汝、この印にて勝利せよ
Ἐν τούτῳ νίκα, IN HOC SIGNO VINCES
(上) P.P. Rubens pinx, Couché fils et Lienard Sculp.
"la Croix Miraculeuse" after Peter Paul Rubens (etching and engraving from "Galerie du Palais
Royal", vol.II, 1808), 170 x 206 mm, the British Museum
ゲルマン人の侵入をはじめとする内憂外患に喘く四世紀末のローマ帝国では、キリスト教やミトラ教が勢力を伸ばしていました。東方起源の宗教がこの時期に勢力を伸ばしたのは偶然ではないと考えられます。社会の秩序が乱れ、生活が困難になった時代に生きる人々は、現世肯定的なギリシア・ローマの神々に心を惹かれず、内面的宗教に魅力を感じ始めていたのです。帝国の再建を期するローマが、このような状況を背景に編み出した奇策が、キリスト教の公認でした。
初代教会以来、ローマ帝国領内のキリスト教徒に対して行われた迫害は、303年2月24日にディオクレティアヌス (Gaius Aurelius
Valerius Diocletianus, 244 - 311) が出した布告によって最後の極点に達しました。ディオクレティアヌスは 305年に退位し、女婿ガレリウス
(Gaius Valerius Maximianus Galerius, 260 - 311) もキリスト教徒を激しく迫害しましたが、311年4月、死の床にあるときに、自身とリキニウス、コンスタンティヌス1世の連名でキリスト教を含むすべての宗教に対する寛容令を布告し、キリスト教徒に対する迫害は突然終息しました。ガレリウスを継いだ東の正帝リキニウスと西の正帝コンスタンティヌス1世は、313年、ミラノにおいて会談し、特にキリスト教を名指しして、その信仰を認める勅令を布告しました。
コンスタンティヌスは「ミラノ勅令」の前年である 312年10月28日に、いまひとりの帝であるマクセンティウスをローマ近郊フラミニア街道のムルウィウス橋において討ち取り、西の正帝位を固めたのですが、伝承によると、この戦闘の前日、空に「十字架」が現れ、その十字架には「これにて勝利せよ」(ギリシア語 Ἐν
τούτῳ νίκα)という文字が書かれていたとされます。
ムルウィウス橋での戦闘については、ラクタンティウスとエウセビオスが著作で言及しています。以下ではラクタンティウス著「迫害者たちの死について」(
"DE MORTIBUS PERSECUTORUM") 44章、及び、エウセビオス著「コンスタンティヌスの生涯」(
"VITA CONSTANTINI") 第1章 28節を引用し、それぞれの著作が「ムルウィウス橋の戦い」をどのように記述しているかを確かめます。
【ラクタンティウスによる記述】
キリスト教著述家ラクタンティウス (Lucius Caecilius Firmianus Lactantius, c. 240 - c. 320) は、優れて典雅な文体ゆえに「キリスト教界のキケロー」とも呼ばれるラテン語修辞家で、ディオクレティアヌス帝に仕えたほか、コンスタンティヌス1世の宗教政策顧問、並びに皇帝の息子の家庭教師を務めました。
(上) Piero della Francesca "
Il sogno di Costantino" dalla
"Leggenda della Vera Croce", c. 1466; affresco, 329 x 190 cm; San Francesco, Arezzo
ラクタンティウスは「迫害者たちの死について」(
"DE MORTIBUS PERSECUTORUM") 44章において、ムルウィウス橋の戦闘を記録しています。この章の原テキストを、ミーニュの「パトロロギア・ラティナ」によって引用します。日本語訳は筆者(広川)によります。訳文において文意が通じやすいように補った語は、ブラケット
[ ] で示しました。(註1)
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LUCII CAECILII LIBER AD DONATUM CONFESSOREM DE MORTIBUS PERSECUTORUM. caput XLIIII |
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「ルキーウス・カエキリウスが証聖者ドーナートゥスに宛てた、迫害者たちの死に関する書」 第44章 |
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Iam mota inter eos fuerant arma civilia. Et quamvis se Maxentius
Romae contineret, quod responsum acceperat periturum esse, si extra portas
urbis exisset, tamen bellum per idoneos duces gerebatur. |
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いまや彼ら(訳注 コンスタンティヌスとマクセンティウス)の間にローマ市民同士の戦いが起こった。マクセンティウスはローマに閉じこもった。それはもしも市門の外に出るならば、[マクセンティウスは]滅びるであろうとの神託を受け容れたためだが、それにもかかわらず戦争は有能な将軍たちにより遂行されたのである。 |
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Plus virium Maxentio erat, quod et patris sui exercitum receperat
a Severo et suum proprium de Mauris atque Gaetulis nuper extraxerat. |
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マクセンティウスは戦力において勝っていた(註2)。すなわちセウェルス帝[の軍]から[陣営を替えた]自分の父の軍隊を受け取っていたし、マウリーあるいはガエトゥーリー(註3)から自分自身の軍隊を最近に選抜していた。 |
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Dimicatum, et Maxentiani milites praevalebant, donec postea confirmato
animo Constantinus et ad utrumque paratus copias omnes ad urbem propius
admovit et a regione pontis Mulvii consedit. |
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[コンスタンティヌスとマクセンティウスの間には]戦いが行われていたが、マクセンティウスの軍が優勢であった。しかし勇気が揺らぐことなく、何事にも備えができているコンスタンティヌスは、その後全兵力をローマ市にいっそう近く動かし、ムルウィウス橋のあたりに陣を構えた。 |
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Imminebat dies quo Maxentius imperium ceperat, qui est a.d. sextum
Kalendas Novembres, et quinquennalia terminabantur. |
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マクセンティウスが帝位を受けた[記念の]日が近づいていた。その日は[ローマ]暦の11月6日であり、[マクセンティウスが即位して以来]五年[目]が終わろうとしていた。 |
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Commonitus est in quiete Constantinus, ut caeleste signum dei notaret
in scutis atque ita proelium committeret. Facit ut iussus est et transversa
X littera, summo capite circumflexo, Christum in scutis notat. Quo signo
armatus exercitus capit ferrum. Procedit hostis obviam sine imperatore
pontemque transgreditur, acies pari fronte concurrunt, summa vi utrimque
pugnatur: |
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コンスタンティヌスは、神に属する天上の印を[兵たちの]楯に描くように、そうして戦いをするように、夢の中で勧められた。コンスタンティヌスは命じられたようにする。すなわち文字
X が線で貫かれ、[Xを貫く線の]最上部の頂が曲げられている。[この印は][兵たちの]楯においてキリストを描いている。[コンスタンティヌスの]軍隊はこの印で武装して武器を取る。敵は皇帝を伴わずにこちらに進んで来、橋を渡る。両軍は[力が]同じような様子でぶつかり合い、両者とも最大限の力で戦いが行われる。 |
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Neque his fuga nota neque illis. |
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こちら方の兵士たちも、あちら方の兵士たちも、退かないのを見よ(註4)。 |
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Fit in urbe seditio et dux increpitatur velut desertor salutis publicae
cumque <conspiceretur>, repente populus--circenses enim natali suo
edebat--una voce subclamat Constantinum vinci non posse. |
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[一方]ローマでは分裂が起こり、皇帝(dux 註5)[マクセンティウス]は民の安全を蔑(ないがし)ろにした者として罵られている。そして、[マクセンティウスは]自らの記念日に競演場で[催し物を]開催したのであるが(註6)、[競演場に姿を表したときに、]突然、民が声を揃えて、「コンスタンティヌスが討たれることはありえない」と叫ぶ。 |
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Qua voce consternatus proripit se ac vocatis quibusdam senatoribus
libros Sibyllinos inspici iubet, in quibus repertum est illo die hostem
Romanorum esse periturum. |
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[マクセンティウスは]この声に驚愕して急ぎ立ち去り、数名の元老院議員たちを呼んで、シビュラの書が調べられるように命じる。それらの書物の中に、ローマ人たちの敵が滅びるべき日付が見出された。 |
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Quo responso in spem victoriae inductus procedit, in aciem venit.
Pons a tergo eius scinditur. Eo viso pugna crudescit et manus dei supererat
aciei. Maxentianus proterretur, ipse in fugam versus properat ad pontem,
qui interruptus erat, ac multitudine fugientium pressus in Tiberim deturbatur.
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[マクセンティウスは]その神託によって勝利の望みへと導かれ、戦闘[の場]へと行った。橋はマクセンティウスの背後で崩される。それを見て戦いは烈しさを増す。神の御手が戦闘を支配し、マクセンティウスの軍は追い払われる。[マクセンティウスは]逃げて橋の方へと急ぐ。橋は途中で崩れている。逃げる大勢の兵士たちによって、[マクセンティウスは]ティベル河へと押されて突き落とされる。 |
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Confecto tandem acerbissimo bello cum magna senatus populique Romani
laetitia susceptus imperator Constantinus Maximini perfidiam cognoscit,
litteras deprehendit, statuas et imagines invenit. |
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非常に苛烈な戦争が遂に終わり、元老院とローマの人々の大きな喜びとともに、[コンスタンティヌスは]皇帝に推戴された。[コンスタンティヌスは]マクシミヌス(註7)の裏切りを知った。[マクシミヌスがマクセンティウスに宛てて書いた]手紙を押さえ、[マクシミヌス、マクセンティウス両人を表した一対の]像と絵も見つけたのである。 |
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Senatus Constantino virtutis gratia primi nominis titulum decrevit,
quem sibi Maximinus vindicabat: ad quem victoria liberatae urbis cum fuisset
adlata, non aliter accepit, quam si ipse victus esset. |
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元老院はコンスタンティヌスに対し、その功績ゆえに、第一の名前である称号(註8)を[許すことを]承認した。マクシミヌスはその称号を自らのものとして求めていたのである。解放されたローマの勝利がマクシミヌスに伝えられると、[彼はその知らせを]まさに自身が打ち負かされたかのように受け取った。 |
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Cognito deinde senatus decreto sic exarsit dolore, ut inimicitias
aperte profiteretur, convicia iocis mixta adversus imperatorem maximum
diceret. |
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さらに元老院の宣言を知ると、[マクシミヌスは]苦々しさに激怒し、[コンスタンティヌスに対する]敵意を大っぴらに公言し、皇帝(インペラートル・マクシムス)に対して、からかいが混じった数々の罵詈雑言を発するほどであった。 |
以上に引用し全訳した「迫害者たちの死について」 44章には、ムルウィウス橋での戦闘は記録されていますが、空に出現した奇跡については如何なる言及も見られません。ただしコンスタンティヌスが夢において、「兵士の楯にクリスムを描け」との神託を受けたことが語られ、且つ神の意志が戦闘の帰趨を決定したことを明確に述べています。
(下) 交差部にクリスム (le chrisme) をあしらった十字架。クリスムはギリシア文字「キー」(Χ) と「ロー」(Ρ) を組み合わせたモノグラムです。「キー」(Χ)
と「ロー」(Ρ) は、ギリシア語で「キリスト」を表す「クリストス」(Χριστός ) の最初の二文字であるゆえに、クリスムはイエス・キリストを象徴します。十字架は
当店の販売済み商品。
【エウセビオスによる記述】
カイサレアのエウセビオス (Eusebius Caesariensis, Εὐσέβιος ὁ Καισάρειος, c. 265 - 339)
は「コンスタンティヌスの生涯」(
"Vita Constantini") 第1章 26 - 31節で「ムルウィウス橋の戦い」を扱い、28節にこの奇跡を記録しています。エウセビオスはこの奇跡に関する証言を、コンスタンティヌス帝本人から直接聞いて記録しています。また皇帝だけではなく、コンスタンティヌスに従う全軍がこの奇跡を目撃したと伝えています。
(上) Piero della Francesca,
"la battaglia di Ponte Milvio" dalla
"Leggenda della Vera Croce", affresco, 329 x 747 cm; San Francesco, Arezzo
ミーニュの「パトロロギア・グラエカ」(Migne, PG vol. 20 col. 939) により原テキストを引用します。日本語訳は筆者(広川)によります。
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"Βίος Κωνσταντίνου", 1. 28 |
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「コンスタンティヌスの生涯」 |
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Ἀνεκαλεῖτο δῆτα ἐν εὐχαῖς τοῦτον, ἀντιβολῶν καὶ ποτνιώμενος φῆναι αὐτῷ ἑαυτὸν ὅστις εἴη καὶ τὴν ἑαυτοῦ δεξιὰν χεῖρα τοῖς προκειμένοις ἐπορέξαι. |
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たしかに[コンスタンティヌスは]祈りつつその御方に呼びかけて、どのような方であらせられるのかを自分に対しておっしゃっていただくように、また目の前にいる者たちに右手を差し出してくださるように、大きな声で請い願った。 |
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Εὐχομένῳ δὲ ταῦτα καὶ λιπαρῶς ἱκετεύοντι τῷ βασιλεῖ θεοσημεία τις
ἐπιφαίνεται παραδοξοτάτη, |
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このように熱心な願いを以て祈っているときに、ある驚くべき奇瑞が皇帝に対して現出した。 |
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ἣν τάχα μὲν ἄλλου λέγοντος οὐ ῥᾴδιον ἦν ἀποδέξασθαι, αὐτοῦ δὲ τοῦ
νικητοῦ βασιλέως τοῖς τὴν γραφὴν διηγουμένοις ἡμῖν μακροῖς ὕστερον χρόνοις,
ὅτε ἠξιώθημεν τῆς αὐτοῦ γνώσεώς τε καὶ ὁμιλίας, ἐξαγγείλαντος ὅρκοις τε
πιστωσαμένου τὸν λόγον, τίς ἂν ἀμφιβάλοι μὴ οὐχὶ πιστεῦσαι τῷ διηγήματι;
μάλισθ’ ὅτε καὶ ὁ μετὰ ταῦτα χρόνος ἀληθῆ τῷ λόγῳ παρέσχε τὴν μαρτυρίαν. |
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もしも他の人物が語ったのであれば、すぐには受け入れ難かったであろう。しかし勝利した皇帝自身からずっと後になって、筆者が皇帝の知己を得て御許に侍るようになった際に、誓いによって確言されたことであってみれば、その言葉を誰が疑い得よう。とりわけ、後の証言によってもその真正性が確かめられているのだから。 |
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Ἀμφὶ μεσημβρινὰς ἡλίου ὥρας, ἤδη τῆς ἡμέρας ἀποκλινούσης, αὐτοῖς
ὀφθαλμοῖς ἰδεῖν ἔφη ἐν αὐτῷ οὐρανῷ ὑπερκείμενον τοῦ ἡλίου σταυροῦ τρόπαιον
ἐκ φωτὸς συνιστάμενον, γραφήν τε αὐτῷ συνῆφθαι λέγουσαν· τούτῳ νίκα. |
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正午頃、すでに一日が終わりに向かい始めていたとき、太陽よりも上方のまさに空の上に、光を帯びた十字架の印が、皇帝自身の目に見えた。そこには「これにて勝利せよ」との文言が読めた。 |
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Θάμβος δ’ ἐπὶ τῷ θεάματι κρατῆσαι αὐτόν τε καὶ τὸ στρατιωτικὸν ἅπαν,
ὃ δὴ στελλομένῳ ποι πορείαν συνείπετό τε καὶ θεωρὸν ἐγίνετο τοῦ θαύματος.
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皇帝も、この遠征で皇帝に従い奇跡を目撃した全軍も、この光景にひどく驚いた。 |
マクセンティウスとの決戦を翌日に控えたコンスタンティヌスは、未だ知られざる神に向かって、あなたはどなたですかと問いかけ、また自身を神が助けたまうことを祈願しています。その祈願に応えて現れたのが十字架の印であり、「これにて勝利せよ」という文字でした。十字架は、いうまでもなく、この神がキリスト教の神であることを示しています。また「これにて勝利せよ」という言葉は、翌日の決戦の帰趨が神の摂理のうちにあることを示しています。
十字架に書かれていたのはギリシア語で、「エン・トゥートー・ニカ」(Ἐν τούτῳ νίκα 「これにて勝利せよ」)という言葉でしたが、この言葉はラテン語では「イン・ホーク・シグノー・ウィンケース」(IN
HOC SIGNO VINCES 「汝、この印にて勝利せむ」)と訳すのが慣例になっています。ギリシア語の「ニカ」(νίκα) は命令法、ラテン語の「ウィンケース」(VINCES)
は直説法未来形で、いずれも力強く断定的な表現です。特に後者は、直説法未来形であるゆえに、ムルウィウス橋の戦闘におけるコンスタンティヌスの勝利が、神の摂理によってもたらされたものであることを、いっそう強く示唆しています。
(上) ミニェの奇跡の小聖画
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なお空に十字架が出現する奇跡は世界各地でたびたび記録されています。フランス西部の小村ミニェ(Migné ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ヴィエンヌ県)では、1826年12月17日、クロワ・ド・
ミシオン(野外に立てる大型の十字架)の建立式に人々が集まり、説教師の話に耳を傾けていたところ、光り輝く十字架が空中に出現しました。
佐世保湾南西部の横瀬浦(長崎県西海市)は、現在では佐世保への連絡船が発着する小さな港ですが、領主大村純忠は 1562年、ここを南蛮貿易の港としました。横瀬浦は大村家の内乱のために焼き払われ、その繁栄はわずか一年余りで終焉を迎えます。しかしながら横瀬浦が開港していた間、この港は「キリシタンを助け給う聖母(羅
Maria Auxilium Christianorum)の港」と呼ばれて、日本とヨーロッパをつなぐ最大の貿易港でした。
横瀬浦の北、佐世保湾内に浮かぶ八ノ子島(はちのこじま)は上空から見るとほぼ円形で、椀をひっくり返したように特徴的な形をしており、頂上に真っ白な十字架が立っています。現在の十字架は言うまでもなく後世の再建ですが、八ノ子島にはキリシタン時代にも白い十字架が立っていました。ポルトガル人医師でイエズス会士でもあったルイス・デ・アルメイダ(Luís
de Almeida, c. 1525 - 1585)の記録によると、この十字架は、当地で三日間、毎日午後に空に出現した十字架を記念しています。
【ラファエロのフレスコ画「十字架の幻視」】
ヴァティカン宮殿には「ラファエロの間」(le Stanze di Raffaello) と呼ばれる四つの部屋があります。教皇レオ10世は、1517年、この四つの部屋をフレスコ画で飾るべくラファエロ・サンツィオ (Raffaello Sanzio, 1483 - 1520) に依頼しました。
(上) Giulio Romano (1499 - 1546) e Raffaellino Del Colle (1495 - 1566),
"la Visione della Croce", 1520 - 1524, affresco, Sala di Constantino, Musei Vaticani
「ラファエロの間」四部屋のうち、最も広い東端の部屋「コンスタンティヌスの間」(la Sala di Costantino) には、コンスタンティヌス帝が十字架あるいはクリスムを幻視した故事を描いた「十字架の幻視」(
la Visione della Croce) が描かれています。1520年にラファエロが亡くなったとき、この作品は紙に下描きが為された段階で、実際のフレスコ画はジュリオ・ロマーノ (Giulio
Romano, 1499 - 1546) によって制作されました。上に示した作品がそれで、三人の天使に支えられた赤い十字架が雲間に現れています。十字架から射す光の帯にはギリシア語で「エン・トゥートー・ニカ」(Ἐν
τούτῳ νίκα 「これによりて勝利せよ」)と記されています。
註1 ラクタンティウスの文章は、直説法の動詞の時制に完了形、未完了過去形だけでなく、現在形も多用し、事態が眼前に展開するかのように生き生きとした描写を行っている。ラクタンティウスの原文を頭の中で日本語に直さず、いわばローマ人になり切って読むと不自然さは感じないが、日本語訳ではどうしてもぎこちなくなる。これは印欧語と日本語における動詞運用システムの違い、すなわち印欧語の動詞には時制があるが、日本語の動詞には時制が存在しないことに起因する問題であって、根本的な解決策は存在しない。
註2 直訳 「戦力のより多くが、マクセンティウス[の側]にあった。」
註3 マウリー(MAURI)、ガエトゥーリー(GAETULI) はいずれも北アフリカの民族である。マウリーは後のムーア人に当たる。
註4 すなわち Nota, neque his fuga, neque illis [fuga]. ※ "his fuga"、"illis
fuga" は、ともに絶対的奪格。
註5 ここでいうドゥークス(DUX)は、在ローマの皇帝マクセンティウスのこと。"DUX" の原意は「導く者」で、戦闘を仕切る将軍の意味にも、国を導く君主や支配者の意味にも使われる。
註6 マクセンティウスはローマ市の大競演場(Circus Maximus 現在のチルコ・マッシモ il Circo Massimo)で即位五周年の記念行事を開催した。ここに言及されているのは、その時の様子である。
註7 マクシミヌス・ダイア(ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌス Gaius Valerius Galerius Maximinus,
270 - 313)のこと。マクシミヌスは 311年からリキニウスと共にローマ帝国の東半分を治めていたが、リキニウスがコンスタンティヌスと連携すると、コンスタンティヌスの敵であるマクセンティウスと通じて、副帝を名乗った。
註8 マークシムス(羅 Maximus 最も大いなる者)という称号を指す。
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