スクロヴェーニ礼拝堂
la capella degli Scrovegni, Padova




(上) スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画連作より、「イエスの降誕と羊飼いたちへの知らせ」 "Natività di Gesù e annuncio ai pastori "


 スクロヴェーニ礼拝堂(伊 la capella degli Scrovegni)はパドヴァの金融業者エンリコ・スクロヴェーニが邸宅に付属して建てた礼拝堂です。礼拝堂の全壁面及び天井はジョット・ディ・ボンドーネによるフレスコ画連作で装飾されており、イタリア・ルネサンスの最も重要な作品のひとつと見做されています。スクロヴェーニ礼拝堂は 2002年に大規模な修復が完了し、往時の輝きを取り戻しました。


【スクロヴェーニ礼拝堂建設の背景】

 中世以前のヨーロッパにおいて、金を貸して利息を取ることは、キリスト教徒が決して犯してはならない大罪と考えられていました。中世の人々は死後の天国や地獄を本気で信じていましたから、資産を積み上げて老年期に至った金融業者は、多くの場合、莫大な金額、時には全資産を教会や修道院に寄付し、罪から逃れようとしました。

 十三世紀のパドヴァにはレジナルド・スクロヴェーニ(Reginaldo Scrovegni, Rinaldo degli Scrovegni)という悪名高い高利貸しがいました。ダンテは「神曲」地獄篇第十七歌において、首から財布を提げた罪人達に出会います。彼らの財布にはそれぞれの家紋が表されていました。第十七歌 58行から 66行を引用します。日本語訳は筆者(広川)によります。意味を通じやすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲みました。原テキストは韻文ですが、筆者の訳はイタリア語の意味を正確に移すことを主眼としたため、韻文にはなっていません。

   58  E com'io riguardaudo tra lor vegno,    そして私が[あたりを]見回しながら彼らの間に来ると、
   59   In una borsa gialla vidi azzurro,     黄色い袋に青い色が見えた。
   60   Che di lione avea faccia e contegno.     その袋には獅子の顔[が描かれ]、[獅子のような]落着きがあった。
         
   61  Poi procedendo di mio sguardo il curro    次に我が視線を走らせる先には
   62   Vidine un'altra come sangue rossa     もうひとつ[の袋が見え、それは]血のように赤く、
   63   Mostrare un'oca bianca più ch'eburro     バターよりも白い鵞鳥[の絵]が見えた。
         
   64  Ed un, che d'una scrofa azzurra e grossa    そしてもう一人は、一頭の青い大きな雌豚の
   65   Segnato avea lo suo sacchetto bianco,     印が白い小さな袋に付いていたが、
   66   Mi disse: Che fai tu in questa fossa,     [その男は]私に向かって言った。お前はこの裂け目で何をしているのだ。


 罪人たちは金(かね)の袋を首から提げていますが、これは強欲と吝嗇の罪で地獄に堕ちた死者の定型的な描写です。ダンテは死者たちの名前を敢えて挙げていませんが、それぞれの金の袋には紋章が付いていて、罪人が誰であるのか、読者にはわかるようになっています。 59 - 60行の紋章はフィレンツェの高利貸しジャンフィリアッツィ家(i Gianfigliazzi)のものです。ジャンフィリアッツィ家の邸宅はフィレンツェに現存しています。62 - 63行の紋章はフィレンツェの高利貸しウッブリアーキ家(i Ubbriachi)のものです。ウッブリアーキもジャンフィリアッツィと並んで、フィレンツェにおける最大手の金貸しでした。

 64 - 65行の紋章はパドヴァのスクロヴェーニ家(i Scrovegni)のもので、ここに登場するのはダンテとほぼ同時代人であったレジナルド・スクロヴェーニです。多産且つ有用な家畜である豚は、古来利殖の象徴でした。上記引用箇所で、ダンテはスクロヴェーニの紋章の豚を「大きな雌豚」(una scrofa grossa)と表現していますが、これは仔を孕んでいる雌豚という意味でしょう。ダンテはフィレンツェの人でしたから、「神曲 地獄篇」第十七歌にジャンフィリアッツィとウッブリアーキが登場するのは自然です。またダンテは 1302年にフィレンツェから追放され、この時期はパドヴァにいたと考えられています。パドヴァのスクロヴェーニがフィレンツェの金貸しと共に「神曲 地獄篇」第十七歌に登場するのはこのような理由によります。




(上) スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画より、礼拝堂を神に捧げるエンリコ・スクロヴェーニ


 我が国の仏教寺院では仏舎利を納めた塔こそが本来の礼拝対象であり、それゆえ寺院は釈迦の巨大な墓と見做すことができます。これと同様に、ヨーロッパの歴史ある聖堂は聖人の巨大な墳墓です。聖堂地下のクリプトには、主祭壇の真下あたりに聖人の遺体があって、聖堂はその聖人の名前で呼ばれます。

 聖人の遺体は単なる亡骸ではなく、生前の功徳によって人を救う霊力を有する聖遺物と考えられました。聖遺物は生きている巡礼者たちを惹き付けましたが、これと同様に死者たちをも惹き付けました。すなわち王侯貴族をはじめとする有力者たちは聖堂を寄進し、聖人の遺体のそばに自らも埋葬されることで、救いを得ようとしたのです。主祭壇の近くに埋葬されれば、自分の遺体に向かって永遠にミサが挙げられることにもなり、このことも魂の救いに役立つと考えられました。




(上) アプス(英 apse 後陣)に設けられたエンリコ・スクロヴェーニの墓所。アプスとは主祭壇の奥のことです。エンリコの妻ジャコピーナ・デステ(Jacopina d'Este)も夫とともにアプスに埋葬されています。


 「神曲 時獄篇」第十七歌に登場したレジナルド・スクロヴェーニには、エンリコ(Enrico Scrovegni)という息子がいました。エンリコ自身も父と同様の金貸しでしたし、父が不正に蓄財した富を受け継いでもいました。おそらくその罪を償うために、エンリコは 1300年から新築工事を始めた自邸に、美しい付属礼拝堂を建設します。礼拝堂は 1300年に定礎が行われ、1303年の受胎告知の祝日に、サンタ・マリア・デッラ・カリタ(伊 Santa Maria della Carità 慈愛の聖母)に捧げられました。礼拝堂の内装は、ジョヴァンニ・ピザーノ(Giovanni Pisano, c. 1250 - c. 1315)が二人の天使に挟まれた聖母子の祭壇彫刻を、ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone, c. 1267 - 1337)が壁画を担当し、内装完了後の 1305年3月25日に最終的な献堂が行われました。


【スクロヴェーニ礼拝堂の概要】

 スクロヴェーニ礼拝堂内部のサイズは身廊の長さが 20.88メートル、幅が 8.41メートル、高さが 12.65メートルで、アプスのサイズは方形部分の奥行きが 4.49メートル、幅が 4.31メートル、五角形部分の奥行きが 2.57メートルとなっています。

 スクロヴェーニ礼拝が何よりも誇るのは、ジョットによる壁画と天井画です。ジョットは教皇ボニファティウス八世(Bonifatius PP. VIII, c. 1230 - 1294 – 1303)の依頼により、1296年からアッシジにある聖フランチェスコのバシリカ上堂部で大壁画を、また 1300年の聖年にあたってローマ司教座聖堂(伊 la basilica di San Giovanni in Laterano)に小さな連作壁画を制作し、現在ウフィツィが収蔵するバディア多翼祭壇画(伊 il polittico di Badia)も同時期に描いています。また現在は失われていますが、パドヴァにおいてもバジリカ・ディ・サンタントニオ(伊 La Pontificia Basilica Minore di Sant'Antonio di Padova)と裁判所(伊 Il palazzo della Ragione)に壁画を制作しています。これらの作品を制作したとき、ジョットは三十代初めから四十代初めとまだ若い年齢でしたが、画家としての名声は確立していました。ジョットがおよそ四十人の助手とともにスクロヴェーニ礼拝堂で壁画制作を行ったのは 1303年頃から 1305年、画家が三十六歳から三十八歳であった時期です。ジョットと助手たちは礼拝堂の壁面全体に聖母マリアとイエス・キリストの生涯を、主祭壇に対面する西側の壁面に最後の審判を、天井にはまたたく星々を描いています。ただしアプスの大部分はジョットが壁画を描いてからおよそ二十年後に、別の逸名画家によって描かれています。




(上) 内陣と外陣を仕切るアルコ・トリオンファーレ(伊 Arco trionfale 勝利の門)。奥に見えるのがアプス。


 伝統的な聖堂建築はオーリエンターチオー(羅 ORIENTATIO 東向きの定位)といって、最重要部であるアプス(後陣)を東に向けて建てられます。聖堂を上空から見ると十字架を模(かたど)る場合が多く、スクロヴェーニ礼拝堂も本来は翼廊を有する十字架形でした。聖堂を十字架と考えると、キリストの頭が東に位置することになります。東は太陽が昇る(羅 ORIOR)方角であり、しかるにキリストは義の太陽であるゆえに、聖堂はキリストの頭に相当する後陣を東に向けて建てられたのです。

 上の写真はスクロヴェーニ礼拝堂の身廊から東を向いて撮影したもので、アーチ状の狭窄部が内陣と外陣を区切っていることが分かります。この狭窄部はイタリア語でアルコ・トリオンファーレ(伊 Arco trionfale 勝利の門)と名付けられています。アルコ・トリオンファーレの最上部(ルネッタ)では、神がガブリエルに対し、ナザレの乙女マリアを訪れて受胎を告知するように命じています。そのすぐ下の両側には、建物のだまし絵に囲まれて、受胎を告知するガブリエルと、それを受け容れるマリアが向かい合うように描かれています。

 スクロヴェーニ礼拝堂の南壁は北壁よりも長くなっています。また南壁には六つの窓があり、北壁には窓がありません。ジョットはこの壁に四層の壁画を制作しており、第一層すなわちいちばん上の層は聖母マリアの生涯を題材にした連作、第二層と第三層はイエス・キリストの生涯を題材にした連作となっています。帯状に並んだ壁画は出来事の順に並んでおり、南壁の第一層に描かれたマリア誕生以前の物語と、北壁の第一層に描かれたマリアの結婚前の物語は、「ヤコブ原福音書」をはじめとする新約外典に基づきます。これに続くのがルネッタ(アルコ・トリオンファーレの最上部)ですが、神がガブリエルに対してナザレを訪問するように命じる場面はジョットの想像で、筆者(広川)が知る限り、正典にも外典にも典拠はありません。ルネッタ(伊 lunetta 弦月部、半月部)の下部両側に描かれた受胎告知は、「ルカによる福音書」1章26節から38節に記述されています。受胎を告知されるマリアの真下に描かれているのは、マリアがエリザベトを訪問する場面です。

 南壁の第二層には東から西に、イエス・キリストの誕生、マギの礼拝、エルサレム神殿での奉献、エジプトへの逃避幼子たちの虐殺が描かれています。北壁の第二層には西から東に、ラビたちに囲まれる少年イエス、イエスの洗礼、カナの婚礼、ラザロの復活、エルサレム入場、宮清めが描かれています。その右隣、すなわちアルコ・トリウンファーレのルネッタ下部北側、天使ガブリエルの下に描かれているのは、イスカリオテのユダが銀三十枚を受け取る場面です。

 北壁の第三層には東から西に、最後の晩餐、弟子たちの洗足、ユダの接吻、大祭司邸のイエス、嘲笑されるイエスが描かれています。南壁の第三層には西から東に、十字架の道行き、磔刑、降架マグダラのマリアと復活したイエスの出会い、イエスの昇天、聖霊降臨が描かれています。西側壁面は最後の審判の大壁画が描かれています。このフレスコ画は幅 8.4メートル、高さ 10メートルという大きなサイズで、西側壁面が天井に接する部分から南北壁第三層に相当する高さまでを占めています。

 南壁の第四層には美徳、北壁の第四層には悪徳をそれぞれ擬人化した像が、カマユー(仏 camaïeu)で描かれています。美徳と悪徳は向かい合わせのものが対になっており、西から東に、希望と絶望、慈愛と嫉妬、信仰と不信、正義と不正義、柔和と怒り、堅固さと不安定、思慮と暗愚を象(かたど)ります。アルコ・トリウンファーレの南側には、第四層に相当する高さの部分に、エンリコ・スクロヴェーニが礼拝堂を奉献する場面が描かれています。フレスコ画中のスクロヴェーニ礼拝堂は、十字架型プランに基づいて描かれています。


【保存と修復】



 スクロヴェーニ邸は 1827年に取り壊され、主建造物の取り壊しに伴って付属礼拝堂のポルティコ(伊 portico 屋根のある玄関)も取り払われて、本来露出していなかった礼拝堂正面と左側面(正面から向かって左側の壁面)が長期に亙り雨ざらしになっていました。これ以上の損壊を避けるため、パドヴァ市は 1881年に礼拝堂を買い取りました。ジョットのフレスコ画は甚だしく劣化していましたが、十九世紀末と 1960年代に大規模な修復が行われました。近年になって大気汚染による悪影響が判明したので、壁画の劣化を抑えるために、2000年5月31日からは空調設備が稼働し、一年あまりに亙って経過が観察されました。

 2001年6月12日には、第一に壁画の劣化が最も進行した部分を優先して修復すること、第二に以前の修復により失われた色彩の調和、特に背景の青色の同一性を回復すること、という二点を骨子に、新しい修復計画が発表されました。第一の点に関してですが、漆喰の主成分である消石灰(水酸化カルシウム)は乾燥すると白華と呼ばれる炭酸カルシウム結晶を生じ、これが漆喰を持ち上げて、フレスコ画が剥落する原因になります。新しい修復作業では礼拝堂壁面の漆喰を強化するとともに、壁面から噴き出た白華を除去し、将来起こる劣化を軽減しました。第二の点に関しては、褪色のため、及び過去の補修で白色の漆喰が使用されたため、フレスコ画の背景となる青色に広い面積の空白が生じていました。新しい修復作業では背景に青色を補う代わりに、壁画の制作当初となるべく同じ配合の漆喰を使うことで、問題の箇所を目立ちにくいように工夫が為されました。背景以外の欠損箇所は水彩絵具で補われました。修復作業は 2002年に一応の完成を見て、スクロヴェーニ礼拝堂は再び一般に門戸を開き、現在に至っています。



関連商品

 






イタリアの教会と修道院 ローマ・カトリック インデックスに戻る

諸方の教会と修道院 ローマ・カトリック インデックスに移動する


キリスト教に関するレファレンス インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する

キリスト教関連品 その他の商品とレファレンス 一覧表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する




Ἀναστασία ἡ Οὐτοπία τῶν αἰλούρων ANASTASIA KOBENSIS, ANTIQUARUM RERUM LOCUS NON INVENIENDUS