25 | イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 | ||
26 | イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 | ||
27 | それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 |
福音書の唯一の目的は、救済の経綸を明らかにすることです。すなわち福音書は文芸作品ではないゆえに登場人物の感情には無関心で、わずかな例外を除き、喜怒哀楽はほとんど描写されません。上の引用箇所にも人物の感情は一切描写されていません。
描写されていないからと言って、感情の動きが無かったことにはなりません。描写の有無と、実際の感情の有無は別問題です。しかしながら通常の文学作品を読むときと同様の感覚で上記引用箇所を読むならば、十字架のそばに立つ女性たちは悲しんでいなかったかのようにも感じられます。
実際のところ古代から十世紀の神学者たちは、イエスが十字架刑に処せられるのを見ても、聖母は動揺せず涙も流さなかったと考えました。なぜならばマリアは普通の母親、普通の女性ではなく、アブラハムやヨブに勝る信仰の持ち主であり、早ければ受胎告知のときから、遅くともシメオンによる「悲しみの剣」の預言を聴いてから、救済史におけるイエスの役割を理解していたと考えられていたからです。当時の神学者から見れば、イエスの受難に際してマリアが悲しんだと考えるのは、聖母を冒瀆するにも近いことでした。
典礼上の日割りにおいて土曜日がマリアの日とされるのも、マリアの信仰が堅固であったとする思想に基づきます。イエス・キリストは金曜日に受難し、日曜日に復活し給いました。土曜日はその間の日であり、キリストの弟子たちが信仰を失いかけていたときに当たります。マリアはこのときもイエスが救い主であるとの信仰を失わなかったゆえに、土曜日がマリアの日とされたのです。
(上) 多色刷り石版による写本風小聖画 《カンポカヴァッロの悲しみの聖母 Beata Vergine Addolorata di Campocavallo》 112
x 62 mm ソチエタ・リトグラフィカ・サン・ジュゼッペ、モデナ(イタリア) 1911年 当店の商品 この聖画において、聖母の表情に悲しみはうかがえません。
そうは言っても息子が十字架上に刑死したとすれば、慈母は死ぬほどの悲しみを味わったと考えるのが人情でしょう。教父時代にはキリストの受難にも動じなかったとされていた聖母は、中世の受難劇において、恐ろしい苦しみと悲しみを味わう母として描かれるようになります。十二世紀の修道院において聖母の五つの悲しみが観想され、1240年頃にはフィレンツェにマリアのしもべ会が設立されました。同じ十三世紀には、ヤコポーネ・ダ・トーディ(Jacopone da Todi, c. 1230 - 1306)がスターバト・マーテル(羅
"STABAT MATER")を作詩しています。十四世紀初頭にはイエスの遺体を抱いて離さない聖母像が表現されるようになりました。聖母の悲しみの数は十四世紀初頭に七つとなって定着しました。
十五世紀になると、十字架の下に立ったマリアはその苦しみゆえに共贖者(羅 CORREDEMPTRIX)であるとする思想が力を得ました。マリアを共贖者と見做すのは主にフランシスコ会の思想で、ドミニコ会はこれに抵抗しました。しかしドミニコ会はマリアが悲しまなかったと考えたわけではありません。トマス・アクィナスの師で、トマスと同じくドミニコ会士であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, + 1280)は、預言者シメオンの言う「剣」(ルカ 2: 35)をマリアの悲しみの意に解し、キリストが受け給うた肉体の傷に対置しました。
(上) レットゲンのピエタ Die
Röttgen Pietà, c. 1350, Holz, farbig gefaßt, 89 cm hoch, Rheinisches Landesmuseum,
Bonn
十四世紀初頭に出現したイエスの遺体を抱く聖母像を、美術史ではピエタ(伊 Pietà)と呼んでいます。ピエタは絵画にも表されますが、最初は彫刻として制作されました。十三世紀までの聖画像では、十字架から撮り下ろされたイエスの遺体はただ地面に横たえられていましたが、ピエタのマリアはイエスを膝の上に取り上げ、ひしと抱きしめました。イタリア語ピエタの原意は「憐み」「信仰」で、ラテン語ピエタース(羅
PIETAS 敬神、忠実)が語源です。ピエタース(羅 PIETAS)の語根 "PI-" を印欧基語まで遡ると、「混じりけが無い」「清い」という原義に辿り着きます。
教父たちは聖母マリアが混じりけの無い信仰を有した故に、その信仰は無条件的であり、イエスの受難を目にしても聖母は悲しまなかったと考えました。これに対してピエタの図像を生み出した十四世紀の人々は、聖母が死ぬばかりに悲しんだと考えました。イタリア語ピエタには「肉親に対する親愛の情」という意味が加わる一方で、印欧基語に遡る「清らかさ」のニュアンスも失っておらず、古代の教父たちが説く純粋な敬神に、ゴシック期らしい人間味の加わった語となっています。
(上) Michelangelo Buonarroti, "La Pietà vaticana", 1497 - 1499, Marmo bianco di Carrara, 174×195×69 cm, la Basilica di San
Pietro in Vaticano, Città del Vaticano
数あるピエタ像のうち、もっとも有名な作品の一つは、ヴァティカンにあるミケランジェロのピエタでしょう。この像は 1972年5月、ハンマーを振るう狂人によって聖母の顔と片手が損壊されましたが、その後修復されて現在に至っています。
マリアが十五歳の頃にイエスを産み、イエスが三十三歳で亡くなったとすると、この時のマリアは四十八歳ということになります。しかるに「ヴァティカンのピエタ」のマリアはこれよりもはるかに若々しい顔立ちです。聖母の外見が若過ぎる理由を訊かれて、ミケランジェロは処女だから若さを保っているのだと答えましたが、処女性と若さに関連性があるとは思えません。フェリス女子大学の弓削達教授は、あまりにも若いマリアは聖母ではなく、マグダラのマリアであろうと考えました。弓削教授の説にはローマ史学に裏付けられた説得力がありますが、筆者(広川)はピエタが宗教的主題の作品である以上、聖母が四十八歳という実年齢通りに表現される必要はないと考えます。
(上) Jan van Eyck, "De aanbidding van het Lam Gods", 1432, Olieverfschilderij, 340 × 440 cm, Sint-Baafskathedraal te Gent
宗教に関わる作品にアナクロニズムはありがちですが、これは作者の不注意のせいではなく、作品が時間を超越し、いわば永遠の視点から作られているからです。聖母マリアに関して言えば、シリア語による新約外典「トラーンシトゥス・マリアエ」(羅
"TRANSITUS MARIÆ" マリアの死)には、聖母マリアが地上の生を終わるときに、キリストが旧約の義人たち、預言者たち、殉教者たち、証聖者たち、処女たち、天使たちを伴って降臨したと書かれています。この光景は「ゲントの祭壇画」中央パネル下段の「子羊の礼拝」を想起させます。
「トラーンシトゥス・マリアエ」のテキストでキリストに伴われていた者のうち、旧約の義人たち、預言者たち、天使たちは良いとして、殉教者たち、証聖者たち、処女たちは明らかに時代錯誤でしょう。「トラーンシトゥス・マリアエ」の著者がこのことに気づかなかったはずはないので、この時代錯誤は永遠の相の下では問題にされていないのだと考えられます。
(上) ウィリアム・ブグロー作 「ラ・ヴィエルジュ・コンソラトリス」 慰めの聖母 コロタイプによるアンティーク小聖画 116 x 75 mm フランス 1890
- 1920年頃 当店の商品 自らもイエスを亡くして喪に服する聖母が、幼子を亡くした若い母を、イエスが不在の膝に乗せて慰めています。
(上) 「マリアを通してイエズスへ」 マリアの子ら会最初期のメダイ 26.1 x 19.0 mm フランス 十九世紀中頃 当店の販売済み商品
子供や若者の死亡率が高かった時代の人々は、息絶えたイエスを抱いて嘆く聖母の姿、また悲しみの剣に心臓を刺し貫かれた聖母の姿を見て、心を激しく揺さぶられたに違いありません。人々はそこに共贖者(羅
CORREDEMPTRIX)の姿を見、自分たちと同様の苦しみに遭って悲しみ嘆く聖母は、最良の執り成し手(羅 MEDIATRIX)ともなりました。十一世紀から十二世紀にかけて、マリアは人と神を繋ぐ存在、すなわちこの世に救い主をもたらすとともに、救い主に至る道(「マリアを通してイエスへ」)でもある方となりました。
(上) ジェイムズ・ベルトラン作 「聖母子の前のマルガレーテ」 1876年 画面サイズ 縦 250 x 横 160 mm 当店の商品
以上、宗教分野に関して述べましたが、マーテル・ドローローサは宗教を離れ、広い分野に影響を及ぼしました。上の写真のエングレーヴィングは、世俗文学及び世俗美術の分野でマーテル・ドローローサから生まれた作品の例です。
ゲーテの「ファウスト」において、悪魔メフィストフェレスの力を借りて若返ったファウスト博士は信心深く清純な乙女マルガレーテ(グレーテ、グレートヒェン)を誘惑し、マルガレーテはファウストに身も心も捧げます。マルガレーテは母親を裏切って眠り薬を飲ませることをファウストに約束させられますが、町外れにある悲しみの聖母像を訪れて、聖母にすがって不安と悲しみを訴えます。3711行から 3713行、および 3728行から 3731行のドイツ語テキストを、筆者(広川)による和訳を添えて示します。筆者の和訳はこなれた日本語を心掛けたために、所により行の順序がテキストと食い違っています。
3711 | Was mein armes Herz hier banget, | 私の哀れな胸がなぜ不安なのか、 | |||
3712 | Was es zittert, was verlanget, | 何を恐れて何を願っているのか、 | |||
3713 | Weißt nur du, nur du allein! | ご存知なのはあなた様だけです。 | |||
3728 | Hilf! rette mich von Schmach und Tod! | お助けください。恥と死から、どうか私を救ってください。 | |||
3729 | Ach neige, | 悲しみの聖母様! | |||
3730 | Du Schmerzenreiche, | 慈しみをもって、お顔を私の苦しみに | |||
3731 | Dein Antlitz gnaedig meiner Not! | 向けてくださいませ! |
第一、本国へ返さるることは上策也 此事難きに以て易き歟 第二、かれを囚となしてたすけおかるる事は中策也 此事易きに以て難き歟 第三、かれを誅せらるることは下策也 此事易くして易かるべし |