聖心のマリア修道女と「聖心のガルド・ドヌール」
Sœur Marie du Sacré-Cœur et "la Garde d'honneur du Sacré-Cœur"



(上) 聖心のガルド・ドヌール 大信心会昇格記念の銀製メダイ 直径 20.0 mm フランス 1897年 当店の商品


 マリ・デュ・サクレ=クール修道女(Sœur Marie du Sacré-Cœur 聖心のマリア修道女 1825 - 1903)はフランス南東部ブルカンブレス(Bourg-en-Bresse ローヌ=アルプ地域圏アン県)の聖母訪問会員でしたが、1863年、中央に聖心が輝く時計の文字盤を幻視しました。この幻視をきっかけにして始まったのが「聖心のガルド・ドヌール信心会」(la Confrérie de la Garde d'honneur du Sacré-Cœur)で、1897年6月1日、教皇レオ十三世によって大信心会に昇格しました。


【マリ・デュ・サクレ=クール修道女と「聖心のガルド・ドヌール」信心の発展】

 マリ・デュ・サクレ=クール修道女(Sœur Marie du Sacré-Cœur 聖心のマリア修道女)、俗名マリ=コンスタンス・ベルノ(Marie-Constance Bernaud)は、1825年10月28日、八人きょうだいの長子として、スイスとの国境に近いフランス東部の町ブザンソン(Besançon フランシュ=コンテ地域圏ドゥー県)に生まれました。マリ=コンスタンスは幼時より修道女になりたいと言い、学童期にも常にディゼーヌを持ち歩いて信心書を読むなど宗教的傾向が強い子供でした。

 マリ=コンスタンスは 1841年10月14日、十七歳の誕生日を迎える直前に、二十八歳の男性と結婚しますが、夫はおよそ四年九か月後の 1846年7月26日に亡くなります。悲しみに沈むマリ=コンスタンスは再婚しない決心をし、弟を頼ってパリに移った後、ブザンソンに戻り、1849年にはベレ(Belley ローヌ=アルプ地域圏アン県)に住む親類の女性の元に身を寄せました。


 マリ・デュ・サクレ=クール修道女


 ベレはブザンソンから南に三百キロメートルほど離れた町です。このベレから北西七十キロメートル離れたブルカンブレスには、聖母訪問会修道院があります。この修道院で観想会に参加したマリ=コンスタンスは召命を感じ、同年7月28日、修道志願者として同修道院に入会、同年11月25日に修練女として着衣してマリ・デュ・サクレ=クール修道女(Sœur Marie du Sacré-Cœur 聖心のマリア修道女)を名乗り、1851年4月1日、初誓願を宣立しました。マリ・デュ・サクレ=クール修道女は教員資格を持っていましたので、修道院が運営する女子寄宿学校で教員として働き、生徒たちから「スール・デュ・ピュ・ラムール」(仏 Sœur du Pur Amour 「混じりけ無い愛の修道女」の意)と呼ばれて慕われました。健康を害して教師を続けられなくなると、修道院の書記係となり、外部との文通の大部分を任されました。

 1862年6月7日、聖母訪問会ブルカンブレス修道院の院長は、イエス・キリストの聖心に対し、修道院を正式に奉献しました。この年の終わりに、ブルカンブレス修道院では聖心への信心をいっそう広めるため、マリ・デュ・サクレ=クール修道女が起草した献身の誓いに大勢の修道女が署名しました。

 ところで当時の各修道院では、新年の顕現節に、その年に仕えるべき「ロワ」(仏 Roi 王)を決める習わしがありました。ブルカンブレス修道院における 1863年のロワ(王)は「キリストの聖心」で、王にふさわしく飾られた聖心の図像が修道院に飾られました。

 顕現節から数週間後のある日、マリ・デュ・サクレ=クール修道女は修道院内の階段を昇っているときに、時計の文字盤のような「聖心のガルド・ドヌール」を幻視します。マリ・デュ・サクレ=クール修道女は「聖心のガルド・ドヌール」を図像化し、文字盤の上に「アムール、グロワール、レパラシオン」(仏 Amour ! Gloire ! Réparation ! 「愛、栄光、償い」の意)、文字盤の下に「ガルド・ドヌール・デュ・サクレ=クール」(仏 Garde d'honneur du Sacré-Cœur 聖心のガルド・ドヌール)と書き込みました。

 「ガルド・ドヌール」(garde d'honneur 「近衛兵」「儀仗兵」)というフランス語は、「栄誉の守り手」が原意です。したがって「ガルド・ドヌール・デュ・サクレ=クール」とは、聖心の栄誉の守り手、すなわち人の罪に傷ついたイエスの聖心を守り、償いをするキリスト者を指します。「聖心のガルド・ドヌール」図は、最後に文字盤中央の聖心が描かれて、3月12日に完成しました。




(上) 主の五つの御傷のシャプレ(仏 chapelets des cinq plaies de Notre Seigneur) 全長 37 cm フランス 十九世紀 当店の商品です。


 1863年3月13日は「主の五つの御傷の祝日」でした。「聖心のガルド・ドヌール」図を描き終えたマリ・デュ・サクレ=クール修道女が、3月13日の早朝四時に修道院長に図を見せたところ、院長は図を祝福して、修道女たちに好きな時刻を選ばせ、その時刻に名前を書かせるように言いました。「聖心のガルド・ドヌール」図のこのような使い方は、現在の信心会で行われているのとまったく同じです。したがって「聖心のガルド・ドヌール」の信心は、1863年3月13日に始まったということができます。

 「詩編」六十九編二十一節には「嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見いだせません」と書かれています。「聖心のガルド・ドヌール」の信心が始まった直後、「枝の主日」(復活祭より一週間前の日曜日)のミサの際に、この奉献文を読んだマリ・デュ・サクレ=クール修道女は、愛と償いによってイエスの聖心を慰めることこそが新しい信心の目的であると思い至ります。マリ・デュ・サクレ=クール修道女はこの信心に関わる五人の守護聖人(後述)を考え、五日後の聖金曜日には「時間を奉献する祈り」(offrande de l'heure)を案出します。「時間を奉献する祈り」の内容は次の通りです。

     Seigneur Jésus, présent au Tabernacle, je t'offre cette heure, avec toutes mes actions, mes joies et mes peines, pour glorifier ton Cœur par ce témoignage d'amour et de réparation.    聖櫃の内に臨在�し給う主イエスよ。わたしはこの時刻を、我が行(おこな)い、我が喜び、我が苦しみのすべてとともに御身に奉献し、このしるしと愛によって御身を賛美します。
     Puisse cette offrande profiter à mes frères et sœurs et faire de moi un instrument de ton dessein d'amour. Avec toi, pour eux je me sanctifie, afin qu'ils soient eux aussi, sanctifiés en vérité. Amen.    ここに献げる時間により、我が兄弟姉妹に良きものを得ますように。私を愛による御計らいの器となし給え。私も御身とともに、彼らのために身を捧げます。彼らも真理によって捧げられた者となるためです。アーメン。

 祈りの最後に「私は彼らのために身を捧げます。彼らも真理によって捧げられた者となるためです」(Pour eux je me sanctifie, afin qu'ils soient eux aussi, sanctifiés en vérité.)とあるのは、「ヨハネによる福音書」 17章19節からの引用です。


 1863年4月、マリ・デュ・サクレ=クール修道女は「聖心のガルド・ドヌール」図の文字盤を取り囲むように、聖母マリア、聖ヨセフと諸聖人、地上の聖徒たち、天使たちの名を配置しました。文字盤周囲に配置された守護者の名は、それぞれの時間帯に自らを奉献する信心会会員が、その時間帯の守護者と協働して、よりいっそう大きな神の恩寵を人々に取り次ぐことができることを表しています。時間帯の守護者、及び人々に取り次がれる神の恩寵に関しては、後ほど詳述します。

 1863年5月、「聖心のガルド・ドヌール」の信心はアヌシー(Annecy ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)の聖母訪問会修道院、次いでパレ=ル=モニアル(Paray-le-Monial ブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)の聖母訪問会修道院にも広まりました。「聖心のガルド・ドヌール」の信心は、1863年末までに、全仏のみならずイギリス、イタリアを含む百十二か所の聖母訪問会修道院に広まっていました。


 マリ・ド・ジェジュ修道女


 翌1864年にはマリ・ド・ジェジュ修道女(Sœur Marie de Jésus)の仲立ちによって、マドレーヌ=ソフィー・バラ(Sœur Madeleine-Sophie Barat, 1779 - 1865)及び「聖心会」(仏 La Société du Sacré-Cœur de Jésus 羅 Societas Sacratissimi Cordis Jesu)の諸修道院が「聖心のガルド・ドヌール」に加わりました。マリ・ド・ジェジュ修道女、俗名マリ・ドリュイユ=マルティニ(Marie Deluil-Martiny, 1841 - 1884)は 1873年に「イエスの聖心修道女会」(la Congrégation des Filles du Cœur de Jésus)を創設した人で、1989年10月22日、教皇ヨハネ=パウロ二世によって列福されます。バラ修道女は1800年に「聖心会」(仏 La Société du Sacré-Cœur de Jésus 羅 Societas Sacratissimi Cordis Jesu)を創設した人で、1925年5月24日、教皇ピウス十一世によって列聖されます。

 1864年3月9日にはベレ司教ランガルリ師(Mgr. Pierre-Henri Gérault de Langalerie, 1810 - 1886)の認可により、聖母訪問会ブルカンブレス修道院礼拝堂に本部を置くコンフレリ(仏 confrérie 信心会)が発足し、この頃ブルカンブレス修道院に立ち寄ったマリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父(P. Marie-Alphonse Ratisbonne, 1814 - 1884)も会員になりました。同年6月5日には、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドのバシリカ祝別に際して各地からマルセイユに集まっていた三十数名の司教が、信心会の会員になり、同月16日には教皇ピウス九世によって、信心会会員に免償が与えられました。同年11月4日には、マリ・ド・ジェジュ修道女(マリ・ドリュイユ=マルティニ)の妹アメリ(Amélie Deluil-Martiny)の意匠に基づき、信心会のメダイが初めて制作されました。1872年3月25日には教皇ピウス九世が信心会に入会しました。1876年3月3日、モンマルトルのサクレ=クール教会でフランス奉献仮設礼拝堂(仏 la Chapelle provisoire du Vœu National)の供用が始まったとき、「聖心のガルド・ドヌール」図が礼拝堂内に掲げられました。

 「聖心のガルド・ドヌール信心会」(la Confrérie de la Garde d'honneur du Sacré-Cœur)は、1897年6月1日、教皇レオ十三世によって大信心会(仏 Archiconfrérie)に昇格しました。マリ・デュ・サクレ=クール修道女は信仰を励ます多数の手紙を生涯の終わりまで書き続け、1903年8月2日に亡くなりました。


【「聖心のガルド・ドヌール」図の意匠と意味】

 「聖心のガルド・ドヌール」図は最上部に「ヴィーヴ・ジェジュ」(仏 Vive Jésus 「イエスよ生き給え」「イエスに栄えあれ」の意)とあり、中央の文字盤のすぐ上には「アムール、グロワール、レパラシオン」(仏 Gloire ! Amour !Réparation ! au Cœur de Jésus ! 「栄光と愛と償いをイエスの聖心に」)、文字盤のすぐ下には「アルシコンフレリ・ド・ラ・ガルド・ドヌール」(仏 Archiconfrérie de la Garde d'Honneur ガルド・ドヌール大信心会)と書かれています。「ガルド・ドヌール」とは貴人の名誉を守る儀仗兵、近衛兵のことです。その下にはイエスが聖マルグリット=マリに語った言葉が記されています。

     Je veux former autour de mon CŒUR une couronne de douze Étoiles composée de mes plus chers et fidèles Serviteurs.    わたしに最も親しく最も忠実な僕(しもべ)たちの十二の星が、聖心を取り巻く王冠となることを、わたしは望んでいる。





 図の中央は時計を模した文字盤で、一から十二まで番号の付いた星が、円環を為すように文字盤の外縁に配されています。文字盤の中心部には槍で貫かれた聖心が描かれています。

 信心会の会員は任意の一時間を選んで名前を書き込みます。信心会の会員は、自分が選んだ時間帯における日々の行動と経験、喜びや悲しみといった感情のすべてをイエスの聖心に捧げます。こうすることにより、会員はミサの度に日々受難し給うイエスに心を寄り添わせ、イエスと共に喜び、イエスと共に悲しむことができます。またこの信心を通して、信心会の会員でないキリスト者の為のみならず、信仰無き者たちの為にさえ、恩寵をもたらす援けになることができると考えられています。この信心が世界中に広まれば、一日のすべての時間帯において、常に誰かがイエスの聖心に寄り添うとともに、他の人々の援けとなり、宣教や平和、地上における神の国の建設に貢献できることになります。

 文字盤の周囲には、それぞれの時間帯に割り当てられた聖人、聖徒、天使の名が書かれています。各時間帯を選んで自分の行動と心を捧げ、良きキリスト者としてイエスと共に生きるならば、各時間帯の守護者の助けとなって、他の人々にも恩寵がもたらされます。信心会会員が守護者と協働することにより、世界の人々に一層大きな恩寵がもたらされると考えられているのです。

 各時間帯の守護者と恩寵の対象は次の通りです。ここで「恩寵の対象」というのは、信心会会員の信心により、守護者を通して一層大きな恩寵を受け取る人々や事柄を指します。


    時間帯    守護者     恩寵の対象
                 
     0時または12時から1時    la Sainte Vierge    聖母    カトリック教会と聖職者たち、実現困難な信仰の業
     1時から2時    Saint Joseph et les Saints    聖ヨセフと諸聖人    各国の国民と統治者たち、平和と協調
     2時から3時    les Justes de la terre    地上の聖徒たち    政治や社会のあらゆる制度と宗教の関わり
     3時から4時    les Séraphins    熾(し)天使    家庭にある人々
     4時から5時    les Chérubins    智天使    教育に携わる人々、職業を選ぶ若者たち
     5時から6時    les Trônes    座天使    信仰に適う仕事に携わる人々、旅行者たち
     6時から7時    les Dominations    主天使    苦しむ病者や貧者や囚人たち、試練と誘惑に遭う人々
     7時から8時    les Vertus    力天使    宣教に携わる人々
     8時から9時    les Puissances    能天使    回心すべき罪びとたち、あらゆる冒涜の償い
     9時から10時    les Principautés    権(ごん)天使    死を前に苦しむ人々、キリスト信仰に適う死を望む人々
     10時から11時    les Archanges    大天使    煉獄にある魂
     11時から12時または0時    les Anges    他の諸天使    聖心への信心を広めるために働く人々


【聖心の信心へと人々を導く五人の聖人】

 「聖心のガルド・ドヌール」信心会が果たすべき最も大切な働きは、イエスの聖心がすべての人の魂を統べ治めるように、聖心への信心を広めることです。信心会に託されたこの働きを援けるのが、五人の守護聖人たちです。




(上) 細密グラヴュールによる日本風文様のカニヴェ 「聖心の聖母」 101 x 64 mm フランス 1880 - 90年代 当店の商品です。


 第一に、聖心の聖母。聖心の聖母(Notre-Dame de Sacre-Cœur)はイスダンで崇敬される聖母で、処女たち、妻たち、母たちを聖心の信心へと導きます。

 第二に、聖ヨセフ。聖ヨセフはすべてのキリスト者の父であり、あらゆる職業や身分の人々を聖心の信心へと導きます。

 第三に、アッシジの聖フランチェスコ。アッシジの聖フランチェスコはフランシスコ会の創設者であり、修道者たち、一生を神に捧げた聖職者たちを聖心の信心へと導きます。

 第四に、聖フランソワ・ド・サール。聖フランソワ・ド・サールは司教であった聖人であり、司教たち、司祭たち、神学生たちを聖心の信心へと導きます。

 第五に、聖マルグリット=マリ。聖マルグリット=マリは貧しき者、不幸なる者、我ら小さき者たちを聖心の信心へと導きます。


【最初のガルド・ドヌール】



(上) 十字架の下で救い主に寄り添う「最初のガルド・ドヌール」

 キリスト受難の伝統的図像には聖母マリア、使徒ヨハネ、マグダラのマリアが描かれます。この三人は、群衆に見棄てられ給うたばかりか、ほとんどの弟子たちにさえ逃げられ給うた救い主イエスに、最後まで寄り添った「ラ・プルミエール・ガルド・ドヌール」(仏 la première garde d'honneur 最初のガルド・ドヌール)です。

 「聖心のガルド・ドヌール信心会」のメダイは、表(おもて)面に時計の文字盤を浮き彫りにします。1864年11月4日に最初のメダイが制作されたとき、裏面の意匠はイエスとマリアの頭文字を組み合わせたモノグラムでしたが、後になって「十字架上のイエスと、ラ・プルミエール・ガルド・ドヌール」に変更されました。上の写真は 1897年6月1日、教皇レオ十三世が信心会を「大信心会」(仏 Archiconfrérie)に昇格させたときの記念メダイユで、裏面は変更後の意匠となっています。


【「聖心のガルド・ドヌール」と現代】

 「聖心のガルド・ドヌール」(Garde d'honneur du Sacré-Cœur)とはフランス語で「聖心の栄誉の守り手」という意味であり、その信心は「聖心への償い」を重要なテーマとしています。また「聖心のガルド・ドヌール」の信心は 1863年3月13日に聖母訪問会修道院で始まり、すぐにパレ=ル=モニアルに伝わりましたが、これは1864年8月19日の小勅書でマルグリット=マリの列福が宣言されるのと同時期に当たります。これらの事実が端的に示すように、「聖心のガルド・ドヌール」は「悔悛のガリア」の精神運動の構成要素と位置付けられます。「聖心のガルド・ドヌール」の信心は、フランス精神史の文脈において、十九世紀半ばという時代に、生まれるべくして生まれた信心であるということができます。




(上・参考画像) キリストに身を投げかける悔悛のガリア。背景は 1914年9月4日のドイツ軍による空襲で炎上するランス司教座聖堂ノートル=ダム。当店の商品。


 しかしながらこれは、「聖心のガルド・ドヌール」が博物館や古文書館の資料にのみ残る遺物であるとか、現代において有効性を持たないということではありません。神は何らかの事柄を示すとき、特定の時代と場所を選び給います。しかしながらそれらは他ならぬ神が示し給うた事柄であるゆえに、永続的有効性を有します。その好例は聖書です。旧約聖書はわが国で言えば縄文時代に書かれた書物、新約聖書の最新の部分でさえ弥生時代中期に書かれた書物ですが、いずれも現代人に日々読み継がれ、信仰を涵養しています。「聖心のガルド・ドヌール」の信心もまた、十九世紀半ばのフランスにおいて有効であったのとまったく同様に、二十一世紀の日本においても、いつの時代のどの国においても、人の心をイエスの愛に寄り添わせ、神の恩寵を地上にもたらす信心であり続けています。

 十九世紀の人々は「人類進歩の思想」を信じて疑いませんでした。社会の仕組みと科学技術はどんどん進歩し続け、人間性もまた崇高な高みを目指し続け、戦争や犯罪は無くなり、百年も経てばユートピアが出現すると信じていたのです。しかし実際はどうでしょうか。冷戦が終わった途端、世界の各地で民族浄化や宗教戦争、テロリズムが頻発し、罪なき幼子たちが命を落とし、冷戦時代よりも酷い恐怖と混乱がもたらされています。一日のうち一時間を選んでイエスの聖心に捧げ、イエスに倣うことによって神の国を実現しようとする「聖心のガルド・ドヌール」の信心は、過去の遺物になるどころか、その必要性をいっそう増しているように思えます。



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