十九世紀のパリで制作されたクロワ・ジャネット。高級な銀無垢製品にもかかわらず、当店がこれまでに扱ったアンティーク・クロワ・ジャネットのなかで最大サイズに近い作例であり、十九世紀当時は普通の人の手が届かない高級品でした。二面は異なる意匠に基づいて制作されており、どちらの面を表にするかによって二通りに使えるのも魅力です。
一方の面は、十字架の縦木と横木の縁に、槍鉋(やりがんな)で削ったような切り欠きがあります。十字架の交差部には菱形の窪みを設け、連続する微小な点を背景に、様式化された草花文様を打ち出しています。末端近くの楕円形部分には、放射状パターンを背景にアカンサス文(唐草文)を打ち出しています。
(上) Sandro Botticelli, "La Nascita di Venere", 1482 - 85, Tempera su tavola, 172 x 278 cm, Le Gallerie degli Uffizi,
Firenze
交差部に打ち出された二輪の花はいずれも五弁で、一重の薔薇と思われます。古代ギリシア・ローマにおいて、性愛と美を司る女神アフロディーテーとウェヌス(ヴィーナス)は、薔薇をその花とします。それゆえ西洋において薔薇は、古典古代以来現在に至るまで、性愛と恋を象徴します。
ギリシア神話のアフロディーテー(希 Ἀφροδίτη)は海の泡から生まれたとされます。古来の語源説によると、アフロディーテーという名はギリシア語で泡を表すアフロス(希
ἀφρός)に由来します。現代の言語学者の中にはアフロス語源説に異論を唱える人もいますが、オックスフォードのギリシア語辞典古来来の説と同様に、アフロスがアフロディーテーの語源としています。アフロディーテーはローマ神話のウェヌス(羅
VENUS)と同一視されました。ウェヌスはヴェネロル(羅 VENEROR 愛する、慕う)と同源で、性愛の女神の名です。
ウフィツィ美術館にはボッティチェリの「ラ・ナッシタ・ディ・ヴェネーレ」(伊 La Nascita di Venere ウェヌスの誕生、ヴィーナスの誕生)と「ラ・プリマヴェーラ」(伊 La Primavera 春)を収蔵しています。イタリア語はラテン語から派生したロマンス語派に属するゆえに、ボッティチェリの作品においてアフロディーテーはヴェネーレ(ウェヌス)と呼ばれています。海の泡から生まれたヴェネーレ(ウェヌス、アフロディーテー)は、クローリス(フローラ)を抱いたゼピュロス(西風)によって岸に運ばれています。クローリスの口からこぼれた薔薇の花々が、西風に乗って舞っています。裸のウェヌスに布を着せ掛けようとする女神ホーラは、薔薇の帯を身に着けています。
(上) Sandro Botticelli, "La Primavera", 1482 circa, Tempera su tavola, 203 x 314 cm, Le Gallerie degli Uffizi,
Firenze
「ラ・プリマヴェーラ」では、絵の中央に立つ着衣の女性がウェヌスです。この絵ではゼピュロスに追われるクローリス(フローラ)の口から薔薇がこぼれています。クローリスのすぐ前にいるホーラはやはり薔薇の帯を締め、たくさんの薔薇を抱えて、ウェヌスの周りに撒こうとしています。
(上) Peter Paul Rubens, „Kreuzabnahme“, 1612 - 14, Öl auf Leinwand , 420.5 x 320 cm, die Liebfrauenkathedrale,
Antwerpen グラアルは作品画面の右下隅に描かれています。
古代ギリシア・ローマ以来、性愛、青春、麗姿、復活の象徴であった薔薇は、中世以降のヨーロッパの宗教的コンテクストにおいて、さらに高い精神性を賦与されます。
ボッティチェリが描く薔薇は十字軍が東方から齎(もたら)したダマスク・ローズで、平たく開いた形をしています。ダマスク・ローズの花の形は、グラアル(独仏
Graal)、すなわちキリストが受難し給うた際、脇腹の槍傷からほとばしる血を受けた鉢を連想させます。グラアルの日本語訳「聖杯」はコップ状の器を想起させますが、キリストの血を受けたグラアルは、深皿あるいは浅い鉢のような器であったと考えられています。
ルーベンスはアントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画中央パネルに「十字架降架」を制作し、画面の右下隅に深皿状のグラアルを描き込んでいます。ルーベンス研究で知られるベルリン自由大学の美術史家オットー・フォン・ジムゾン教授(Prof.
Otto von Simson, 1912 - 1993)は、ルーベンスがこの作品に描き込んだグラアルを、「完全な美を有する『シュティッレーベン(静物)』」(„ein
»Stilleben« von vollendeter Schönheit“)である、と評しています(Otto von Simson,„Peter Paul Rubens, 1577 - 1640, Humanist, Maler und Diplomat“, Verlag Philipp von Zabern, Mainz, 1996, S. 126)。
フォン・ジムゾン教授がルーベンスのグラアルを「完全な美を有する『シュティレーベン(静物)』と評するのは、単に静物画として上手く描けているという意味ではありません。ドイツ語の「シュティレーベン」(Stilleben 静物)は、「静止した生命」が原義です。フォン・ジムゾン教授はグラアルを静かに満たすキリストの血を十字架から降ろされる救い主を重ね合わせ、いまは動きを止め給うた救い主の御体(コルプス・クリスティ、聖体)とその御血が、人間にとって美しい生命そのものである、と言っているのです。
以上で見たように、元々性愛の象徴であった薔薇は、グラアルに似た形状ゆえに神の愛を表すようになり、さらには永遠の生命の器との類似によって、永遠の生命そのものをも象徴するに至りました。それゆえ薔薇は愛の象徴であるとともに生命の象徴でもあります。
本品クロワ・ジャネットはフランス語でクロワ・ド・クゥと呼ばれるものの一種で、キリスト教文化に基づく意匠でありつつも、信心具よりもむしろ装身具の性格が強い品物です。しかしながら本品をキリスト像に重ね合わせると、交差部の薔薇が心臓の位置と一致することに気付きます。古来心臓は愛と生命の座であり、キリストの心臓を図像化したものは聖心(仏 le Sacré-Cœur)と呼ばれて、神の愛と永遠の生命を象徴します。本品において十字架交差部に打ち出された薔薇は、神と救い主の愛、及び救い主によってもたらされる永遠の生命を装飾意匠のうちに可視化しています。
(上) 《ロサ・ミスティカ 神秘の薔薇なる聖母》 エティエンヌ・アザンブルによるフランスの小聖画 118 x 75 mm 中性紙にコロタイプ 1910年代中頃 当店の商品
薔薇は聖母マリアの象徴でもあります。ロレトの連祷において、無原罪の御宿リなる聖母は、棘の無いロサ・ミスティカ(羅 ROSA MYSTICA 神秘の薔薇)と呼ばれています。
四世紀の教父アンブロシウスによると、聖母マリアは救世主受難の意味を理解していた故に、十字架の下に立っても涙を流すことはありませんでした。他方、時代が下って中世になると、十字架の下の聖母は涙を流し始めます。1240年頃にフィレンツェで設立された聖母のしもべ会(羅 ORDO SERVORUM BEATAE MARIAE VIRGINIS)は、聖母の悲しみの観想を事としました。同じ頃に生まれたヤコポーネ・ダ・トーディ(Fra Jacopone da Todi, O.F.M., 1230/36 -
1306)は「スターバト・マーテル」を作詞しました。この詩の中で、十字架の下に立つ聖母は悲しみの剣に心臓を貫かれ、涙を流して苦悩しています。剣は敵意の象徴(「詩編」
57: 5)です。したがって「スターバト・マーテル」の聖母は救い主とともに傷つきつつ、世の罪に立ち向かっていることがわかります。十四世紀になるとピエタ(伊
pietà)、すなわち十字架から降ろされたイエスの遺体を抱いて嘆く聖母の姿が図像化されるようになります。
十九世紀のフランス製クルシフィクス(キリスト像付き十字架)には、十字架の裏面にマリアを浮き彫りにした作例がみられます。クロワ・ジャネットの上端はフルール・ド・リス(仏 fleur de lys 百合の花)を模(かたど)りますが、フルール・ド・リスは百合と同様に聖母マリアの象徴です。また本品において十字架交差部に打ち出された薔薇は、イエスとともに罪なくして苦しむロサ・ミスティカ、神秘の薔薇の聖母をも重層的に表しています。
本品をはじめとするクロワ・ジャネットは、十字架縦木の上下端近く及び横木の両端近くが楕円形の円盤形に広がり、うち三か所の外側に球状の膨らみが付き、さらにそこから細い棒が突出して終わります。球状の膨らみから細い棒が突出する様子は、女性が使う糸巻き棒の先端を連想させます。
一つの十字架に付く三つの球は、福音書の中でキリストが三たび流し給うた涙を表すともいわれています。この解釈は、球に隣接する楕円形部分にアカンサスが見られることと符合します。
アカンサス(葉薊 はあざみ)は美しい形の葉が様式化されて古代ギリシア以来装飾に使われてきました。アカンサスは近代以降の植物分類学ではハアザミのことですが、古典ギリシア語アカンタス(希
ἀκάνθας)は「棘」、あるいは総称的に「棘のある植物」のことであり、この語は原罪を犯したアダムに対する神の言葉(「創世記」三章十七節から十九節)にも出てきます。したがってキリスト教的文脈において、アカンサスは装飾文であると同時に、キリストを十字架に付けた罪を象徴します。クロワ・ジャネットを磔刑のキリスト像に重ね合わせると、アカンサス文があしらわれた場所は、救い主の両手の釘孔、重ねた両足の釘孔、額に付いた茨の傷に一致していることに気付きます。
裏面の意匠は表(おもて)面と異なります。こちらの面の縦木と横木には、槍鉋で削ったような装飾は施されず、簡素な美を誇ります。交差部の花は薔薇ではなく三色菫で、ア・モワ(仏
à moi)の文字が添えられています。三色菫のフランス語パンセ(仏 pensée)は「想ってください、考えてください」を表すパンセ(仏 pensez penser
考える の命令形)とまったく同音ですので、三色菫とア・モワと合わせたパンセ・ア・モワは、私を想ってください、私のことを考えてください、という意味を表しています。
クロワ・ジャネット(ジャネット十字)ははもともと地方の若い女性が買ったペンダントです。後に述べるように、十九世紀の銀製品は非常に高価であったゆえに、銀のクロワ・ジャネットは一生ものであり、女性たちは年老いるまでの長いあいだクロワ・ジャネットを身に着けました。それゆえクロワ・ジャネットはあらゆる年齢の女性に愛用されましたが、パンセ・ア・モワ、すなわち「私を想って」「私のことを考えて」というメッセージは、いつの時代も変わらない女の子らしさ、恋とおしゃれに夢中な十九世紀の少女たちの気持ちを今に伝えています。
クロワ・ジャネットの上端はフルール・ド・リス(仏 fleur de lys 百合文)の形に突出しています。上の写真で左側に写っているのは純度八百パーミル(800/1000 八十パーセント)の検質印(ホールマーク)で、テト・ド・サングリエ(仏
la tête de sanglier イノシシの頭)を模ります。フランスには純度八百パーミルの銀を示す二種類の検質印があり、テト・ド・サングリエは本品がモネ・ド・パリ(仏
la Monnaie de Paris パリ造幣局)で検質されたことを示します。
フランスの信心具において、八百パーミルの銀は最高級の素材です。素材が高価であるゆえに、銀製十字架は打ち出し細工による二面を溶接して作り、内部が空洞になっているのが普通で、本品もそのように作られています。高価な銀無垢製品に相応しく、本品のデザインは洗練されており、ファイン・ジュエリーに匹敵する優雅さを備えています。両面の意匠は多少とも異なりますが、同様の丁寧さで仕上げられているのも、高級品の証しです。本品は裕福な家の令嬢が贈られた物か、そうでなければ少女が長い間おを貯めてようやく手に入れた物であろうと思われます。
テト・ド・サングリエの右側には、フランスの銀製品工房に特有の菱形のマークが見えます。クロワ・ジャネットは主にパリ及びニオール(Niort アキテーヌ=リムザン=ポワトゥー=シャラント地域圏ドゥー=セーヴル県)で制作されました。本品はパリ、マレ地区の宝飾品製造業者エモンによるペンダントで、菱形の内部には
HEMONFS の文字が読み取れます。HEMONFS はエモン・エ・フィス(Hémon et fils)のことです。
ジュルナル・デ・デバ(仏 Journal des débats politiques et littéraires)は革命期の 1789年に創刊され、
1944年まで続いたフランスの新聞で、紙名は「日刊論点」というほどの意味です。フランス国立公文書館(仏 La Bibliothèque nationale
de France, BnF)の資料によると、同紙の 1859年4月29日号には、六区タンプル通り 134番地のビジュチエ(仏 bijoutier 宝飾品業者)としてエモン氏の名前が載っています(http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb39294634r)。タンプル通り(仏
la Rue du Temple)の位置は三区と四区ですが、現在の区割りは 1859年6月16日の法律によります。それ以前に使われていたのは
1795年の区割りで、タンプル通りは六区に属していました。
ジュルナル・オフィシエル・ド・ラ・レピュブリーク・フランセーズ(仏 Journal officiel de la République française)は
1869年に創刊されて現在も続く日刊紙で、紙名は「日刊フランス共和国公報」というほどの意味です。フランス国立公文書館(仏 La Bibliothèque
nationale de France, BnF)の資料によると、同紙の 1878年2月21日号にはタンプル通り 134番地のビジュチエ(宝飾品業者)としてエモン・エ・フィス(Hémon
et fils)の名前が載っており、息子たちも父の工房で働くようになったことがわかります(http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb328020909)。工房名にエ・フィスが加わった年月日は不明ですが、本品の制作年代は概ね
1860/70年代から 1900年頃まで、わが国で言えば幕末から明治後期頃までと考えることができましょう。
クロワ・ジャネットははもともと地方の若い女性が買い、その後長く身に着けた銀製のペンダントです。十九世紀にはブロンズ等従来から知られた合金に加え、マユショル(仏
maillechort ジャーマン・シルバー、アルパカ・シルバー)をはじめとする優れた新合金が開発されました。1889年のパリ万博でドゥブレ・ドール(doublé d'or ゴールド・フィルド)の技術が発表されると、さまざまな合金に金を被せたジュエリーが多く作られるようになりました。もともとは銀製あるいはヴェルメイユ製であったクロワ・ジャネットも、後にはベース・メタルの合金に金を張ったものが多く作られました。
フランスをはじめ第一次世界大戦前のヨーロッパでは、富の大半が富裕層に集中していました。本品は十九世紀の品物ですが、二十世紀初頭になってもこの状況は変わらず、1910年のフランスにおいて、上位
1パーセントの富裕層が富の70パーセント近くを所有していました。富裕層の範囲を上位10パーセントに広げると、この階層が富の九割を独占し、残りの一割を90パーセントの国民が分け合う状況でした。百年以上前のフランスは「一部の富裕層以外は、全員が下層階級」というように、社会が極端に二極分化していたのです。
本品はこのような時代に作られた銀無垢製品であることに加え、大きなサイズゆえにたいへん高価であり、日常的に購入できる品物ではありませんでした。本品はいずれの面も極めて良好な保存状態であり、人生の大きな節目にふさわしいジュエリーとして大切に伝えられたことがうかがえます。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。本品の実物を女性がご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きなサイズに感じられます。
本品は十九世紀のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にかかわらず保存状態は極めて良好で、日々実用いただけます。アンティークのクロワ・ジャネットは稀少品ですが、特に本品のような銀無垢製品は制作数が少なく、入手困難です。筆者(広川)は長年に亙ってクロワ・ジャネットを扱っていますが、これまでに目にした銀無垢クロワ・ジャネットのなかで、本品は最大級の作例です。お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。