主の御体(コルプス・クリスティ、聖体)とその御血が、人間にとって美しい生命そのものである、と言っているのです。





 以上で見たように、元々性愛の象徴であった薔薇は、グラアルに似た形状ゆえに神の愛を表すようになり、さらには永遠の生命の器との類似によって、永遠の生命そのものをも象徴するに至りました。それゆえ薔薇は愛の象徴であるとともに生命の象徴でもあります。

 本品クロワ・ジャネットはフランス語でクロワ・ド・クゥと呼ばれるものの一種で、キリスト教文化に基づく意匠でありつつも、信心具よりもむしろ装身具の性格が強い品物です。しかしながら本品をキリスト像に重ね合わせると、交差部の薔薇が心臓の位置と一致することに気付きます。古来心臓は愛と生命の座であり、キリストの心臓を図像化したものは聖心(仏 le Sacré-Cœur)と呼ばれて、神の愛と永遠の生命を象徴します。本品において十字架交差部に打ち出された薔薇は、神と救い主の愛、及び救い主によってもたらされる永遠の生命を装飾意匠のうちに可視化しています。




(上) 《ロサ・ミスティカ 神秘の薔薇なる聖母》 エティエンヌ・アザンブルによるフランスの小聖画 118 x 75 mm 中性紙にコロタイプ 1910年代中頃 当店の商品


 薔薇は聖母マリアの象徴でもあります。ロレトの連祷において、無原罪の御宿リなる聖母は、の無いロサ・ミスティカ(羅 ROSA MYSTICA 神秘の薔薇)と呼ばれています。

 四世紀の教父アンブロシウスによると、聖母マリアは救世主受難の意味を理解していた故に、十字架の下に立っても涙を流すことはありませんでした。他方、時代が下って中世になると、十字架の下の聖母は涙を流し始めます。1240年頃にフィレンツェで設立された聖母のしもべ会(羅 ORDO SERVORUM BEATAE MARIAE VIRGINIS)は、聖母の悲しみの観想を事としました。同じ頃に生まれたヤコポーネ・ダ・トーディ(Fra Jacopone da Todi, O.F.M., 1230/36 - 1306)は「スターバト・マーテル」を作詞しました。この詩の中で、十字架の下に立つ聖母は悲しみの剣に心臓を貫かれ、涙を流して苦悩しています。剣は敵意の象徴(「詩編」 57: 5)です。したがって「スターバト・マーテル」の聖母は救い主とともに傷つきつつ、世の罪に立ち向かっていることがわかります。十四世紀になると「ピエタ」(伊 pietà)、すなわち十字架から降ろされたイエスの遺体を抱いて嘆く聖母の姿が図像化されるようになります。

 十九世紀のフランス製クルシフィクス(キリスト像付き十字架)には、十字架の裏面にマリアを浮き彫りにした作例がみられます。クロワ・ジャネットの上端はフルール・ド・リス(仏 fleur de lys 百合の花)を模(かたど)りますが、フルール・ド・リスは百合と同様に聖母マリアの象徴です。また本品において十字架交差部に打ち出された薔薇は、イエスとともに罪なくして苦しむロサ・ミスティカ、神秘の薔薇の聖母をも重層的に表しています。





 本品をはじめとするクロワ・ジャネットは、十字架縦木の上下端近く及び横木の両端近くが楕円形の円盤形に広がり、うち三か所の外側に球状の膨らみが付き、さらにそこから細い棒が突出して終わります。球状の膨らみから細い棒が突出する様子は、女性が使う糸巻き棒の先端を連想させます。

 一つの十字架に付く三つの球は、福音書の中でキリストが三たび流し給うた涙を表すともいわれています。この解釈は、球に隣接する楕円形部分にアカンサスが見られることと符合します。アカンサス(葉薊 はあざみ)は美しい形の葉が様式化されて古代ギリシア以来装飾に使われてきました。

 アカンサスは近代以降の植物分類学ではハアザミのことですが、古典ギリシア語アカンタス(希 ἀκάνθας)は棘、あるいは総称的に棘のある植物のことであり、この語は原罪を犯したアダムに対する神の言葉(「創世記」三章十七節から十九節)にも出てきます。したがってキリスト教的文脈において、アカンサスは装飾文であると同時に、キリストを十字架に付けた罪を象徴します。クロワ・ジャネットを磔刑のキリスト像に重ね合わせると、アカンサス文があしらわれた場所は、救い主の両手の釘孔、重ねた両足の釘孔、額に付いた茨の傷に一致していることに気付きます。





 上述のように、十字架上端はフルール・ド・リス(仏 fleur de lys 百合文)の形に突出しています。フルール・ド・リスの部分には、フランスの銀製品工房に特有の菱形のマーク、及び八百パーミル(八十パーセント)の銀を示すイノシシの頭のホールマークが刻印されています。フランスの信心具において、八百パーミルの銀は最高級の素材です。素材が高価であるゆえに、銀製十字架は打ち出し細工による二面を溶接して作り、内部が空洞になっているのが普通で、本品もそのように作られています。高価な銀無垢製品に相応しく、本品のデザインは洗練されており、ファイン・ジュエリーに匹敵する優雅さを備えています。両面の意匠は多少とも異なりますが、同様の丁寧さで仕上げられているのも、高級品の証しです。





 本品の裏面は、交差部に見られる花の意匠が表(おもて)面と異なります。こちらの面の縦木と横木には、槍鉋で削ったような装飾は施されず、簡素な美を誇ります。交差部の花々は、八重咲の花が六弁の花と四弁の花に挟まれています。中央に大きく表された八重咲の花は、ロサ・ミスティカです。





 本品をはじめ、ほとんどのクロワ・ジャネットの制作方法は、別々に打ち出した二面を鑞(ろう)付けしてふくらみを出します。本品は十字架上部に修理痕が見られます。十字架の二面がこの場所で剥離しかけて、それを直したものと思われますが、修理はしっかりとなされており、再び剥離する心配はありません。





 上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。本品の実物を女性がご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きなサイズに感じられます。





 本品は十九世紀のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にかかわらず保存状態は良好で、日々実用いただけます。アンティークのクロワ・ジャネットは稀少品ですが、特に本品のような銀無垢製品は制作数が少なく、入手困難です。筆者(広川)は長年に亙ってクロワ・ジャネットを扱っていますが、これまでに目にした銀無垢クロワ・ジャネットのなかで、本品は群を抜いて最大の作例です。お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。





本体価格 64,800円

当店の商品は現金の分割払いでもご購入いただけます。電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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