中世ヨーロッパの人々にとって、信仰とは霊験あらたかな聖母子像や聖遺物に詣でることに他なりませんでした。中世フランスにおける聖母マリアの巡礼地は、英仏海峡に面するブーローニュ=シュル=メール、黒い聖母があるル・ピュイ=アン=ヴレ、ラ・サント・チュニク(仏 la Sainte Tunique 受胎告知の際にマリアが身に着けていたヴェール)を安置するシャルトル司教座聖堂ノートル=ダム、フランス南西部のピレネー山中にある聖地ロカマドゥールが特に有名でした。
スポルテル(仏 une sportelle)はロカマドゥール巡礼の印である紡錘形の徽章で、スポルチュラス(sportulas)、スポルテラス(sportellas)、あるいはオック語でセニャル(Occ.
senhal 印)とも呼ばれます。この徽章に関する最初の言及は、当地の修道士が 1172年に書いたハギオグラフィに見られます。スポルテルはロカマドゥールにある修道院の紋章を模っており、多くの場合は鉛でできていましたが、錫、銅、金、銀でできたものもありました。
スポルテルはロカマドゥールでのみ制作されました。ロカマドゥールの聖母に詣でた巡礼者たちは、当地で購入したスポルテルを衣服や帽子に縫い付けて帰路に着きました。中世の旅は非常に危険でしたが、スポルテルはロカマドゥールの聖母による庇護の印であり、巡礼者たちに信仰心ゆえの安心感を与えるとともに、各領主の土地を安全に通るための通行証としても機能しました。
本品はロカマドゥールの巡礼者たちが身に着けたスポルテルを復元し、上部に吊り輪を付けてペンダント式メダイとしています。
表(おもて)面には左膝に幼子イエスを乗せたロカマドゥールの聖母が刻まれています。伝統的図像表現に拠る聖母子像において、幼子イエスは聖母の左膝に座り、あるいは聖母の左腕に抱かれます。ノートル=ダム・ド・ロカマドゥールの聖母子像も、この原則に従っています。幼子イエスを聖母の左側(向かって右側)に配する聖画や聖像の意匠は、被昇天後の聖母が天上においてイエスの右の座にあることを表します。
聖母が右手に持つ女王の笏は、頂部がフルール・ド・リス(仏 fleur de lys 百合の花)となっています。百合の花は聖母の象徴であるゆえに、フルール・ド・リスの笏はレーギーナ(羅 REGINA 女王)としての聖母の地位と支配権、及び聖母がその臣民とも言うべき信徒に与える庇護を表しています。スポルテルの周囲には、次の言葉がラテン語で記されています。
SIGILLVM BEATE MARIEE DE ROCAMADOR ロカマドゥールの至福なるマリアの印
中世には正字法が確定しておらず、表記に揺らぎがあります。本品は中世のスポルテルに書かれた銘をそのまま写していますが、正統的な綴りに直すならば、"SIGILLVM/SIGILLUM
BEATÆ MARIÆ DE ROCAMADOUR" となります。中世のスポルテル及び本品において、ラテン語女性名詞・形容詞の単数語尾アエ(Æ)は、中世ガリアで行われた発音通りにエ(E)と表記されています。地名ロカマドゥールはオック語における語形(Ròc
Amadori)の影響を受けて、ロカマドール(ROCAMADOR)と表記されています。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。本品のサイズは中世のスポルテルのおよそ半分で、上部に吊り輪を付加するとともに、身に着けやすい大きさに作られています。突出部分にも摩滅は見られず、新品同様の状態です。
目に一丁字無い中世の民衆にとって、信仰の内面化など考えることもでない事でした。最も大きな信仰の業は巡礼であり、彼らは生命の危険を冒して旅に出ました。しかるに我々は彼らの信仰を即物的で下等なものと見下すことはできません。なぜならば近現代人もまた聖母の庇護を願いつつ、地上の生を旅するヴィアートル(羅
VIATOR 旅人)であるからです。そのことを考えるとき、本品は日々身に着けるのに最もふさわしいメダイの一つであることに気づきます。