ハギオグラフィア 聖人伝学
hagiographia
(上) 15世紀ドイツの聖女ウルスラ伝板絵。Scenes from the Small Ursula Cycle, oil on pinewood,
54,5 x 162 and 55 x 150 cm, respectively, Wallraf-Richartz-Museum, Koeln
ノンフィクションとして読まれるはずの内容を創作するなどということは、現代の感覚では倫理に反します。しかし古代・中世の聖人伝作者たちは、目的が手段を正当化すると考えていました。すなわち信仰を鼓舞するという高貴な目的のためであれば、でたらめな聖人伝を書くことも罪ではないし、むしろ良いことであると考えていたのです。
自分が書いている内容が創作であると分かっていながら、いわば善意ででたらめな聖人伝を書く確信犯的な著者たちがいるいっぽうで、嘘をついているつもりがなく、歴史的裏付けの無いことを述べる人たちもいました。ミラノの聖アンブロシウス
(Sanctus Aurelius Ambrosius, c. 340 - 397) は「蜜の流れる博士」(DOCTOR MELLIFLUUS)
と称される教会博士であり、最も高名なラテン教父のひとりであり、アウグスティヌス (Sanctus Aurelius Augustinus Hipponensis,
354 - 430) の師であり、
「テ・デウム」、アンブロジオ聖歌(グレゴリオ聖歌の一部)の作者ともされる高徳の聖人ですが、誰にも知られていなかった殉教者の墓所を、啓示により発見したと伝えられています。
【宗教改革の果実としてのハギオグラフィア】
16世紀に宗教改革が起こり、荒唐無稽な聖人伝がプロテスタントからの攻撃に晒(さら)されるようになると、聖人伝中に見られる玉石混淆の内容を、科学精神に基づく史料批判により、歴史的事実とそうでない部分に分けようとする学術的研究、「ハギオグラフィア」(HAGIOGRAPHIA 聖人伝学)が、カトリック教会の内部に生まれました。特に著名な草創期の聖人伝学者として、ユトレヒト(オランダ)出身のイエズス会士エリベール・ロスワイデ
(Héribert Rosweyde, 1569 - 1629)、フランスのサン=モール会士ニコラ=ユーグ・メナール (Nicolas-Hugues
Ménard, 1585 - 1644)、同じくフランスのサン=モール会士であるリュック・ダシェリ (Luc d'Achéry, 1609 -
1685) が挙げられます。
サン=モール会 (La congrégation de Saint-Maur) は 1621年に創設された修道会で、会の名前はヌルシアの聖ベネディクトゥスの高弟であり、ベネディクト会則をガリア(フランス)にもたらした聖モール
(St. Maur, 512 - 584) に因みます。パリのサン=ジェルマン修道院 (l'abbaye de Saint-Germain-des-Prés)
を本部とし、フランス革命時の1790年、憲法制定国民議会によって解散されるまで、フランスで最高水準の学術研究機関でした。
【エリベール・ロスワイデ】
(上) ロスワイデによるオランダ語訳「フロース・サンクトールム」の挿絵。1619年刊。
「フロース・サンクトールム」(
"FLOS SANCTORUM", 1599 – 1610) は、スペインのイエズス会士ペドロ・デ・リバデネイラ (Pedro de Ribadeneyra, 1526 -
1611) による聖人伝集成です。
エリベール・ロスワイデは 1569年、オランダのユトレヒトに生まれました。北フランスのドゥエー(Douai ノール=パ・ド・カレー地域圏ノール県)で、イエズス会が経営するドゥエー大学の付属コレージュ(中等学校)、コレージュ・ダンシャン
(Collège d'Anchin) に学んだ後、1588年にイエズス会に入会しました。1590年から1595年にかけてドゥエー大学で哲学を教えるかたわら、古い教会史資料、特に聖人伝資料に関心を持ち、周辺の修道院を巡って古文書を調べました。ロスワイデが実見した古文書の聖人伝は、当時本になって流布していた聖人伝とは内容が異なっており、ロスワイデは聖人伝の最古層まで遡って研究する必要を痛感しました。
1599年に叙階されたあと、アントワープのコレージュに赴任したロスワイデは、聖人伝研究をさらに進めるために、各地に散在する古文書の目録作りに取り組みます。1607年に出版した「ベルギーの文書室で筆写された聖人伝目録」(
"FASTI SANCTORUM QUORUM VITAE IN BELGICIS BIBLIOTHECIS MANUSCRIPTAE") は、各地で確認した聖人に関する古文書を、聖人名に従って排列したものです。
聖人伝研究のプロレゴメナとも呼ぶべきこの本において、ロスワイデは聖人伝研究の方法論を述べ、爾後の聖人伝研究についても言及しています。ロスワイデの計画では、聖人伝研究は全十八巻で完結し、第一巻でキリスト伝、第二巻で聖母マリア伝、第三巻で特に重要な聖人の伝承、第四巻から十五巻で教会暦の月ごとの聖人伝、十六巻で各時代・各地域ごとに異なる聖人伝の系譜を扱い、最後の二巻が補遺となる予定でした。
ロスワイデの計画は近世の批判的・実証的精神に合致し、多くの有力者の賛同と支持を集めました。しかしその事業規模はあまりにも巨大です。専門家の査読に耐える論文を書いた経験のある方ならお分かりのように、実証的な学術研究にはたいへんな時間と労力が必要です。ましてやロスワイデのように前人未到の分野を切り拓こうとすれば、その歩みの遅々たること、鬱蒼たる原生林にひとり分け入って道を開鑿し、橋を架け、トンネルを掘り抜くにも喩えることができましょう。司牧やその他の職務も抱えるロスワイデひとりの力では、たとえ数百年を掛けたとしても、この事業を完成させることはまず不可能です。ロスワイデは1629年に亡くなりましたが、この時点ではまだまだ資料集めの段階であり、当然のことながら本は一冊も完成していませんでした。
【ジャン・ボランとボランディストたち】
(上) 1643年刊の「アクタ・サンクトールム」の扉
ベルギーのイエズス会士ジャン・ボラン (Jean Bolland, 1596 - 1665) はベルギー東部、リエージュ近郊の村に生まれました。オランダのマーストリヒトとアントワープでイエズス会のコレージュに学んだ後、各地で教鞭を執りました。1620年からはルーヴァン大学で神学を研究し、1625年に叙階された後、メヘレンにあるイエズス会のコレージュの学事長となりました。
ボランはルーヴァン大学でオリエントの言語をいくつか習得し、古文書研究者としての素地を有していました。エリベール・ロスワイデが没した翌年である1630年、ボランの学識に期待したイエズス会の長上は、ボランをアントワープに呼び出し、ロスワイデが集めた資料を見せました。ロスワイデの事業の意義を理解したボランは、ロスワイデの出版計画を変更する自由、及びロスワイデが収集した資料を占有的に使用する権利を得た上で、メヘレンからアントワープに移り、「アクタ・サンクトールム」(ACTA
SANCTORUM) の編集責任者として、ロスワイデが遺した仕事を引き継ぎます。
1607年の本の題名(
"FASTI SANCTORUM QUORUM VITAE IN BELGICIS BIBLIOTHECIS MANUSCRIPTAE")が示す通り、ロスワイデはベルギー周辺で筆写された聖人伝に研究対象を限定していましたが、ボランは全ヨーロッパの学者の協力を得て、あらゆる地域の聖人伝を研究対象に加えました。またロスワイデは聖人伝の本文のみの出版を計画していましたが、ボランはそれぞれの聖人伝に関連するあらゆる資料を網羅し、分析することを目指しました。
ボランの計画はロスワイデのものよりもいっそう遠大であり、ボランがいくら優秀な学者であったとしても、ひとりの力では到底為し得る仕事ではありません。1635年以降はオランダの聖人伝学者ゴドフリー・ヘンスヘン
(Godfrey Henschen, 1601 - 1681)、1659年以降はベルギーの聖人伝学者ダニエル・ファン・パーペンブルーク (Daniel
van Papenbroeck, 1628 - 1714) を迎えて、1665年にボランが没したのちも編集作業が続行され、今日に至っています。
ボランが始めた聖人伝の編集に携わった学者たちは、ボランディストと呼ばれます。ボランディストの「アクタ・サンクトールム」(
"ACTA SANCTORUM") はすべてラテン語で、一月の聖人を扱った最初の二巻が、1643年に出版されました。1940年には12月の最初の巻が出て、今日もまだ編集作業が続いています。
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