極稀少品 エマイユ逸失の無い一点もの 《光り輝くクロワ・ド・クゥ 52.7 x 38.7 mm》 エモー・ブレサンによる大きな銀無垢ペンダント フランス 十九世紀後半から二十世紀初頭


重量 7.2 g


突出部分を含む十字架のサイズ 縦 52.7 x 横 38.7 mm  ※上部に通した外付けの環を除く。

最大の厚さ 7.0 mm



 フランス東部、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アン県のブルカンブレス(Bourg-en-Bresse)では、エモー・ブレサン(仏 les émaux bressans)と総称されるエマイユ細工が制作されています。本品はエモー・ブレサンの最盛期である十九世紀後半から二十世紀初頭に制作されたクロワ・ド・クゥ(十字架型ペンダント)で、分厚くしっかりとした銀無垢製台座に手の込んだエマイユを嵌め込んでいます。彫金細工職人、エマイユ職人、宝石職人の協業によって手作りされた逸品です。





 クロワ・ド・クゥ(仏 croix de cou)とはフランス語で首の十字架、すなわち首から懸ける十字架型ペンダントのことです。

 十字架には高位聖職者が首から懸けるクロワ・ペクトラルやロザリオの始めに取り付けられているクルシフィクスなどもあり、それらは祭具や信心具に分類されます。しかるにクロワ・ド・クゥは信心具ではありません。十九世紀のフランス社会、特に田舎では世俗化が進まず、カトリックのキリスト教文化が生活の隅々にまで浸透していました。それゆえジュエリーにもキリスト教の影響を強く受けてクロワ・ド・クゥ(十字架型ペンダント)が多く作られました。本品もそのようなものの一つですが、クロワ・ド・クゥはキリスト教の影響を強く受けつつも、世俗的なビジュ(仏 bijou 装身具、ジュエリー)の性格が強く、どなたにでも自由にお使いいただけます。





 十九世紀のフランスでは、ビジュ・レジオノ(仏 bijoux régionaux 複数形)と総称される地域固有のジュエリーが発達しました。クロワ・ド・クゥの装飾にエモー・ブレサンを採用した本品は、ブルカンブレスのビジュ・レジオノです。たいていの場合、ビジュ・レジオノはその地方に固有の形態を特徴とします。しかるに本品のユニークな形状はブルカンブレスのクロワ・ド・クゥに共通する特徴ではありません。したがって本品は形態ではなく素材に基づくビジュ・レジオノであるといえます。

 なお本品の形態に地域性がまったく見られないわけではありません。本品は十字架末端の三方に小さな装飾が突出しています。十字架末端から三方に向けて装飾が突出するのは、古い時代のフランス製クロワ・ド・クゥによく見られる意匠上の特徴です。それゆえ本品をビジュ・レジオノとして位置づける上で最も重要な要素はエマイユが使用されていることですが、十字架全体の形態にもフランスならではの特徴が表れています。ただし後者はフランスのクロワ・ド・クゥに共通する特徴であって、ラ・ブレス地方(ブルカンブレスを首邑とする地方)にだけ見られるものではありません。





 本品は菱形あるいは正方形の銀製枠六個を十字架型に連ね、エマイユを施した一辺八ミリメートルの飾り板を各枠に嵌め込んでいます。飾り板は銀製枠の縁を内側に曲げることによって固定されています。一定の間隔で曲げた枠はあたかも花弁のように見え、枠から外側に向けて溶接された植物パターンの装飾と美しく調和しています。

 上部に突出した環に、テト・ド・サングリエ(仏 tête de sanglier イノシシの頭)を模るパリ造幣局の検質印が刻印されています。テト・ド・サングリエはフランスにおける銀無垢製品の刻印で、800パーミル(800/1000、80パーセント)の純度を示します。





 1851年にロンドンで最初の万国博覧会が開かれて以来、十九世紀のヨーロッパでは大規模な勧業博覧会が盛んに開催されました。1865年にパリで開催された産業芸術博覧会(L'exposition de l'Union centrale des Beaux-Arts appliqués à l'industrie)には二百七十点のエマイユ細工が有名コレクションから出展されました。画家でありエマイユ作家、詩人でもあるクローディユス・ポプラン(Claudius Popelin, 1825 - 1892)は 1866年に「画家たちのエマイユ」("L'Émail des peintres")を出版し、読書界に話題を提供しました。これらの動きが寄与して、1860年代以降のフランスではエマイユ細工がにわかに注目を集めるようになりました。

 ブルカンブレスはスイス国境に近く、当地でも置時計や懐中時計が作られていました。当時の時計の文字盤はたいていが琺瑯、すなわち不透明白色ガラスのエマイユでしたから、ブルカンブレスでは時計工房のフィシェ(Fichet)、ゲネ(Guenet)、ユゴネ(Hugonnet)、ラコスト(Lacoste)、メートル(Maître)が琺瑯文字盤を制作していました。片やエマイユの宝飾品に関して当地のほとんどの人は時代遅れと感じており、少数の首飾りが細々と作られている程度でした。





 ブルカンブレスで風向きが変わったきっかけは、この町の町長からの注文で、エマイユ細工のエパングル・ド・クラヴァット(仏 épingle e cravate ネクタイピン)が制作されたことでした。これに続いて第二共和政のアン県選出下院議員レオポルド・ル・オン(Léopold Le Hon, 1832 - 1879)の夫人から、イヤリングの注文が入りました。ブルカンブレスの職人の仕事は素晴らしく、当地においてもエマイユ細工は再び高く評価されるようになりました。この他にもコンロベール元帥(François Certain de Canrobert, 1809 - 1895)の夫人やマクマオン大統領(Patrice de Mac Mahon, 1808 - 1893)の夫人をはじめ上流階級の女性たちが当地のエマイユ細工を買い求め、エモー・ブレッサンの名声は一挙に高まりました。





 1858年の時点でブルカンブレスのエマイユ職人はアントナン・ボネがいるだけでしたが、1870年にボネの工房を継いだアメデ・フォルネは次々に開催される博覧会を事業拡張の好機と見抜き、ウィーン、メルボルン、アントウェルペン、モスクワ、フィラデルフィア、パリの博覧会にジュエリーや服飾小物、写真立て、燭台やインク壺のセット、信心具等の多彩な作品を出品して十四個のメダルを獲得する一方、販売店網を整備しました。博覧会場での展示方法はよく工夫されており、エモー・ブレサンの美しさは広く知れ渡ることとなりました。1873年のウィーン万博、1876年のフィラデルフィア万博、1888年のバルセロナ万博、1889年のパリ万博では、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館やイラン国王パーレヴィ一世がアメデ・フォルネ工房やドーデ兄弟工房のエモー・ブレサンを高額で買い入れています。

 エモー・ブレサンの人気は十九世紀末から二十世紀初頭頃にかけて頂点に達し、金箔や色ガラスの小珠を多用した華やかな作品が盛んに作られました。この時期のブルカンブレスは中心部にエモー・ブレサンの工房が集中し、ボネ=フォルネ(Bonnet-Fornet)、コルサン=ギヨ(Corsain-Guillot)、ミゴネ(Migonney)、ガルニエ(Garnier)、テリエ(Terrier)の各工房が軒を連ねました。





 エモー・ブレサンは制作にたいへん手間がかかる工芸品で、それなりに高価ではありますが、宝石と貴金属のジョワヨ(仏 joyaux ファイン・ジュエリー)ほどではありません。それゆえ多くは農村に住んでいたラ・ブレス地方の人々にとって、エモー・ブレサンは人生の節目に欠かすことができないビジュ・レジオノ(仏 les bijoux regionaux 地域固有のジュエリー)となりました。初整体を受ける少女にはエモー・ブレサンのクロワ・ド・クゥ(十字架型ペンダント)が贈られました。意中の女性への贈り物にはエモー・ブレサンのコリエ・デスクラヴァージュ(仏 collier d'esclavage 「奴隷の首飾り」 首飾りの一種)が選ばれました。エモー・ブレサンの装身具は大切な財産として母から娘へと伝えられ、女性たちは人生の様々な機会にエモー・ブレサンのビジュ(仏 bijoux ジュエリー)を身に着けました。

 エモー・ブレサンは都会で豊かな生活を楽しむ人々にも人気があり、ヴィネグレット(仏 vinaigrette 人が轅を取る二輪の轎車)の装飾、オペラグラス、カルネ・ド・バル(仏 carnet de bal 舞踏会に携行する手帳)、シャトレーヌ(仏 châtelaine 女性が懐中時計等を提げる装飾的な鎖)、カフスボタンなどが制作されました。エモー・ブレサンによるこれらの品々は教養と趣味の良さ、裕福さ、女性の愛らしさの徴(しるし)でした。アンナ・パヴロワは世界を熱狂させたプリマ・ドンナであり、今日に至るまでおそらく最も有名なバレリーナですが、彼女がエモー・ブレサンの熱烈な愛好家であることはよく知られていました。





 本品はエモー・ブレサンが最も華やかであった十九世紀後半の作品で、交差部に黒い不透明エマイユ、その他の部分に鮮やかな青色半透明エマイユを使用しています。下地のエマイユの上には他の色のエマイユを金色の線で囲んで載せていますが、この金色の線はシャンルヴェやクロワゾネの隔壁ではなく、極細の筆に金の粉を付けて描かれています。エマイユ表面のところどころに色ガラスの小珠が載っていますが、この細工には高度の熟練を要します。珠の大きさを揃えるのも難しいですが、最も困難なのは炉で加熱するときで、炉から引き出すのが数秒遅れると珠が融けて流れ、製品は使い物にならなくなります。

 本品のエマイユは胎(たい 下地)に銀の小片を使用していますが、胎の中心には孔が開けられ、軸を通して宝石用シャトン(台座)が固定されています。シャトンに固定されているのは濃色のロードライト、または紫色がかったアルマンダイト(いずれもガーネット)です。十字架縦木を構成する四つのエマイユ板のうち、最下部のエマイユ板のガーネットが逸失していましたので、手持ちの宝石から同じサイズ、ほぼ同じ色の石を選んで嵌め込みました。この一個のみルビーになっています。





 アンティークのエマイユ細工はほとんどがシャンルヴェやクロワゾネです。シャンルヴェやクロワゾネは表面が平坦であるゆえに他の物とぶつかることが少なく、また多少の衝撃が加わってもなかなか壊れません。それに比べてエモー・ブレサンは三次元の丸みを帯びているゆえに、他の物にぶつかるとエマイユに衝撃が伝わりやすく、今日まで使わる十九世紀のエモー・ブレサンは、百数十年の歳月が経つうちに、エマイユの一部が逸失しているのが普通です。エモー・ブレサンは芸術水準の工芸品ですが、実用されるジュエリーでもある以上、これは仕方がないことといえましょう。

 本品の縦木最下部に当たるエマイユに数本のヘアライン(細いひび)が見られますが、エマイユの逸失はありません。衝撃で破損しやすいエモー・ブレサンの特性を考えると、本品が百数十年間を経てエマイユがまったく逸失せずに現代に伝わったのは、たいへん稀で幸運なことと言えます。エマイユが完全に残っているクロワ・ド・クゥは、アン県のミュゼ(仏 musée 美術館、博物館、ミュージアム)に行けばいくつもの作例が収蔵されていますが、市中で目にすることはほとんど不可能です。極めて優れた保存状態の本品は、フランス本国の美術館に収蔵されるレベルの品物です。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きく感じられます。









 エマイユはガラスであるゆえに、本品エマイユの美しい輝きは今後も変わることがありません。またペンダントを実用すると裏側が肌や服と擦れ合い、めっきは剝がれてしまいますが、本品は銀無垢製品であるゆえにこのような問題は決して起こらず、永遠に美しい状態のままご愛用いただけます。商品の実物は写真で見るよりもずっと綺麗で、お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。

 お支払方法は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、無利子・無金利の現金分割払いでもご購入いただけます。現金の分割払いは、二回、三回、六回、十回、十二回、十五回払い等、ご都合に合わせて回数をお約束いただき、お支払い完了時に商品をお引き渡しいたします。

 当店ではお客様のご希望に出来る限り柔軟に対応しております。何なりとご遠慮なくご相談くださいませ。





本体価格 148,000円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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