極稀少品 小さき者となり給うた神 《闇に輝く生命の十字架 53.2 x 43.4 mm》  テゼにおけるミニマリスム フランス 1960 - 70年代頃


縦 53.2 x 横 43.4ミリメートル  交差部の厚み 8.3ミリメートル  重量 9.5グラム


 テゼ(Taizé ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)はフランス東部の小さな集落で、クリュニーから北におよそ十キロメートル、パレ=ル=モニアルから東北東におよそ五十キロメートルの距離にあります。この村の北半分に広がっているのが、ラ・コミュノテ・ド・テゼ(仏 La Communauté de Taizé テゼ共同体)と呼ばれる修道会あるいは宗教的共同体です。テゼ共同体はエキュメニカルな修道会で、キリスト教のあらゆる教派から年間五万人以上が訪れ、創立以来の訪問者は三百万人を超えます。





 ファセット(仏 facette 小面)を有さない宝石やガラスを、カボション(仏 cabochon)と呼びます。本品は鉄を曲げたタウ十字(τ)二つを溶接して一本のラテン十字とし、黄褐色の透明ガラスによるカボションを交差部に取り付けています。カトリックのクルシフィクスであればコルプス(羅 CORPUS キリスト像)が十字架に取り付けられますが、本品ではガラスのカボションがコルプスの位置を占めています。すなわち黄褐色のガラス製カボションは、本品においてキリストを象徴しています。


 十字の交差部に置かれたカボションは、シトリンの色をしています。琥珀やトパーズ、ベリル、コランダムにもこのような色のものがありますし、シェリー酒やマデイラ産ワインの色にも似ています。直交する十字の中央に黄色の珠を置く本品の意匠で、筆者(広川)は中国古来の五行説を思い浮かべました。五行説によると万物は木火土金水の五元素でできています。五行説において木火金水の四つは青赤白黒の四色に、土は黄色にそれぞれ対応します。また木火金水の四つは東南西北の四方に、土は中央にそれぞれ対応します。

 五行説で中央に位置する土は、中国において万物の要(かなめ)とされました。漢語で天地を玄黄といいますが、玄は天の色、黄は地の色です。「易経」に「天玄而地黄」(天は玄くして、地は黄なり)とあります。また漢語で冥界を黄泉(こうせん)ともいいますが、これは黄すなわち地の泉が原意です。中国には「浄名玄論略述」(釋智光撰 八世紀)が収める陳後主(553 - 604)の詩に「黄泉無客主、今夜向誰家」、「五代史補 巻五」(陶岳 1012年)が収める五代、江為「臨刑詩」に「黄泉無旅店、今夜宿誰家」、「西菴集 巻七」(十五世紀初め)が収める孫蕡(? - 1393)「臨刑詩」に「黄泉無客舎、今夜宿誰家」など多くの例があります。この語はわが国にも早期に渡来し、「懐風藻」(751年)が収める大津皇子「臨終一絶」に「泉路無賓主、此夕離家向」とあります。

 黄は土の色であり、土は万物の要です。それゆえ黄は最も高貴な色とされました。中国では隋代以降、皇帝のみが黄袍を着用しました。サンスクリット語ヴァイドゥーリヤ(vaiḍūrya)は漢字で吠瑠璃(べいるり)と音写され、これが略されて瑠璃という語ができました。瑠璃は通常ラピス・ラズリのこととされますが、元々はベリルを指したと考えられ、最も広義にはあらゆる色の宝石、ガラス、釉薬を含みます。紫禁城の瑠璃瓦は青色ではなく、美しい黄褐色の釉がかかっています。明・清の時代、黄瑠璃の瓦は紫禁城及び皇帝の離宮にのみ用いられました。本品十字架の中央交差部に嵌め込まれたカボションも、漢語で言えば黄瑠璃です。





 ヒッポのアウグスティヌスによると、光は不可視の神より来て、唯一可視的なものです。光の色である黄色あるいは金色はヨーロッパにおいても高貴な色であり、神性を象徴します。さらに金(Au)は永遠に不滅の物質であるゆえに、金の色である黄色・金色は永遠を象徴します。常緑のヤドリギに永遠の生命を見たケルトのドルイドは、新年を迎える十一月、月齢六日の夜に、ヤドリギの下で生贄を捧げ、金の鎌でヤドリギを刈り取りました。金の鎌を使う理由は、永遠の色である金が、生命樹であるヤドリギにふさわしいからでしょう。月齢六日の半月は、金の鎌と同じ形をしています。ヴァティカンの国旗は左が黄、右が白ですが、これは永遠を表す黄と清らかさを表す白を組み合わせたものと考えられます。

 ドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版と新共同訳により、「ヨハネによる福音書」一章一節から五節を引用します。

     1.     Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.     初めに言(ことば、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
     2.    οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.    この言は、初めに神と共にあった。
     3.    πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν    万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
     4.     ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων:     言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
     5.    καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.    光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 ヨハネは上記引用箇所の第四節で、ロゴス(希 λόγος ことば、キリスト)の内にある生命を、人間を照らす光と呼んでいます。本品においてコルプスの代わりとなるガラスの球体は黄金色の清澄な光を放っており、ロゴス(キリスト)のうちに輝く生命を可視化しています。


 光を宿したガラスの球体は、黒く塗られた鉄製十字架に固定されています。十字架は最大のアルマ・クリスティ(羅 ARMA CHRISTI キリスト受難の道具)であり、人間の罪を表します。とりわけはキリストの御体を安置する座として最もふさわしくない素材です。なぜなら鉄は最も有用な金属である反面、人の命を奪う強力な武器の材料ともなり、聖性の対極に位置するからです。

 「出エジプト記」二十章二十五節において、神はモーセに対し、「もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである」と語っています。これを受ける「申命記」二十七章五節では、モーセと長老たちはイスラエルの民に対し、ヨルダン川を渡ったら祭壇を築くように命じ、「それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない」と言っています。「出エジプト記」「申命記」の影響で挿入されたと考えられるのが、「列王記 上」六章七節です。同書六章はソロモンによるエルサレム神殿建築を記録しますが、七節によると建築現場で鉄製道具が使われることはありませんでした。これらの記述から、旧約時代の祭壇や神殿に、鉄製の道具で整形した石を使うことは禁忌であったことがわかります。

 本品の十字架は元々の黒塗りが部分的に剥がれていますが、肉眼では写真で見るよりも黒っぽく見えます。黒く塗られた鉄の十字架は、光を理解しない暗闇(上記引用箇所五節)を象徴します。暗闇は光を理解しませんでしたが、それでも光は暗闇の中で輝き、人間を照らしています。「イザヤ書」七章十四節は、キリストをインマヌエル(希 Ἐμμανουήλ)すなわち「神、我らとともにあり」という名前で呼んでいます。たとえ暗闇が光を理解しなくとも、神とキリストの愛は我らを見捨てず、我らとともにおられるのです。




 黒い鉄製十字架と、その中央で清澄な光を放つ黄色の球体は、以上のような象徴的意味を有します。しかるにその一方で、球体の黄色は蔑まれる色でもありました。ナチはユダヤ人がダヴィデの星を着用するように強制しましたが、その星の色が侮蔑を込めて黄色と指定されたことはよく知られています。ナチズムはユダヤ教と相容れないのはもちろんのこと、キリスト教とも対立します。しかしながら黄色に対する侮蔑の感情は、蓋し原罪を犯したアダムに対して神が投げかけ給うた言葉に由来します。「創世記」三章十九節には、次のように書かれています。

  お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(新共同訳)


 黄色は中原の土の色であるゆえに、中国人はこれを五行の要と考え、皇帝の衣の色としました。しかるに黄色は土の色であるという同じ理由によって、ユダヤ・キリスト教圏では卑しさの象徴ともされたのです。土は天上界に対置される地上界の象徴、神に対置される人間の象徴です。「塵にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか」(創世記十八章二十七節)と人が神に呼ばわるとき、土の色である黄色は、ほとんど非存在に近い人間の卑しさの象徴となります。


 本品の球体は、その黄色が下等な色と見做されうることに加え、材質においても卑近な素材を使っています。

 本品で最も卑近な素材は十字架の鉄です。鉄のクラーク数(地殻における質量的存在比)は 4.7パーセントに過ぎませんが、地球の核は鉄でできいるゆえに、鉄は地球の質量の実に 30パーセントを占めます。クラーク数において上位の酸素、珪素、アルミニウムを抑え、鉄はまさに地球(アース、土)の主成分となっています。本品において鉄製十字架が地上界を象(かたど)り、さらに黒く塗られて地上の闇を象ることは、地球科学の知見からも納得がゆきます。

 一方黄色のガラス球はソーダガラスでできていますが、こちらもごくありふれた元素で構成されています。すなわちソーダガラスは珪素と酸素を主成分としますが、酸素は地殻質量の 49.5パーセント、珪素は 25.8パーセントを占めます。ソーダガラスにはカルシウム、ナトリウム、炭素も含まれますが、これらも卑近な元素です。平たく言えば、キリストを表すガラス球は、我々自身の身体と同様に「そこらへんの土」でできているのです。

 キリストの尊き御体を象るのに金や銀などの貴金属ではなく、卑近な元素のソーダガラスを使ったのはなぜでしょうか。筆者(広川)の考えによると、われわれの身体と同様に卑近な元素でできたソーダガラスの球体は、キリストの降誕というミステリウム(羅 MYSTERIUM 奥義)を表しています。





 パリに生まれ、ユダヤ人迫害を逃れて三十四歳の若さでアシュフォードに客死した女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909 - 1943)は、二十八歳頃からキリスト教に接近しました。もともと「すべて」であり給うた神は、シモーヌによると、この世界と人間をお創りになったクレアシオン(仏 la Création 天地創造)の際、被造的世界を愛し、被造的世界が存在し得るために、自らが「すべて」であることを進んで放棄されました。したがって被造物である人間にとっては、自らを無にして神を愛し神に還ることこそが、その本性に即した正しいあり方である、とシモーヌは考えました。自らを無にして神に還ることを、シモーヌはデクレアシオン(仏 décréation)と呼びました。デクレアシオンはクレアシオン(創造)に否定の接頭辞を付けた語で、被造物が神から出た『創造』のプロセスを逆行し、被造物が神に還ることを意味します。

 シモーヌが 1940年から 1942年までに疎開先のマルセイユで書き、信頼する友人である哲学者ギュスターヴ・チボン(Gustave Thibon, 1903 - 2001)に託した覚書は、シモーヌの死後、「重力と恩寵」("La Pesanteur et la Grâce") として本にまとめられました。その中に次のような一節があります。テキストはプロンの 1988年版(1947年版)で、日本語訳は筆者(広川)によります。

     Décréation : faire passer du créé dans l'incréé.    デクレアシオン(逆創造)とは、創られたる物から創られざる者へと向かわせること。
     Destruction : faire passer du créé dans le néant. Ersatz coupable de la décréation.    デストリュクシオン(破壊)とは、創られたる物から無へと向かわせること。デクレアシオンの悪しき代替物。
         
     La création est un acte d'amour et elle est perpétuelle. A chaque instant notre existence est amour de Dieu pour nous.    クレアシオン(創造)は愛の業であって、永続的である。どの瞬間においても、我々が神の外側に現存(エグジステ exister)するということは、神が我々を愛し給うということである。 
     Mais Dieu ne peut aimer que soi-même. Son amour pour nous est amour pour soi à travers nous. Ainsi, lui qui nous donne l'être, il aime en nous le consentement à ne pas être.    しかしながら神が愛し給うのは、神ご自身のみのはずである。神が我々を愛し給うが、それは我々を通してご自身を愛しておられるのである。したがって我々に存在(être, ESSE)を与え給う御方は、我々の内なる、存在しないことへの同意を嘉(よみ)し給う。
     Notre existence n'est faite que de son attente, de notre consentement à ne pas exister.    我々は神の外側に現存する。しかしながらそれは、我々が神の外側に現存しないことに同意するのを、神が待っておられるゆえに実現していることである。
     Perpétuellement, il mendie auprès de nous cette existence qu'il nous donne. Il nous la donne pour nous la mendier.    神の外側における現存を、神は我々に与え給う。しかしながら神は常に我々の傍におられて、我々がその現存を神に返すことを求め給う。神が我々に現存を与え給うのは、それを返すように求め給うためである。
         
     Simone Weil, "La Pesanteur et la Grâce", 1988, Librairie Plon, Paris (ISBN 978-2-266-04596-4) p. 81    シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」 パリ、プロン書店 1988年 ポケット版 81ページ





 シモーヌはエグジスタンス(仏 existence)という語を、英語の "be" に当たるエートル(仏 être)と明瞭に区別して使っています。上の引用箇所にたびたび現れるエグジスタンスは動詞エグジステ(仏 exister 現存する)の名詞形で、エグジステはラテン語のエクシステレ(羅 EXISTERE)に由来しますが、エクシステレとは、外側に(エクス EX-)存する(システレ SISTERE)ということです。シモーヌは「エグジスタンス」という語をその語源に忠実な意味で用いています。シモーヌが言うエグジスタンスは「神の許しを得たうえで、神とは別のものとして、神の外側に一時的に現存すること」を指しており、神が必然的に存在することを表すエートルとは根本的に異なります。日本語にすれば同じ「ある」でも、必然的存在様態を表すエートルは神に固有のあり方であり、神が被造物に許し給う偶有的存在様態を表すエグジステは、神に還るべき被造物に固有のあり方です。

 エートル、ラテン語でいえばエッセ(羅 ESSE)そのものである神は、天地を創造したことにより、「すべて」であることを自ら進んで放棄し給いました。これは神の完全性や無限性が損なわれたということではありません。数学に譬えれば、「すべての数」の集合に属する数の個数は無限ですが、ここから幾つかの数、たとえば素数の集合を取り除いても、残りの数の個数はやはり無限です。無限でなくなったわけではありません。しかしその無限性が弱くなったということはできます。この譬えに似て、神は天地を創造することにより、在りてある者(希 ὁ ὤν 「出エジプト記」 3: 14)のままでありつつも、「すべて」ではない者になり給いました。神はその愛ゆえに、自ら進んで小さき者になり給うたのです。ふたたびシモーヌ・ヴェイユの言葉を借ります。

     Dieu a abandonné Dieu. Dieu s'est vidé : ce mot enveloppe à la fois la Création et l'incarnation avec la Passion... Pour nous apprendre que nous sommes non-être, Dieu s'est fait non-être.    神は神であることを棄て給うた。神は空(から)になり給うたのだ。この言葉が指すのは天地創造のことでもあり、受肉と受難のことでもある。我々が非存在であることを悟らせるために、神は非存在となり給うたのだ。


 神が神でなくなることはあり得ず、非存在になることもあり得ません。上に引用した一節において、シモーヌは哲学的厳密性を犠牲にし、人の心に訴えかける言葉の力を優先して、修辞的な表現をしています。しかしながらシモーヌによるこの一文は、哲学的厳密性を欠くとしても、神の愛の強さを言葉で表そうとする優れた試みのひとつといえます。





 シモーヌ・ヴェイユはユダヤ人でしたから、旧約の「創世記」のみを視野に入れて論じています。しかしながらシモーヌがラテン語の動詞エクシステレを分析しつつ展開した「小さき者となり給うた神」の議論は、筆者(広川)が考えるに、イエス・キリストの受肉に関してもそのまま成り立ちます。すなわち「ヨハネによる福音書」が言うようにイエスはロゴス(万物の理法)であり、三位一体の第二位格すなわち子なる神であり給うにも拘わらず、塵に過ぎない人間、限りなく非存在に近い被造物となってこの世界に降誕し給いました。これは被造的宇宙が神の外に立つ(エクシステレ)ことを許し、小さき者となり給うた神が、人として降誕することにより、さらに小さき者となり給うたことに他なりません。

 キリストのうちには神性と人性が混合せず、分離せず、ひとつの位格において結合しているとされます。この深遠なミステリウムを、ラテン語でウニオー・ヒュポスタティカ(羅 UNIO HYPOSTATICA 位格的結合)と呼んでいます。本品テゼの十字架において、ガラスでできた黄褐色の球体はコルプスの代わりであり、キリストを表すと述べました。黄色い球が表すのはキリストにおけるウニオー・ヒュポスタティカ、すなわち黄金の光で人を照らす「神としてのキリスト」であるとともに、その御体が土(創世記 3:19)でできた「人としてのキリスト」でもあります。在りて在る者(出エジプト記 3:14)、必然的存在者であり、宇宙の創造者である御方が、自ら進んで塵に等しい者となり、十字架上に刑死し給うた。しかしながらその生命は決して奪われることがないゆえに、三日目に蘇り給いて、人に永遠の生命と救いをもたらし給うた。 ― この信じがたいミステリウムを、本品はミニマリスティックなフォルム(形態)のうちに可視化しています。


 上の写真は本品十字架を鏡の上に置き、裏面を撮影しています。十字架横木に打刻されたテゼ(TAIZE)の文字が、手前に写っています。

 本品にはミニマリスムの影響が明らかに見て取れることから、おそらく 1960年代に制作されたものであろうと思われます。他の工芸品と同様に、信心具も制作された時代の影響を受けますが、ミニマリスム(仏 le minimalisme)が 1960年代の信心具に影響を及ぼしたのは偶然ではなく、ミニマリスムとキリスト教美術の間には本質的親和性が存在します。

 1960年代から 70年代にかけての時期、とりわけ五月危機(仏 Mai 68)があった 1968年以降に、テゼを訪れる若者の数は飛躍的に増えました。この時代の若者たちはド・ゴールに作戦負けして五月革命を成し遂げられず、一時期高く評価した毛沢東主義にも失望して、生きる指針を探し求めていました。テゼの修道院長フレール・ロジェは迷える若者たちをテゼに迎え入れ、時代によって変わることがない神の愛を若者に示そうとしました。闇に輝き人を照らす生命を可視化した本品は、数十年前の若者たちに対すると同様、現代を生きる人たちにも神の愛を示し続けています。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。







 本品は五十年ないし六十年前のテゼで制作された作品ですが、古い年代にもかかわらず極めて良好な保存状態です。鉄製部分にゆがみや腐食は無く、ガラスにも瑕(きず)や欠損はありません。カボションはガラスが冷却硬化する前に十字架に嵌入させてあるので、脱落することは決してありません。

 本品の商品写真のうち数点は十年以上に撮影したもので、十字架の下に置いた鏡には、アンティークアナスタシア旧店舗の青い天井が映っています。本品を作った修道士の名前はわかりませんが、古い時代のテゼで制作された作品で、いまとなっては手に入りません。筆者(広川)は本品が有する宗教性、精神性、芸術性を高く評価し、手放す決心がなかなか付きませんでした。同じものが見つかればひとつを手放そうと考えていましたが、同じものはいくら探しても見つからず、入手をあきらめました。アンティークアナスタシアが美術館ではなく店である以上、本品もいつまでも持っているわけにはゆきませんので、大切にしてくださる方にお譲りいたします。お買い上げいただいた方には末永くご満足いただける品物です。


 当店の商品は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、現金の分割払い(金利手数料無料)でもご購入いただけます。当店ではお客様のご希望に出来る限り柔軟に対応しております。遠慮なくご相談くださいませ。





本体価格 68,000円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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