総主教十字、ハンガリー十字、アンジュー十字、ロレーヌ十字
la croix patriarcale/archiépiscopale, la croix de Hongrie, la croix d'Anjou, la croix de Lorraine




(上) フランスで 1867年頃に制作された総主教十字 50.0 x 34.0 ミリメートル 当店の販売済み商品


 宗教美術や信心具、王侯貴族や修道会の紋章に現れる十字架のなかには、二本の横木を有するものがあります。本稿ではこの十字架の起源を論じたあと、東ローマからモラヴィア、ハンガリー、フランスへの伝播を辿り、最後に対独レジスタンスにおける「ロレーヌ十字」について論じます。


【総主教十字の起源となった「真の十字架」の伝承】

 ラテン十字の横木の上に短い横木一本を追加した十字架は,、もともと「総主教十字」(croix patriarcale, croix archiépiscopale) (註1)と呼ばれ、古代以来の長い歴史を誇ります。古くからの説によると、「総主教十字」は、ローマ皇帝コンスタンティヌス 1世の母ヘレナが発見した「真の十字架」を模(かたど)っており、東方教会の総主教が使用するほか、カトリック教会の大司教の紋章にも使われています。


 初代教会以来、キリスト教徒はローマ帝国内で迫害され、多数の殉教者を出しましたが、313年、皇帝コンスタンティヌス 1世 (Constantinus I, 272 - 337) はキリスト教を公認し、ようやくここに迫害が停止しました。この頃キリスト教に改宗したコンスタンティヌス 1世の母后ヘレナ (Helena, c. 247 - c. 329) はたいへん信仰心の篤い女性で、キリスト教の保護と発展に尽くしました。

 370年頃まで遡る伝承によると、ヘレナは 325年頃から 327年頃にかけてパレスティナの聖地を巡り、キリスト受難にまつわる多数の聖遺物を発見しました。「ウェーラ・クルークス」(VERA CRUX ラテン語で「真の十字架」の意)と呼ばれるイエス受難の十字架もそのひとつで、ハドリアヌス帝がゴルゴタの丘に建てたウェヌス神殿を取り壊して教会を建設する際に、地中から発掘されたのでした。




(上) Pierro della Francesca, "Il ritrovamento delle tre croci e la verifica della vera Croce" (dettaglio), 1452 - 66, affresco, la cappella maggiore della basilica di San Francesco, Arezzo


 「総主教十字」はこの出来事を記念した十字架で、ティトゥルス(titulus 罪状書き)すなわち "INRI" の札(註2)を表す短い横木を、パティブルム(patibulum 横木)の上方に取り付けています。またヘレナが発見した「真の十字架」は細片に分割され、これらの細片からも「総主教十字」と同形の小さな十字架が作られました。これらの十字架は「スタウロテーカ」(staurotheca 元はギリシア語で「十字架容器」の意)と呼ばれる聖遺物箱に納められて、各地で崇敬を受けました。

 カトリック教会は、5月3日を十字架発見の祝日、9月14日を十字架称讃の祝日としています。


【総主教十字の伝播】

 総主教十字はエルサレム及び東ローマ帝国において最も早く使用され、9世紀までに中央ヨーロッパに伝播しました。それ以降の歴史を反映して、この十字架は「ハンガリー十字」「アンジュー十字」とも呼ばれます。フランスの愛国的象徴として有名な「ロレーヌ十字」は、アンジュー十字がロレーヌに伝わったものです。以下では総主教十字が伝播した経路を辿ります。


1. モラヴィアにおける総主教十字(モラヴィア十字)




(上) ミカエル3世の父テオフィロス (Θεόφιλος) のソリドゥス金貨。830年代前半頃にコンスタンティノープルで打刻されたもの。


 東ローマの文明とキリスト教を中央ヨーロッパに広めたのは、テサロニキ(マケドニア)出身の「スラヴの使徒」、メトディオス (Μεθόδιος, c. 815 - 885) とキュリロス (Κύριλλος, c. 827 - 869) の兄弟です。古代のマケドニアはギリシア語圏でしたが、その後スラヴ人が侵入し、兄弟が生まれた9世紀までにはスラヴ語派南スラヴ語群に属するマケドニア語が話されていました。

 当時の中央ヨーロッパには、9世紀前半から10世紀前半にかけて、現在のチェコ共和国東部を中心に、スラヴ人の大国であるモラヴィア王国が栄えていました。モラヴィア王国の第二代国王ラスティスラフ (Rastislav, + 870) はフランク及びカトリックと対抗するために東ローマ帝国に目を向け、宣教師の派遣を要請します。これに応じた東ローマ皇帝ミカエル3世 (Μιχαήλ Γ, 840 - 867) は、聖性と学識ゆえに名高く、スラヴ語にも通じたメトディオス、キュリロス兄弟をモラヴィアに派遣し、兄弟は863年頃、モラヴィア王ラスティスラフに洗礼を施してこの国をキリスト教国としました。また当時文字を持たなかったスラヴ語のために、兄弟はグラゴル文字を考案し、この文字を用いて聖書を古教会スラヴ語に訳しています。横木の上方にもう一本、短い横木を加えた十字架も、この兄弟によってモラヴィア王国にもたらされました。




(上) 旧モラヴィア、ヴェレフラッド(Velehrad 現チェコ共和国ズリーン州)にある「被昇天の聖母と聖キュリロス、聖メトディオスのバシリカ」


 10世紀初頭、モラヴィア王国は東フランク王国とマジャール人の双方から圧迫を受けていました。モラヴィア王国最後の君主モイミール2世は900年に東フランクとの戦いに勝利したあと、901年以降の早い時期にマジャール人に敗北して殺害され、モラヴィア王国は907年頃から崩壊に向かいます。907年7月4日、プレスブルクの戦い (Schlacht von Pressburg) において、東フランクのバイエルンの辺境伯ルイトポルト (Luitpold, + 907) はマジャール人の大首長アールパード (Árpád, 845 - 907) が率いる軍に敗れます。その後モラヴィアはハンガリー王国とボヘミア、及び他のいくつかの小国に分割されました。メトディオスとキュリロスがモラヴィアに伝えた総主教十字は、こうしてハンガリーに伝わりました。


2. ハンガリーにおける総主教十字(ハンガリー十字)

 モラヴィアの総主教十字はこの地域における教化(宣教)の象徴でしたが、モラヴィアを征服したハンガリーに伝えられ、「ハンガリー十字」として知られるようになりました。(註3)


 2 - a. イシュトヴァーン1世とハンガリー十字

 イシュトヴァーン1世


 教皇シルヴェステル2世 (Silvester II, cv. 950 - 1003) は1000年のクリスマスに、マジャールの大首長イシュトヴァーン1世 (István I. c. 975 - 1038) をハンガリー王国初代国王として戴冠させました。イシュトヴァーン1世は王国のキリスト教化に努め、後にカトリックの聖人とされる人物です。

 このときシルヴェステル2世は王冠とともに総主教十字を授け、国王の前にこの総主教十字を護持する権利を、イシュトヴァーン1世、及び将来においてその後継となるハンガリー国王たちに与えました。ハンガリー国王の総主教十字は、国王が有する使徒の権能、すなわちハンガリーを教化する権能を象徴します。シルヴェステル2世は数名の貴族を「十字架の騎士」に任じて総主教十字を護持する役割を与えましたが、この騎士たちは後に騎士修道会となりました。(註43)


 2 - b. ベーラ3世とハンガリー十字

 ベーラ3世の 1ディナール銀貨


 ハンガリー国王イシュトヴァーン1世 (István III, 1147 - 1162 - 1172) は東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノス (Μανουήλ Α' Κομνηνός o Μέγας, 1118 - 1143 - 1190) と対立しており、マヌエル1世はイシュトヴァーン1世の弟ベーラをコンスタンティノープルで人質にしていました。マヌエル1世は後継ぎになかなか恵まれなかったために、有能なベーラを後継者にしようと考えて、娘マリアと婚約させ、次代皇帝にふさわしい教育を施しました。

 しかしながら 1169年、マヌエル1世に待望の世継ぎが生まれたので、ベーラとマリアの婚約は解消されました。また1172年にはイシュトヴァーン1世が死去しました。その結果、王弟ベーラは同年に帰国し、ベーラ3世(Béla III, 1148 - 1172 - 1196) として即位しました。上述したように、総主教十字はイシュトヴァーン1世の時代にハンガリーに入っていましたが、コンスタンティノープルで育ったベーラ3世の下で、「ハンガリーの十字架」としての位置づけが一層確かになったと考えられます。実際、ハンガリー十字(総主教十字)がハンガリー王国の紋章や貨幣に採り入れられたのは、ベーラ3世の治世である 1190年頃のことです。


 2 - c. アンドラーシュ2世とハンガリー十字

 アンドラーシュ2世の 1ディナール銀貨


 ハンガリー国王アンドラーシュ2世 (András II, 1177 - 1205 - 1235) はベーラ3世の子であり、聖エリザベト (Erzsébet, 1207 - 1231) の父にあたります。父王ベーラ3世は聖地回復の誓願を立てましたがこれを果たせずにいたので、アンドラーシュ2世は父に代わって第五回十字軍遠征に加わることを決意し、1217年8月23日、聖地に向けて出発しました。アンドラーシュ2世の軍はキプロスを経由してサン・ジャン・ダクルに上陸し、同年11月10日、ベツサイダにおいてアイユーブ朝の軍に大勝しました。

 アンドラーシュ2世は十字軍遠征に際して「真の十字架」の破片を携行していたと考えられています。この聖遺物はベツサイダの戦いの際も進軍の先頭に掲げられたと思われます。この戦いでアンドラーシュ2世は数の上で圧倒的に優勢であったイスラム軍に勝利したわけですが、これは「真の十字架」の力によると考えたに違いありません。

 ハンガリー十字(総主教十字)がハンガリーの国章に加えられたのは、アンドラーシュ2世の治世です。アンドラーシュ2世の孫であるハンガリー国王アンドラーシュ3世 (András III, 1265 - 1290 - 1301) は、神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世 (Albrecht I, 1255 - 1308) の娘アグネス (Agnes, c. 1281 - 1364) を妃としますが、アグネスの印璽はハンガリー十字を象(かたど)ります。


 ハンガリー十字は現在に至るまでハンガリーの象徴であり続けています。下の画像の左側は 1848年から 1910年まで存続したオーストリア=ハンガリー二重帝国の国章、右側は 1990年に定められて現在に至るハンガリーの国章です。




3. フランスのアンジュー十字

 総主教十字は「アンジュー十字」とも呼ばれるようになりました。この名称が生まれるに際しては、ふたつの経緯がありました。そのひとつは十字軍がもたらした「真の十字架」の聖遺物が、フランス北西部のアンジュー(Anjou 註5)に伝わり、アンジュー伯(公)家に篤く崇敬されたためであり、もうひとつはハンガリー王家とアンジュー伯家の婚姻で生まれたハンガリー・アンジュー家が、その紋章にハンガリー十字を採り入れたためです。それぞれの経緯について略述します。


 3 - a. 十字軍がもたらした「真の十字架」が、東ローマからクレタを経てアンジューへ伝播した経緯

 既に述べたように、「真の十字架」の細片から小さな十字架形に再現された聖遺物は総主教十字の形をしていましたが、この十字架形聖遺物が東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスからラテン・コンスタンティノポリス総大司教ゲルヴァシウス(Gervasius 在位 1215 - 1219)を経て、クレタ島ヒエラピュトナ(Ἱεράπυτνα 現在のイエラペトラ Ιεράπετρα)の司教トマスに渡りました。

 十字軍士ジャン2世・ダリュイ (Jean II d'Alluyes, 1180 - c, 1247) は、フランス北西部、シャトー=ラ=ヴァリエール(Château-La-Vallière 現在のサントル地域圏アンドル=エ=ロワール県)の城主でしたが、クレタ島防衛に功があったことを認められて、ヒエラペトラ司教トマスからこの聖遺物を譲られました。

 ジャン2世・ダリュイは 1244年、この十字架形聖遺物をフランスに持ち帰り、領地に近いデヌゼ=ス=ル=リュド(Dénezé-sous-le-Lude ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メール=エ=ロワール県)のボワシエール修道院 (l'abbaye de la Boissière) に預けました。しかしながら 1337年に百年戦争が起こり、この地にも略奪が横行するようになったため、ボワシエールの修道士たちは「真の十字架」を、50キロメートルほど西にあるアンジェ(Angers ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メール=エ=ロワール県)のドミニコ会修道院に避難させました。

 アンジュー伯家(1260年からは公家)は、「真の十字架」の総主教十字形聖遺物を厚く崇敬しました。総主教十字はこの頃から「アンジュー十字」(la croix d'Anjou) と呼ばれるようになっています。フランス王ジャン2世 (Jean II, 1319 - 1350 - 1364) の次男でありヴァロワ=アンジュー家の祖であるルイ1世・ダンジュー (Louis I d'Anjou, 1339 - 1384) は、自身の旗に「アンジュー十字」を刺繍させ、1359年7月12日には、アンジェの居城の礼拝堂でこの聖遺物を顕示しています(註6)。


 ボージェの十字架


 ルイ1世・ダンジューは「真の十字架」の聖遺物である「アンジュー十字」を美しく飾ることを望み、兄王シャルル5世 (1338 - 1364 - 1380) お抱えの金細工師たちに命じて、十字架の両面に純金製のコルプスを取り付けさせました。またコルプスの上部には、を打ち出したメダイユを一方の面に、を打ち出したメダイユをもう一方の面に、それぞれ取り付けさせています。十字架の各末端は金とヴェルメイユ、17個のルビー、19個のサファイア、及び真珠で飾られています。この十字架は「クロワ・ド・ボージェ」(la Croix de Baugé 「ボージェの十字架」)と呼ばれています。ボージェ (Baugé) はアンジェの北東にある小さな村で、2013年に近隣の町村と合併し、現在はボージェ=アン=アンジュー (Baugé-en-Anjou) になっています。「ボージェの十字架」は当地の「マリアの御心女子修道院」(les Filles du Cœur de Marie, 8 rue de la Girouardière, 49150, Baugé) に安置されています。


 3 - b. ハンガリー・アンジュー家が、ハンガリー十字を紋章に採り用れた経緯

 ハンガリー十字がアンジュー十字となったいまひとつの経緯としては、ハンガリーの王女とアンジュー伯の婚姻関係により、アンジュー家がハンガリーの王位を継承し、ハンガリー十字がハンガリー・アンジュー家の紋章に採り入れられたことが挙げられます。

 1000年のクリスマスに、マジャールの大首長イシュトヴァーン1世は教皇シルヴェステル2世から贈られた冠を戴いて、ハンガリー王国初代国王となり、アールパード (Árpád) 朝が始まりました。1290年、国王ラースロー4世 (László IV, 1262 - 1290) が子供を残さずに亡くなると、王位継承をめぐって争いが起こりました。アンジュー家から出たシチリア王シャルル・マルテル・ダンジュー (Charles Martel d'Anjou, 1271 - 1290 - 1295) は、ラースロー4世の姉であるマリア (Marie de Hongrie, c. 1257 - 1323) の息子であったため、ハンガリーの王位を請求し、教皇もこの主張を認めたため、ハンガリー王を名乗りました。

 シャルル・マルテル・ダンジューのハンガリー王位は名目的なもので、ハンガリー征服を実際に試みることはしませんでした。ラースロー4世没後のハンガリーは、ラースロー4世の従弟であるアンドラーシュ3世 (András III, 1265 - 1301) が王として治めていました。しかしながら 1301年にアンドラーシュ3世が無くなると、アールパード朝の男系子孫は断絶し、ふたたび王位継承の争いが起こりました。この争いに勝利し、長期にわたる安定政権を築いたのが、シャルル・マルテル・ダンジューの息子であるカーロイ1世 (Károly I, Károly Róbert, 1288 - 1342) です。

 このようにして生まれ、1395年まで存続したハンガリー・アンジュー朝では、カーロイ1世の息子ラヨシュ1世 (Anjou I Lajos, 1326 - 1382) の時代に、ハンガリー十字が紋章に採り入れられました。すなわちハンガリー・アンジュー家の誕生により、「ハンガリー十字」は「アンジュー十字」ともなったのです。


4. 「アンジュー十字」から「ロレーヌ十字」へ

 上述したように、ヴァロワ=アンジュー家の祖であるルイ1世・ダンジュー (Louis I d'Anjou, 1339 - 1384) は「真の十字架」を深く崇敬し、自身の旗に「アンジュー十字」を刺繍させました。この人の孫であるアンジュー公ルネ・ダンジュー (René I d'Anjou, 1409 - 1480) は、ロレーヌ公シャルル2世 (Charles II de Lorraine, 1364 - 1431) の娘イザベル (Isabelle de Lorraine, 1409 - 1480) と結婚しましたが、1431年に義父シャルル2世が亡くなると、跡を襲ってロレーヌ公となりました。

 「アンジュー十字」を本格的にロレーヌにもたらしたのは、ルネ・ダンジューの孫であるルネ2世です。ルネ2世の軍旗と印璽には、「アンジュー十字」あるいは「ロレーヌ十字」があしらわれました。1473年にロレーヌ公となったルネ2世は、1477年、ナンシーの戦いにおいてブルゴーニュ公シャルル (Charles de Valois-Bourgogne, 1433 - 1477) を討ち、フランス王国に敵対するブルゴーニュ公国を崩壊させました。ルネ2世の軍旗のアンジュー十字は、この頃から「ロレーヌ十字」と呼ばれ、外国勢力及び外国と結ぶ勢力に対する抵抗を象徴するようになりました。




(上) ロレーヌ十字をあしらったジャンヌ・ダルクのメダイ 直径 30.2 mm  当店の販売済み商品

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 二本の横木を有する十字架のうち、「ロレーヌ十字」を他の十字架と比べると、形状に独自の特徴があります。第一に、紋章においてロレーヌ十字の源流であるハンガリー十字は、末端に向かって幅広になります。しかしながらロレーヌ十字の幅は常に一定です。

 第二に、二本の横木を有する十字架において、上の横木はもともと「罪状書き」(ティトゥルス titulus)を表しており、ラテン十字と同じ位置にある本来の横木(パティブルム patibulum)の上方に、かなり短い長さで添えられています。すなわち総主教十字やハンガリー十字においては、二本の横木が十字架の上方寄りに位置し、上の横木は下の横木よりもかなり短くなっています。これに対してロレーヌ十字においては、ほぼ同じ長さの二本の横木が、十字架の縦の柱を三等分する位置に付いている例がよく見られます。ただしロレーヌ十字は常にその形をしているわけではありません。左の画像は「自由フランス」の腕章ですが、ロレーヌ十字は二本の横木が十字架の上方寄りにあり、総主教十字とほぼ同じ形をしています。

【対独レジスタンスにおけるロレーヌ十字】

 20世紀におけるロレーヌ十字は、対独レジスタンスと「フランス・リーブル」(France libre 「自由フランス」の意)の象徴として知られています。「フランス・リーブル」はロンドン亡命中のシャルル・ド・ゴール将軍 (Charles de Gaulle, 1890 - 1970) が、ドイツとヴィシー政権に対抗して作ったフランス人の抵抗組織で、1942年、「フランス・コンバタント」(France combattante 「戦うフランス」の意)に改称しました。「フランス・リーブル」と「フランス・コンバタント」の間には連続性があり、本質的に同一の組織と認められますので、以下ではこのふたつを総称して「自由フランス」と表記します。

 自由フランス海軍 (les Forces navales françaises libres, FNFL) を組織したエミール・アンリ・ミュズリエ提督 (Émile Henry Muselier, 1882 - 1965) は、1940年7月1日、ナチの鉤十字に対抗すべく、ロレーヌ十字を自由フランス海軍と空軍 (les Forces Aériennes Françaises Libres, FAFL) の象徴とすることをド・ゴールに提案し、ド・ゴールはこれを了承しました。(註7)


(下) 第二次世界大戦期頃のブロンズ製ロレーヌ十字 21.6 x 14.0 mm 「ヴィクトワール」(victoire フランス語で「勝利」の意)の "V" と組み合わせた作例。当店の商品です。




 当時のフランスは、ドイツの実質的属国となっていました。すなわち第三共和政最後の首相フィリップ・ペタン (Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain, 1856 - 1951) が率いるフランス共和国政府は、「1940年6月22日の休戦協定」(L'armistice du 22 juin 1940) によって、実質的にナチス・ドイツに降伏し、ドイツ軍が国土の北半分を占領するのを認めることになります。占領されなかった南半分に関してはフランスによる自治が認められましたが、これは形式的なものであり、「フランス国」(État français) 初代首相フィリップ・ペタンによるヴィシー政権は、ドイツの意向に逆らえない傀儡政権でした。

 したがって本土のフランス人たちは、国外からの情報を自由に手に入れることはできませんでしたが、ロンドンで結成された「自由フランス」と、対独抵抗の象徴であるロレーヌ十字に関する情報は、 BBC放送や飛行機から投下されるビラなどを通して広まりました。1941年からは、ロレーヌ十字の着用を推奨する呼びかけが、BBC放送を通じて為されました。

 対独レジスタンスにはさまざまな系統があり、ド・ゴールの「自由フランス」とは立場を異にするグループもありました。ロレーヌ十字は「自由フランス」内部の人々、及び「自由フランス」と共闘するようになったグループの人々に用いられました。1941年夏、フランス共産党は「自由フランス」と共闘体制に入り、「鎌とハンマー」に加えて「ロレーヌ十字」の使用を認めました。

 下の写真はドイツ占領下のフランスで発行された地下新聞「デファンス・ド・ラ・フランス」("Défense de la France"  「フランスの守り」)です。この新聞を発行する同名の組織「デファンス・ド・ラ・フランス」には、ド・ゴールの姪ジュヌヴィエーヴ (Geneviève de Gaulle-Anthonioz, 1920 - 2002) も深くかかわっていました。下の写真は 1944年4月発行の第45号で、紙面上部は題字の右に大きくロレーヌ十字をあしらい、紙面最下部ではこの新聞を読むように、主だったレジスタンス組織の人々に対して、次のように呼びかけが為されています。

 Lisez Combat, Libération, Franc-Tireur, Résistance, Lorraine, autres organes du MLN.   コンバ、リベラシオン、フラン=ティルール、レジスタンス、ロレーヌ、その他 MLN(Mouvement de Libération nationale フランス解放運動)の皆さん、お読みください。


 "Défense de la France", n° 45, avril 1944



註1 本稿では「クロワ・アルシエピスコパル」(croix archiépiscopale)、「クロワ・パトリアルカル」(croix patriarcale) をまとめて「総主教十字」と訳しましたが、これら二つの名称をローマ・カトリックの用語に従って訳すと、それぞれ「大司教十字」、「総大司教十字」となります。

 「総大司教」とは枢機卿の下に位置する職階で、大司教を任命します。現在、カトリック教会の総大司教はヴェネツィア、リスボン、ゴアに置かれています。


註2 すべての福音書は、イエスの十字架の上部に罪状書きが掲げられたと語っています。札に書かれた言葉は、「マタイによる福音書」 27章 37節によると「これはユダヤ人の王イエスである」(οὗτός ἐστιν Ἰησοῦς ὁ βασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων)、「マルコによる福音書」 15章 26節によると「ユダヤ人の王」(ὁ βασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων)、「ルカによる福音書」 23章 38節によると「これはユダヤ人の王」(ὁ βασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων οὗτος)、「ヨハネによる福音書」 19章 19節によると「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(Ἰησοῦς ὁ Ναζωραῖος ὁ βασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων) でした。またルカとヨハネによると、罪状書きはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語で書かれていました。


(下) Francisco de Zurbarán, "Christ on the Cross", 1627, 291 x 165 cm, oil on canvas, Art Institute, Chicago




 西ヨーロッパのクルシフィクス(磔刑像付十字架)には "INRI" と書かれた札が取り付けられていることが多くあり、これを「ティトゥルス・クルーキス」(TITTULUS CRUCIS ラテン語で「十字架の札」「十字架の掲示物」の意)と呼んでいます。"INRI" は「イエースース・ナザレーヌス、レークス・ユーダエオールム」("IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM" ラテン語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意)を略記したものです。


(下) 真珠母と銀細工による非常に大きなクルシフィクス 十字架部分の縦横のサイズ 101.4 x 70.0 mm コルプスを含む最大の厚さ 9.6 mm フランス 19世紀 当店の商品




註3 本稿では詳しく論じませんが、アールパード朝ハンガリー王国は、ニトラ (Nitra) をはじめ、現在のスロヴァキア領内にあたるいくつかの地方も支配していました。それゆえ総主教十字はスロヴァキアの国旗、国章にも採り入れられています。同様に、歴史的事情により、リトアニアの国章にも総主教十字が描かれています。


註4 なおハンガリー十字に関連して、後世にはドラゴン騎士修道会 (Societas Draconistrarum)、聖イシュトヴァーン騎士修道会 (der Königlich-Ungarische Sankt Stephans-Orden) が結成されています。


註5 アンジュー (l'Anjou) はフランス北西部にある地方の名前で、中心都市はアンジェ(Angers ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メール=エ=ロワール県)です。「アンジュー」という地方名はアンシアン・レジーム期(フランス革命よりも前の時代)のものですが、文化について論じる場合にはしばしば登場します。旧アンジューの領域は、現在の行政区分ではペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メール=エ=ロワール県にあたり、わが国で言えば宮城県または岡山県または熊本県ぐらいの広さです。


註6 アンジュー伯(公)家の「真の十字架」は、1790年にアンジェの北西の町ボージェ (Baugé) に運ばれ、現在に至るまで、旧施療院 (l'hospice des Incurables) 礼拝堂に安置されています。


註7 このときロレーヌ十字を徽章に採り入れたのは、自由フランスの海軍と空軍のみでした。自由フランス陸軍の徽章は、下に示すように、グレーヴ(glaive 両刃の剣)を月桂樹の枝で囲み、翼を付けたものであって、ロレーヌ十字を含みません。

 insigne des forces armées de la France libre


 ただしノルマンディー上陸作戦での活躍によって知られる「自由フランス第二機甲師団」(la 2e division blindée, 2e DB) は、その徽章にロレーヌ十字を採用しています。「自由フランス第二機甲師団」は、ジャック=フィリップ・ルクレール (Jacques-Philippe Leclerc, 1902 - 1947) がドゴールの命により、1943年8月24日に編制した師団です。

 insigne de la 2e division blindée


 連合国から「フランスの最高司令官」(Commandement en chef français) と認められ、北アフリカで対独戦を遂行していたアンリ・オノレ・ジロー大将 (Henri Honoré Giraud, 1879 - 1949) は、ド・ゴールと激しく対立していましたが、1943年8月、ジロー大将の「アフリカ軍」(l'Armée d'Afrique) と、ド・ゴールの「自由フランス」の共闘が成立し、「フランス解放軍」(l'Armée française de la Libération) が誕生しました。フランス解放軍はロレーヌ十字を採用していましたが、旧「自由フランス」軍の陸上部隊は、同年10月22日の軍令に基づき、ロレーヌ十字無しの徽章を使い続けました。




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