フランシスコ会第三会のブロンズ製メダイ 《無原罪の御宿りと受胎告知》 ルネサンス末期からバロック初期の作例 29.2 x 20.7 mm


突出部分を含むサイズ 縦 29.2 x 横 20.7 mm

十六世紀後半頃



 十六世紀後半頃、ルネサンス末期からバロック初期に当たる時代に制作された聖母のメダイ。特徴的な縄が無原罪の御宿り像を囲む意匠から、フランシスコ会第三会会員が身に着けていたメダイであることがうかがえます。





 本品の一方の面には、炎のような光を発するマンドルラ(伊 mandorla 紡錘形の身光)を背景に、聖母の姿が浮き彫りにされています。聖母は下弦の月に乗る無原罪の御宿りとして表され、胸の前に手を合わせつつ、頭部に冠を受けようとしています。冠の両側にはプッティ(伊 putti 童形のケルビム)がいて、冠を捧げ持ちつつ徐々に降下しているはずですが、ケルビムは摩滅していて姿を確認できません。





 聖母像は荒縄に囲まれており、荒縄には五つの結び目のあります。五つの結び目があるこの荒縄は、在俗のフランシスコ会「第三会」でベルトとして使われるものです。五つの結び目は、聖フランチェスコが聖痕として受けた「キリストの五つの傷」を表すとともに、「愛」「服従」「貞潔」「悔悛」「清貧」を象徴しています。


 もう一方の面は浮き彫りによる受胎告知画となっています。マリアは書見台を前にして跪いています。クレルヴォーの聖ベルナール (St. Bernard de Clairvaux, 1090 - 1153) によると、受胎を告知された際のマリアは、「イザヤ書」七章十四節を読んでいました。「イザヤ書」七章十四節には次のように書かれています。

  それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(新共同訳)

 聖ベルナールよりも百年ほど後、十三世紀の人々は、受胎告知の際にマリアが「詩編」を読んでいたと考えました。「ヤコブ原福音書」(羅 PROTOEVANGELIUM IACOBI)に基づいて数々の受胎告知画にも表現されているように、裕福な両親の元に生まれたマリアは、当時のヨーロッパ貴族に準じる地位にある女性として、その有様を想像されていました。しかるに十三世紀の貴族の子女は「詩編」をテキストに読み書きを学び、高い知的水準にありました。それゆえ受胎告知画に描き込まれた書見台の書物は、「詩編」であると考えられたのです。





 キリスト教のひとつの特徴として、イエスやマリアを書物に譬えることが挙げられます。

 中世後期の説教師たちは、ロゴスそのものであるイエスを、リベル・ウィータエ(羅 LIBER VITÆ 命の書、生命の書物)に譬えました。ドミニコ会のドメニコ・カルヴァルカ(Domenico Cavalca, c. 1270 - 1342)は、十字架に架かり給う救い主の姿を、文盲の信徒たちが読むべき書物に譬えました。アウグスティノ隠修士会の神学者ヨハネス・ヴォン・パルツ(Johannes von Paltz, c. 1445 - 1511)は、1490年の著作「コエリフォディーナ」("CŒLIFODINA" 「天の鉱山」、すなわち「宝庫なる天」の意)において、イエスを五つの留め金がある書物に、書見台を十字架に、それぞれ譬えています。命の書を閉じる五つの留め金は、イエスが受難の際に負い給うた五つの傷を表します。ヨハネスは信徒が五つの留め金を外して命の書を開き、救い主の受難について観想することを勧めました。

 蜜の流れる博士ボナヴェントゥーラ(Bonaventura OFM, 1217 - 1274)はキリストを「智慧の書」に譬え、次のように書いています。日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った訳語は、ブラケット [ ] で囲んで示しました。

     Liber sapientiae est Christus qui scriptus est intus apud Patrem, scriptus est foris quando camem assumpsit. Iste liber non est apertus nisi in cruce.    キリストは智慧の書である。[その書物は]父なる神の御許にて内在的に(訳注 すなわち、未だ可視化しない仕方で)書かれ、受肉したときに可視化した(直訳 外在的に書かれた)のだ。この書物は十字架においてこそ開かれたのである。
(Feria sexta in Parasceve Sermo II) 聖金曜日の第二説教

 救い主を書物に譬えるこれらのイメージにおいて、命の書を置く書見台は、イエスが架かり給うた十字架に他なりません。十六世紀の作品である本品メダイにおいて、書見台の前に跪く聖母の姿には、受胎告知のとき既にイエスの運命を知り、十字架の下に立つマーテル・ドローローサのイメージが重ねられています。書見台の前に跪く若きマリアに、十字架の下で智慧の書を読むマーテル・ドローローサが重ね合わされているのです。





 一方、処女のまま受胎したマリアは、閉じられた状態でロゴス(生命の言葉)を書き込まれたゆえに、リベル・シーグナートゥス(羅 LIBER SIGNATUS 封印された書物)に譬えられました。

 「ヨハネの黙示録」五章一節には七つの封印で閉じられた巻物が出てきます。この巻物に書かれているのは神の意志すなわち救済の経綸であって、六章から八章にかけて子羊が封印を解いてゆくにつれ、その内容が明らかになります。しかるにシリアのエフライム(Ἐφραίμ ὁ Σῦρος, Ephræm Syrus, + 373)は「封印で閉じられた書物」をマリアの象徴として詩に歌い、その比喩は中世へと引き継がれました。

 本品メダイにおいて書見台の上にある書物は、処女マリア自身でもあります。マリアはガブリエルに対して「お言葉通り、この身に成りますように」と答え、救いを受け容れることによって、救済の経綸に大きな役割を果たしました。それと同時に、マリアを「閉じられた書物」とする表象は聖霊による処女懐胎を意味し、本品メダイのテーマ「受胎告知」にふさわしい象徴的図柄となっています。




(上・参考画像) 両腕を交差して胸に当てるマリアとガブリエル Fra Angelico, "La Anunciación" (details), c. 1435, témpera sobre tabla, 194 x 194 cm, Museo del Prado, Madrid


 マリアは両腕を交差して胸に当てています。マリアのこの仕草は1400年代までの受胎告知画に多く、バロック期になるとあまり見られなくなります。このメダイはルネサンス末期、あるいはバロック初期のものですが、一世代前の様式を残しています。


 マリアと天使の足下を見ると、床がタイル張りになっていることがわかります。書見台と床のタイルは、マリアが室内にいることを明示しています。メダイの場面が室内であるのは、ガブリエルが「入ってきて」受胎を告知した、と福音書に書かれているからです。すなわち「ルカによる福音書」一章二十八節には次のように記録されています。日本語訳は筆者(広川)によります。
     καὶ εἰσελθὼν πρὸς αὐτὴν εἶπεν, Χαῖρε, κεχαριτωμένη, ὁ κύριος μετὰ σοῦ. (Nestle-Alandt 26 Aufl.age     使者ガブリエルはこの女のところに入って来て言った。「喜びなさい。恵まれた女よ。主が御身と共におられる。」


 ガブリエルは白百合を捧げ持ち、マリアに語り掛けています。ガブリエルが最初に発する「カイレ」(Χαῖρε 「喜びなさい」)はメシア(救い主)の出現を予告する言葉で、旧約の預言者たちも同じ言葉を使っています。

 ガブリエルが差し出す白百合は、強い香気によって徳の高さ、純潔を表すとともに、神に選ばれた身分、および神の摂理への信頼を象徴しています。ガブリエルが白百合をマリアに手渡す仕草は、神の花嫁に選ばれた少女への処女懐胎の告知を表現するとともに、「お言葉通り、この身になりますように」と答えたマリアの信仰をも表しています。





 上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きなサイズに感じられます。


 本品が制作された十六世紀後半は、わが国で言えばキリシタン布教とそれに続く迫害の時代に当たります。1549年、フランシスコ・ザビエルとともに鹿児島に上陸したキリスト教は、京や大坂にも伝わって信者を増やしてゆきました。しかしながら 1587年7月24日、豊臣秀吉は「天正禁令」を発布してキリスト教宣教師の帰国を命じ、1596年10月19日、サン・フェリペ号が桂浜に座礁すると、秀吉は天正禁令が守られていないことを口実に積み荷を没収し、キリシタン迫害を開始します。

 翌1597年2月5日、長崎の西坂丘において、京、大坂で捕縛されたキリシタンを中心とする日本二十六聖人が殉教しました。1619年10月17日に京都の六条河原で52人が殉教、1623年12月4日には江戸の札の辻で五十名が殉教し、1622年の「元和の大殉教」では、1602年に長崎に上陸したカルロ・スピノラ神父をはじめとする五十五名のキリシタンが、やはり長崎の西坂丘で処刑されています。


 東京国立博物館にはカトリックのメダイがいくつか収蔵されています。多くは慶応から明治初年、すなわち十九世紀後半のものですが、なかには本品と同時代の非常に古いものもあります。それらのメダイはキリシタン時代の渡来品で、長崎奉行所宗門蔵旧蔵、あるいは京都府福知山城堡内発掘となっています。

 下に示す画像のうち、上の四点は長崎奉行所宗門蔵旧蔵品、下の四点は1916年の福知山城内発掘品で、いずれもキリシタンが伝来した安土桃山時代、すなわち当店のメダイと同時代に、宣教師によってヨーロッパからもたらされたものです。







 長崎奉行所宗門蔵のメダイは、浦上一番崩れ(1790年)、二番崩れ(1842年)、三番崩れ(1856年)の際に没収されたもので、重要文化財となっています。

 1916年にはメダイ七点、ロザリオ七本が福知山城内で発掘されましたが、いつ誰がどのような状況で埋蔵したのかは分かっていません。キリシタン武将小野木重勝 (1563 - 1600 霊名シメオン) は 1595年に福知山城主となりましたが、この翌年にサン・フェリペ号事件が起こり、キリシタンへの迫害が始まります。したがって城内から出土したメダイとロザリオはこの頃に埋められたものでしょう。

 ちなみに関ヶ原の戦いが起こった1600年、豊臣家の家臣であった小野木重勝は西軍に加わって戦い、東軍側(徳川家康側)に与(くみ)した細川氏と対立します。細川忠興の妻ガラシャ (1563 - 1600) は大坂に残りましたが、屋敷を西軍側に囲まれると、家老小笠原秀清に槍あるいは長刀(なぎなた)で胸を突かせて死にました。小笠原秀清は細川屋敷を爆破して自害し、イエズス会のオルガンティノ神父(P. Gnecchi-Soldo Organtino, 1530 – 1609)が屋敷の焼け跡でガラシャの骨を拾いました。





 本品はフランスで見つかったもので、日本キリシタンの遺品ではありませんが、摩滅して美しい古色に覆われたアンティーク品であるとともに、ルネサンス時代末期からバロック時代初期を映す貴重な資料でもあります。この時代の宣教師はアジアやアメリカで宣教を行っただけでなく、スペインやイタリア等の自国においてもキリスト教的愛を広めるために、神の僕(しもべ)として働きました。本品は身に着ける工芸品である点で服飾付属品(アクセサリー)に類似します。しかしながら素朴な形態のうちに高邁な信仰を可視化した信心具の浮き彫りは、人間精神の最良の部分が発露したものであるゆえに、単なる装飾品の在り方をはるかに超越しています。





48,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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