ラ・コミュノテ・ド・テゼ、テゼ共同体
La Communauté de Taizé




(上) une croix de Taizé テゼの十字架 フランス 二十世紀後半  縦 53.2 x 横 43.4ミリメートル 重量 9.5グラム 当店の商品です。


 テゼ(Taizé ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)はフランス東部の小さな集落で、クリュニーから北におよそ十キロメートル、パレ=ル=モニアルから東北東におよそ五十キロメートルの距離に位置します。ラ・コミュノテ・ド・テゼ(仏 La Communauté de Taizé テゼ共同体)はこの集落北部にある修道会あるいは宗教的共同体です。テゼ共同体では一日三度(朝、正午、夜)の礼拝があり、和解の教会と名付けられた聖堂において、讃美歌、福音書朗読、口祷、念祷が行われています。

 テゼ共同体を訪れる人は年間五万人以上を数え、これまでの訪問者は三百万人を超えます。テゼ共同体への訪問者は山小屋またはテントに宿泊し、祈り、瞑想、聖書研究、奏楽などのグループに参加します。テゼ共同体は寄付を募らず、陶器、エマイユ製品、書籍、CD等の販売によって運営費を得ています。


【テゼの歴史】

 テゼ共同体(以下、テゼ)は、フレール・ロジェ(仏 Frère Roger ロジェ修道士)、俗名ロジェ・シュッツ(Roger Louis Schütz-Marsauche, 1915 - 2005)によって 1944年に創設されました。

 ロジェ・シュッツはスイスの牧師の息子で、ストラスブール大学とローザンヌ大学でプロテスタント神学を学びましたが、修道制に関心を持ち、プロテスタントの教会論から距離を置きました。第二次世界大戦中の 1940年、占領地域からほど近いテゼに祈りのための古家を買い、難民を匿ってスイスに脱出させる活動にも使っていましたが、これがやがて当局に察知されたため、スイスに逃れて二年間を過ごしました。ヴィシー政権が崩壊するとロジェはテゼに戻り、修道生活を志す仲間が徐々に加わりました。




(上) レグリース・ド・ラ・レコンシリアシオン(和解の教会)


 テゼにはレグリース・ド・ラ・レコンシリアシオン(仏 L'église de la Réconciliation 和解の教会)という聖堂があって、東方正教会、カトリック教会、プロテスタント教会のいずれに属する人も礼拝に参加できるようになっています。和解の教会はドイツとフランスの和解を示すため、ドイツの若者たちの勤労奉仕により、1961年から 1962年にかけて建設されました。和解の教会を設計したのは、テゼの一員で建築家でもあったドニ・オベール修道士(仏 Frère Denis Aubert, 1933 - 2015)です。

 フレール・ロジェの歿後、若者と対話する姿勢はテゼの修道士たちに引き継がれています。テゼはフレール・ロジェが憧れたクリュニーからほど近い村ですが、ここで神秘的な出来事が起こったわけではなく、その意味で通常の聖地とは異なります。しかしながら高い霊性を求めてテゼを訪れる若者たちは常に大勢いて、あたかも巡礼地のような場所となっています。


【テゼにおけるエキュメニスム】



(上) 和解の教会内の礼拝堂。東方正教会の様式で造られています。


 イエス・キリストの福音は元来一つのはずですが、二千年が経過するうちに、東方正教会、ローマ・カトリック教会、プロテスタント教会を初めとする多数の教派に分裂してしまいました。これらの諸教派を統一し、全キリスト者の一致を目指す運動を、エキュメニスム(仏 œcuménisme 教会合同 註1)といいます。

 フレール・ロジェは牧師資格を持つプロテスタントでしたが、早くも 1941年に、ポール・クチュリエ神父(l'abbé Paul Couturier, 1881 - 1953)をテゼに迎えています。クチュリエ神父はカトリック司祭で、エキュメニスムの推進者として知られます。またフレール・ロジェと最初期からの同志フレール・マックス(frère Max 俗名マックス・チュリアン)はオブザーバーとして第二ヴァティカン公会議(仏 le IIe concile œcuménique du Vatican, 1962 - 1965)に参加しています。一方カトリック教会は、1964年に信徒がテゼの礼拝に参加することを許可し、1969年にはオータン大司教の許可を得たうえで、最初のカトリック修道士がテゼの修道生活に参加しています。


【テゼに集まる人々】

 1960年代以降、フレール・ロジェは若者との対話を重視し、ロジェ自身が各地に出向くとともに、若者たちをテゼに受け容れました。とりわけ 1968年の五月危機(仏 Mai 68)後にテゼを訪れる若者が増え、その人数は 1970年の復活祭に 2,500人、71年に 7,500人、72年に 16,000人、73年に 18,000人、74年8月末には 40,000人まで膨れ上がりました。増え続ける若者たち全員を和解の教会に収容することはできず、聖堂をテントで拡張しなければなりませんでした。テゼはフランスの若者たちを主にトゥサン(仏 la Toussaint 万聖節)の休暇に受け入れ、それ以外の時期には世界各地からの若者を受け入れました。

 1944年秋から 1945年にフレール・ロジェと三人の仲間がテゼで始めた共住男子修道会には、世界各地から修道士が参加しています。現在ではおよそ三十か国から百名以上がテゼ共同体の修道士となり、うち八十名がテゼ村に住んでいます。残りの修道士たちはムンバイ、カルカッタ、ヨハネスブルク、カイロ、ダカール、サン・パウロで貧しい人々とともに暮らしています。またテゼの信心会はケニヤ、セネガル、バングラデシュ、韓国、ブラジル、キューバに分布しています。


【地上における信頼の巡礼】

 1978年以来、テゼ共同体は毎年の新年にペルリナージュ・ド・コンフィアンス・シュル・ラ・テール(仏 Pèlerinage de Confiance sur la Terre 地上における信頼の巡礼)という五日間の集いを開いています。催しの際は数千人の若者が一般家庭やコミュニティ・センターに宿泊して集会に参加します。

 政治的経済的混乱に苦しむヨーロッパ外の国々でも、この新年の集いは開催されます。最近まで激しく対立し、ときには戦火を交えていた他民族や他国の若者たちも、一般家庭に迎え入れられます。敵国の若者を信頼して迎え入れる一般家庭の人々と、家庭に迎え入れられる若者との出会いは、死に打ち勝って復活し給うたキリストとの出会いであり、この出会いを通してあらゆる垣根が乗り越えられます。




註1 エキュメニスムはギリシア語オイクーメネー(希 οἰκουμένη)の語幹に接尾辞イスム( -isme)を付けた造語。英語ではエキュメニズム(英 ecumenism)である。

 ギリシア語オイクーメネーは動詞オイケオー(希 οἰκέω 住む)から派生した形容詞、詳しく言えばオイケオーの現在分詞中受動相女性単数主格形で、オイクーメネー・ゲー(希 οἰκουμένη γῆ 人が住む地域)の意味である。ギリシア語オイクーメネーは原語の意味を保ったままフランス語エクメーヌ(écoumène/œcoumène)になっているが、エキュメニスムはギリシア語を忠実になぞって "œcuménisme" と綴られる。オイ(οἰ)はギリシア語の二重母音であるが、これはラテン語の二重母音オエ(œ)に相当するので、ギリシア語をラテン語に移入する際、オイ(οἰ)はオエ(œ)に置き換えるのが慣例である。フランス語はラテン系言語であるから、ギリシア語オイクーメネーのオイ(οἰ)はエ(œ)に置き換わっている。

 なお動詞オイケオーは名詞オイコス(希 οἶκος 家)に由来する。オイコスの語幹はオイコノミア(希 οἰκονομία 仏 économie 家政学、経済学)、エコロギー(独 Ökologie 仏 écologie 生態学)等に入っている。



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