マギ(マゴイ、東方から来た三人の博士、あるいは王たち)



(上) Filippino Lippi, "Adorazione dei Magi", 1496, olio su tavola, 258 x 243 cm, Galleria degli Uffizi, Firenze


 「マタイによる福音書」 2章には、幼子イエズスを礼拝するために東方からやって来た「占星術の学者たち」(新共同訳)が登場します。新共同訳が「占星術の学者たち」と訳しているギリシア語「マゴイ μάγοι」(単数形なら「マゴス μάγος」)は、古代ペルシアやバビロニアにおいて占星術その他の秘術に通じ、夢解き(註1)もした賢者、特にゾロアスター教の祭司を指します。

 「マゴイ」は「マギ」(ラテン語 MAGI)とも表記されます。ラテン語における母音の長短を正確に写すと「マギー」(複数主格)ですが、本稿ではわが国の慣用に従って「マギ」と表記します。なお単数主格は「マグス」(MAGUS) です。


【「マタイによる福音書」 該当箇所のテキスト】

 マギたちがイエズスを礼拝するために東方からやってくる話、及びそれに続く幼子たちの虐殺とエジプトへの逃避の物語は、「マタイによる福音書」のみが記録しています。「マタイによる福音書」 2章 1 - 12節をネストレ=アーラント26版のギリシア語原文、及び新共同訳により引用いたします。


     1 Τοῦ δὲ Ἰησοῦ γεννηθέντος ἐν Βηθλέεμ τῆς Ἰουδαίας ἐν ἡμέραις Ἡρῴδου τοῦ βασιλέως, ἰδοὺ μάγοι ἀπὸ ἀνατολῶν παρεγένοντο εἰς Ἱεροσόλυμα
  1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
    2 λέγοντες, Ποῦ ἐστιν ὁ τεχθεὶς βασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων; εἴδομεν γὰρ αὐτοῦ τὸν ἀστέρα ἐν τῇ ἀνατολῇ καὶ ἤλθομεν προσκυνῆσαι αὐτῷ.   2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
    3 ἀκούσας δὲ ὁ βασιλεὺς Ἡρῴδης ἐταράχθη καὶ πᾶσα Ἱεροσόλυμα μετ' αὐτοῦ,   3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
    4 καὶ συναγαγὼν πάντας τοὺς ἀρχιερεῖς καὶ γραμματεῖς τοῦ λαοῦ ἐπυνθάνετο παρ' αὐτῶν ποῦ ὁ Χριστὸς γεννᾶται.   4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
    5 οἱ δὲ εἶπαν αὐτῷ, Ἐν Βηθλέεμ τῆς Ἰουδαίας: οὕτως γὰρ γέγραπται διὰ τοῦ προφήτου:     5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。  
         
      6 Καὶ σύ, Βηθλέεμ γῆ Ἰούδα, οὐδαμῶς ἐλαχίστη εἶ ἐν τοῖς ἡγεμόσιν Ἰούδα: ἐκ σοῦ γὰρ ἐξελεύσεται ἡγούμενος, ὅστις ποιμανεῖ τὸν λαόν μου τὸν Ἰσραήλ.       6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
           
     7 Τότε Ἡρῴδης λάθρᾳ καλέσας τοὺς μάγους ἠκρίβωσεν παρ' αὐτῶν τὸν χρόνον τοῦ φαινομένου ἀστέρος,   7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
    8 καὶ πέμψας αὐτοὺς εἰς Βηθλέεμ εἶπεν, Πορευθέντες ἐξετάσατε ἀκριβῶς περὶ τοῦ παιδίου: ἐπὰν δὲ εὕρητε ἀπαγγείλατέ μοι, ὅπως κἀγὼ ἐλθὼν προσκυνήσω αὐτῷ.   8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
    9 οἱ δὲ ἀκούσαντες τοῦ βασιλέως ἐπορεύθησαν, καὶ ἰδοὺ ὁ ἀστὴρ ὃν εἶδον ἐν τῇ ἀνατολῇ προῆγεν αὐτοὺς ἕως ἐλθὼν ἐστάθη ἐπάνω οὗ ἦν τὸ παιδίον.
  9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
    10 ἰδόντες δὲ τὸν ἀστέρα ἐχάρησαν χαρὰν μεγάλην σφόδρα.   10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
    11 καὶ ἐλθόντες εἰς τὴν οἰκίαν εἶδον τὸ παιδίον μετὰ Μαρίας τῆς μητρὸς αὐτοῦ, καὶ πεσόντες προσεκύνησαν αὐτῷ, καὶ ἀνοίξαντες τοὺς θησαυροὺς αὐτῶν προσήνεγκαν αὐτῷ δῶρα, χρυσὸν καὶ λίβανον καὶ σμύρναν.   11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
    12 καὶ χρηματισθέντες κατ' ὄναρ μὴ ἀνακάμψαι πρὸς Ἡρῴδην, δι' ἄλλης ὁδοῦ ἀνεχώρησαν εἰς τὴν χώραν αὐτῶν.   12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 


【マギたちがイエズスを礼拝した時期】

 「マタイによる福音書」 2章 1節だけを読むと、マギたちがやってきたのはイエズスが生まれてすぐのようにも読めますが、マタイはこのすぐ後、2章 16節で、「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」と書いていますので、マギたちがやってきたのはイエズスが誕生して二年ほど後のことであることがわかります。しかしながら図像表現においては、「ルカによる福音書」 2章 8 - 20節に登場する羊飼いたちと一緒に、マギたちも新生児イエズスを礼拝しているように描かれることが多くあります。


【「王」として表現されたマギ】

 テルトゥリアヌスをはじめ数人の教父たちは、「マギ」を「王たち」と解釈しました。その影響により、図像や文学に登場するマギが「王」として表現される例もよく見受けられます。クレシュフェーヴのマギも王の衣装を身に着けています。教父たちがマギを「王」と考えた根拠は文書に残されていませんが、旧約聖書の聖句との関連付けによるものと思われます。「詩編」 72編 10 - 11節には次のように書かれています。

 タルシシュや島々の王が献げ物を/シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。
 すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。


 上記の章句でタルシシュ(イスパニア)や地中海の島々、シェバ(アラビア)やセバ(エチオピア)の王たちが貢ぎ物を納める様子は、東方のマギがイエズスに贈り物(黄金、乳香、没薬)を捧げる様子と重なります。東方のマギがイエズスを礼拝した故事は、イエズスがあらゆる国々の異邦人たち(非ユダヤ人たち)にとっても救い主であることを象徴的に表すと考えられます。


 下の画像はジェンティーレ・ダ・ファビアーノ (Gentile da Fabriano, c. 1370 - 1427) の最高傑作として知られる祭壇画(部分)で、現在はウフィツィ美術館に収蔵されています。この作品においてイエズスは新生児に近い姿で表されており、ベツレヘムの家畜小屋を描く降誕画の伝統に従って、牛とロバが背景に描かれています。牛とロバを描く図像表現の典拠は「イザヤ書」 1章 3節で、このテキストの牛とロバは異邦人たち(非ユダヤ人たち)の象徴と解釈されています。該当箇所を新共同訳により引用します。

  牛は飼い主を知り / ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/ しかしイスラエルは知らず / 私の民は見分けない。(新共同訳)


(下) Gentile da Fabriano, "L'Adorazione dei Magi" (details), 1423, tempera, oro e argento su tavola, Galleria degli Uffizi, Firenze




 「イザヤ書」 60章 1 - 6節も、イエズスを礼拝したマギの前表として解釈されました。新共同訳により、該当箇所を引用します。

    1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。
5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。

6 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。


 「イザヤ書」 60章 1 - 6節は、主の公現の祝日に朗読されます。「主の公現」( ἐπιφάνεια, EPIPHANIA DOMINI) は本来イエズスの受洗のことでしたが、西ヨーロッパではマギがイエズスを礼拝したこと、すなわちイエズスがすべての民の救い主として現れ給うたことを記念して、1月6日に祝われます。

 「マタイによる福音書」 2章 11節で、マギはイエズスの前に「ひれ伏して拝んで」(πεσόντες προσεκύνησαν) います。「ペソンテス」(πεσόντες) は「ピプトー」(πίπτω) のアオリスト分詞(能動相複数主格)ですが、「ピプトー」は「倒れる」という意味です。また「プロスキュネーサン」(ροσεκύνησαν) は「プロスキュネオー」(προσκυνέω) の直説法第一アオリスト(能動相複数三人称)ですが、「プロスキュネオー」は「神像の前に身を投げ出し、ひれ伏して祈る」、あるいは「君主の前にひれ伏して拝謁する」という意味です。マギを王とすれば、王たちがひれ伏して拝謁するイエズスは、「王の中の王」「王たちにとっての王」であることがわかります。

 中世ヨーロッパにおいては、上に引用した「詩編」及び「イザヤ書」に基づき、イエズスを礼拝に来たマギは学者ではなくむしろ「王」と考えられました。マギが「学者」と解されるようになったのは、宗教改革以降の事です。



【マギの人数と名前に関する伝承】

 ヨーロッパの伝統では、マギは三種類の贈り物(黄金、乳香、没薬)を持って来ていることから、三人いたとされています。しかしながらマギの数は「マタイによる福音書」に明記されておらず、初期キリスト教図像に描かれるマギの数は必ずしも定まりません。




(上) "l'Epifania con due Magi", le catacomba dei Santi Marcellino e Pietro, Roma, III secolo


 上の写真はローマのカタコンバ・デイ・サンティ・マルチェリーノ・エ・ピエトロには、二人のマギによる聖母子礼拝図(l'Epifania con due Magi)があります。フレスコ画の年代は三世紀です。2012年、この作品がある墓室を含め、同カタコンベの幾つもの墓室が、アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ財団の資金援助によって調査・修復されることが決まりました。




(上) "l'Epifania con quattro Magi", le catacomba di Santa Domitilla, Roma, IV secolo


 上の写真はローマのカタコンバ・ディ・サンタ・ドミティッラに見られる壁画で、聖母子の左右に二人ずつ、計四人のマギが描かれています。パレスティナでは聖母子の片側に二人のマギ、もう片側に一人のマギと一人の天使が描かれますが、上の壁画に描かれた人物は四人ともフリジア帽を被り、捧げものを手にしていますから、彼ら全員がマギであることは明らかです。壁画が描かれた年代は四世紀です。


 次にマギの名前についてですが、500年頃にアレクサンドリアで書かれたギリシア語文書をもとに、メロヴィング時代の8世紀半ば、無名のフランク人によってラテン語に訳された文書が、パリのビブリオテーク・ナシオナル(国立図書館)に残っています。この文書は言葉の間違いが目立つため、「エクスケルプタ・ラティナ・バルバリー」("Excerpta Latina Barbari" 「蛮人がラテン語に訳した抜粋」の意)と呼ばれています。西ヨーロッパにおいて、三人のマギの名前はバルタザル、メルキオル、ガスパル(あるいはカスパル)とされていますが、この名前は「エクスケルプタ・ラティナ・バルバリー」に(すなわち「エクスケルプタ・ラティナ・バルバリー」の原本であるギリシア語文書に)初出します。

 テオドール・モムゼン (Christian Matthias Theodor Mommsen, 1817 - 1903) が1892年にベルリンで刊行したテキストにより、「エクスケルプタ・ラティナ・バルバリー」の該当箇所を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。


     In his diebus sub Augusto, kalendas Ianuarias magi obtuelunt ei munera et adoraverunt eum: magi autem vocabantur Bithisarea Melchior Gathaspa.    アウグストゥスの治世であったこの頃、第一の月に、マギが主イエスに貢ぎ物をもたらし、ひれ伏して主イエスを礼拝した(註2)。マギの名前はビティサレア、メルキオル、ガタスパであった。
     audiens autem Herodes a magis, quoniam rex natus esset, conturbatus est et omnes Hierusolima cum eo, et videns, quia inlusus esset a magis, misit homicidas suos dicens: interficite omnes pueros a bimatu et infra.   ヘロデは王が生まれたことをマギから聞いて不安になった。エルサレムの人々もみな、ヘロデと同様であった。ヘロデはマギに騙されたと分かって、配下の殺し屋たちを送り、二歳以下の男の子を全員殺すように命じた。
     Herodes autem querebat Iohannem et misit ministros ante altarem ad Zachariam dicens illi, ubi abscondisti filium tuum? an ignoras quia potestatem te habeo occidendi et sanguis tuus in manibus meis est?    ヘロデはヨハネを探して配下の者たちを祭壇の前のザカリアの許に送って問わせた。「お前は息子をどこに隠したのだ。それともお前は、わたしがお前を殺せること、お前の血がわたしの両手に握られていることを知らないのか。」
     et dixit Zaxarias: ego testes sum dei viventis: tu effundis sanguinem meum, spiritum autem meum dominus recipiet. et sub aurora occisus est Zacharias.    ザカリアは言った。「わたしは生ける神を証しする者である。お前はわたしの血を流すが、神はわたしの霊を受け容れ給うであろう。」こうしてザカリアは曙光の下(もと)に殺された。
         
     Auctores antiquissimi 9: Chronica minora saec. IV. V. VI. VII. (I). Berlin 1892, S. 278 - 279  


 上に引用した部分のうち、ヘロデの部下とザカリアの対話は「ヤコブ原福音書」 16章 9 - 16節に依拠しています。最後の句「スブ・アウローラー」(SUB AURORA ラテン語で「曙光の下(もと)に」)が唐突な印象を与えますが、フランク人の訳者は「アウローラ」(AURORA) を「東」の意味に使っているのかもしれません。実際、この箇所に相当する「ヤコブ原福音書」 16章 16節では、ザカリアは祭壇付近で殺されたことになっています(註3)。あるいは「スブ・アルターレ」(SUB ALTARE) または「スブ・アルターリブス」(SUB ALTARIBUS)、すなわち「祭壇の下で」と書くべきところを、間違えて「スブ・アウローラー」と書いた可能性もあります。


【マギの出身地と年齢に関する伝承、及び三つの捧げ物(黄金、乳香、没薬)の意味】

 西ヨーロッパの伝統において、多くの場合、バルタザルはアラビアの王、メルキオルはペルシアの王、ガスパルはインドの王とされています。

 ガスパルのモデルはインド・パルティア王国を建設したゴンドファレス1世 (Gondophares I) であるとする説があります。ゴンドファレス1世は使徒トマスによってキリスト教に改宗したと伝えられています。トマスとゴンドファレスについては、三世紀までに成立した外典「使徒ユダ・トマス行伝」の第二行伝に詳述されています。

 遼に服属した遊牧民ケレイト (Khereid) は、1007年、ネストリウス派キリスト教に改宗しましたが、イエズスを礼拝した三人のマギはケレイトの出身であるとする伝承があります。なお西ヨーロッパが対ムスリムの同盟者として求めた「プレスター・ジョン」は、ケレイト王トグリル (Toghrul, + 1203) のことであると考えられています。(註4)




(上) ボニファチオ・ベンボ 「マギ(東方三博士)の礼拝」 逸名版画家による1860年代後半のスティール・エングレーヴィング 121 x 188 mm イギリス 1860年代後半 当店の商品です。


 西ヨーロッパの伝統的図像表現において、多くの場合、ガスパルは白いひげを蓄えた60歳くらいの老人、メルキオルは40歳くらいの男性、バルタザルは黒人の若者として表されます。

 上に示した画像は 1860年代のイギリスで制作されたスティール・エングレーヴィングで、ボニファチオ・ベンボ (Bonifacio Bembo, 1420 - c. 1482) の原画に基づきます。この作品におけるマギの描写は西ヨーロッパの典型で、商都タルソス(トルコ)から来たガスパルは最前列に跪き、イエズスに黄金を捧げています。ガスパルの後ろに立っているのはアラビアから来たメルキオルで、アラビア産の乳香(フランキンセンス)を捧げています。いちばん後ろに立っているのはサバ(イエメン)あるいはエチオピアから来たバルタザルで、没薬(ミルラ)を捧げています。

 バルタザルの肌の色は時代が下るにつれて暗くなる傾向があります。下の写真はサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂 (Basilica di Sant'Apollinare Nuovo) に描かれたマギです。このモザイク画は 6世紀の作品で、バルタザルの肌は明るい色です。またこの作品ではバルタザルではなくメルキオルが髭の無い若者の姿で表されています。マギがかぶるフリジア帽は、彼らが東方から来た者たちであることを示しています。





 三つの捧げ物の意味については、アレクサンドリアのオリゲネス (Ὠριγένης, 184/185 - 253/254) が 248年の著作「ケルスス駁論」("Κατὰ Κέλσου") で論じて以来、黄金が王位、乳香が神性、没薬が受難を表すと考えるのが一般的です。


【ケルン司教座聖堂の「ドライケーニゲンシュライン」】

 ケルン司教座聖堂には三人のマギの聖遺物を納めた聖遺物箱「ドライケーニゲンシュライン」(der Dreikönigenschrein) があります。伝承によると、コンスタンティヌス大帝の母后ヘレナ (Flavia Iulia Helena Augusta, c. 250 - c. 330) は聖地パレスティナ巡礼に赴いて「真の十字架」(キリストが架かった十字架)を発見しましたが、同じ旅で三人のマギの聖遺物(遺体)も発見し、これをコンスタンティノポリスのハギア・ソフィアに持ち帰りました。聖遺物は 344年にミラノに移葬され、1164年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ 1世 (Friedrich I, 1122 - 1190) の命によってケルンに移され、現在に至っています。


(下) der Dreikönigenschrein im Kölner Dom




 ケルンの「ドライケーニゲンシュライン」は下層に二つ、上層に一つの木棺を、バシリカ式聖堂を模(かたど)るように重ねた西ヨーロッパ最大の聖遺物箱であり、全長 220センチメートル、幅 110センチメートル、高さ 153センチメートルを誇るモザン派の傑作です。木棺は金と銀の板で覆われており、大きなものだけでも74体を数える浮き彫り像、エマイユ、カメオとインタリオを含む 1000個以上の宝石類で飾られています。側面下層に並ぶ像は預言者たち、上層に並ぶ像は使徒と福音記者たちです。一方の端の下層には幼子イエズスを抱いて戴冠した聖母、キリストの洗礼、上層には最後の審判と戴冠したキリスト、もう一方の端の下層にはキリストの鞭打ちと磔刑、上層にはキリストの復活、及び「ドライケーニゲンシュライン」制作当時のケルン大司教ライナルト・フォン・ダッセル (Rainald von Dassel, 1114/1120 - 1159 - 1167) の胸像が浮き彫りにされています。


 なお 1164年にケルンに移葬されるまで、ミラノで三人のマギの聖遺物を納めていた石棺は第二級の聖遺物と見做されて、その破片が北イタリア及び南フランス各地に分与されました。それゆえこの地域にあるリモージュ製聖遺物箱には「三人の王」のモティーフがよく見られます。

 下の写真はもともとラヴァル=シュル=リュゼール(Laval-sur-Luzège リムザン地域圏コレーズ県)の教会にあった「マギの聖遺物箱」で、聖遺物箱の表(おもて)面は、ヘロデ・アンティパスから頼まれて「ユダヤ人の王」を探しに行く三人のマギを本体側面に、聖母の膝に乗る幼子イエズスを礼拝するマギを屋根部分に、それぞれ表しています。屋根部分のマギの像は、二人目が脱落しています。人像は全身が別鋳され、頭部を除いてエマイユが施されています。「マギの聖遺物箱」は現在ラプロー(Lapleau リムザン地域圏コレーズ県)の教区教会サン=テチエンヌ (Eglise paroissiale Saint-Etienne) に移されています。1964年と1985年に修復を受けています。


(下) 「マギの聖遺物箱」  幅 22.5 cm  奥行 7.8 cm  高さ 21cm




【マギを巡る習俗】

 1月 6日の「公現祭」(エピファニー)はマギの祝日です。マギに関係する重要な年中行事がこの頃に行われる国、地域があります。

・フランス

 フランスでは 1月6日に「ガレット・デ・ロワ」(galette des Rois) というお菓子を焼いて食べます。複数形の「レ・ロワ」(les Rois フランス語で「王たち」の意)は、三人のマギを指します。この「マギのガレット」(ガレット・デ・ロワ)には「フェーヴ」(fève フランス語の原意は「ソラマメ」)という 小さな人形または器物のマスコットが一個入っています。家族の中でいちばん年少の人がテーブルの下にもぐり、切り分けたガレットの各部分を誰が取るか、指示します。また切り分けたうちの一切れは「貧者の分」または「神の分」として取り除けられ、家を訪れた人に渡されます。

 切り分けたガレット・デ・ロワのフェーヴが入っている部分が当たった人は「王」とされ、ガレット・デ・ロワに付いている王冠をかぶって「王妃」を指名し、王妃も王冠をかぶります。

 ガレット・デ・ロワ


 公現祭にガレット・デ・ロワを食べる慣わしは 15世紀頃に普及しましたが、お菓子の中にはソラマメの実が入れられていました。陶磁器製のフェーヴは 1874年にドイツで初めて作られ、時代を反映したモチーフの人形が作られてきました。飼い葉桶に眠る幼子イエスやマリア、ヨセフ、天使など宗教的なテーマのもの、動物や乗り物を模ったもの、テレビや映画の人気キャラクターを模ったものなど、子供の関心を惹きそうな数々のフェーヴが作られています。フェーヴ集めは「ファボフィリ」(fabophilie) または「ファヴォフィリ」(favophilie) と呼ばれ、フランスでは大人の趣味としても定着しています。


・スペイン文化圏

 スペイン文化圏では、子供たちが「ロス・レジェス・マゴス」(los Reyes Magos スペイン語で「三人の王たち」の意)に手紙を書き、公現祭の前夜、すなわち1月5日の夜に、ラクダに乗って東からやって来るマギたちからプレゼントをもらいます。子供がマギとラクダに飲み物、食べ物を用意して眠る地域もあって、他の国々の子供たちとサンタクロースの関係にそっくりです。

 19世紀以来、スペインの各都市では 1月 5日の宵に「カバルガタ・デ・レジェス・マゴス」(la Cabalgata de Reyes Magos スペイン語で「マギ(王)たちの騎馬行列」の意)が行われ、マギと従者たちが沿道の子どもたちにお菓子を投げ与えます。「カバルガタ・デ・レジェス・マゴス」はスペイン南東部のアルコイ(Alcoy バレンシア州アリカンテ県)で行われたのが最初とされ、1866年の記録が残っています。


・ドイツ文化圏

 ドイツ文化圏では、年末から年始にかけての時期に、マギの扮装をした「シュテルンジンガー」(Sternsinger ドイツ語で「星の歌い手」の意)と呼ばれる子供たちが、ベツレヘムの星を持ち、家々を巡って寄付を集めます。シュテルンジンガーはそれぞれの家の前でクリスマスの聖歌を歌い、三人のマギの頭文字 (C + M + B) を戸口にチョークで書き付けます。この三文字は「クリストゥス・マンシオーネム・ベネディーカット」(Christus mansionem benedicat. ラテン語で「キリストがこの家を祝福し給いますように」)という意味でもあります。



註1 夢解きとは、ヨセフが「創世記」 40 - 41章において行ったように、夢を現実の出来事の前兆等として解釈することです。

註2 ラテン語「アドーロー」(ADORO) の原意は「語りかける」ということですが、これに宗教的な色彩が加わり、「神に懇願する」「祈り求める」という意味にも使われるようになりました。「祈る」にあたるラテン語にはもうひとつ「ウェネロル」(VENEROR) がありますが、アドーロー」はこれよりもずっと強い意味の言葉で、ちょうどギリシア語の「プロスキュネオー」(προσκυνέω 神の前に身を投げ出す、ひれ伏して祈る)に相当します。

註3 エルサレム神殿の祭壇には「燔祭の祭壇」と「香を焚く祭壇」の二つがありました。「燔祭の祭壇」は前室のすぐ外側、すなわち神殿の西側にありましたが、「香を焚く祭壇」は至聖所すなわち神殿内のいちばん東側に置かれていました。至聖所に入れるのは大祭司のみですが、ザカリアがここで香を焚いているときにヘロデの部下が禁忌に構わず押し入ったとすれば、ザカリアは神殿内の「東で」殺されたことになります。

註4 トグリルの姪ソルコクタニ・ベキ (c. 1192 - 1252) はチンギス・ハンの四男トルイ (Tolui, 1192 - 1232) に嫁ぎ、モンケ、フビライ、フレグ、アリクブケを生んでいます。


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 ボニファチオ・ベンボ 「マギ(東方三博士)の礼拝」 逸名版画家による1860年代後半のスティール・エングレーヴィング Bonifacio Bembo, "l'Adorazione dei Magi" (The Adoration of the Magi) 1860s




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