カニヴェの歴史 第三部 19世紀フランスにおけるカニヴェ
canivets français du XIXe siècle
版画カニヴェの普及
銅版画や石版画の周囲に、型による切り絵細工を施したカニヴェが1810年に考案され、1830年代には社会に広く普及しました。これら版画によるカニヴェは数多く作ることが可能であり、カトリック教会は信徒教育に資するものとして版画カニヴェの製作を歓迎しました。
版画による19世紀のカニヴェには、ともすれば「サン=シュルピス教会風 (style saint- sulpicien)」「ボンデュズリ(bondieuserie 神様趣味)」とも揶揄されるキッチュ(俗悪)な作風のものも見られましたが、多くはたいへん美しく、美術品と呼ばれるに値する細密銅版画となっています。
版画による19世紀のカニヴェは、様々な版元からシリーズ化して発行されました。主な版元にはブアス=ルベル (Bouasse-Lebel)、シャルル・ルタイユ
(Charles Letaille)、ブマール・エ・フィス (Boumard et Fils) などがあり、これら版元の名前がカニヴェに刷り込まれました。主な版元名の表記と年代の関係は次の通りです。
Bouasse-Lebel, Paris: 1845 - ?
Chapoulaud Freres, Limoges et Paris: 1607 - 1878
Charles Letaille, Paris: 1839 - 1873 / Ancienne Maison Charles Letaille,
Boumard et Fils successeur, Paris: 1873 - ?
Dopter, Paris: 1824 - 1878
Maison Basset: fl. 1760 - 1890
Turgis Fils: 1894 - 1932
Victor Regnault, Paris: XIXe siècle
Wicker: XXe siècle
カニヴェの版画技法
19世紀に製作されたカニヴェの版画は、クロモリトグラフ(多色刷り石版画)、またはインタリオ、すなわちオー・フォルト(エッチング)及びグラヴュール(エングレーヴィング)による銅版画です。インタリオには手彩色が施される場合があります。
写真術が普及する以前の銅版画は非常に細密です。特に19世紀のカニヴェは葉書の半分くらいのサイズであり、画面が小さいゆえに、カニヴェの銅版画は写真と見紛うほどの精緻さで製作されています。実例を示します。
実例 1 「スルトの無原罪の御宿り」(パリ、ドプテ社 図版番号不詳 19世紀半ばまたは後半)
“Immaculee Conception”, 109 x 67 mm, Dopter, Paris
当店の商品です。
ムリリョの「スルトの無原罪の御宿り」(
“La Inmaculada de Soult”, 1678) に基づくカニヴェ。聖母の髪とプッティの髪を
オー・フォルト(エッチング)で、それ以外のほぼ全画面を
グラヴュール(エングレーヴィング)で製作しています。
聖母が身に纏(まと)う衣は真っ白で、この聖画において最も明度が高いので、光が当たる部分にインタリオの溝が刻まれていません。これに対し聖母の肌とプッティの肌は明るい色ながらも、純白の衣に比べると明度が落ちます。この部分には実線状の溝の代わりに破線状の溝を刻むことにより、紙に転写されるインクの量を最小限に抑えています。
グラヴュールはオー・フォルトと違って、グラヴール(彫刻家、製版職人)がこれらの溝を人力で彫りますから、非常な熟練を要するうえに、たいへんな手間と時間がかかります。それゆえ通常の版画ではオー・フォルトを多用しますが、この作品は手間とコストをいとわず、ほぼ全画面がグラヴュールにより製作されています。下の拡大写真で、定規のひと目盛は1ミリメートルです。
実例 2 「すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ。われ汝らを休ません。」(ポワチエ、ボナミ社 図版番号32 1880年代)
“VENEZ A MOI, o vous tous qui travaillez et qui etes
fatigues. VENEZ. et je vous soulagerai. St. Matthieu 11. 28”, 120 x 80 mm, Bonamy, Poitiers
当店の商品です。
版画カニヴェのなかでも、とりわけ素晴らしい出来栄えの作品。
聖心と手の釘痕を示して罪びとに語りかけるイエズス・キリストを、緻密なエングレーヴィングによって写真のようにリアルに描き出しています。
寛衣を身に着け、片脚で体重を支えるコントラポストの姿勢を取り、フランス人になじみ深い田舎の風景のなかに立つイエズスは、あたかも眼前におわすかのような錯覚さえ与えます。両手には大きく痛々しい孔が開き、心臓も荊冠に取り巻かれて血を流し、さらに裸足の両足で太い茨を踏んでおられるにもかかわらず、イエズスの表情はあくまでも穏やかで、柔和な眼差しには慈(いつく)しみが溢れています。聖心には愛の炎が燃え、両手の釘痕とともに慈愛の光に輝いています。
イエズスの衣と背景の空はグラヴュール、顔と手足、背景の山野、川面、足下の草はオー・フォルトで、それぞれ製作されています。オー・フォルトはグラヴュールに比べて緻密さに劣る場合がありますが、カニヴェは画面が小さいので、たとえオー・フォルトであってもグラヴュールと同等のきめの細かさとなります。特にこのカニヴェの聖画はグラヴュールで製作された部分の面積が大きいために、あたかも写真のように緻密でくっきりとした描写を実現しています。
聖画の右下に、「ビュランが(版を)彫った」(Buland sc.) と刻まれています。ジャン=エミール・ビュラン (Jean-Emile Buland,
1857 - 1938) は1880年にローマ賞を受賞したフランスの高名なエングレーヴァーで、画家ジャン=ウジェーヌ・ビュラン (Jean-Eugene
Buland, 1852 - 1926) の弟です。
実例 3 鋼版インタリオに手彩色 「ルルドの聖母への信心」(パリ、シャルル・ルタイユ社 図版番号 417 1876 - 1890年頃)
“Dévotion a N-D de Lourdes, petit perelinage de cœur en union à Bernadette”, 106 x 71 mm, Ch. Letaille, Paris
当店の商品です。
1858年にルルドに出現した聖母を、精密なインタリオで描いた1870年代頃のカニヴェ。手彩色が施されています。
1858年3月25日、マサビエルの岩場に不思議な女性が16回目に出現すると、当時14歳であったルルドの少女ベルナデットは4回繰り返して名前を訊ねました。ベルナデットはそれまでも毎日、質問を3回繰り返して女性に名前を訊ねていましたが、女性は答えませんでした。この日も質問を3回繰り返した時点では女性は微笑むだけで答えませんでしたが、ベルナデットが4回目に質問すると、微笑むのを止め、目を天に向け、下ろしていた両手を胸の前で組んで、「わたしは
無原罪の御宿りです。」と答えたのでした。
カニヴェの表(おもて)面に描かれた聖母は、このときの姿です。「わたしは無原罪の御宿りです」(Je suis l'Immaculee Conception.)
という聖母の言葉は、聖母の頭上、アーチ状のバンドロールに、イール=ド=フランス方言(標準フランス語)で刻まれています。
聖母はヴェールを被って戴冠しており、右腕に
ロザリオを掛けています。聖母の顔の実寸は、高さ約5ミリメートル。冠の星の直径は 0.3~0.5ミリメートル。星にはひとつひとつ金彩が施されています。
聖母の足許には、薔薇あるいは茨が生えています。聖母は裸足ですが、薔薇の棘に傷つくことなく立っています。創世記のエヴァと同じく女性でありながらも、原罪を受け継がずに母アンナの胎内に宿りたもうたマリアは、5世紀のラテン詩人セドゥーリウス
(Coelius/Caelius Sedulius, 5th century) によって、棘のある茎の間から生え出でつつも傷を受けない
薔薇の花にたとえられました。聖母の足下の薔薇には花がありませんが、これは聖母自身が薔薇の花であるからです。
このカニヴェは裏面にもオー・フォルトによる絵が描かれています。右上の岩の窪み、薔薇の繁みのなかに、明るい光に包まれて現れた聖母は、長い衣とマントを着け、ヴェールを被ってロザリオを持ち、胸の前に手を合わせています。足は裸足です。
聖母の両側には、純潔の象徴である白百合が配されています。神に愛されたマリアは、旧約聖書の恋の歌「雅歌」2:2において「わたしの恋人」と呼ばれ、百合の花に喩えられています。
左下に跪いて聖母に名を訊ねているのは少女ベルナデットです。白いヴェールを被ったベルナデットは、左手にろうそく、右手にロザリオを持ち、上方にある岩の窪みに現れた聖母に名前を訊ねています。ベルナデットの顔の実寸は、高さ約4ミリメートルです。
カニヴェの最下部には、パリ、シャルル・ルタイユ (Charles Letaille Editeur, 1839 - 1873)
の社名が「教皇庁御用達」(Editeur Pontifical) の文字とともに刻まれています。シャルル・ルタイユはパリのサン・ジャック通
50番にあったカトリック関連書籍の出版社で、数多くの小聖画の版元でした。
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