「ノートル=ダム・ド・ポンマン」(Notre-Dame de Pontmain ポンマンの聖母)を模(かたど)った石膏像。1870年代から20世紀初頭頃のフランスで制作されたものです。
聖母や聖母子を模(かたど)った立体像は、高さ数センチメートルから十数センチメートル程度である場合がほとんどですが、本品は台座を含めて 27センチメートルの高さ、560グラムの重量がある立派な作例です。写真では分かりにくいですが、聖母の衣には線刻による星が散りばめられ、台座に「ポンマン」(Pontmain)、「ポミエ」(Pommier)
の文字が読み取れます。ポミエはこの像を制作した工房の名前でしょう。
ノートル=ダム・ド・ポンマンは、1871年1月17日、フランス北西部のペイ・ド・ラ・ロワール地域圏マイエンヌ県にある人口数百人の小村ポンマン (Pontmain) において、空中に出現しました。空中に異変が起こった知らせを受けて、司祭や修道女を含め大勢の村人が集まりましたが、聖母の姿は子供たちだけに見えました。
聖母の出現が起こったのは、普仏戦争によって侵攻したプロシア軍が、フランス北西部のポンマンにも迫りつつあるときのことでした。聖母出現の知らせを受けて現場に駆け付けた村の司祭ゲラン師は、その場で直ちに祈祷会を始め、大人たちはアヴェ・マリア、マーグニフィカト、聖母の連祷をはじめとする祈りを次々に唱えました。子供たちによると、このとき聖母の左胸には赤い十字架が現れ、聖母は悲しげな表情になりましたが、村人たちが熱心に祈るにつれて微笑みを取り戻し、足元に細長い帯が開いて、「わたしの子供たちよ、祈りなさい。神はあなたたちの願いをもうすぐ叶えてくださいます。わたしの息子に触れなさい」(Mais
priez mes enfants. Dieu vous exaucera en peu de temps. Mon Fils se laisse
toucher.) という言葉が現れました。次に足元の帯が消え、聖母は再び表情を曇らせて、赤い十字架を胸の前に掲げました。十字架の最上部には白い横木があって、イエス・キリスト
(JESUS-CHRIST) と書かれていました。聖母は胸の前に十字架を持ったまま、子供たちのほうへ体を屈めました。
本品は聖母出現の様子を子供たちから聞き取って再現したものです。雲の台座は聖母が空中に現れたことを示しています。聖母の左胸には小さな赤い十字架が見えます。聖母の足下には横長の帯が現れており、表面が磨滅していますが、「わたしの息子に触れなさい」(Mon
Fils se laisse toucher.) という言葉がわずかに残っています。聖母は赤い十字架のクルシフィクスを持っており、十字架の上部には白い横木があります。
子供たちの証言によると、左胸に小さな赤い十字架が現れたとき、聖母は悲しげな表情でした。聖母はこのとき愛する息子イエス・キリストの受難を思い、悲しんでおられたのでしょう。しかしながら村人が熱心に祈ったとき、聖母に微笑みが戻り、祈りを勧める言葉を記した帯が足下に現れました。このことから、村人たちの祈りが聖母の悲しみを和らげたことがわかります。また聖母の姿と文字を記した帯が子供たちだけに見えていたことから、聖母の言葉はまず子供たちに向けられていたことがわかります。
(上) P. マテイ作 「幼子らの我に来(きた)るを禁ずることなかれ」 枠の直径 24 cm 彫刻の直径 17 cm フランス 1880年代 当店の商品
聖母の足元の帯に現れた言葉は「わたしの子供たちよ、祈りなさい。神はあなたたちの願いをもうすぐ叶えてくださいます。わたしの息子に触れなさい」というものでした。「わたしの息子に触れなさい」と訳したフランス語 (Mon
Fils se laisse toucher.) を直訳すると、「わたしの息子は自分に触れることを許します」となります。この言葉はすべての共観福音書に記録されているイエスと幼子たちのエピソードを思い起こさせます。「ルカによる福音書」
18章 15 - 17節を、ネストレ=アーラント26版、及び新共同訳により引用いたします。
15 Προσέφερον δὲ αὐτῷ καὶ τὰ βρέφη ἵνα αὐτῶν ἅπτηται: ἰδόντες δὲ οἱ μαθηταὶ ἐπετίμων αὐτοῖς. 16 ὁ δὲ Ἰησοῦς προσεκαλέσατο αὐτὰ λέγων, Ἄφετε τὰ παιδία ἔρχεσθαι πρός με καὶ μὴ κωλύετε αὐτά, τῶν γὰρ τοιούτων ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ. 17 ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν. | イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 |
この出来事はすべての共観福音書に記録されています。上に引用した箇所で、ルカは「ブレプェー」(βρέφη ギリシア語で「乳飲み子」の意)という語を使い、子供たちの幼さを強調しています。ウルガタ訳は「イーンファンテース」(INFANTES)
の語を当てています。ギリシア語「ブレプェー」はもともと胎児を表す言葉が新生児、乳児の意味に転じたものです。またこれをラテン語に訳した「イーンファンテース」は、「言葉をうまく話せない」という意味の形式所相動詞「イーンフォル」(INFOR)
の分詞に由来する語であって、まだ片言しか話せないような乳幼児、現代で言えば幼稚園に入る前の幼児ぐらいの年齢の幼子を指します。したがってこのときイエスが呼び寄せ給うたのは、母に抱かれた乳児から、二、三才までの子供たちであったことがわかります。
(上) ポンマンにおける聖母出現 フランスのアンティーク小聖画 当店の商品
ポンマンに出現した聖母が祈りを勧める際に、福音書の出来事を連想させる言葉を使って「わたしの息子に触れなさい」(Mon Fils se laisse
toucher. 直訳「わたしの息子は自分に触れることを許します」)と語り、十字架を示し給うたのは、乳飲み子が母の愛を信頼するような気持ちで、神とキリストの愛を信じなさい、という意味であることがわかります。ポンマンでは年長の子供たちも聖母を目撃していますが、神父と修道女を含む大人たちに聖母の姿は見えませんでした。聖母の出現が子供たちにしか見えなかった事実は、あたかも乳飲み子が母の愛を信頼するように、神の愛を信頼することが、大人にとって如何に難しいかということを示しています。
(上) スティール・エングレーヴィング 「アルザス」(247 x 176 mm 1878年) 原画の作者 アンリエット・ブラウン (Henriette Browne, 1829 - 1901) 当店の商品
聖母がポンマンに現れ給うたのは、普仏戦争の時でした。この戦争でフランスはプロシアに惨敗し、アルザスとロレーヌを失いましたが、この敗戦は「悔悛のガリア」が神に心を向ける機会ともなりました。神に心を向けると言っても、神とキリストが求めておられるのは生半可な愛と信頼ではなく、あたかも乳飲み子が母のみを見、母を信じて自分の生存そのものを委ねるかのような、全面的な愛と信頼であることを、ポンマンでの出来事は示しています。大人にとって、これはラクダが針の孔を通るよりも難しいことに思えますが、この聖母像は「わたしの息子は自分に触れることを許します」(Mon
Fils se laisse toucher.) と見る者に語り掛けて、神が我々を愛で包み込むべく、いつでも待っておられることを思い起こさせてくれます。
この像において聖母の肌、冠、衣はいずれも着色されていませんが、胸と手の十字架のみは真っ赤に塗られています。赤は愛の色に他なりません。本品は優れた造形の美術工芸品としても、経年による趣を備えたアンティーク品としても美しいですが、それとともに信心具としての役割を未だ失わず、この像に目を向けるたびに真っ赤な十字架を示して、神とキリストの愛を思い起こさせてくれます。
本品は百年以上前に制作された真正のアンティーク品ですが、保存状態は良好で、特筆すべき破損はありません。突出部分の磨滅は、ポンマンの聖母を通して捧げられた幾多の祈りと願いを証ししています。