西ヨーロッパにおける聖遺物崇敬の二様式 その一 巡礼とその普及
le développement des pèlerinages dans l'Europe occidentale




(上) カリクストゥス本 (CODEX CALIXTINUS) より。カリクステゥス本はサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の手引書として有名です。


 聖遺物の崇敬には、「各地の教会や修道院に安置されている聖遺物への巡礼旅行」、及び「護符的聖遺物の所持あるいは着用」という二つの様式があります。

 これらのうち、後者の様式、すなわち「護符的聖遺物の所持あるいは着用」が西ヨーロッパに広く普及した背景については、別稿「西ヨーロッパにおける聖遺物崇敬の二様式 その二 個人向けの聖遺物とその普及」(le collier de Clovis - amulettes germaniques et la diffusion des reliquaires portatifs) において、携帯型聖遺物がゲルマンの護符に置き換わった事実を確かめました。

 この論考では、いまひとつの様式、すなわち「各地の教会や修道院に安置されている聖遺物への巡礼旅行」が西ヨーロッパに広く普及した過程を論じます。最初に古典古代における異教の名所巡りが、キリスト教における巡礼旅行の先駆である可能性を指摘したあと、殉教者崇敬の初期的形態、次に巡礼地の聖遺物が有する「巡礼者個人への恩寵の取り次ぎ」「国・地域・教区の守護」という二属性について論じ、最後に聖遺物の移葬と蒐集、巡礼路様式の聖堂建築の発達を概観して結語とします。


【ギリシア・ローマ異教の名所巡りと、キリスト教の巡礼旅行】

 ギリシア・ローマ期の地中海世界においては、神話世界の遺物や遺物を巡る旅行が行われていました。このような異教の名所巡りは、各地の聖遺物を巡る巡礼旅行の先駆と考えることができます。西ヨーロッパの人による巡礼を最初に記録した文書は、西暦333年から334年にかけて逸名巡礼者が記録した「ブルディガラ巡礼記」 Itinerarium Burdigalense(エルサレム巡礼記 Itinerarium Hierosolymitanum)です。著者はブルディガラ(Burdigala 現ボルドー)を出発し、トゥールーズからアルルに向かってウィア・ドミティア(羅 VIA DOMITIA ドミティウス街道)を東進しましたが、この道程は後世に「サンティアゴの道」と呼ばれることになる四本の道の最も南、アルルからトゥールーズを経てサンティアゴ・デ・コンポステラに至るウィア・トロサナ(羅 VIA TOLOSANA トゥールーズの道)と重なっています。

 ギリシア・ローマの異教時代において、地中海世界ではヘラクレスやオイディプス、テセウスのような神話的英雄が崇拝され、各都市に安置された英雄の武器や衣、遺骨などが、旅行者によって崇敬されていました。それらの遺物は都市を守り、戦争においては勝利をもたらすと信じられていました。英雄の遺物が有するこのような性質は、キリスト教の聖人の遺体、たとえばサン・マルタン・ド・トゥールが有する守護の力(後述)と著しく似通っています。


 ただしギリシア・ローマ神話の英雄の遺物と、キリスト教の聖遺物との間には、大きな違いも存在します。キリスト教の聖遺物は多くの場合病者の癒しをもたらしますが、異教の英雄の遺物は、ほとんどの場合、治癒的能力を発揮しません。また当然のことながら、異教の英雄には「罪びとを神に執り成す」というような働きを為しません。これに対してキリスト教の聖人が果たす最も重要な役割は「神への執り成し」であり、病気の治癒も罪の赦しの可視化という意味を有します(マタイ 9: 1-8)。


(下) 「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」 クラウバーによる18世紀のコッパー・エングレーヴィング 152 x 92 mm アウグスブルク 1740年頃 当店の商品です。
 Dixut paralytico, "Confide fili, remittuntur tibi peccata tua."


【聖人の墓所から発達した聖堂 --- サン・マルタン・ド・トゥールの例】

 ヨーロッパの古いカトリック聖堂では、主祭壇の地下にクリプト(地下礼拝堂)があります。すなわち聖堂は聖人の墓所の上に建てられており、主祭壇の下には聖人の遺物(遺体)があります。古い時代の聖堂は聖人の墓所が発達したものであり、聖堂はその本質において巨大な墓標であるということができます。

 聖人の墓所について古い時代の記録が良く残っている例として、トゥールの聖マルタンの例が挙げられます。聖マルタンはトゥールの南西およそ45キロメートル、現在のカンド=サン=マルタン(Candes-Saint-Martin サントル地域圏アンドル=エ=ロワール県)で亡くなり、第2代トゥール司教ブリクティウス (St. brice de Tours, ST. BRICTIUS, c. 370 - 444) はマルタンの墓の上に礼拝堂を建てました。この礼拝堂を訪れる巡礼者は増える一方で、ペルペトゥウス (Saint-Perpetue, ST. PERRETUUS, + 490) が第6代トゥール司教となった461年の時点で、礼拝堂は既に手狭になっていました。

 そこでペルペトゥウスはトゥールに49メートル×18メートル、120本の列柱を備えたバシリカ式の大規模な聖堂を建設し、聖人の遺体を石棺ごとカンド=サン=マルタンから移葬しました。この聖堂は通常のバシリカ式建築と異なり、マルタンの石棺に近いアプス(後陣)側にアトリウムがありました。聖マルタンのバシリカをはるばる訪ねてきた巡礼者たちは、聖人を通した恩寵を期待して、聖人の石棺に近いアトリウムに寝泊りしました。




(上) バジリク・サン・マルタン・ド・トゥール 古い絵葉書から


【国の守護としての聖遺物 --- カール・マルテルとサン・マルタン・ド・トゥール】

 個人が所有する聖遺物は、その個人に神の恩寵を取り次ぐと考えられます。他方、巡礼地の聖遺物は、巡礼者個人に神の恩寵を取り次ぐとともに、都市や国家、地域、教区等を外敵や悪疫から守ってくれると考えられています。都市や国家を外敵や悪疫から守るのは、巡礼地の聖遺物のみが有する役割であり、古い時代においてはこちらの役割はこそが最も重視されていました。再び聖マルタンの例を取り上げます。

 732年、イスラム教徒はイベリア半島を縦断してピレネーを越え、ポワチエを通過してトゥールを目指しました。聖マルタンへの崇敬をメロヴィング朝から受け継いだ(註1)カロリング朝の宮宰カール=マルテルは、軍を率いてパリからトゥールに急行しましたが、これは聖マルタンの聖遺物を安置するトゥールへのイスラム軍侵入を、何としてでも阻止するためでした。カール・マルテルはトゥール=ポワチエ間の戦いでイスラム軍と対峙しましたが、敵は意外にもあっさりと退却しました。フランク人にとって、この戦勝はトゥールに安置された聖マルタンの聖遺物の加護によるものに他なりませんでした。したがって、カロリング朝によってフランスがイスラム化を免れたのは、ひとえに聖マルタンの聖遺物のおかげであったということができます。(註2)

 一方、イスラム軍がトゥールを目指したのは、トゥールのバシリカの宝物を掠奪するためでもありましたが、バシリカに安置された聖マルタンの聖遺物を損壊することも重要な目的でした。聖マルタンはガリアの守護聖人ですから、聖マルタンの遺体を損壊すればガリアはイスラムに服従すると考えたのです。(註3)


(下) Charles de Steuben, "Charles Martel à la Bataille de Poitiers", 1837, huile sur toile, Musée du château de Versailles





 ここではサン・マルタンを例に取り上げましたが、聖人の墓所が聖堂になった例、聖人の遺物(遺体)が墓所のある都市や国の守護を司る例がサン・マルタンに限られないことは言うまでもありません。ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂は使徒ペトロの墓所の上に建っており、聖ペトロはローマの守護聖人とされています。聖ペトロのような「大物」の守護聖人を持たなかったヴェネツィアは、ローマに対抗すべく、アレクサンドリアに葬られていた福音記者マルコの聖遺物(遺体)を、828年にヴェネツィアへ移葬しました。


【聖遺物の移葬と蒐集】

 聖堂は、多くの場合、殉教者の墓所を発展させたものに他ならないことは、既に述べたとおりです。聖堂の祭壇は殉教者の墓の真上に設けられています(註4)。聖堂は巨大な墓標に他ならないゆえに、聖堂を建てるためには殉教者の遺体が必要になります。

 313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が帝国におけるキリスト教信仰を公認すると、皮肉なことに殉教者の遺体が不足し始めます。そのため聖人の遺体を墓所から掘り返して聖堂の建設用地に埋め直したり、遺体を切断して聖遺物の数を増やしたりすることが盛んに行われるようになりました。聖遺物の売買も盛んになり、法令によってたびたび禁じられても効果がありませんでした。


 中世になると殉教者ではない聖人の遺物も広く崇敬されるようになり、それぞれの教会では行列を組んで市井の人々に聖遺物を示すようになりました。聖遺物への崇敬がますます盛んになると、人気が高い聖人の遺物はこの上なく貴重な宝物となり、盗難を警戒して厳重に守られるようになりました。一方、そのような聖遺物を有さない教会や修道院は、聖遺物の盗掠を画策しました。盗みは罪であるはずですが、盗む側の人々は、現状では聖遺物にふさわしい崇敬が為されていないという理屈を付けて、サクラ・フルタ(羅 SACRA FURTA 聖なる盗み)を正当化したのです。

 聖遺物への需要が高まるにつれて、本来の墓所から離れた場所へと売却される聖遺物も増えました。ローマは聖遺物の最大の供給元でしたが、聖遺物の流出を喜ばず、偽物とすり替えることがよく行われていたようです。購入した側にとって、聖遺物が真正のものであるかどうかは大きな問題です。このために、熱心に守られている聖遺物が厳重な警備にかかわらず盗まれた場合にも、被害にあった側がそれほど強く抗議しないという奇妙な事態も起こりました。聖遺物が狙われたという事実が、その聖遺物の真正性の証しであると考えられたのです。

 サクラ・フルタで面白い例としては、マグダラのマリアの場合がよく知られています。ブルゴーニュのヴェズレー修道院は、マグダラのマリアがカマルグに漂着したという伝承に基づき、聖女の遺体をプロヴァンスの墓所から盗み出すことに成功したと宣伝して、大勢の巡礼者を集めることに成功しました。ところが聖女の元々の墓所とされるサント=ボームの聖堂サン=マクシマンが、ヴェズレーが盗んだのは替え玉で、本物の遺体はちゃんとこちらに残っていると言いだしたのです。これによって形勢は一挙に逆転して、サント=ボームは大勢の巡礼者で繁栄し、ヴェズレー修道院は廃院の一歩手前まで衰退しました。


 ヴェズレー、バジリク・サント・マドレーヌのクリプト(地下礼拝堂)


 聖堂内の聖遺物は、最初は祭壇の下、6世紀以降は祭壇上の聖遺物容器に安置されました。カロリング期以降には、特に多くの巡礼者を迎える聖堂において周歩廊が発達し、巡礼者は主祭壇を周回するとともに、いくつもの後陣に設けられた礼拝堂の祭壇がそれぞれに安置する聖遺物にも、近づくことができるようになりました。さまざまな国や地域、さまざまな時代の聖人たちと、いわば身近に触れ合うことを可能にする周歩廊は、カトリック教会を特徴づける「聖徒の交わり」の教義、及びさまざまな聖人への信心と、あたかも歩みを合わせるようにして発達しています。

 ロマネスク期にはクリプト(地下聖堂)が発達し、巡礼者はよりいっそう聖遺物に近づけるようになりました。巡礼者は聖遺物容器の開口部から入れた布片を聖遺物に触れさせたり、聖遺物に触れた聖水や聖油を布片に浸み込ませたりして、持ち帰ることができました。イタリア北部モンツァ(Monza ロンバルディア州モンツァ・エ・ブリアンツァ県)の司教座聖堂や、イタリア北部ボッビオ(Bobbio エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ県)のサン・コロンバーノ修道院 (Abbazia di San Colombano) には、巡礼者が聖水あるいは聖油を入れて持ち帰るための小型容器のコレクションが残されています。



註1 メロヴィング朝のクローヴィス (Clovis, c. 466 - 511) は 496年のトルビアク (Tolbiac) の戦いでアラマンニ人に勝利し、これを聖マルタンの功徳によるものと考えて、アリウス派からカトリックに改宗しました。聖マルタンに対するメロヴィング家諸王の崇敬は篤く、マルタンのバシリカに寄進が行われました。10巻に亙る大著「フランク人の歴史」("Decem Libri Historiarum", seu "Historia Francorum") で有名な第19代トゥール司教グレゴリウス (Grégoire de Tours, 539 - 573 - 594) が「聖マルタン伝」を書き、この聖人への崇敬をいっそう広めたのも、メロヴィング時代のことでした。

 751年、キルデリク3世の宮宰であった小ピピン (Pepin le Bref, 715 - 768) がフランク王に選出されると、聖マルタンへの崇敬はカロリング朝に受け継がれました。カロリング・ルネサンスの中心人物として知られるヨークのアルクィン (Flaccus Albinus Alcuinus, +804) は、主君でもあり教え子でもあったシャルルマーニュからマルムティエ修道院の院長に任命され、アーヘンからトゥールに移り住んでその生涯の終りを過ごしました。

註2 聖遺物が外敵を退けた他の事例としては、シャルトル司教座聖堂に安置される聖母の衣の例が挙げられます。911年、ノルマン人の軍勢がシャルトルを包囲した際、シャルトル市中では聖母の衣を持ちだして行列が行われました。このときノルマン人はシャルトルを攻めきれずに退却しました。

註3 神の加護の証明となる物を大切に護持するのは、ユダヤ・キリスト教に限らずさまざまな民族に広く見られることであり、敵対する者が重要な聖物の盗掠や破壊を試みる事件も、歴史を通じてたびたび起こっています。オデュッセウスはトロイアを攻略するために、トロイアの守護神パラス=アテナの木像を盗み出し、後にローマに運びました。70年、ローマ帝国はユダヤ戦争でエルサレムを攻略し、神殿に火をかけて宝物を掠奪しました。わが国においては、668年、草薙の剣が熱田神宮から盗み出されて新羅に持ち去られそうになったことがありましたが、犯行の動機は草薙の剣の霊力を新羅にもたらすことであったと記録されています。

註4 殉教者の墓所にキリスト教徒が集まり、やがてその場所に殉教者を記念する聖堂が建つのは、自然発生的な経過で起こったことですが、「ヨハネの黙示録」 6章 9 ~ 11節には、この歴史的事実と対応する興味深い記述があります。新共同訳により、該当箇所を引用します。

  小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。



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