端正な顔立ちの若きマリアを、石膏の高浮き彫りで表した作品。マリアの左肩上方に、彫刻家サルヴァトーレ・マルキのサインが刻まれています。19世紀のフランスでは石膏による聖像彫刻が数多く制作されました。当店はそのなかでも芸術性に秀でたもののみを厳選して取り扱っていますが、本品は私がこれまでに見たなかで最も優れた作品のひとつです。
聖母はヴェールを被り、目を閉じていますが、年齢は若く、表情は優しく穏やかで、ウェイヴのかかった長く美しい髪もヴェールに完全に隠されていないことから、この聖母像が「マーテル・ドローローサ」(悲しみの聖母)ではなく、むしろマリアの幸せな姿を表した作品であることがわかります。
本品は高浮き彫りによる立体作品ですが、ウフィツィ美術館に収蔵されている油彩画、ブロンジーノ (Bronzino, 1503 - 1572)
による「聖家族」に描かれたマリアとよく似ています。ブロンジーノはこの「聖家族」において、かすかな後光さえ無ければ市井の家族に見える群像を描いています。マリアは年齢の釣り合った優しく頼もしい夫ヨセフと寄り添い、夫婦は幼い息子イエズスに愛のまなざしを注いでいます。イエズスよりも六か月年長のヨハネは、可愛い弟のようなイエズスに口づけしようとしています。本品のマリアに見られる優しい表情は、ブロンジーノの作品に描かれたような、家族愛にあふれた幸せな日常によるものとも思えます。
(下・参考画像) ブロンジーノ 「聖家族」 Bronzino, "Santa Famiglia", c. 1540, olio su tavola, 117 x 93 cm, la Galleria degli Uffizi, Firenze
本品のマリアは目を完全に閉じており、また祈りの徴(しるし)であるヴェールを被っています。このことからマリアの心が神と対話していることがわかります。幸せな日常生活の中で、愛しいわが子を目を細めて眺めながら、心の中で神と対話していると解釈することも可能ですし、日常を超えて宗教的あるいは神秘的な出来事のなかで、神と対話するマリアの姿と解釈することもできます。
マリアの生涯に起こった最も喜ばしい出来事は、天使ガブリエルから受胎を告知されたことでしょう。「ルカによる福音書」1章26節から38節には次のように書かれています。
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
、「受胎告知」は古来多くの美術作品のテーマとなりました。下に示すのはフラ・アンジェリコによる作品のひとつです。天使が突然家の中に入ってくるという異常な事態にかかわらず、落ち着いた表情のマリアは両手を胸に当てて祈りの姿勢を執り、心静かに神と対話しています。
(下・参考画像) Fra Angelico, "l'Annunciazione di San Giovanni Valdarno", 1430 - 1432, tempera su tavola, 195 x 158 cm, il Museo della basilica di Santa Maria delle Grazie, San Giovanni Valdarno
「ルカによる福音書」1章39節以降の記述によると、天使ガブリエルから受胎を告知されたあと、若きマリアはこの出来事を報告するために、ずっと歳上の親類の女性エリザベトを訪ねました。ふたりは歳が離れていましたが、とても仲が良かったようです。子どもがいないエリザベトは少女マリアを実の娘のようにかわいがり、マリアもエリザベトを心から信頼していました。
エリザベトと夫ザカリアは、マリアが住むナザレから南へ150キロメートル、歩いて四、五日の旅程にあるユダエア属州(ユダヤ属州)の山里アイン・カリムに住んでいました。マリアは受胎告知の後、自分の身に起こった出来事を知らせるべく、すぐにこのエリザベトを訪問したのでした。四、五日かけて荒野を歩いたのですから、この出来事を一刻も早く知らせたいと願ったマリアの気持ちの大きさがよくわかります。
下に示したのは女性彫刻家クレール=ドミニク・ローラン (Claire-Dominique Laurent) による 1982年の作品、「わがこころ主をあがめ」(マーグニフィカト)です。マリアの訪問を受けた当時、エリザベトはすでに若くなかったにもかかわらず、後に洗礼者ヨハネとなる子供を妊娠していました。このメダイユにおいて、ゆったりとした服を着た妊婦エリザベトは、少女マリアを両腕の中に迎えようとしています。ふたりの女性はお互いに強い愛情で結ばれていますが、動作が落ち着く年齢である上に妊娠しているエリザベトが、両腕を優しく開いて深く穏やかな愛情を示しているのに対して、少女マリアは両腕をいっぱいに開き、一刻も早くエリザベトに抱きつこうと、弾む心を抑えきれずに駆け寄っています。
(下) クレール=ドミニク・ローラン作 「わがこころ主をあがめ」(1982年) ブロンズ製メダイユ 直径 63.1ミリメートル 当店の商品です。
以上に取り上げたいくつかの場面は、いずれも若きマリアの喜びを思わせます。しかしながら本品を制作した彫刻家がこの作品に彫ったのは、特定の場面におけるマリアの姿ではないでしょう。この彫刻に形象化されているのは、むしろ、「常に変わることのない神の愛」と、神の愛を信じるマリアの心にしっかりと根を張った「信仰に基づく不変の喜び」に他なりません。
本品を制作した彫刻家は、マリアを満面の笑顔で表すこともできたはずですが、この作品におけるマリアのほほえみは、一見して判別できないほどに微かです。これは彫刻家が移ろいゆく感情ではなく、むしろ神の愛を映して永遠に続く喜びを表現していることを示します。マリアが目を閉じていることからも、たまたま目の前に展開されている光景を見てほほえんでいるのではないことがわかります。
この作品において彫刻家が表しているのは、マリアの「信仰に基づく喜び」です。「信仰に基づく喜び」は、神の愛の反映に他なりません。マリアは永遠に変わらない神の愛を信じた故に、天使が家の中に入ってきてもしっかりと返答し、イエズスが行う奇跡を見ても驚かず、イエズス受難の際にも信仰を失いませんでした。マリアの穏やかな表情と、口許に浮かぶ微かなほほえみ、神との対話を象徴するとともに神に選ばれた地位を表す花嫁のヴェールは、神にすべてを委ねるマリアが常に心に抱き、その生涯を通奏低音のように貫く「信仰に基づく喜び」を可視化したものに他なりません。
「信仰に基づく喜び」は最高度に精神的な価値です。本品はこの「形無きもの」を表すために、抽象によらず、むしろ写実的具象性を究極まで推し進めています。マリアは通常の浮き彫りをはるかに凌ぐ立体性を以て見る者のほうへ身を乗り出しています。豊かに波打つ髪を被う花嫁のヴェールは軽やかな薄絹で、縁の細かい縫い取りまでも再現されています。軽く開いたマリアの口許には整った歯並びが覗いています。本品を制作した彫刻家は、生身のマリアを感じさせるこれほどまでの具象性を通して、至高の精神性を見事に表現しています。
この彫刻は環状の木製枠にセットしたうえで、幅広の木製フレームに額装されています。幅広の木製フレームは上下ふたつの部材を繋いで制作され、黒く塗られています。前面にはドーム型のガラスがはめ込まれています。黒く塗った木製フレームとドーム型ガラスを用いたこのような額装は、19世紀のフランスに特有の方式です。長い年月が経過するうちに木材が乾燥し、ガラスの内側で彫刻をセットした環状木製枠が一箇所(時計の短針で言えば一時三十分付近)において破断していますが、強度上、美観上ともまったく問題はありません。ドーム状ガラスは19世紀のオリジナルで、今日に至るまで一度も割れずに彫刻を保護し続けています。
本品は十九世紀フランスの石膏製聖像彫刻における最高の作品です。具象を究極まで推し進めることによって至高の精神性に到達した本品は、トリエント公会議後のバロック時代以降、十九世紀に極点に達した正統的カトリック芸術の精華といえましょう。