東洋におけるカトリック宣教は、当初は専らイエズス会に委ねられていました。しかしながら同会の力は十八世紀に弱まり、十九世紀の中国ではヴィンセンシオ宣教会(ラザロ会)宣教活動の中心となりました。本品はヴィンセンシオ宣教会(ラザロ会)及び愛徳姉妹会によって東洋に持ち込まれ、現地の信徒に渡されるべく、フランスで制作されたメダイです。なお愛徳姉妹会は不思議のメダイで知られる女子修道会、ヴィンセンシオ宣教会は司祭が成員である宣教会で、いずれも聖ヴァンサン・ド・ポールの設立によります。
本品は打刻による浅浮き彫りを両面に有します。一方の面には、幼子イエスを抱く聖母が大きく表されています。
幼子イエスを抱く聖母が立ち姿で表現される場合、聖母は左腕に幼子を抱く作例が多く見られます。これは天に挙げられた聖母がイエスの右の座に着いていると考えられているからです。本品の聖母は戴冠して豪華な縁取りのあるマントを羽織り、左手に世界球を持っているので、天の元后として表されていることがわかります。しかしながら本品の聖母は幼子を右腕に抱いており、聖母子の立像としては比較的珍しい作例といえます。
幼子を抱く聖母の立像は、母子ともに前方(鑑賞者の方)に顔を向けたホデーゲートリア(希 ὁδηγήτρια)型の場合も多いですが、本品の浮き彫りは聖母子が顔を近づけて睦み合い、ゴシック彫刻に似た温かみを感じます。瞑目したように見える聖母は、神の救世の経綸に思いを潜めています。幼子イエスは母が差し出す世界球に左手を置き、東洋の子供たちをはじめとする地上の諸民族を、右手を挙げて祝福しています。
聖母に執り成しを求める中国語の祈りが、浮き彫り像の左右に刻まれています。祈りの言葉は次の通りです。実際のメダイでは、母、我、等の三文字が上下反転しています。
聖母瑪利亜為我等及異民的嬰孩祈 聖母マリアよ。我らのために、また異教徒の乳児たちのために、祈りたまえ。
もともと聖母は中国人にとっては媽祖(マーツォ)、日本人にとっては神功皇后(じんごうこうごう、じんく゚うこうごう)のことですから、「聖母瑪利亜」という冒頭の呼びかけは、当時の東洋人にとって鮮烈な驚きを伴ったことでしょう。この祈りの文言から、本品はカトリックに改宗した東洋人信徒用のメダイであること、中国での宣教は子供を重視して行われたことがうかがえます。
なお不思議のメダイを始め、この年代のフランス製メダイは、執り成しの祈りをラテン語ではなくフランス語で刻むのが普通です。しかるに本品は聖母に対して瑪利(仏
Marie)ではなく瑪利亜(希 Μαρία 羅 MARIA)と呼びかけていることが目を惹きます。フランス語ではなくラテン語を採用したマリアへの呼びかけは、全地全民族に通用する教会のカトリキタース(羅
CATHOLICITAS 仏 la catholicité 公同性)を意識したものでしょう。
異民的嬰孩(異教徒の乳児)に特に言及した祈りの言葉は、キリストが幼い子供たちを祝福し給うた出来事を思い起こさせます。このエピソードはすべての共観福音書に記録されています。「マタイによる福音書」十九章十三節から十五節、「マルコによる福音書」十章十三節から十六節、「ルカによる福音書」十八章十五節から十七節を、ネストレ=アーラント二十六版と新共同訳により引用いたします。
Τότε προσηνέχθησαν αὐτῷ παιδία, ἵνα τὰς χεῖρας ἐπιθῇ αὐτοῖς καὶ προσεύξηται: οἱ δὲ μαθηταὶ ἐπετίμησαν αὐτοῖς. ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν, Ἄφετε τὰ παιδία καὶ μὴ κωλύετε αὐτὰ ἐλθεῖν πρός με, τῶν γὰρ τοιούτων ἐστὶν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν. καὶ ἐπιθεὶς τὰς χεῖρας αὐτοῖς ἐπορεύθη ἐκεῖθεν. | そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。 | |||
Εὐαγγέλιον κατὰ Μαθθαῖον, X, 13 - 16, Nestle-Aland 26. Auflage | 「マタイによる福音書」十九章十三節から十五節 新共同訳 | |||
Καὶ προσέφερον αὐτῷ παιδία ἵνα αὐτῶν ἅψηται: οἱ δὲ μαθηταὶ ἐπετίμησαν αὐτοῖς. ἰδὼν δὲ ὁ Ἰησοῦς ἠγανάκτησεν καὶ εἶπεν αὐτοῖς, Ἄφετε τὰ παιδία ἔρχεσθαι πρός με, μὴ κωλύετε αὐτά, τῶν γὰρ τοιούτων ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ. ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν. καὶ ἐναγκαλισάμενος αὐτὰ κατευλόγει τιθεὶς τὰς χεῖρας ἐπ' αὐτά. | イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 | |||
Εὐαγγέλιον κατὰ Μᾶρκον, X, 13 - 16, Nestle-Aland 26. Auflage | 「マルコによる福音書」十章十三節から十六節 新共同訳 | |||
Προσέφερον δὲ αὐτῷ καὶ τὰ βρέφη ἵνα αὐτῶν ἅπτηται: ἰδόντες δὲ οἱ μαθηταὶ ἐπετίμων αὐτοῖς. ὁ δὲ Ἰησοῦς προσεκαλέσατο αὐτὰ λέγων, Ἄφετε τὰ παιδία ἔρχεσθαι πρός με καὶ μὴ κωλύετε αὐτά, τῶν γὰρ τοιούτων ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ. ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν. | イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 | |||
Εὐαγγέλιον κατὰ Λουκᾶν, XVIII, 15 - 17, Nestle-Aland 26. Auflage | 「ルカによる福音書」十八章十五節から十七節 新共同訳 |
上記引用箇所で子供たちを指す言葉は、マタイ伝(19: 13 - 15)及びマルコ伝(10: 13 - 16)ではパイディア(希 παιδία)、ルカ伝(18:
15 - 17)ではブレプェー(希 βρέφη)が使われています。ヴルガタにおいて、マタイ伝とマルコ伝のパイディアはパルウリィ(羅 PARVULI)、ルカ伝のブレプェーはイーンファンテース(羅
INFANTES)とラテン語訳されています。
マタイ伝とマルコ伝のパイディアあるいはパルウリィは、広義の「子供たち」を指す最も一般的な言葉です。しかるにルカ伝のブレプェーは、もともと胎児を表すギリシア語が新生児、乳児の意味に転じたものです。またこれをラテン語に訳したイーンファンテースは、「言葉をうまく話せない」という意味の形式所相動詞イーンフォル(羅
INFOR)の分詞に由来する語であって、まだ片言しか話せないような乳幼児、現代で言えば幼稚園入園前ぐらいの幼子を指します。ルカが選んだ言葉により、イエスが祝福し給うた子供たちは、ごく低い年齢の乳幼児であったことがわかります。
中国語「嬰孩」は、ギリシア語ブレプェー(希 βρέφη)、ラテン語イーンファンテース(羅 INFANTES)に当たる言葉です。したがって本品メダイはイエスが祝福し給うたような乳幼児のために、特に祝福を祈り求めていることがわかります。
上の写真に写っている三点の小聖画は、サンタンファンス会が新規加入者に渡した版画入りの証書(カシェ cachet)で、筆者(広川)が所蔵しています。右端のカシェの下部には、マリィ・ノダン(Marie
Naudin)というフランス人女性の名前と、1869年3月12日の日付が書き込まれています。
アンファンス(仏 enfance)とはフランス語で幼児期を指し、サンタンファンス(仏 la Sainte Enfance 聖なるアンファンス)はイエス・キリストの子供時代、あるいは幼子イエスを意味します。サンタンファンス会(仏
l'Association de la Sainte Enfance / l'Œuvre de la Sainte-Enfance 羅 Pontificium
Opus a Sancta Infantia)は 1843年にナントで創立されたカトリック慈善団体で、フランスで広く寄付を募り、宣教師と修道女たちが中国で行う貧民と孤児の救恤(きゅうじゅつ)、及び宣教活動を支えました。
聖画の下には「出エジプト記」二章九節がラテン語とフランス語で引用されています。ラテン語訳はヴルガタによります。フランス文の出典は不詳ですが、ヴルガタを正確に訳しています。内容は次の通りです。
ラテン語 | フランス語 | 筆者(広川)による和訳 | ||||
ACCIPE PUERUM ISTUM ET NUTRI MIHI : EGO DABO TIBI MERCEDEM TUAM. | Reçois cet Enfant et nourris-le pour moi : Je te donnerai moi-même la récompence. | この子を受け取り、わたしに代わって育てなさい。養育費はわたしが払います。 |
これはナイル川に棄てられた幼子モーセが姉ミリアムの機転により、エジプトの王女に拾われた際に、無関係の女のふりをしたモーセの実母に向かって王女が言った言葉です。モーセはイエスの前表であるとともに、愛徳姉妹会が救恤すべき中国の孤児たちの象徴ともなっています。
(上) "Dieu et les pauvres", Bouasse-Lebel, No. 641, 1853 愛徳姉妹会修道女を描いた 1853年頃のダンテル・メカニーク。当店の商品です。
愛徳姉妹会の修道女たちは、援けを必要とする人々に仕えることを修道生活の中心に据えました。サンタンファンスのカシェの版画は中国での孤児救恤をテーマとしていますが、同時代のフランスにおいて、愛徳姉妹会の修道女たちは看護師として大きな役割を担っていました。世俗の看護師が増えてきたのは、1920年代以降にすぎません。看護師として働く愛徳姉妹会会員の姿は、1960年代頃まではフランス各地の病院で普通に見かけることができましたし、老人や障害者、孤児、中毒者、移民、ホームレス等のための施設では、現在でも愛徳姉妹会の修道女たちが大勢活躍しています。
愛徳姉妹会の慈善活動は、「マタイによる福音書」二十五章三十一節から四十節に記録されたイエスの言葉を思い起こさせます。該当箇所を新共同訳により引用いたします。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 |
アジアやアフリカを始め、世界各地で活動する宣教師たちや修道女たちを、ヨーロッパ列強が送り込んだ侵略の手先と考える人たちがいます。しかしながらそれはたいへんな誤解です。
いつの時代、どこの地域の社会にも、既成の秩序に安住するタイプの人々と、そうでない人々がいます。カトリックの聖職者や修道者に関しても、事態は全く同じです。既成の秩序に安住し、支配者層の指示に従う人物であれば、ヨーロッパ本国で出世や安定を目指すでしょう。これに対して、殉教の危険がある東洋での活動を自ら志願した宣教師や修道女は、自分の身を可愛がるタイプではありませんでした。彼らは神の慈愛の炎に心を焼かれ、イエスへの愛ゆえに自身の全てを擲(なげう)って、宣教と慈善に身を投じました。信仰に基づく彼らの真情は本品メダイの祈りとなり、東洋の信徒と異教徒の乳幼児のために、神の御許(みもと)に立ち昇っています。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。聖母子の顔と手を始めとする各部は一、二ミリメートルに収まる極小サイズですが、細部まで丁寧に制作され、完全な美的均衡を実現しています。
本品が制作された当時の中国と日本では、宣教師やキリシタンが苛烈な迫害に晒され、多数の殉教者を出していました。東洋向けに作られた本品は現在までにほとんど全てが失われ、稀少な品物となっています。しかしながら百五十年以上前にはかなりの数が作られ、中国や日本に持ち込まれたはずです。
打刻は貨幣の製造と同じ方法で、効率的な大量生産に向いています。しかしながら丁寧に作られた本品は、魂の無い大量生産品とは真逆の信心具であり、東洋の救いを願う真摯な祈りが一片の金属メダイユに結晶化しています。
聖母の腰の後ろあたりにペ・デ(P D)のイニシアルがあります。先ほど取り上げたサンタンファンスのカシェ三点は、パリ近郊クリシーの版画・印刷工房ポール・デュポン(Paul Dupont)によります。ポール・デュポンがメダイユ制作を手掛けていたかどうか筆者(広川)は知らないのですが、同社は設備が整った大手のアンプリムリ(仏 imprimerie 印刷工場)であり、印刷とメダイユ打刻に似たような機械が使われることを考えれば、本品メダイに刻印されたペ・デも、もしかするとポール・デュポンのイニシアルかもしれません。
もう一つの可能性として、東洋貨幣協会(the Oriental Numismatic Society)が 1981年7月に発行した臨時16号に「中国で使われたキリスト教メダイユ」(Christiam medals used in China)という論文があり、著者のジョウ・クリブ(JoeCribb)氏はペ・デがフィリップ・デュラン(Philippe Durand)のイニシアルである可能性に言及しておられます。フィリップ・デュランは
1830年から 1860年頃にリヨンで活躍したメダイユ彫刻家とのことです。当時のフランスにおいて、リヨンはカトリックのメダイユ制作が盛んな場所の一つでした。
メダイのもう一方の面には、マリアの夫である聖ヨセフを浮き彫りにしています。ヨセフは左手に香(かぐわ)しい白百合を持ち、右手を挙げて東洋の人々を祝福しています。ヨセフを取り巻くように、次の言葉が中国語で刻まれています。
聖若瑟中國大主保、爲我等祈 中国の第一の守護聖人なる聖ヨセフよ、我らのために祈りたまえ。
聖母マリアは処女であったのに、イエスを懐胎しました。福音書が語るこの事実を視覚を通して納得させるために、伝統的キリスト教美術において、聖ヨセフは性交できない高齢の老人として表現されることがあります。しかしながら本品において、ヨセフはマリアと釣り合いが取れた若々しい姿で表現されています。
ヨセフが持つ白百合は禁欲の象徴ですが、ヨセフが性欲を失った高齢者であれば、禁欲に意味はありません。また弱弱しい姿であれば、大いなる中国大陸と、島国ながら高度の文化を有する日本を導く力があるようには見えないでしょう。本品に刻まれた若く堂々たるヨセフは、東洋の人々を導く頼もしい父性を象徴しています。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。この面のヨセフ像も聖母子像と同様の細密さを有し、非常に丁寧に造形されています。ヨセフの腰の左側(向かって右側)にペ・デのイニシアルがあります。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品に刻まれている祈りは中国語ですが、同様のメダイは宣教師によって長崎にも持ち込まれました。東京上野の国立博物館には本品の類品五種類十六点が収蔵されています。同館が収蔵する十六点のメダイは本品と似ていますが、同一ではありません。
本品と同時代の不思議のメダイも、東京国立博物館に多数収蔵されています。同館が収蔵する不思議のメダイは、大多数にフランス語の祈りが刻まれていますが、二種八点のメダイは中国語で刻まれています。片面に不思議のメダイの聖母像と祈りの言葉を刻み、もう片面にヨセフを刻んだメダイは四種八点が、片面に不思議のメダイの聖母像と祈りの言葉を刻み、もう片面に聖ヴァンサン・ド・ポールを刻んだメダイは一種十二点が、同館に収蔵されています。
東京国立博物館が収蔵する十九世紀のキリスト教メダイは、長崎県から教部省及び内務省社寺局を経て、明治十二年十二月十一日に内務省博物局に引き取られました。これらのメダイは浦上四番崩れの際、明治政府がキリシタンから没収したもので、棄教よりも殉教を選ぶ熱烈な信仰の証となっています。
本品は何らかの理由で中国あるいは日本に持ち込まれず、製造国フランスにそのまま残っていました。もしも中国に持ち込まれていれば、共産主義革命と文化大革命によっておそらく破壊されていたことでしょう。日本に持ち込まれていれば、明治政府によってキリシタンから没収され、今頃は東京国立博物館の収蔵品になっていたことでしょう。おそらくパリかパリ近郊のメダイユ工房で制作され、およそ百五十年を経て東洋に、しかも愛徳姉妹会及びヴィンセンシオ宣教会の日本本部がある神戸に到来した本品には、目標に必ずたどり着く不思議な力を感じます。
本品は 1850年代から 1860年代頃のフランスで制作された真正のアンティーク品です。百五十年以上の歳月を掛けて獲得された古色が、古美術品ならではの重厚な美を醸しています。古い年代にもかかわらず保存状態は良好で、細部までよく残っています。
本品はヴィンセンシオ宣教会(ラザロ会)と愛徳姉妹会が東洋宣教のために制作したメダイユです。一方の面に聖母子、もう一方の面に聖ヨセフをあしらった中国語のメダイユは、東京国立博物館が収蔵するもの、筆者が手許に持っているもの、文献上で知られるものを合わせると、細かい違いによって少なくとも七、八種類が知られます。本品はそのうちでも浮き彫りの出来映えが突出して優れ、最も美しい作例であり、お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。