マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父
P. Marie-Alphonse Ratisbonne, 1814 - 1884
子供たちに囲まれたマリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父
マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ師 (P. Marie-Alphonse Ratisbonne, 1814 - 1884) は、不思議のメダイの聖母によって回心したことで知られるユダヤ人神父です。同じくカトリックに改宗したユダヤ人、
マリ=テオドール・ラティスボンヌ師 (P. Maeie-Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884) の実弟で、「ノートル=ダム・ド・シオン修道会」を創設した兄とともにカトリック宣教に尽力し、修道院、学校を創設しました。
【マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父の生涯】
ユダヤ人アルフォンス・ラティスボンヌは、1814年5月1日、フランス東端ストラスブール(Strasbourg アルザス地域圏バ=ラン県)の名家に、9人きょうだいの末子として生まれました。銀行業を営む父オーギュスト・ラティスボンヌ
(Auguste Ratisbonne, 1770 - 1830) は、バ=ラン (Bas-Rhin) のコンシストワール(consistoire
israélite ユダヤ人長老会議)議長を務める名望家であり、母方の祖父セルフ・ナフタリ・ヒルツ・ヘルツ・ベル (Cerf Naphtali
Hirtz Herz Berr/Beer, 1726 - 1794) はアルザスにおけるユダヤ人コミュニティーの代表者を務めた人物でした。
アルフォンスはパリで法律を学んだ後ストラスブールに戻り、父の銀行に入社しました。この頃アルフォンスは姪と婚約しましたが、姪は16歳で結婚にはまだ若すぎたので、アルフォンスはしばらくの間ストラスブールを離れてイタリアを旅しました。アルフォンスは冷笑的な無神論者でしたが、1842年1月20日、アルフォンスはローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ聖堂
(La Basilica di Sant'Andrea delle Fratte) で
不思議のメダイの聖母を幻視し、翻然と回心しました。アルフォンスはもともとの名前に「マリ」(Marie マリア)を付け加え、また同年6月にはイエズス会に入会、1848年には司祭に叙階されました。1850年、マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父はフランス北西端の港町ブレスト(Brest ブルターニュ地域圏フィニステール県)で教誨師として働きました。
宣教師になりたいという望みをかねてから抱いていたマリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父は、1852年、イエズス会総長の許可と教皇ピウス9世の祝福を得てイエズス会を辞し、パリに移って、兄が創設した「ノートル=ダム・ド・シオン修道会」(la
congrégation de Notre-Dame de Sion シオンの聖母修道会)に入会しました。
1855年、マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父は残りの生涯を過ごすことになるパレスチナに移住し、1858年にはエルサレム旧市街に「エッケ・ホモー修道院」(le
couvent de l'Ecce Homo) を作ります。これはシオン女子修道会 (les Sœurs de Sion) の修道院ですが、ラティスボンヌ神父はシオン女子修道会のために、この修道院に加え、学校一箇所と孤児院一箇所、また1860年にはエルサレム市域の南西アイン・ケレム
(Ein Kerem) に、聖堂と孤児院が付属したサン=ジャン修道院 (le monastère de Saint-Jean) を創設しています。
1874年、ラティスボンヌ神父はあらゆる宗教、民族の子供たちがともに学べる学校を開設すべく、エルサレム旧市街の西側に土地を購入し、修道院と学校の建設を始めました。この「ラティスボンヌ修道院」は、現在、サレジオ会神学研究所
(Studium Theologicum Salesianum, STS) となっています。
【1842年1月20日、ローマでの回心】
前述のように、アルフォンス・ラティスボンヌはもともと無神論者で、あらゆる宗教を馬鹿にし、とりわけカトリック教会と司祭たちに対して軽蔑と反感を抱いていました。
1842年1月、ローマに到着したアルフォンスは、友人ギュスターヴ・ド・ビュイシエール (Gustave de Buissière) を訪ねることにしました。この時代のフランスでは多くの若者が結婚前に近東を旅しましたが、アルフォンスも同様の計画を立てており、ギュスターヴ・ド・ビュイシエールは近東の事情に詳しかったのです。
アルフォンスがギュスターヴ・ド・ビュイシエールを訪ねたとき、ギュスターヴは不在で、家令はアルフォンスをギュスターヴの兄、テオドール・ド・ビュイシエール男爵
(Théodore de Buissière) のもとに案内しました。アルフォンスはテオドールと会ったことはありましたが、それほど親しい間柄ではありませんでした。
ド・ビュイシエール兄弟は弟がプロテスタント、兄が最近改宗したカトリックという違いはありましたが、ふたりとも敬虔なキリスト教徒でした。兄も弟もアルフォンスに信仰心を持たせようとして、それぞれに何度も試みていましたが、アルフォンスは宗教の話題に耳を貸しませんでした。兄テオドール・ド・ビュイシエールはカトリックの宣教を使命と考えていましたので、アルフォンスが自分のところに通されたのを神の導きと考えました。
アルフォンスがテオドールを訪れたとき、たまたま夫人と子供たちが在宅していました。後日アルフォンスは、夫人と子供たちのおかげで、自分の心が普段よりも和んでいたと回想しています。それでも男爵が持ち出す宗教の話題をアルフォンスは受け付けませんでしたが、男爵はテオドールに不思議のメダイを渡そうとし、もし君の精神が強靭で宗教を信じないのなら、メダイを恐れることもなかろうと諭しました。メダイを首に懸けることに同意したアルフォンスは、「これで僕もカトリックってわけですね」と皮肉を言いました。
さらに男爵は、クロード・ベルナール神父 (P. Claude Bernard, 1588 - 1641) が広めた
「メモラーレ」("MEMORARE" ラテン語で「憶えたまえ」「忘れないでください」の意)の祈りが書かれた紙をアルフォンスに渡し、書き写すように言いました。アルフォンスは遂に怒り出して、こんな馬鹿げたことはもう止すべきだと言いましたが、テオドールの頼みに渋々同意して、祈りを書き写しました。
この出来事のすぐ後にあった晩餐会で、テオドール・ド・ビュイシエール男爵は、ラ・フェロネ伯ピエール=ルイ=オーギュスト・フェロン (Pierre-Louis-Auguste
Ferron, comte de La Ferronnays, 1777 - 1842) に会いました。ピエール=ルイ=オーギュスト・フェロン伯爵は王政復古期に外交官であった人物で、カトリックの女流作家
オーガスタス・クレイヴン夫人 (Pauline de La Ferronnays, Mrs Augustus Craven, 1808 - 1891) の実父です。ド・ビュイシエール男爵はアルフォンスのことをフェロン伯爵に話し、聡明なこの青年の回心のため、祈ってくれるように頼みました。伯爵は「安心なさい。アルフォンス君に『メモラーレ』を唱えさせることができれば、すべてはうまく行くよ」と答えました。
フェロン伯爵はサンタンドレア・デッレ・フラッテ聖堂のミサに毎日出席していました。晩餐会の翌朝、伯爵はさっそくこの教会に出向き、アルフォンス青年のために「メモラーレ」を唱えました。その日の夜、フェロン伯爵は急に体調を崩して、危篤状態に陥りました。知らせを受けたテオドール・ド・ビュイシエール男爵は伯爵家に駆けつけましたが、伯爵は亡くなったところでした。
1月20日、ローマを去ろうとしていたアルフォンスは、外出中にテオドール・ド・ビュイシエール男爵の馬車を見かけ、挨拶をしました。男爵はフェロン伯爵の葬儀の件でサンタンドレア・デッレ・フラッテ聖堂に向かう途中だったのですが、アルフォンスにも一緒に来るように頼んで馬車に乗せました。教会に着くと、ド・ビュイシエール男爵はアルフォンスにしばらく待っていてくれるように言い、葬儀の打ち合わせに行きました。
ド・ビュイシエール男爵が戻ってきたとき、無神論者であるはずのアルフォンスは大天使ミカエルの礼拝堂前で跪いていました。男爵は非常に驚き、ゆっくりとアルフォンスに近づいて、傍らに身を屈めて声を掛けましたが、アルフォンスは気付きません。男爵が体に触れても、肩に手を置いても、アルフォンスは何の反応も示しません。男爵がさらに三度か四度、体に触れると、アルフォンスはようやく動いて体を起こしてこちらに向き、男爵の顔をじっと見つめました。アルフォンスは涙を流しており、自分の身に起きたことを説明できずにいました。アルフォンスは「フェロン伯爵はわたしのために、これほどまでに祈ってくださったのですね」とつぶやき、男爵は「アルフォンス、何が起こったのだ」と尋ねながらも涙を抑えられませんでした。アルフォンスは不思議のメダイを首から外して泣きながら接吻を繰り返しました。ふたりはイエズス会修道院に向かい、アルフォンスは自分の身に起こったことを、ド・ヴィルフォール神父
(P. de Villefort) に話しました。
その後アルフォンスは洗礼を受けました。教皇グレゴリウス16世は、カトリック教会による慎重な調査の結果を受けて、1842年6月3日、「不思議のメダイ」の聖母による執り成しと、アルフォンスの回心を、真正の奇蹟と宣言しました。
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