イエスの聖テレサ(イエズスの聖テレジア SantaTeresa de Jesús)を名乗るカルメル会の修道女、アビラの聖テレサ(Santa Teresa de Ávila, 1515 - 1582)のカニヴェ。アビラの聖テレサは十字架の聖ヨハネとともに跣足カルメル会の創立者として知られ、四人しかいない女性教会博士のひとりです。アビラの聖テレサの祝日は10月15日です。
カニヴェ中央のアーチ形画面には聖テレサの単身像がスティール(鋼)のインタリオ(伊 intaglio 凹版)で刷られています。聖画の下に見える「聖テレサ」の文字は活版ではなく、ビュラン(仏
burin 彫刻刀)で彫られています。「聖テレサ」は上が直立字体のフランス語でサント・テレーズ(仏 Ste. Thérèse)、下が斜体の英語でセイント・テリーザ(英
St. Theresa)となっています。
聖画は野外の風景で、テレサは地面に置かれた十字架を前に跪いています。背景には礼拝堂のような小さな建物と立ち木が見えます。聖テレサはスペイン中部の町アビラ(Ávila カスティジャ・イ・レオン州アビラ県)にあるカルメル会御托身修道院に所属していましたが、1562年に改革カルメル会(跣足カルメル会)の最初の修道院である聖ヨセフ修道院を設立し、翌年になって本格的にここに移りました。聖ヨセフ修道院は最初はとても小さな建物から始まったので、本品カニヴェの背景の建物は初期の聖ヨセフ修道院をイメージしたものかもしれません。しかしながらその一方で、この小さな建物は墓地に立つ廟堂にも見えます。
(上・参考写真) 「マドレーヌの幸いなる涙よ」 花嫁のヴェールのカニヴェ (バルドヴェック 図版番号不詳) 111 x 67 mm フランス 1880年代頃 当店の販売済み商品です。
カニヴェ等の小聖画において、野外に置かれた小さな十字架の前で祈る聖女としては、マリ=マドレーヌの全身像をよく見かけます。歴史上実在したマリ=マドレーヌが、実際にはどのような社会的地位の人物であったのかは不明です。しかしながら定形化した信心具の図像はカトリック教会の伝統的見解に従い、元々罪深い売春婦であったが、その後は悔悛のうちに祈りの日々を送る聖女として、マリ=マドレーヌを描きます。聖画像におけるマリ=マドレーヌは髑髏を初めとするメメントー・モリーを伴い、岩場に跪いています。
継ぎ接ぎだらけの修道衣の下に鎖の苦行衣を身に着けた修道女テレサは、他人の目から見れば聖女以外の何者でもありません。しかしながらテレサは自分が如何に罪深い悪人であるかということを、自叙伝においてしきりに強調しています。テレサがこう書くのは決して韜晦ではなく、我々には解し難く思われるとしても、聖女自身は自分の罪深さに深刻な悩みを感じていたのです。テレサは元売春婦ではありませんが、伝承されるマリ=マドレーヌと同様の気持であったことが伺えます。
このように考えるならば、野外で十字架を前に石に跪き、天を見上げる苦行の修道女テレサは、悔悛の祈りを捧げているのだと理解できます。メメントー・モリーのイメージが豊富なこの場所はおそらく墓地であって、盛り土から突き出たように見える十字架は墓標、向かって右の建築物は廟堂、向かって左の立ち木は墓地の常緑樹であろうと筆者(広川)は考えます。
墓標は地上の死を象るメメントー・モリーであって、特定の人物の墓標である必要はありません。地上に生きながら見神(羅 BEATA INTUITIO 至福直観)に達したと言われる聖女の魂は、あたかも既に墓地に埋められたかのように地上を棄て、常緑樹が象る天上の永遠にのみ目を向けているのです。一方聖女は自叙伝において、病革まって遂に終油(病者の塗油)に至り、墓穴まで用意された経験を語っています。祈る聖女が前にするのは、聖女自身の墓かもしれません。
上に示す写真は本品カニヴェの表裏です。裏面には聖女に執り成しを願う祈りが活版で刷られています。祈りは上がフランス語、下が英語で、いずれも同じ内容です。和訳を添えて、祈りの内容を示します。筆者の和訳は原文の内容を正確に日本語に移していますが、逐語訳ではありません。
フランス語 | 英語 | 和訳 | ||||
O sainte Thérèse, ô ma patronne, obtenez-moi la grâce de ressentir cet amour sans bornes que vous avez voué à J.-Ch. | O. sant Theresa ! my patroness, obtain for me the grace to feel that boundless love, which thou didst vow to Jesus Christ. | わが守護聖人なる聖テレサよ。私の祈りを神に取り次いでください。あなたがイエス・キリストに捧げた限り無き愛を、私もまた恩寵によって感じることができますように。 |
上の写真は本品の聖女像を拡大しています。テレサの顔はポワンティエ(仏 pointillé スティプル・エングレーヴィング)で、衣はオー・フォルト(仏 eau forte エッチング)で、背景はタイユ・ドゥース(仏 taille douce ライン・エングレーヴィング)で、それぞれ制作されています。聖女の目は白目と黒目が判別できるのはもちろんのこと、虹彩と瞳孔も区別され、角膜には光が反射しています。睫毛も一本ずつ表現されています。
カニヴェに刷られる版画の原版は、すべてこのままのサイズで手作業によって制作されています。ポワンティエの点も手作業で打たれており、その直径と深さを精密に制御することで、滑らかな肌の明暗を断絶なく表現しています。目、鼻、唇の細部は、もはや顕微鏡でも判別が困難なほど細かい点で描かれています。鼻と口元も点の窪みに入るインクの量で表現され、一か所の破綻もありません。上の写真に写っている定規の目盛りは一ミリメートルですから、顔の細部は百分の一ミリメートルのオーダーで正確に彫られていることがわかります。
聖画の周囲は切り紙風の透かし細工による植物文となっています。植物は幾分の様式化を蒙りつつも種の判別が可能で、百合と薔薇と菊を見分けることができます。百合と薔薇はキリスト教の象徴体系における重要な花で、前者は純潔、神による選び、摂理への信頼を、後者は愛、救い主の受難、聖母への祈りを、それぞれ象徴しています。
十九世紀の終わりから二十世紀初頭のヨーロッパにおいて、アール・ヌーヴォーはジュエリー、家具、建築など、あらゆる分野の装飾美術を席捲しました。アール・ヌーヴォーの波は本品の切り紙風細工にも及んでおり、菊は日本美術の影響です。フランスにおいて、菊は墓地を連想させる花でもあります。
本品はバーガンディのベルベットを使用して簡易な額装を施しています。カニヴェのサイズは、縦 106ミリメートル、横 70ミリメートルです。額は自立式で、サイズは縦
175ミリメートル、横 127ミリメートルです。カニヴェは本物のアンティーク品ですが、額は現代の品物でアンティーク品ではありません。上の写真は男性店主が本品を手に持って撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きく感じられます。
本品はおそらく百五十年以上前のカニヴェですが、良質の無酸紙に刷られているうえに大切に保管され、古い年代のものとは俄かに信じがたいほど綺麗な保存状態です。下記の価格は額装料金を含みます。ベルベットの色は青、ベージュ、黒に無料で変更できます。額の変更についてはご相談ください。