聖ヴァンサン・ド・ポール
(仏) St Vincent de Paul (羅) VINCENTIUS A PAULO, 1581 - 1660
(上) 大型メダイ 《聖ヴァンサン・ド・ポールと聖フィロメナ》 少女のための無原罪のマリア信心会 42.2 x 31,4 mm フランス 1847年 当店の商品です。
聖ヴァンサン・ド・ポール(St Vincent de Paul 1581 - 1660)はカトリック教会の霊性改革及び貧者救済の活動に功績のあったフランスの司祭で、修道会、信心会、慈善団体の設立者として知られています。不思議のメダイで知られ、わが国では神戸市垂水区に本部のある愛徳姉妹会は、聖ヴァンサン・ド・ポールの設立によります。聖ヴァンサン・ド・ポールは
1737年に列聖されました。
【聖ヴァンサン・ド・ポールの生涯】
・幼少期から司祭叙階まで
ヴァンサン・ド・ポールは 1581年4月24日、フランス本土の南西端に近い小さな村ル・プイ(Le Pouy ヌーヴェル・アキテーヌ地域圏ランド県 註1)に、六人兄弟(男の子四人、女の子二人)の三人目として生まれました。
ド・ポール(de Paul)またはドポール(Depaul)はラング・ドック地方に見られる姓です。ド・ポール、ドポールのように「ド」で始まる名前は領地を指す場合が多いですが、ヴァンサン・ド・ポールの父ジャンも由緒ある家柄の自作農(註2)であり、母ベルトランド(Bertrande
de Moras)も恐らく小貴族と思われる富裕な家庭の出身でした。
ド・ポール家は大家族であったので、ヴァンサンは子供の頃から幼いきょうだいの面倒を見、羊や牛、豚の世話をして両親を助けました。ヴァンサンの父は息子が教育を身に着けて家業を助けることを望み、フランシスコ会がオロロン=サント=マリ(Oloron-Sainte-Marie ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ピレネー=アトランティック県)で運営するコルドリエ中等学校(le
Collège des Cordeliers)に、ヴァンサンを入学させました。ヴァンサンは三年間この学校に在籍し、極めて優秀な成績を収める一方、司祭になる望みを強めてゆきます。このようにしてヴァンサンは十六歳のときに司教から剃髪を受け、聖職の道を歩み始めました。
1597年から 1604年まで、ヴァンサンはトゥールーズ大学で神学を学びました。在学中の 1598年、ヴァンサンはタルブ(Tarbes オクシタニー地域圏オート・ピレネー県)司教から同地の司教座聖堂ノーチル=ダム・ド・ラ・セード(la
Cathédrale Notre-Dame-de-la-Sède)の副助祭、次いで二か月後には助祭に任命されました。1600年9月23日にはペリグー(Périgueux ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ドルドーニュ県)司教によって司祭に叙階されました。
・バルバリアからの脱出
広く信じられているところによると、1605年、神学博士号を取得するためにトゥールーズ大学で研究を続けていたヴァンサン・ド・ポールは、所用でマルセイユを訪れた帰りに、エグ・モルト(Aigues
Mortes オクシタニー地域圏ガール県)の沖合でバルバリア海賊(註3)に捕まり、奴隷として売られました。ヴァンサンは数人の主人の間を転売されましたが、最後の主人となった人物はニース(Nice フランス南東端の町)出身で、キリスト教を棄ててイスラム教に改宗した人物でした。ヴァンサン・ド・ポールはこの主人を回心させた上で、主人及びその三人の妻を連れてチュニスを脱出し、教皇から赦免を得るためにローマに連れて行ったと伝えられています。
聖人について伝えられているこのエピソードはたいへんよく知られていますが、本当にあった出来事であるかどうかは不明です。
・上流階級による慈善と、庶民宣教への目覚め
1610年、ヴァンサン・ド・ポールは教皇庁の推薦を受けてマルグリット・ド・フランス(Marguerite de France, 1553 -
1615 註4)の聴罪司祭となりました。マルグリットは収入の一部を慈善に寄付していましたが、その最も重要な寄付先は、神の聖ヨハネホスピタル修道会(l'ordre
hospitalier de Saint-Jean-de-Dieu 註5)でした。同修道会はフランスでは愛徳兄弟会(Frères de la
Charité)と呼ばれていました。ヴァンサン・ド・ポールが後に設立する愛徳姉妹会(Filles de la Charité)は、愛徳兄弟会すなわち神の聖ヨハネホスピタル修道会を範にしています。
1612年5月12日、ヴァンサン・ド・ポールはクリシー(Clichy イール・ド・フランス地域圏オー=ド=セーヌ県)にあるサン=ソヴール=サン=メダール教会(Saint-Sauveur-Saint-Médard)の主任司祭となりました。このとき聖人は三十一歳でした。翌
1613年にはフィリップ=エマニュエル・ド・ゴンディ(Philippe-Emmanuel de Gondi, 1580 - 1662 註6)の子息の家庭教師に任じられ、夫人の聴罪司祭も務めましたが、慈善のためフランス北東部ピカルディを訪れる夫人に同伴した際、同地の農民が心身ともに悲惨な境遇にある様子を目にします。1617年1月、ピカルディの村ガンヌ(Gannes オー=ド=フランス地域圏オワーズ県)において一人の老人に終油(病者の塗油)を与えた際、老人は総告解を行いました。ゴンディ夫人に勧められたヴァンサン・ド・ポールが、翌日の説教で告解の重要さを説いたところ、霊性が低いはずの村人たちの大勢が説教に応えて告解を行いました。この出来事がきっかけとなって、庶民に対する宣教の重要性に気付いたヴァンサン・ド・ポールは、フランス南東部の山間の村シャティヨン=シュル=シャラロンヌ(Châtillon-sur-Chalaronne オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アン県)の主任司祭となりました。またド・ゴンディ家の家庭教師でもあったヴァンサン・ド・ポールは、ガレー船漕ぎの徒刑囚たちをたびたび見舞っていましたが(註7)、フィリップ=エマニュエル・ド・ゴンディの推薦により、1619年にはガレー船団付きの司祭となりました。
・慈善団体と修道会の設立
(上) 「イエスを愛するはわが喜びのすべて。貧者に仕うるはわが幸いのすべて」 愛徳姉妹会のカニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号 641) "Dieu et les pauvres", Bouasse-Lebel, No. 641, 1853 105 x 67 mm フランス 1853年 当店の商品です。
1617年12月12日、ヴァンサン・ド・ポールは貧者救済を目的に、シャティヨン=シュル=シャラロンヌの富裕な家庭の夫人たちを組織して、愛徳婦人会(les
Dames de la Charité)という慈善団体を設立しました。1627年に同地を辞したヴァンサン・ド・ポールは、1633年11月29日、クリシーに愛徳姉妹会(les
Filles de la Charité)を設立しました。同会の初代総長はルイーズ・ド・マリヤック(Louise de Marillac, 1591
- 1660)です。愛徳姉妹会は後に正式名称を聖ヴァンサン・ド・ポール愛徳姉妹会(Compagnie des Filles de la Charité
de Saint Vincent de Paul)と改め、別名を聖ヴァンサン・ド・ポール姉妹会(les Sœurs de Saint Vincent
de Paul)とも呼ばれています。同会の使命は病者の看護、及び貧者の心身の救済で、世界中に支部を広げており、わが国の本部は兵庫県神戸市垂水区にあります。
またヴァンサン・ド・ポールはド・ゴンディ夫人の資金援助を得て、1625年に宣教修道会(la Congrégation de la Mission)、通称ラザロ会(les
Lazaristes)を設立します。ラザロ会という通称は、フランスの本部修道院がパリのサン=ラザール(l'enclos Saint-Lazare)にあったことに由来します(註8)。同会はわが国ではヴィンセンシオの宣教会と呼ばれており、日本本部は愛徳姉妹会と同じ場所にあります。宣教修道会は、その名が示す通り、宣教師の育成を使命としており、1646年にはアルジェに、1648年にはマダガスカルに、1651年にはポーランドに、それぞれ最初の宣教師を送り出しています。
1635年、ヴァンサン・ド・ポールは富裕な信徒たちからの寄付金により、パリに棄児養育院(l'Hôpital des Enfants-Trouvés)を設立しました。ヴァンサン・ド・ポールの棄児養育院は、聖人没後の
1670年にパリ一般施療院(l'Hôpital général de Paris 註9)に吸収されました。
1652年、ヴァンサン・ド・ポールは裕福な女性マリ・リュマルグ(Marie Lumague ou de Lumagne, 1599 - 1657)の援けを得て、聖ショーモンキリスト教連合会(l'Union-Chrétienne
de Saint-Chaumond)を設立しました。同会は幼児及び少女の教育を目的としており、現在も存続しています。またヴァンサン・ド・ポールは、1653年、イエスの聖名の救済院(l'hospice
du Saint-Nom-de-Jésus)をパリに設立しています。
・ヴァンサン・ド・ポールの死、列福、列聖
ヴァンサン・ド・ポールは 1660年9月28日に亡くなりました。遺体はサン・ラザールの修道院付属聖堂に埋葬されました。ヴァンサン・ド・ポールは大勢の人々と盛んに手紙をやり取りし、関係する書簡は三万通にも及んだと考えられています。このうちの
347通が現存しています。
ヴァンサン・ド・ポールは 1729年8月13日にベネディクトゥス十三世によって列福、1737年6月16日にクレメンス十二世によって列聖されました。1885年にはレオ十三世により、すべての慈善団体の守護聖人とされています。聖ヴァンサン・ド・ポールの遺体は現在もパリの宣教修道会(ラザロ会)修道院にあり、銀の棺に安置されています。聖人の心臓は愛徳姉妹会本部修道院付属聖堂にあります。また前腕はクリシーにあります。
註1 当時ル・プイと呼ばれていた聖人の生地は、十九世紀にサン=ヴァンサン=ド=ポール(Saint-Vincent-de-Paul 「聖ヴァンサン=ド=ポール」の意)と改名された。
註2 聖人の生地ル・プイはランド県南部にある。この辺りは歴史的にラ・シャロス(La Chalosse)と呼ばれる地方に当たる。ジャン・ド・ポールのような由緒ある家柄の自作農は、ラ・シャロスではカプカザリエ(capcazalier)と呼ばれる。カプカザリエは貴族ではなく平民だが、貴族並みに富裕な家柄もあった。
註3 バルバリアとは北アフリカの地中海沿岸のことで、ここを拠点とする海賊をバルバリア海賊という。バルバリア海賊の主な目的はキリスト教徒を捕まえ、奴隷としてイスラム教徒に売ることであった。
註4 マルグリット・ド・フランス(Marguerite de France, 1553 - 1615)はフランス国王アンリ二世と妃カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれた女性。後のフランス王アンリ四世の最初の妃である。デュマ(父)の「王妃マルゴ」("La Reine Margot", 1845)はこの女性を主人公としている。
註5 神の聖ヨハネホスピタル修道会(仏 l'ordre hospitalier de Saint-Jean-de-Dieu 西 la Orden
Hospitalaria de San Juan de Dios)は、ポルトガルの聖人であるサン・ジョアン・デ・デウス(神の聖ヨハネ 葡 São
João de Deus 西 San Juan de Dios, O. H., 1495 - 1550)の弟子たちにより、1572年に設立された。マリ・ド・メディシス(Marie
de Médicis, 1575 - 1642)はフィレンツェ時代にこの修道会の活動に賛同していた。1599年、ユグノーであるフランス王アンリ四世は最初の妃マルグリットと離婚し、翌
1600年にマリ・ド・メディシスと結婚する。マリ・ド・メディシスは1602年に同会会員五名をフィレンツェからパリに呼び寄せた。このようにして同修道会はフランスに定着した。
註6 フィリップ=エマニュエル・ド・ゴンディ(Philippe-Emmanuel de Gondi, 1580 - 1662)は、フランスガレー船団司令官(le
général des Galères de France)であった。これは国王直属の顕職である。
註7 近世のフランスにおいて、ガレー船漕ぎは重要な刑罰であった。
ヴァンサン・ド・ポールの時代よりおよそ百年後、イングランド東部ベッドフォード(Bedford)のハイ・シェリフ(high sheriff 執行官)であったジョン・ハワード(John
Howard, FRS, 1726 - 1790)は各国の監獄を精力的に視察し、その成果を「監獄の現状」("The State of the Prisons", 1784)という大部の著書にまとめている。同書によると、ガレー船漕ぎの徒刑を宣告された者はサン=ベルナール港に近いラ・トゥルネル(la Tournelle パリ高等法院刑事裁判所)の監獄に送られ、出航の日まで拘留された。これはガレー船に乗せられる者が自暴自棄になり、他の囚人に悪影響を与えることを予防するためであった。サン=ベルナール港(le
port Saint-Bernard)は現在のパリ五区にあったセーヌの河港で、後にラ・トゥルネル港と一つになった。
ジョン・ハワードの別の著書「ヨーロッパの主要癩病院」("An Account of the Principal Lazarettos in Europe", 1789)によると、トゥーロンは五隻のガレー船の母港となっており、およそ 1600人の囚人が乗せられている。囚人の中には四十年、五十年、六十年ものあいだ拘禁されている者もいる。
註8 現在、宣教修道会(ラザロ会)は教皇に直属しており、本部はローマに置かれている。
註9 パリ一般施療院(l'Hôpital général de Paris)は王立の組織で、パリ市中の無宿者を収容した。貧者救済の慈善組織であると同時に、治安維持の目的も有していた。