エモー・ブレサン ローヌ=アルプ、ブルカンブレスのエマイユ
les émaux bressans, Bourg-en-Bresse




(上) 極稀少品 エモー・ブレサンのクロワ・ド・クゥ 突出部分を含むサイズ 縦 52.7 x 横 38.7 mm 厚さ 7.0 mm 重量 7.2 g 二十世紀初頭 当店の商品です。


 ブルカンブレス(Bourg-en-Bresse)はローヌ=アルプ=オーヴェルニュ地域圏アン県の県庁所在地であり、フランスとスイスの国境に近いラ・ブレス(la Bresse)地方の首邑です。この町ではエモー・ブレサン(仏 les émaux bressans)と呼ばれるエマイユ(七宝)細工が制作されています。エモー(仏 émaux)はエマイユ(仏 émail)の複数形で、エマイユによる諸々の工芸品、細工品を指します。エモー・ブレサンはエマイユの胎(下地)となる金または銀板にギヨシャージュ(仏 guillochage ギョーシェ彫り)様(よう)のパターンを打ち出すこと、シャンルヴェやクロワゾネのような隔壁無しに多色を用いること、色鮮やかな作品が多いこと、金箔や色ガラスの小球、ときには枠にセットした宝石で手の込んだ装飾を施すことが特徴です。


【エモー・ブレサンの歴史】



(上) 極稀少品 赤・緑・紫のエモー・ブレサンによるペンダント 43 x 28 mm 1870 - 1890年代頃 当店の商品です。


・近世以前のブルカンブレスにおけるエマイユ

 ブルカンブレスにおけるエマイユ工芸の記録は、1397年まで遡ることができます。当時ブルカンブレスにはメートル・ギュイヨーム(Maître Guillaume ギュイヨーム親方)という職人が住んでいましたが、この親方がサヴォワ侯アメデ八世(Amédée VIII de Savoie, 1383 - 1451)の剣の柄と鞘にエマイユ装飾を施したのです。それゆえこの時を起点に考えるとエモー・ブレサンは六百年以上の歴史を有することがわかります。しかしながら古い時代のエモー・ブレサンには、今日のような輝く色彩、金箔とアラベスクを組み合わせた華やかな装飾は見られません。

 十五世紀から十八世紀までのラ・ブレス地方とエマイユ工芸の関わりについて、詳しいことは何もわかっていません。この地にエマイユ工芸品が続いていたことは確かですが、故人の財産目録にエマイユ製品が記載されている例は極めて少なく、これはおそらく課税を忌避した結果であろうと考えられます。稀に財産目録に記載がある場合、エマイユ製品は「マユールのある宝飾品」と表現されています。マユール(仏 maillure)とは羽毛の斑紋や木材の星割れのことですが、この場合はエマイユ・シャンルヴェを指すのでしょう。しかしながらこのように記載がある場合でも、そのエマイユ製品がラ・ブレスで作られたものなのか、それともリヨンやジュネーヴから齎されたものなのかは不明です。


・1860年代のエマイユ流行がブルカンブレスに波及する

 近代のエモー・ブレサンに見られる特徴を導入したのはアントワーヌ・ボネ(Antoine Bonnet)とアメデ・フォルネ(Amédée Fornet)であろうと考えられていますが、技法に関する文書記録が残らず、古い時代には刻印が無い作品も多いために確かなことがわかりません。ボネがブルカンブレスのエマイユを再興したのは 1830年代のことです。ボネの名は1858年のディド・ボタン年鑑に初出し、1860年の同年鑑にはブルカンブレスのエマイユ職人としてただ一人名前が挙がっています。ちなみに同年のディド・ボタン年鑑に掲載されているパリのエマイユ職人は 101人に及びます(註1)。


 1851年にロンドンで最初の万国博覧会が開かれて以来、十九世紀のヨーロッパでは大規模な勧業博覧会が盛んに開催されました。1865年にパリで開催された産業芸術博覧会(L'exposition de l'Union centrale des Beaux-Arts appliqués à l'industrie)には二百七十点のエマイユ細工が有名コレクションから出展されました。画家でありエマイユ作家、詩人でもあるクローディユス・ポプラン(Claudius Popelin, 1825 - 1892)は 1866年に「画家たちのエマイユ」("L'Émail des peintres")を出版し、読書界に話題を提供しました。これらの動きが寄与して、1860年代以降のフランスではエマイユ細工がにわかに注目を集めるようになりました。

 ブルカンブレスはスイス国境に近く、当地でも置時計や懐中時計が作られていましたが、当時の時計の文字盤はたいていが琺瑯、すなわち不透明白色ガラスのエマイユでした。それゆえブルカンブレスでは時計工房のフィシェ(Fichet)、ゲネ(Guenet)、ユゴネ(Hugonnet)、ラコスト(Lacoste)、メートル(Maître)が琺瑯文字盤を制作していました。片やエマイユの宝飾品に関して当地のほとんどの人は時代遅れと感じており、少数の首飾りが細々と作られている程度でした。

 ブルカンブレスで風向きが変わったきっかけは、この町の町長からの注文で、エマイユ細工のエパングル・ド・クラヴァット(仏 épingle e cravate ネクタイピン)が制作されたことでした(註2)。これに続いて第二共和政のアン県選出下院議員レオポルド・ル・オン(Léopold Le Hon, 1832 - 1879)の夫人から、イヤリングの注文が入りました。ブルカンブレスの職人の仕事は素晴らしく、当地においてもエマイユ細工は再び高く評価されるようになりました。この他にもコンロベール元帥(François Certain de Canrobert, 1809 - 1895)の夫人やマクマオン大統領(Patrice de Mac Mahon, 1808 - 1893)の夫人をはじめ上流階級の女性たちが当地のエマイユ細工を買い求め、エモー・ブレサンの名声は一挙に高まりました。


・アントワーヌ・ボネ、アメデ・フォルネと各地の万国博覧会



(上) アメデ・フォルネのエマイユ・ジュエリー店


 ブルカンブレスにおいて最も長く続いたのは、アントワーヌ・ボネ(Antoine Bonnet)が創始した工房です。アントワーヌ・ボネは 1812年にエマイユ細工を始め、1850年に息子アントナン・ボネ(Antonin Bonnet)と共同で細工物を制作するようになりました。1870年、アントナン・ボネは親族のアメデ・フォルネに工房を譲り、アメデ・フォルネが引き継いだ工房はやがて女婿のシャルル=オノレ・デクルセル(Charles-Honoré Decourcelles)に、その後はデクルセルの息子エミール(Émile Decourcelles)、孫シャルル(Charles Decourcelles)へと継承され、1974年には職人のひとりロベール・ジャックマン(Robert Jacquemin)が工房を引き継ぎました。




(上) 1889年のパリ万博におけるアメデ・フォルネ工房の展示


 1870年にアントナン・ボネの工房を継いだアメデ・フォルネは次々に開催される博覧会を事業拡張の好機と見抜き、ウィーン、メルボルン、アントウェルペン、モスクワ、フィラデルフィア、パリの博覧会にジュエリーや服飾小物、写真立て、燭台やインク壺のセット、信心具等の多彩な作品を出品して十四個のメダルを獲得する一方、販売店網を整備しました。博覧会場での展示方法はよく工夫されており、エモー・ブレサンの美しさは広く知れ渡ることとなりました。1873年のウィーン万博、1876年のフィラデルフィア万博、1888年のバルセロナ万博、1889年のパリ万博では、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館やイラン国王パーレヴィ一世がアメデ・フォルネ工房やドーデ兄弟工房のエモー・ブレサンを高額で買い入れています。

 エモー・ブレサンの人気は十九世紀末から二十世紀初頭頃にかけて頂点に達し、金箔や色ガラスの小珠を多用した華やかな作品が盛んに作られました。この時期のブルカンブレスは中心部にエモー・ブレサンの工房が集中し、ボネ=フォルネ(Bonnet-Fornet)、コルサン=ギヨ(Corsain-Guillot)、ミゴネ(Migonney)、ガルニエ(Garnier)、テリエ(Terrier)の各工房が軒を連ねました。


 第一次大戦後に登場したビジュ・ファンテジ(仏 bijoux fantaisies コスチューム・ジュエリー)は、値段の安さと多様なデザインで人気を博しました。当時のエモー・ブレサンはビジュ・ファンテジに対抗するために、エマイユの制作工程が単純化され、使用される金箔も少なくなって、手の込んだデザインよりもエマイユの色の鮮やかさを強調する作品が作られています。

 アン県ブルカンブレス郡のサン=シール=シュル=マントン(Saint-Cyr-sur-Menthon)には、ル・ドメーヌ・デ・サヴール=レ・プラノン(Le Domaine des Saveurs - Les Planons)という博物館があります。この博物館はラ・ブレス地方の文化を主題に収集、展示を行っており、十九世紀の万国博覧会に出品されたエモー・ブレサンの一部も収蔵されています。


【エモー・ブレサンの制作】

 ロベール・ジャックマンの工房で働いていたダヴィッド・ジャンヴォワーヌ(David Jeanvoine)は、1998年に自身の工房を創始しました。ダヴィッド・ジャンヴォワーヌ工房は、今日もエモー・ブレサンを制作している唯一の工房です。




(上) ダヴィッド・ジャンヴォワーヌ工房


 ダヴィッド・ジャンヴォワーヌ工房では数人の職人が窓に面した横長の木製机で作業をします。木製机からは肘を置く台が手前に突き出ていて、精密な作業がしやすくなっています。

 エモー・ブレサンはシャンルヴェでもクロワゾネでもなく、独特の技法によって制作されます。エマイユの下地となる金属はフランス語ではフォン(仏 fond 土台、底、裏などの意)ですが、我が国では胎(たい)と呼んでいます。エモー・ブレサンの胎は銀または金の小片で、宝石用シャトン(台座)の軸を通す場合は中心に穴が開いています。胎となる金属片は分厚い金属板の上に置いてクロワシヨン(仏 croisillons 番号記号、#)状のパターンが打ち出されます。クロワシヨン状のパターンはギヨシャージュ(仏 guillochage ギョーシェ彫り)のようにも見え、深みがある陰翳をエマイユに与えます。クロワシヨンにはガラスが金属に融着する面積を大きくしてエマイユの剥落を防ぐ役割もあり、この点でもギヨシャージュに似ています。

 エマイユの元となるガラス粉末をフリット(仏 fritte)といいます。フリットは繰り返して洗浄されて不純物が除かれ、純水で溶かれます。フリットの主成分は珪素、酸化鉛、酸化ナトリウム、酸化カリウムで、これに各種金属の酸化物を加えることで意図する発色を得ます。エマイユは摂氏 860度で数度に亙って焼成されますが、まず最初に焼成されるのはコントレマイユ(仏 contre-émail)、すなわち胎を保護するために裏面に施されるエマイユです。表(おもて)面に関しては最初に単色のエマイユが施され、その上に他の色のエマイユ、金箔、色ガラスの小珠、ゴデ(仏 godet 宝石の台座)などが付加されて、そのたびに焼成が重ねられます。

 金箔は厚さ二センチメートルの鉛板に大きな箔を載せ、十六通りから選んだ型をあてがって、ひとつひとつ木槌で打ち抜きます。金箔はピンセットを使ってトラガカントゴム(仏 gomme adragante マメ科植物から得られる粘稠液)で固定されますが、エマイユの最上層に置かれるとは限らず、下層や中層に置かれることもあります。焼きあがったエマイユは台座にセットされてジュエリーが完成します。

 エマイユの表面に色ガラスの小珠を付加するには、高度の熟練を要します。珠の大きさを揃えるのも難しいですが、最も困難なのは炉で加熱するときで、炉から引き出すのが数秒遅れると珠が融けて流れ、製品は使い物にならなくなります。

 これらの工程を経て無事に完成したエマイユはジュエリー職人に引き渡され、枠にしっかりとセットされて、輝くように美しいジュエリーが出来上がります。


【生活に密着したエモー・ブレサン】



(上) 十九世紀末のブルカンブレスの女性。晴れ着姿で、被り物の縁からはエモー・ブレサンのジュエリーが下がっています。


 エモー・ブレサンは制作にたいへん手間がかかる工芸品で、それなりに高価ではありますが、宝石と貴金属のジョワヨ(仏 joyaux ファイン・ジュエリー)ほどではありません。それゆえ多くは農村に住んでいたラ・ブレス地方の人々にとって、エモー・ブレサンは人生の節目に欠かすことができないビジュ・レジオノ(仏 les bijoux regionaux 地域固有のジュエリー)となりました。初整体を受ける少女にはエモー・ブレサンのクロワ・ド・クゥ(十字架型ペンダント)が贈られました。意中の女性への贈り物にはエモー・ブレサンのコリエ・デスクラヴァージュ(仏 collier d'esclavage 「奴隷の首飾り」 首飾りの一種)が選ばれました。エモー・ブレサンの装身具は大切な財産として母から娘へと伝えられ、女性たちは人生の様々な機会にエモー・ブレサンのビジュ(仏 bijoux ジュエリー)を身に着けました。

 エモー・ブレサンは都会で豊かな生活を楽しむ人々にも人気があり、ヴィネグレット(仏 vinaigrette 人が轅を取る二輪の轎車)の装飾、オペラグラス、カルネ・ド・バル(仏 carnet de bal 舞踏会に携行する手帳)、シャトレーヌ(仏 châtelaine 女性が懐中時計等を提げる装飾的な鎖)、カフスボタンなどが制作されました。エモー・ブレサンによるこれらの品々は教養と趣味の良さ、裕福さ、女性の愛らしさの徴(しるし)でした。アンナ・パヴロワは世界を熱狂させたプリマ・ドンナであり、今日に至るまでおそらく最も有名なバレリーナですが、彼女がエモー・ブレサンの熱烈な愛好家であることはよく知られていました。


【カトリック教会の祭具と信心具におけるエモー・ブレサン】



(上) ブルカンブレス司教座聖堂ノートル=ダム=ド=ラノンシアシオンの主祭壇


 十九世紀から二十世紀にかけて、カトリック教会の祭具及び個人向け信心具には、エモー・ブレサンを含むエマイユ細工が多用されました。エマイユを施されることが多かった教会の祭具には、カリス(ミサの葡萄酒を入れる聖杯)、キボリウム(聖体を保管する容器)、聖体顕示台、司教や修道院長用の十字架が挙げられます。個人向け信心具に関しては、シャプレ(ロザリオ)、ベニチエ(家庭の壁掛け式聖水入れ)、聖人の小像、祈祷書の表紙等にエマイユが多用されました。

 建築の世界では十八世紀後半から十九世紀にかけてネオゴシック様式が流行しましたが、中世に対する関心はリモージュのエマイユ製祭具及び信心具の再評価、さらにエマイユ全般の再評価につながりました。アメデ・フォルネはブルカンブレス司教座聖堂ノートル=ダム=ド=ラノンシアシオン(la cocathédrale Notre-Dame-de-l'Annonciation)の黒い聖母子像に金線細工の冠を制作し、またリヨンのアルマン=カリア(Armand-Calliat)と共同で主祭壇を制作しました。エモー・ブレサンが宗教に取り入れられた他の例としては、ブルカンブレスが属するベレ司教区(現ベレ=アルス司教区)の司教用クロワ・ペクトラル(仏 croix pectrales 胸の位置に提げる大型の十字架)、アルスのヴィアンネ師のクロワ・ペクトラル、聖遺物函、聖水入れ、金線細工に小さなエマイユを散りばめて飾った数々のプラーク・ド・デヴォシオン(仏 plaques de dévotion)などが挙げられます。



註1 "Annuaire et almanach du commerce Didot Bottin, départment et étranger", 1858

 ディド家は十八世紀から今日まで印刷出版業で重きをなすフランスの家系である。ディド家で最初に印刷業に携わったのはフランソワ・ディド(François Didot, 1689 - 1757)で、この人はアベ・プレヴォの友人でもあった。フィルマン・ディド(Firmin Didot, 1764 - 1836)はフランソワ・ディドの孫で、印刷業の傍ら、数期にわたって国民議会議員を務めた。アシニャ紙幣(assignat)から現代の印刷物にまで使われる美しいディド体は、フィルマン・ディドの考案による。フィルマンの事業は二人の息子アンブロワーズ(Ambroise Firmin Didot, 1790 - 1876)とヤサント(Hyacinthe Firmin Didot, 1794 - 1880)が引き継いだ。兄弟の没後はアンブロワーズの息子アルフレッド(Alfred Firmin-Didot, 1828 - 1913)が事業を継いでいる。

 セバスチャン・ボタン(Sébastien Bottin, 1764 - 1853)は革命前からのカトリック聖職者で、革命期には聖職者基本法による司祭となったが、やがて聖職を辞して政治家に転身した。1815年のナポレオン百日天下では代議員に選ばれている。ボタンは「パ=ラン統計年鑑 共和暦七年から九年」("Annuaire statistique du département du Bas-Rhin de l'an VII à l'an IX")を皮切りに、数種の優れた年鑑を出版した。とりわけよく知られるのは 1819年から 1853年まで発行を続けた「パリ及び世界主要都市商業年報」("Almanach du commerce de Paris et des principales villes du monde")である。

 ボタンは 1796年に「商業年報社」(la Société de l'Almanach du Commerce)を設立していた。1853年にボタンが亡くなるとディド家はボタンの事業を引き継ぎ、ディド=ボタン社(la société Didot-Bottin)は 1881年に独立の株式会社となった。同社の建物はブルス(la Bourse de commerce de Paris)に隣接していた。


註2 "Visage de l'An", éd. de Trévoux, numéro 77, 1965, p. 35



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