月のシンボリズム その一 地上の生命の源である月
la symbolique de la lune #1 lune comme la source de la vie terrestre




(上) 三日月 新月から数えて月齢三日の上弦の月。暗部が漆黒でないのは地球照による。太陽光に対する地球の反射能は季節によって大きく異なり、およそ 30 ないし 50パーセントである。2020年12月17日撮影。


 月はラテン語でルーナ(羅 LUNA)といいます。ルーナの語根 "LU-" はルーケオー(羅 LUCEO)やルークス(羅 LUX 光)、ルーメン(光 LUMEN)の語幹 "LUC-" と同根です。すなわちルーナはもともとルークナ(LUCNA *)の縮約であって、光る物の意と考えられます。サンスクリット語のルク(Sanscr. ruk 明るい)、古典ギリシア語のレウコス(希 λευκός 白い)、アンフィリュケー(希 ἀμφιλύκη 黎明)、リュクノス(希 λύχνος ランプ)、ドイツ語のリヒト(独 das Licht 光)も同系語です。

 盈虧(えいき)を繰り返す月は、どの星にも増して生のリズムに関わる天体であり、自然界に見られる水の循環や、季節に伴う動植物の生活環を支配すると考えられました。また人間界の栄枯盛衰をもたらすとも考えられました。刻々と変わる月の姿は、流れる時間そのものの可視化でもありました。

 月が広範囲の事象に影響を及ぼすとの考え方は、世界の諸民族に広く見出すことができます。月は水、雨、女性の多産性、動植物の多産性に関わるとともに、死後の世界や通過儀礼をも支配すると考えられました。ルーマニア出身の宗教学者でシカゴ大学神学部教授を務めたミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade 1907 - 1986)は、1949年初版の著書「宗教史論」("Traité d'histoire des religions")において、次のように述べています。日本語訳は筆者(広川)によります。


      La lune est l'instrument de mesure universel... Le même symbolisme relie entre eux la Lune, les Eaux, la Pluie, la fécondité des femmes, celle des animaux, la végétation, le déstin de l'homme après la mort et les cérémonies d'initiation. Les synthèses mentales rendues possibles par la révélation du rhythme lunaire mettent en correspondance et unifient des réalités hétérogènes ;     月が多様な事象に関係するとの考えは、世界各地に見られる。月、水、雨、女性の多産性、動植物の多産性、人間が死後に辿る運命、通過儀礼に関し、世界の諸民族において、同じ象徴性に基づく関連付けが行われる。月の周期を知ることで、精神の総合作用が生まれる。精神はその総合作用によって、多様な類の事物や出来事を関連付け、一元化する。
     leurs symétries de structures ou leurs analogies de fonctionnement n'auraient pu être découvertes si l'homme primitif n'avait intuitivement perçu la loi de variation périodique de l'astre.    世界の諸民族において、月の象徴性は相似的構造を有し、その作用も似通っている。月は周期的に姿を変え、太古の人間はその法則を本能的に認識していた。太古の人間にこの認識が無かったとしたら、このような相似的構造や似通った作用が見いだされることも無かったはずである。
         
    Mircea Eliade, "Traité d'histoire des religions", chapitre IV. "LA LUNE ET LA ISTIQUE LUNAIRE", pp. 139 - 140, Bibliothèque historique Payot, Paris, 1949   ミルチャ・エリアーデ「宗教史論」 第四章「月と、月に関する神秘思想」 パリ、ペイヨ書店、1949年


 以下ではエリアーデが指摘する月の象徴性を「宗教史論」に即して論じます。我が国の事例等、エリアーデの著書には言及が無い事項は、註にて適宜取り上げました。


【エリアーデ「宗教史論」より】

・月と時

 太陽は常に不変ですが、月には盈虧(えいき 朔望、満ち欠け)があり、また新月の前後で生まれ変わるように見えます。それゆえ月は天体でありながら、地上の万物を支配する生成消滅の法則に従います。月は人間と同様に老いて死に、三夜のあいだ天から姿を消し、そのあとに復活します。月の女神シンに向けたバビロニアの讃歌は、月を「ひとりでに成長する果実」と讃えています。

 月は死と再生を永劫に繰り返します。月が有するこの特性ゆえに、旧石器時代以来の人類は、水、雨、植物、稔りなど、森羅万象の生成消滅のサイクルが月に支配されていると考えてきました。月が教える時間は、あらゆる空間で均一に流れる抽象的時間とは別物の、生活と密着した具体的時間です。人類は抽象的時間の観念を発達させるよりも先に、まず月によって具体的時間を知りました。蛇、稲妻、螺旋が有する象徴的機能は、いずれも月のサイクルとそれがもたらす豊饒性に由来します。

 世界のどの場所でも、具体的時間は月の盈虧によって測られました。現代に至っても狩猟採集民は太陰暦のみを使います。サンスクリット語マーミ(mâmi 測る)は印欧基語 "me" に遡りますが、ギリシア語メーン(μήν 一か月)、メーネー(μήνη 天体の月)、ラテン語メーンシス(MENSIS 一か月)等、印欧各語で月に関連する語はこの語根を共有しています(註1)。タキトゥスの「ゲルマーニア」第二巻によると、ゲルマン人は夜を基準に時の経過を測りました。クリスマス、復活祭、聖霊降臨祭、聖ヨハネ祭などヨーロッパ各地の祭りが夜に行われるのは古代ゲルマンの名残りです(註2)。

 月の盈虧によって測られる具体的時間とは、生きた時間に他なりません。生きた時間は降雨や潮汐、播種、月経周期と結びついています。月の盈虧はコスモス全体に影響を及ぼし、地上のあらゆる事物、現象を統御します。農耕を始めた新石器時代人たちは、月の盈虧と水、降雨、人間と動物の生殖、植生、死後の世界、通過儀礼を既に関連付けていました。世界の内に存在する多様な事物は月という共通分母で括られ、コスモス(秩序)に組み込まれます。この結果、月と結びつけられなければ互いに無関係であるはずの多様な事物間に関連が生まれ、世界の内にあるすべての断片がコスモス全体を内在させることになります。たとえば螺旋すなわちカタツムリは軟体が殻から現れたり姿を隠したりする様子が月の盈虧に似ると同時に、女性器に似た貝の軟体、男性器に似た巻貝の螺塔、貝が好む水、ギリシアの柱頭に見られる女性の乳房に似た二つの渦巻き、角(つの)を互いに関連付けます。女性が身に着ける真珠は、月の光から生まれる(註2b)と考えられて月に結びつくと同時に、性愛と生殖の護符ともなりました。薬草には月と水と植物の力が集まっています。ひとつの事物に力を与えるこれらの要素のひとつひとつが、コスモスの多くの層に関わります。たとえば植物には生と死、明と暗、豊穣等が関わります。世界の全事物は月という共通分母を解してコスモスの内に秩序付けられるのです。


・月の顕現である諸事物の一体性あるいは不可分性

 コスモス内の諸事物間に見られる以上のような呼応は、現代人の分析的精神によっては捉えられません。直観的能力は現代人にも備わりますが、古代人の意識が捉えた諸事物間の聖なる呼応関係を、現代人はその直観力によっても捉えることができません。現代人が月の力について考察する際は、分析的に順を追って考えます。しかるに古代人は全てを一体的に直観していました。たとえば月と水と植物の呼応関係あるいは一体性は、月がまず水に影響を及ぼし、その結果水を吸い上げる植物にも月の影響が及ぶということではありません。古代人が認識したコスモスにおいて、月と水と植物は一体のものです。時間においても順序においても、月の力は水や植物をはじめ全ての事物に同時に及びます(註3)。

 古代人の意識において、月から力を受ける象徴物は月と等価であり、要するに月そのものです。月の護符や月の図像はコスモスの全階層に影響を及ぼす月の全ての力を自らのうちに集積させるのみならず、儀式の効果によって護符の保持者を月の力の中心に置きます。その結果護符の保持者は生命力が強まり、実在性が強まり、死後により良き世界に行くことができるのです。

 月の力の顕れを、古代人は分析的思考によらず直観によって知りました。夜空の月は出現したり消滅したりします。しかるにカタツムリも出現したり消滅したりします(註4)。また熊も春に現れて晩秋にいなくなります。それゆえカタツムリや熊は月そのものが別の姿で現れたものと考えられました。アステカの月の神テクシステカトル(Tecçiztecatl)はカタツムリの殻の中にいる姿で描かれることがあります。また熊が人間の祖先とされることがありますが、これは人間が月の盈虧と同様の生涯を送るゆえに、人間は月と同じもの(すなわち、熊)から生まれたと考えられたのです。

 月と呼応してコスモス内に位置づけられる諸事物は、月との同一性を有します。すなわちそれらの諸事物は、月そのものでもあります。カタツムリをはじめとする巻貝の螺旋は月の聖なる顕現であり、これを身に着ける人は月の力を得ます。稲妻も月の力の顕現と見做されますが、これは稲妻の色が月光を思い起こさせるからでもあり、雨、すなわち月に支配される水の到来を知らせるからでもあります。螺旋や稲妻をはじめとする月の顕現、神話、儀式、護符は古代人の意識の中では一体であり、呼応と類比と分有によって、コスモスに内在する巨大な網細工のように繋がっています。無限に繰り返される周期的再生こそが、この網細工全体を支配する属性です。月が有する宇宙論的、魔術的、宗教的価値は、無限に再生する尽きざる生命に帰着します。

 人間と月の間に呼応関係と一体性が措定される理由も、これによって説明できます。すなわち月の盈虧は人間の誕生、成長、老衰、死に重ねられました。しかしこれだけでは月と人間に特別な呼応関係を措定する理由になりません。なぜなら生まれて成長し老いて死ぬのは、人間に限らずすべての生き物に共通する性質だからです。古代人が月と人間のあいだに特別な呼応関係、一体性を見出した理由は、月が復活するからに他なりません。すなわち月は永遠の生命という人間の望みを体現する天体であったゆえに、古代人の思考は人間と月を結びつけ、一体化させたのです。

 一般に絶対的実在を指し示すもの、絶対的実在に関わるものを、古代人の意識は聖としました。月や月の女神、真珠や稲妻をはじめ月に関わる諸事物が聖であるのは、それらが絶対的実在を指し示すからです。したがって月や月に関連する諸事物の背後にある絶対的実在こそが、古代人の崇拝の対象です。月をはじめとする天体にせよ、地上の諸事物にせよ、物体や事物そのものが崇拝の対象になることは、どの宗教においても決してありません。


・月と水

 降雨や潮汐には周期性があるゆえに、また植物は水によって芽吹くゆえに、水は月の支配を受けると考えられました。これはインド思想の重要な主題であり、「リグ・ヴェーダ」一巻 105の 1は「月は水のうちに在る」、「アイタレーヤ・ブラーフマナ」八巻 28の 15は「月は雨をもたらす」と語っています。水を司るインドの神アパームナパート(Apâṃnapât 水の息子)はもともと植物を司る神の名前でしたが、後には月および月にあるソーマ(霊能のある飲料)もこの名で呼ばれるようになりました。アルドヴィスーラ・アナーヒター(Ardvisûra Anâhitâ)はイラン神話の水の女神ですが、同時に月の女神でもありました。バビロニアの月の女神シンも水を支配します。シュメールの創世神話を記した粘土板文書には、女神ニネラ Ninella(ニンサル Ninsar)が父であり夫であるエンキ Enki に対して、鹹水の井戸水を真水に変えるように願ったときの言葉が記録されています。同文書の 7行目から 10行目には「水の流れ出ずる胎内の場所から、月の神の満ち充てる蔵から、地に湧き出ずる泉から、真水の場所から、彼のために水が来るように」と書かれています(註5)。ギリシア人、ケルト人、マオリ、エスキモーにとって、月と潮汐の関係は既知のものでした。

 満月及び新月の数日後は他の日に比べて雨が降る可能性が高い(註6)ですが、人類は太古の昔からこのことに気付いていました。ブッシュマン、メキシコ先住民、マオリ、サモエド人、中国人は、腕または脚が一本しか無い神話的存在が降雨をもたらすと考えています(註7)。ドイツの中国学者で画家でもあったカール・フィリップ・ヘンツェ(Carl Philipp Hentze, 1883 - 1975)は、1932年の著書「月の神話と象徴」("Mythes et symboles lunaires")で豊富な例を挙げて、これらの神話的存在と月の間に密接な関係があることを証明しています(註8)。

 月は降雨の恵みをもたらす一方で、洪水をもたらすこともあります。洪水は老いて生命力を喪いかけた世界が、コスモスの中で更新されることと解釈できます。洪水は新月に相当し、その後には老いた世界の更新と再生が必ず続きます。オーストラリア南東部のアボリジニであるクルナイ族(Kurnai/Gunai)の神話では、「ある日ダク(Dak)という巨大な蛙がすべての水を飲みこんでしまう。渇きに苦しむ動物たちは何とかして蛙を笑わせようとする。蛇(またはウナギ)が巻き付いて身をくねらせると、蛙は我慢できずに笑い出し、水を吐き出して洪水が起こった。」と語られます。蛙は月の生き物であり、月に蛙が住むと考える民族は多くあります。雨乞いの儀式にも蛙が登場します。月が洪水を惹き起こすこの種の神話は世界中に分布し、洪水の後に再生すなわち新しい人間が出現する筋書きが共通します(註9)。


・月と植物

 月齢と降雨と植物の成長に相関関係があることは、農耕以前の時代から知られていました。フランスの農夫は新月のときに種蒔きを、下弦のときに木の伐採や野菜の収穫を行います。これは月が植物を成長させる力が増し始めるときに種を蒔き、月の力が弱まるときに植物を殺しているのだと解釈できます(註9b)。月と植物の関係は深く、エジプトのハトル(Hathor)、イシュタル(Ishtar)、イランのアナイティス(Anaïtis)など、豊穣の神が月の神でもある事例が多くみられます。バビロニアのシンとギリシアのディオニュソスはいずれも植物と月の神ですし、エジプトのオシリスは月、水、植物、農耕を司ります。月の形而上的特性は、通常であれば両立し得ない必然的存在と生、存在の完全なる充足と生成、力動と平衡を共存させる点にあります。月は人間や動植物のように生きながらも、同時に不死の存在です。月にとって死は一時の休息に過ぎず、必ず復活します。不死を願う人間は、あらゆる儀式や象徴や神話を通して、月のこのような特性にあやかろうとしてきました。

 月の律動に合わせて変化するコスモスの諸相、すなわち月と雨、植生、動物の繁殖、死者の霊のつながりは、原型的宗教においてすでに見られます。ピグミーは雨期に入る前に新月の祭りを行います。太陽の祭りが男だけで行われるのと対照的に、新月の祭りは女だけが行います。月は幻影(幽霊)の母であり棲み処であるゆえに、ピグミーの女たちは植物の汁と粘土を全身に塗って幽霊と月光に同化し、月に踊りを捧げ、踊りで消耗するとバナナの酒を飲みます。女たちは生き物の母である月に向かい、死者の霊を遠ざけてくれるように、豊穣を齎(もたら)してくれるように、部族に多くの子供と魚と食肉と果実を与えてくれるように祈ります。


・月と多産性

 植物の豊穣と同様に、動物の多産も月がこれを担います。多産と豊穣はもともと月が担っていましたが、時代が下ると農業神や地母神がこれに加わります。牛を模る偶像やコルヌ・コーピアエ(羅 CORNU COPIAE 豊穣の角)は豊穣と多産の象徴です。牛の角の細く湾曲した形態は、新月の模りに他なりません。ヘンツェは前掲書 96ページにおいて「牛の角は弦月を思わせるゆえに月の象徴となった。これは確かである。二つの角が二つの新月を表すことは自明であって、これはすなわち月の盈虧の全体を表すということだ。」と述べています(註10)。

 カタツムリは殻に隠れたり殻から出たりするゆえに、熊は冬に姿を消して春に顕れるゆえに、蛙は体を膨らませ、また水中に姿を隠したり水面に現れたりするゆえに、犬は月の中にその姿が見えるゆえに、蛇は朔望周期と同数の肋骨を有する(註11)ゆえに、また人間の女(蛇巫)と交接するゆえに、さらには脱皮によって自らの生命を繰り返し更新するゆえに、いずれも月の象徴とされ、あるいは月と同一視されました。蛇は脱皮によって生命の更新あるいは再生を繰り返すゆえに、月の力の顕現であり、豊穣と多産、知恵、不死に結びつけられました。「創世記」の蛇は人間から不死性を奪いますが、これは後世の歪曲であって、本来は蛇が不死の源(生命樹、若返りの泉、黄金の林檎など)を守っていたとk考えられます。

 月はすべての豊穣性と多産性の源であり、女性の月経周期も支配します。それゆえ月は女を支配する者であり、数多くの民族において女と性交する男あるいは蛇の姿で表象されました。エスキモーの少女は妊娠を恐れて月を見ず、インドやオーストラリアでも月は地上に降りて漁色家となり、女を妊娠させて棄てると信じられました。イタリアのアブルッツォでは今日でも月がすべての女と寝ると言われます。プルタルコスの「アレクサンドロス大王伝」第2章 6節によると、大王の父フィリポスはあるとき妻(大王の母)オリュンピアが蛇と一緒に眠っているのを見て、彼女を避けるようになりました。また同所には、オリュンピアがオルフェウス教やバッコス教の女信徒に倣って人馴れした何匹もの蛇を体に巻き付けて踊り、男たちを怖がらせたと記録されています。十七回に亙ってアカイア同盟の将軍職を務めたシキュオンのアラトス(Ἄρατος ὁ Σικυώνιος, B. C. 271 - 213)は母が蛇によって身ごもった子であるゆえに、アスクレーピオス(Ἀσκληπιός 註12)の息子とされました(註13)。スエートーニウスの「アウグストゥス伝」94節及びディオン・カッシオスの「ローマ史」第 55巻 1節によると、アウグストゥスの母はアポロン神殿で蛇に締め付けられたことによって身ごもりました。ドイツ、フランス、ポルトガルをはじめとする各地の女性は、とりわけ月経の期間、眠っている間に蛇が口から入って妊娠することを恐れています(註14)。インドでは子が欲しい女性がコブラを拝みます。マイソール付近に住むコマティ族(Komati)は女性の多産を祈る儀礼に石製の蛇を用います(註15)。セプティミウス・セウェルス帝時代の著述家アエリアヌス(Claudius Aelianus, Κλαύδιος Αἰλιανός, c. 175 - c. 235)は「動物の本性について」("De natura animalium")第 6巻 17章において、ヘブライ人の娘が蛇と交接すると書いています。ペルシアの伝承によると、最初の女が蛇の誘惑を受けた直後に月経が始まりました(註16)。ハワ(エヴァ)がエデンで蛇と関わったときに月経がはじまったとの説は、多数のラビ文書にも記されています(註17)。アビシニアでは結婚前の娘が蛇に犯されることがあるとされます。アルジェリアでは家に侵入した蛇が娘たち全員の処女を奪ったと伝えられ、同様の話はホッテントット、東アフリカのマンディ族、シエラ・レオーネ等にも分布します(註18)。

 蛇は形状が男根に似るゆえに、女の性交相手とされます。女性が最初に性交する相手は蛇であるとする迷信は、東洋の広い範囲で見られます。朔望周期と月経周期が同じであるゆえに、数多くの民族において、月は女性の最初の夫(性交の相手)とされます。パプアには蛇が女性器から這い出す木彫り像があり、月と蛇の同質性を表しています。


・月と女と蛇

 これまでの議論で、エリアーデは豊穣と多産の源、並びに繰り返し起こる再生の源としての月を扱いました。その締めくくりに、エリアーデは男性の姿及び蛇の姿で表象される月について論じています。

 蛇は多様な意味を有しますが、そのなかでも「再生」はとりわけ重要です。地中海世界には手に蛇を持つ女神(アルカディアのアルテミス、ヘカテー、ペルセポネー等)や髪が蛇である女神(怪物ゴルゴーン Γοργών 、復讐の女神エリーニュス Ἐρινύς 、複数形 エリーニュエス Ἐρινύες 等)がいます。中央ヨーロッパの迷信によると、月経期間中の女から抜いた髪を地中に埋めると蛇に変わります(註19)。ブルターニュの伝承によると、月の力を注ぎ込まれた魔女は姿を変えることができ、その髪は蛇に変わります(註20)。

 魔術を使う能力は、月から直接的に与えられたもの、あるいは月から蛇を介して与えられたものであるといばしば考えられており、これは多数の民族学的研究で裏付けられています(註21)。中国人は月をあらゆる魔術的能力の源泉と考えていますし、ヘブライ語及びアラビア語で魔術を表す語は「蛇」という語に由来します(註22)。蛇は脱皮を繰り返すことで月と同様に永遠に生きると考えられ、また死者の霊が形になったものと考えられました。それゆえ蛇は人知の及ばないあらゆる秘密を知っており、知恵の源であり、未来を透視すると考えられました(註23)。蛇を食べた人は動物の言葉、とりわけ鳥の言葉を解するようになりますが、これには人知の及ばない世界の知識を得るという意味があります。この信仰は多数の民族に存在し(註24)、フィロスラストス(Philosrastos, c. 170 – 247/250 AD)の「テュアナのアポローニオス伝」にも記述があります(註25)。

 月は豊穣と多産と再生の象徴です。しかるに豊穣と多産と再生は月そのものによってのみならず、月と同質の地母神によっても齎されます。世界各地で行われる地母神の祭儀に蛇が登場しますが、これは地母神が月と同質であるからです。地母神の聖なる動物とされる蛇の内には、再生を繰り返す月の性質が、地上性と結びつきつつ残っています。月と大地はあらゆる生き物の母である点が常に共通しており、月と大地は同じ物からできていると考える民族もあります(註26)。地母神は月と地の聖なる特性を同時に分有します。それゆえ地母神は死者の女神でもあります。死者は地下の世界もしくは月世界に赴いて、そこで再生し、地上に再び姿を現します。それゆえ蛇は死者や先祖の魂が目に見える姿で顕れたものであり、他のどの生き物にも増して死者の生き物といえます。通過儀礼に常に蛇が登場するのは、再生を象徴するこの特性によります。


・月の象徴性

 蛇が有する多様な象徴的機能から、蛇が豊穣と多産、再生、変容による不死の力を月と共有することがわかります。これらの諸属性は順を追って分析によって導き出されたものではなく、一つの象徴のうちに初めから共存します。古代人は分析ではなく直観によって、月をコスモスにおける律動の基準、エネルギーと生と再生の源と捉えました。この直観はコスモスの全領域に及び、無限に多様な現象と月の間に対称性、類比関係、分有関係を見出しました。月の場合と同様に、古代人の直観は蛇についても蛇独自の特性を捉え、コスモスの全領域の諸事物、諸現象との対称性、類比関係、分有関係を見出します。象徴的機能の種類によっては、月よりもむしろ蛇のほうが中心的役割を担うように見えることもあります。たとえば多産を象徴する機能に関しては、月よりもむしろ蛇のほうが中心的役割を果たすように思えます。

 それゆえ《月、雨、豊穣と多産、女、蛇、死、周期的再生》という観念連合の全体が、あらゆる事象に明示的に関わるわけではありません。すなわち或る事象に明示的に関わるのが《豊穣と多産、女、蛇》であったり、《雨、豊穣と多産、蛇》であったり、《女、蛇、魔術》であったりします。しかしそのような場合でも注意して調べれば、一見して判別しづらい諸観念を含む元の観念連合の全体が、物事の細部に至るまで浸透していることがわかります。

 蛇またはドラゴンが雲を操り、水中に棲み、地上に雨を降らせるとするという神話や伝説は枚挙にいとまがありません(註27)。蛇と泉あるいは流水との結びつきはヨーロッパでも見られますし(註28)、アメリカ先住民の間では極めて多くの例が認められます。メキシコの雨神トラロック(Tlaloc)の象徴はとぐろを巻く二匹の蛇ですし(註29)、矢傷を負った蛇は降雨を表します(註30)。ドレスデン写本には蛇を模る壺に入った水が描かれ(註31)、トロ=コルテシアヌス写本第63葉では蛇形の壺から水が流れ出ています(註32)。

 蛇と水の組み合わせのみが明示されるこのような事例に関しても、ヘンツェの研究が示すところでは、月が雨を降らせることがその裏付けになっています(註33)。月と蛇と雨の結びつきが儀式に残っている場合もあります。グリヒヤスートラ(Grihyasûtra)に記録されているサルパバリ(sarpabali)はインドで毎年行われる蛇崇拝の儀式で、雨季が始まる月シャラーヴァナ(Sharâvana)の満月に始まり、冬が始まる月マールガシールシャ(Mârgaçîrsha)の満月までの四か月間続きます(註34)。サルパバリの場合、月と蛇と雨が揃って祭りに関わっています。この場合月と蛇と雨は並存する三要素ではありません。水も蛇も月の律動を分有しているだけではないからです。古代人の思考において、水と蛇は月と同質のものであり、月に重なります。すべての聖なるもの、すべての象徴と同様に、水と蛇はそれ自身であると同時に他者すなわち月でもあるのです。


月のシンボリズム その二 月と死と通過儀礼 に移動する




 註1    広川註 ドイツ語モーナト(der Monat 一か月)、英語マンス(month 一か月)もこれらと同根である。
     
 註2    広川註 我が国の民俗においても、一日は日没から始まる。夜は晴れのとき、昼間は褻(ケ 日常)のときである。あらゆる神事、仏事、冠婚葬祭は、本来夜に行われる。
     
 註2b    広川註 明代の「天工開物」によると、中秋の夜に海面に浮かび上がった真珠貝は、夜空を運行する月に向けて長い時間殻を開き、月光を取り入れる。貝の内部に取り入れられた月光は、年月を経て美しい真珠になる。一方西洋では、真珠貝は露を受けて真珠を形成すると考えられた。
     
 註3     広川註 月と諸事物は一体である。月から他の諸事物へと力が伝達されるのではない。月と諸事物の一体性は、量子もつれに譬えることができよう。
     
 註4    広川註 エリアーデは原著において「カタツムリの角は出現したり消滅したりする」と書いているが、筆者が考えるに、古代人はむしろカタツムリの軟体そのものが殻から出たり、殻の中に消えたりする様子から、カタツムリと月を同一視したのであろう。
     
 註5    W. F. Albright, "Some Cruces in the Langdon Epic", Journal of the American Oriental Society, Vol. 39 (1919), pp. 65 - 90, published by American Oriental Society
     この論文において、引用箇所はローマ字に転写され、英訳を付して示されている。英訳は次の通り。
       From the place where waters flow from their womb, From the full store-house of the moon-god, From the flowing springs of the earth, from the place of sweet water it shall come forth for thee.
     
     広川註 論文の表題に名前が見えるラングドン(Stephen Herbert Langdon, 1876 -1937)は、オックスフォード大学教授を務めたアッシリア学の権威。オールブライトの論文が言及する「ラングドンの叙事詩」とは、次の著書に紹介されている叙事詩のことであろう。
 Sumerian epic of Paradise, the Flood and the Fall of Man. Publications of the Babylonian Section vol.10 no.1. Philadelphia: University of Pennsylvania Museum, 1915.
     
 註6    広川註 満月及び新月の数日後に雨が降りやすい理由は未だ十分に解明されていないが、月が地球に入射する流星塵に影響し、これが下層大気の氷晶核に影響し、これが降雨に影響するとの説が有力である。根本順吉氏の「月からのシグナル」(ISBN 4-480-04191-5)に詳しい記述がある。
     
 註7    広川註 「孔子家語」(こうしけご)等に記述される商羊(シャンヤン)は一本足の鳥で、これが現れると雨が降ると伝えられる。「孔子家語」はもともと二十七巻であったが、この原書は散逸し、三国時代の魏(220 - 265年)の王粛による偽作十巻四十四編が現在に伝わる。

 我が国の案山子も一本足である。吉野裕子氏は著書「蛇」において、案山子の本質を人の祖先神である蛇、及び他の守り神である蛇と考えておられる。古語で蛇を表すカカ(カガ)は案山子の他、ヤマカガシの名に残っている。蛇が水神であることは言うまでもない。

 唐傘お化けも一本足である。降雨をもたらす能力があるとされているのかどうかは未詳だが、傘はいうまでもなく雨と関係があるし、お化けが出る夜は月が出るときでもある。人を驚かせるだけのこのお化けには、一本足で雨を降らせる神話的存在が零落した姿となって投影されているのかもしれない。 
     
 註8    "Mythes et symboles lunaires"
     
 註9    広川註 月と蛙の関係を示す東洋の事例として、「淮南子 精神」に月中蟾蜍(げっちゅうのせんじょ)の話がある。羿(げい)は堯の時代の英雄で、玉帝の息子たちである十個の太陽のうち九個を射落とした射日神話をはじめ、様々な説話で知られる。九人の息子を射殺されて怒った玉帝は、羿と美しい妻嫦娥(姮娥)から神の地位と永遠の生命を剥奪する。羿は崑崙の女仙西王母から不老不死の霊薬を得るが、妻と半分ずつ分ける予定であった霊薬を、嫦娥がすべて飲んでしまう。嫦娥は月に行き、蟾蜍となった。蟾蜍はヒキガエルのこと。
     
 註9b    広川註 イングランドにおいても同様の習俗がみられる。すなわちA. R. ライト氏による下記の著書、「イングランドの民俗」("English Folklore")によると、播種や接ぎ木、植樹など、増えるように、あるいは長く続くように望まれることは月が満ちてゆくときに行われる。逆の効果が望まれることは、月が欠けてゆく間に行われる。また或る女性たちは月が満ちるとともに髪が伸びると信じて、髪を切るタイミングを判断している。堀川哲夫氏の訳註によると、イングランドでは新月の時に頭髪を刈ると毛がよく生えるとされている。

 A. R. ライト著 堀川哲夫訳 「イギリスの民俗」(民俗民芸双書 84) 岩崎美術社 1981年 本文86ページ、及び171ページの註14

 著者のライト氏(Arthur Robinson Wright, 1862 - 1932)は特許局で働く傍ら五千冊にも上る民俗学の本を集めて研究し、英国民俗学会(the Folklore Society)の会長にも選ばれた。邦訳書「イギリスの民俗」の原書は 1928年に発行された「イングランドの民俗」("English Folklore")で、当時の新聞記事や裁判記録、口コミなどに基づいて書かれており、戦間期のイングランドにおけるフォークロアの貴重な記録となっている。
     
 註10    広川註 ヘンツェの著書と関連して、エリアーデは「月の象徴と豊穣の象徴が並存する図像は、甘粛仰韶文化に数多くみられる。雨と月を象徴する稲妻と女性を象徴する菱形が、様式化された角を囲むのである」と述べている。稲妻が雨と月を象徴するのはエリアーデが言う通りであるし、女性器に似た菱形が女の象徴であるのも確かである。しかるに菱形に関して付言するならば、この図形は蛇または龍の象りでもある。

 蛇は巫女との性交によって豊穣と多産を齎し、蛇と龍はいずれも水の精として豊穣と多産を齎す。「説文解字」第十一巻、龍の項目に書かれているように、龍は「鱗蟲之長」であり、「春分而登天、秋分而潜淵」すなわち春分に天に登って雨を降らせ、秋分に淵に潜る。
 しかるに蛇の鱗が菱形であるのは実物を観察して容易に分かる事実である。龍の実物は観察できず、また霊獣であるために、蚕紋(蚕の幼虫が丸まった形)のように自然の動物には見られない鱗が表現されることもある。しかしながら図像に表現された龍は、ほとんどの場合、菱形の鱗を有する。




(上) 武山から出土した馬家窯文化の壺

 馬家窯文化は仰韶文化を引き継ぐが、甘粛省武山から出土した彩陶の壺には細長い生き物が描かれている。定説によるとこの生き物は様式化されたサンショウウオであるが、その胴体は鱗状のクロスハッチで覆われており、蛇か龍のイメージが重ねられているようにも思える。




(上) 婦好墓の玉製龍 長さ 81ミリメートル、高さ 56ミリメートル

 殷の婦好墓からはネフライトの龍が出土している。この龍の胴体にも菱形様の鱗が彫り込まれている。
     
 註11    アリストテレス「動物誌」第2巻12章及びプリニウス「ナートゥーラーリス・ヒストリア」第11巻82章。
     
 註12    広川註 古代ギリシアの名医アスクレーピオスはアポロンの子で、死後ゼウスにより神の地位を与えられた。蛇が巻き付いたアスクレーピオスの杖は医学の象徴である。へびつかい座は天に上げられたアスクレーピオスの姿である。
     
 註13    パウサニアス「ギリシア案内記」第2巻 10章 3節による。
     
 註14    Robert Stephen Briffault (1876 - 1948), "The Mothers", II, p. 664
     
 註15    Frazer, "Adonis", pp. 81 - 82
     
 註16    Oskar Dähnhardt (1870 - 1915), "Natursagen", I, 211, 216
     
 註17    Johann Andreas Eisenmenger (1654 - 1704), "Entdecktes Judentum", I, 832 sq., Briffault, op. cit., 666
     
 註 18    Briffault, op. cit. ibid.
     
 註19    Heinrich Ploss und Max Bartels, "Das Weib in der Natur- und Völkerkunde : anthropologische Studien"(1913), I, 447 sq.
 註20    Briffault, op. cit. II, p. 662
     
 註21    広川註 吉野裕子氏の「蛇」は日本古来の蛇信仰を扱う浩瀚で優れた著作である。
     
     広川註 イタリアのベナンダンティは胞衣(羊膜)を被って生まれたことで悪と戦う超常的な能力を獲得した(Carl Ginzburg, "I benandanti", 1966)。トルーマン・カポーティは胞衣を被って生まれた少年を主人公に感動的な短編を書いている(Truman Capote, "Jug of Silver", 1945)。戦間期のイングランドで確認される俗信によると、羊膜をかぶって生まれた子は水死することも首をくくられることもない(A. R. ライト著 堀川哲夫訳 「イギリスの民俗」(民俗民芸双書 84) 岩崎美術社 1981年 16ページ及び 115ページ、及び訳註 137ページ)。

 吉田裕子氏の上掲書には言及されていないが、「日本霊異記」の「雷(いかづち)の喜(むがしび)を得て子を生ましめ強き力在る縁(ことのもと) 第三」に、雨を降らせ始めた雷神が、金杖(金属製の農具)を持って立つ農夫の前に落下する話が語られている。雷神は農夫に命乞いをし、命を救われた礼に超人的な膂力を持つ子を授けることを約束する。ここでは「然うして後に産まるる児の頭に蛇を纏ふこと二遍、首と尾とを後(しりへ)に垂れて生まる。」とある。月はこの逸話に登場しないが、雨(水)と稲妻と蛇が連合し、蛇を介して人間に超常的な力が与えられている。
     
 註22    Theodor Nöldeke(1836 - 1930), "Die Schlange nach arabischem Volksglauben", Zeitung für Völkerpsychologie und Sprachwissenschaft, I, 413 ; Briffault, op. cit. II, 663
     
 註23    Briffault, op. cit. II, 663 - 664
     
 註24    Norman Mosley Penzer(1892 – 1960), "The Ocean of Story", II, 108 note ; Frazer, "Spirits of the Corn", I, 146 ; Smith Thompson, "Motif-index of Folk-Literature", I, 315
     
 註25    Philosrastus, "Vita Apollonii Tyanei", I, 20, cf. L. Thorndike, "A History of Magic", I, 261
     
 註26    Briffault, op. cit. III, 60 sq. ; Alexandre Haggerty Krappe(1894 –1947), "La genèse des mythes" 101 sq.
     
 註27    広川註 周知のようにインド、中国、日本においても、蛇あるいは龍は水と強く結びついている。

 一説によると、インド神話のナーガはクンビーラ(Sanscr. Kumbhīra 鰐)の神格化である。クンビーラを漢訳すると蛟龍であり、蛟龍は言うまでもなく水の精である。
 クンビーラを音訳した金毘羅は、仏教においては薬師十二神将のひとりである。護法神クンビーラの垂迹である金毘羅権現は塩飽水軍の守護神であり、また広く海上の守護神として我が国の漁師や船乗りに信仰されている。

 夏王朝の始祖である禹は、鯀(こん)の息子である。禹の父である鯀は堯帝から黄河の治水を任されたが失敗し、堯は鯀の仕事を舜に引き継がせた。舜は鯀の息子である禹を起用し、禹は治水に成功した。
 禹は鯀の死体から生まれたと伝えられる。鯀の死体は三年経っても腐らなかったので、その腹を割いてみると黄色い龍が出てきた。これが禹である。禹は虫と九を組み合わせた文字で、虫は蛇または龍の象形、九は曲がりくねるさまの象形である。ここにも龍と水の結びつきが見られる。
     
 註28    Paul Sébillot (1843 - 1918), "Le forklore de France", II, 206, 339 sq.
     
 註29    広川註 Eduard Georg Seler(1849 – 1922), "Codex Borgia" (1904 - 09), Band I, p. 109, fig. 209 ボルジア本(Codex Borgia)は十六世紀にメキシコで見つかり、1805年から現在までヴァティカン図書館が収蔵する38ページの皮製本で、蛇腹状に折り畳まれ、1ページの大きさは 27 x 26.5センチメートル、蛇腹を伸ばした全体の長さは 10.34メートルに及ぶ。もともと一つであったと考えられる複数の本(Cospi, Fejérváry-Mayer, Laud, Vaticanus A et Vaticanus B)とともに、ボルジア群を形成する。絵文字の特徴に基づいて、ミシュテコス族(西 Mixtecos)またはトラシュカラ族(西 Tlaxcala)のものと考えられている。ボルジア本はナワトル語でトナラマトル(tonalamatl)と呼ばれる暦で、一年の各日付ごとにその日の運勢を支配する神の姿が描かれている。
     
 註30    Seler, "Codex Borgia", Band I, p. 9 ; Leo Wiener (1862 - 1939), "Mayan and Mexican origins", Cambridge, 1926, pl. XIV, fig. 35
     
 註31    Wiener, fig. 112 c
     
 註32    ibid. fig. 123
     広川註 大林太良氏は「神話の話」(ISBN 4-06-158346-8)において、海の起源神話には「もともと或る容器に入っていた水があふれて海ができた」との類型がメラネシアに多く、南アメリカ大陸の北部にもあり、中国やインドネシアにも痕跡があるとして、ニューヘブリデズ諸島のタンナで採集された神話を例示しておられる。その神話によると、蛇男タンガルアの死体から湧き出した甘美な水が大河となり、海を創ったという。
     大林氏註 大林太良「流動する水 ― 海の起源神話をめぐって ―」 『エピステーメー』 1976年 4月号 pp. 94 - 105
     
 註33    Hentze, "Objet", 32 sq.
     
 註34    J. P. H. Vogel, "Indian Serpant Lore", 11


資料写真 月讀宮 伊勢神宮皇大神宮別宮 2022年5月24日撮影

 「古事記」によると、黄泉から地上に戻った伊弉諾は死の穢れを清めるために、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原で海に入って禊をした。その際左眼からは天照、右目からは月讀が生まれた。巨人の身体から世界が創成される神話は世界各地に存在するが、伊弉諾の身体から諸神が生まれたとする「古事記」の記述もこの類型に属する。



(上) 月讀宮、月讀荒御魂宮



(上) 月讀宮



(上) 月讀荒御魂宮


 「古事記」によると、伊邪那岐命が黄泉国から地上に戻って禊をした際、その左目から天照大神、右目から月讀命、鼻から須佐之男命が生まれた。この三柱を三貴子(みはしらのうずのみこ)と言い、いずれも重要な神であるはずだが、月讀命に関する具体的な神話はほとんど語られない。日本神話にはこの類例、すなわち三柱のうち真ん中の神が事績がほぼ欠落している例がたびたび見出される。河合隼雄はこれを手がかりにして、日本の本質が中空構造にあると考えた(「中空構造日本の深層」 中公文庫 1999年 ISBN-13:‎ 978-4122033320)。

 ミルチャ・エリアーデが指摘するように、月は地上のあらゆる事象を生み出し支配する天体である。このような月が占める位置が日本神話において中空であるのは、一見したところ奇妙に思える。しかしながらキリスト教の否定神学において、神は大きさの無い点として表象される。バラモン教や仏教においても、自身を認識しようとする我は、自身の客体性を次々に捨象し非我に至ることで、梵我一如を達成する。このように考えるならば精神の中心に生産的、力動的な空があるのは日本神話に限ったことではないし、日本神話において月讀命が中空構造の要となっていることは月の生産性、力動性に矛盾せず、却って相応しいこととも考えられる。



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