現代的な意匠による受胎告知の銀無垢メダイ。神から遣わされた大天使ガブリエルによって救い主の受胎を告知されたとき、マリアは十代半ばの少女でした。このメダイにおいて、初々しい少女マリアは艶やかな髪に花嫁のヴェールを被り、軽く目を閉じて神との対話に耽りつつ、ガブリエルの言葉の意味に思いを巡らせています。
プロテスタントと違って、カトリックでは聖母マリアを大切にしますが、それは受胎告知の際、マリアが自由意志を以って受胎の告知を受け入れたからです。福音書が伝える言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(「ルカによる福音書」
1:38)が、マリアの意志を示しています。
プロテスタント思想においては、人間は善を為すことができません。人間にできるのは、罪を犯すことだけです。しかるにカトリックにおいては、人間は善を為す自由を有すると考えられています。神は救いを強制せず、マリアは自由意志を以って、全人類のために救いを受け入れたのです。したがって、受胎告知の際「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたマリアの言葉には、たいへん深い意味があります。
(上) Fra Angelico, "l'Annunciazione di San Giovanni Valdarno", 1430 - 1432, tempera su tavola, 195 x 158 cm, il Museo della basilica di Santa Maria delle Grazie, San Giovanni Valdarno
フラ・アンジェリコが制作した数点の受胎告知画はいずれも良く知られていますが、多くの作品では主画面中の遠景に楽園追放の光景を描いたり、旧約預言書の言葉を想起させる神の姿を描いたりしています。上の写真はフラ・アンジェリコが
1430年から 1432年頃に制作した祭壇画「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの受胎告知」です。左上方の遠景には楽園追放の光景が、アーチ間の円形小画面には父なる神の姿とともに「エッケ・ウィルゴー・コンキピエット」(ECCE
VIRGO CONCIPIET 「見よ、おとめが身ごもるべし」 イザヤ 7: 14)との言葉が描き込まれています。マリアの頭上には鳩から光が注いでおり、救い主の受胎が聖霊の力による出来事であることを示しています。祭壇画下部に並置される小品群をイタリア語で「プレデッラ」(predella 「基底」の意)といいますが、フラ・アンジェリコはこのプレデッラも活用して、聖母の生涯を描いています。
中世において無学文盲の人々を教育する役割を果たした祭壇画やステンドグラスは、盛りだくさんの内容を細かく描き込んだ「目で見る聖書」でした。「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの受胎告知」はその一例です。しかしながら聖書や聖伝、聖人伝は膨大な内容があって、詳しく描こうとすればきりがありません。また神ご自身に関して言えば、神の属性はそもそも人間の知性の認識能力を超えています。トマス・アクィナスが「スンマ・テオロギアエ」において言うように、神がどのような方であるかということを、人間の知性はまったく認識できないのです(S.
Th. 1a, q. 88)。
したがっていくら大きな画面に詳しく描いても、あるいは言葉の助けを借りても、神の属性、たとえば「神の愛」や「神の義」をありのままの形で表現することは、原理的に不可能です。我々が知る「義」は、罪を赦さずに厳しく裁きます。我々が知る「愛」は、人を裁かず罪を赦します。人間の知性において「義」と「愛」は先鋭に対立する観念です。しかるに神においては「義」と「愛」が一致しています。人間の知性はこのような事態を理解することができず、表現することもできません。
このように考えてゆくと、「キリスト教美術」はそもそも存在し得るのかという問いに到達します。筆者(広川)の考えを結論から言えば、神ご自身を描くのが原理的に不可能であることは、上述したとおりです。しかしながら神に関係しつつも神ご自身を描くわけではない場合、たとえば受肉し給うたキリストや、聖母、諸聖人を描く場合は、美術をはじめとする芸術表現は成立し得ます。そのような表現の相応しいあり方については多様な意見があり得るでしょうが、筆者の考えでは、「レス・イズ・モア」、すなわち美術表現の内包を極限まで減らすことで、表現されるものの外縁を最大限に広げてゆくミニマリスムの思想と手法は、キリスト教美術との間に本質的親和性を有します。
「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの受胎告知」と本品を比べると、見た感じがずいぶんと異なります。これは作者が異なるからではありません。フラ・アンジェリコの絵を同時代の別人による作品と比べても、作風がこれほど異なることはありません。「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの受胎告知」と本品の作風が大きく異なる理由は、作者が別人であるからでも、技量に差があるからでもなく、作品制作の背景にある思想が異なるからです。フラ・アンジェリコはさまざまな図像を詳しく描き込むことにより、祭壇画の内容をいっそう豊かにしようとしています。その一方で本品の作者は、マリア像を簡素な線と面に還元することにより、一枚の小メダイのうちに、無限の神の恩寵を表現しようと試みています。二つの作品の芸術性に優劣はありませんが、本品は可能な限り簡素な表現を意図的に目指しており、1960年代から
70年代のミニマリスムを色濃く反映した作例となっています。
裏面上部にある菱形は「ポワンソン・ド・メートル」(poinçon de maître フランスの銀細工工房の刻印)です。数字は「ポワンソン・ド・ガランティ」(poinçon
de garantie 純度の刻印)で、「八百パーミル(800/1000、八十パーセント)の銀」を示します。銀はメダイに使われる最も高級な素材です。
フランスの古い銀製品に刻印されたポワンソンは、「テト・ド・サングリエ」(tête de sanglier イノシシの頭)あるいは「クラブ」(crabe 蟹)をよく目にします。このふたつはいずれも純度八百パーミルの銀を示しますが、「テト・ド・サングリエ」が
1838年から 1962年までの間にモネ・ド・パリ(la monnaie de Paris パリ造幣局)で検質された銀製品に刻印されるのに対し、「クラブ」は
1838年以降現在に至るまで、パリ以外の貴金属検質所で検質された銀製品に刻印されます。下に示した写真は、一枚目がアール・ヌーヴォー期の時計バンドに見られる「テト・ド・サングリエ」の刻印、二枚目が二十世紀半ばのメダイに見られる「クラブ」の刻印です。
poinçon tête de sanglier
poinçon crabe
本品は純度八百パーミルの銀製ですが、「テト・ド・サングリエ」も「クラブ」も刻印されていないので、 パリにおいて 1963年以降に検質されたものと考えられます。本品の制作年代を意匠から判断すれば、1963年以降、1970年代頃まででしょう。
このメダイは数十年前のフランスで制作された真正のヴィンテージ品ですが、保存状態は極めて良好です。特筆すべき問題は何もありません。
銀製品は硫化による黒ずみを心配される方が多いですが、本品はロジウムめっきを掛けてあるらしく、しばらく放置しても黒ずみは起こりませんでした。めっきが掛けられていない銀製品であっても、身に着けていれば肌や衣服との摩擦で自然に磨かれて黒ずみません。長期間放置したり、着用したまま温泉に入ったりして黒ずんだ場合でも、家庭にある練り歯磨きで簡単にクリーニングできます。