銀に透かし細工を施したクルシフィクスとクール(cœur センター・メダル)に、ブリュ・カナール(仏 bleu canard ティール、青緑)の透明ガラス製ビーズを使用したシャプレ・ド・ラ・ヴィエルジュ(chapelet
de la Vierge 聖母のロザリオ)。十九世紀後半から二十世紀初頭のフランスにおいて、初聖体を迎える少女のために作られた美しい品物です。
クルシフィクスは銀製で、末端に透かし細工がある十字架に、別作のコルプス(キリスト像)を溶接しています。コルプスの様式は、十九世紀のシャプレにおいて一般的なクリストゥス・ドレーンス(羅 CHRISTUS DOLENS)です。
十字架交差部は大小の円が多数組み合わさって、組紐文に似た装飾図形となり、後光を置き換えています。交差部の四隅からは、四つのフルール・ド・リス(仏 fleur de lys 百合の花)が外側に向けて発出しています。このため交差部は正方形に大きく広がり、フルール・ド・リスが有する重層的象徴性、すなわち三位一体の愛、イエスとともに受難する聖母の愛、フランスに対する神と聖母の祝福が、視覚的に強調されています。
十字架は交差部から外側に向けて幅広となり、末端近くが透かし細工となっています。縦木の下端及び横木の両端に小さな半月形が突出しています。末端に突出する半円または半球は、フランスのシャプレ用クルシフィクス及びクロワ・ド・クゥが有する特徴で、福音書の中でキリストが三たび流し給うた涙を表すといわれます。同様の小球はクロワ・ジャネットにも見られます。
フランスにおいて純度 800/1000の銀を示す「イノシシの頭」のポワンソン(ホールマーク 貴金属の検質印)が、上部の環の基部に打刻されています。
シャプレ(ロザリオ)のセンター・メダルは、フランス語で「クール」(cœur)すなわち「心臓」と呼ばれます。十九世紀のクールは倒立、すなわち現代のシャプレのクールに比べて上下が逆になっています。本品においても、クールは倒立しています。
本品のクールは銀製の透かし細工で、両面が同じ意匠によります。クールはマリアの頭文字(M)を模(かたど)りますが、心臓(クール)は生命と愛を象徴するゆえに、本品のクールは聖母マリアの生命と愛を象(かたど)っていることがわかります。
クールに透かし彫りされたマリアの頭文字(M)は、アカンサス文(唐草文)に飾られています。アカンサスとはハアザミのことで、葉の縁、及び花の下にある苞(ほう)が棘状に尖っています。アカンサス(ἂκανθος アカントス)という名称はギリシア語で「棘のある花」という意味で、「アカンタ」(ἂκανθα 「棘」)と「アントス」(ἂνθοϛ 「花」)に由来します。
コリント式柱頭を見てもわかるように、アカンサスの意匠は古代ギリシア以来使われ続けていますが、キリスト教文化の象徴体系において、棘のある植物アカンサスは「苦しみ」や「死」を表します。「創世記」三章において原罪を犯したアダムに神が言われた言葉を、七十人訳と新共同訳によって引用いたします。新共同訳が「茨」と訳している語は、ギリシア語(七十人訳)では「アカントス」(引用文中では複数対格形アカンタス ἀκάνθας)となっており、アカンサスと同じ語です。
17 |
τῷ δὲ Αδαμ εἶπεν Ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες
ἀπὸ τοῦ ξύλου, οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν ἀπ αὐτοῦ, ἐπικατάρατος
ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου· ἐν λύπαις φάγῃ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου·
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神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 | |||
18 | ἀκάνθας καὶ τριβόλους ἀνατελεῖ σοι, καὶ φάγῃ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ. | お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 | |||
19 | ἐν ἱδρῶτι τοῦ προσώπου σου φάγῃ τὸν ἄρτον σου ἕως τοῦ ἀποστρέψαι σε εἰς τὴν γῆν, ἐξ ἧς ἐλήμφθης· ὅτι γῆ εἶ καὶ εἰς γῆν ἀπελεύσῃ. (Saptuaginta) | お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 (新共同訳) |
(上・参考画像) 日本趣味の切り紙による二面のカニヴェ 「神の母、おとめマリアの聖にして汚れなき御宿りは祝されよ」 ピウス六世による百日の免償 (ドプテ 図版番号不明) Bénie soit la sainte et immaculée conception, Dopter, numéro inconnu, 108 x 66 mm フランス 1860年代後半から 1870年代 当店の商品
このように、キリスト教において、アカンサスは悲しみと苦しみを象徴します。それゆえアカンサスに飾られたマリアの心臓は、剣に刺し貫かれたマーテル・ドローローサの汚れなき御心を表します。
本品は五十九個のペルル(仏 perles ビーズ)を有するシャプレ(ロザリオ)であり、聖母に執り成しを求める天使祝詞を数えるために使われます。しかるに聖母は神の花嫁であり、その心臓は剣で刺し貫かれても、神への愛に燃えることを止めませんでした。白いロブ・ド・マリエ(robe
de mariée 花嫁のドレス、ウェディング・ドレス)を着て初聖体に臨む少女たちもまた、キリストの花嫁です。それゆえ聖体を拝領する少女たちには、聖母に倣って、神とキリストへの愛に生きることが求められています。マリアの頭文字をアカンサスで飾った本品のクールは、そのことを象徴しています。
少女たちに期待されている神とキリストへの愛は、「雅歌」の詩句に謳われています。「雅歌」二章一節から六節を、ノヴァ・ヴルガタと新共同訳により引用します。二節は若者の歌、それ以外は乙女の歌です。
NOVA VULGATA | 新共同訳 | |||||
1. | Ego flos campi et lilium convallium. |
わたしはシャロンのばら、 野のゆり。 |
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2. | Sicut lilium inter spinas, sic amica mea inter filias. |
おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。 |
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3. | Sicut malus inter ligna silvarum, sic dilectus meus inter filios. Sub umbra illius, quem desideraveram, sedi, et fructus eius dulcis gutturi meo. |
若者たちの中にいるわたしの恋しい人は 森の中に立つりんごの木。 わたしはその木陰を慕って座り 甘い実を口にふくみました。 |
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4. | Introduxit me in cellam vinariam, et vexillum eius super me est caritas. |
その人はわたしを宴の家に伴い わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。 |
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5. | Fulcite me uvarum placentis, stipate me malis, quia amore langueo. |
ぶどうのお菓子でわたしを養い りんごで力づけてください。 わたしは恋に病んでいますから。 |
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6. | Laeva eius sub capite meo, et dextera illius amplexatur me. |
あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ 右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。 |
本品のペルル(仏 perles ビーズ)はクリスタル・ガラス製で、直径は九ミリメートルと大きめです。それぞれのペルルは丁寧な手作業によって多面のファセット・カットが施され、一個につきおよそ四十のファセット(面)が作られています。
クリスタル・ガラスは鉛を多く含むガラスで、屈折率が高いゆえにきらきらと美しく輝きます。硬度が低いために加工が容易で、本品のようにカットを施す加工に適しますが、硬いものに当たると瑕(きず)が付き易い特性があります。しかしながら本品は百年以上前のシャプレであるにもかかわらず、製作当時のままの保存状態で、非常に大切にされてきた品物であることがわかります。
クリスタル・ガラスは鉛を多く含むので、通常のガラスよりも重くなります。本品の場合もロザリオ全体は 56.2グラムの重量があり、手に持つと心地よい重みを感じます。56.2グラムは五百円硬貨八枚分強、または百円硬貨十二枚分弱に相当します。
ビーズのガラスは緑がかった青で、海の色に似ています。宝石の色に喩えれば、「パライバトルマリン」として知られるエルバイト、あるいは宝石質のアパタイトに似ています。
聖母の名「マリア」は、ヘブル語では「マリアム」または「ミリアム」といいます。「四大ラテン教父」のひとりとされるストリドンのヒエロニムス (Hieronymus Stridonensis, c. 340 - 420) は、「マリアム」「ミリアム」という名前を「マル」(ヘブル語で「星」の意)と「ヤム」(ヘブル語で「海」の意)に分解し、「海の星」がこの名前の原意であると考えました。この解釈に基づく「マリス・ステーッラ」(羅 MARIS STELLA 海の星)という呼び名が、聖母マリアの称号のひとつとして定着しています。
聖母に「アヴェ、マリス・ステッラ」と呼びかける祈りは、ザンクト・ガレン修道院の九世紀の写本("De fide ad Gratianum contra perfidiam Arrianorum" Cod. 95 f. 2)が、確認できる最古の例です。祈りの内容は次のとおりです。原文はラテン語で、日本語訳は筆者(広川)によります。
AVE MARIS STELLA DEI MATER ALMA ATQUE SEMPER VIRGO FELIX CAELI PORTA |
めでたし、海の星よ。 神を産み育てし母にして 永遠の処女 天つ国の幸いなる門よ。 |
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SUMENS ILLUD AVE GABRIELIS ORE FUNDA NOS IN PACE MUTANS EVAE NOMEN |
かの言葉「アヴェ」を ガブリエルの口から与えられし御身よ、 エヴァという名をアヴェに変え、 平和のうちに我らを憩わせたまえ。 |
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SOLVE VINCLA REIS PROFER LUMEN CAECIS MALA NOSTRA PELLE BONA CUNCTA POSCE. |
罪ある者どもの縛(いまし)めを解きたまえ。 めしいたる者に光をもたらしたまえ。 我らを罪より救いたまえ。 あらゆる善きものを見出したまえ。 |
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MONSTRA TE ESSE MATREM SUMAT PER TE PRECES QUI PRO NOBIS NATUS TULIT ESSE TUUS |
御身の母なるを示したまえ。 御身を通し、神が祈りを聞きたまわんことを。 我らがために生まれたまいし御方、 御身が子たるを容(い)れたまえばなり。 |
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VIRGO SINGULARIS INTER OMNES MITIS NOS CULPIS SOLUTOS MITES FAC ET CASTOS. |
おとめらのうちにて優しき たぐいなきおとめよ。 罪より解き放たれたる我らをも 優しき者ども、汚れ無き者どもと為したまえ。 |
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VITAM PRAESTA PURAM ITER PARA TUTUM UT VIDENTES IESUM SEMPER COLLAETEMUR |
清き生を授けたまえ。 安けき道をととのえたまえ。 イエズスにまみゆる我らの、 とわなる喜びのうちにあらんため。 |
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SIT LAUS DEO PATRI SUMMO CRISTO DECUS SPRITUI SANCTO HONOR TRIBUS UNUS. AMEN. |
父なる神に賛美あれ。 至聖なるキリストに栄えあれ。 聖霊に誉れあれ。 (神は)三つにてひとつなり。アーメン。 |
それゆえ海の色に似たクリスタル・ガラスのペルル(ビーズ)は、海の星マリアへの祈りに相応しいといえましょう。
青は通常アンティーク・シャプレ(ロザリオ)のペルル(ビーズ)に見られない稀少色です。十九世紀にフランスで制作されたシャプレのペルルは、最も多いのが黒か白、次に多いのが赤系統の色(赤や紫)で、まれに無色や緑がありますが、青はまず見られません。二十世紀に入る頃から青のビーズも使われ始めますが、「緑がかった青」はいずれの時代においても非常に珍しい色です。筆者(広川)はフランスのアンティーク・シャプレをこれまでに数多く取り扱ってきましたが、青緑色のペルルを使ったものは、本品を含めてわずか二例しかありません。本品は販売済みのもう一例に比べて青みが強く、いっそう稀少な作例です。
あらゆる色の中で、ブリュ(仏 bleu 青)だけが十九世紀のロザリオに使われなかった理由は、十九世紀のヨーロッパが「青」という色を未だ完全に受容していなかったからであると筆者(広川)は考えます。中世のステンドグラス及びエマイユに使われ始めた青色が、ヨーロッパ文明において完全に市民権を得、信心具のように保守的な性格の物品にも自由に使われるようになるのは、二十世紀以降のことです。十九世紀はヨーロッパ文明が「青」の受容を完了する前の、最後の時代であったのです。したがって本品はロザリオに青が使われた魁(さきがけ)となる作例であり、「色彩」の観点から見た重要な社会史的資料です。
本品は十九世紀後半から二十世紀初頭に制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず、たいへん良好な保存状態です。特筆すべき問題は何もありません。海の色のカット・ガラスによる美麗且つきわめて稀少な「聖母のシャプレ」です。