パリ中心部で「罪人の避け所」(le Refuge des pécheurs) として崇敬を集める聖母子像、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール(Notre-Dame des Victoires 勝利の聖母)の800シルバー無垢製メダイ。非常に細密な浮き彫りが特徴で、彫刻家のサインが入っています。
(上・参考画像) ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール 戴冠記念カニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号896) 1853年 当店の販売済み商品
「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」はイタリア人彫刻家の作品と言われ、優しい表情の聖母が幼子イエズスの傍らに立っています。聖母は幼子イエスを両腕で抱き、優しく寄り添っています。聖母のこの姿勢には、ふたつの意味を読み取ることができます。
まず第一に、幼子を優しく抱き寄せる聖母の姿は、不安定な場所によじ登った幼児が転落しないように、幼児の体を支える母の愛を表しています。
第二に、あたかも一体となるかのように幼子イエスに寄り添う聖母の姿は、キリストが罪びとを愛するのと同様に、聖母もまた罪びとを愛し、憐れみ、罪びとのために執り成し給うことを表しています。イエスを十字架に懸けた罪人たちに対して、救い主イエスとともに聖母が注ぐ慈愛の眼差しは、神とイエスへの愛ゆえに、世の罪びとをも愛して、その「避け所」」(le refuge des pécheurs) となり給うことを表しているのです。
「イエスに対する母の愛」と「神とイエスへの愛の反映としての、罪びとへの愛」は、マリアの汚れ無き御心 (l'Immaculé cœur de Marie) においてひとつに融け合っています。それゆえ聖母子像「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は、「マリアの汚れ無き御心」の愛の形象化であるということができます。
メダイ表(おもて)面には聖母子像「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」が精緻な浮き彫りによって再現されています。上に示したカニヴェの版画にもあるように、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」像に刻まれた聖母の視線は、幼子イエスの視線に比べて少し下に向いています。しかしながらこのメダイは、カニヴェよりもわずかに低い視点から聖母子像を見上げているために、メダイを見る人の視線が聖母の視線とぶつかって、よりいっそう強い印象を与えます。
聖母子像を囲むように、中世の写本風の字体で「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」(Notre-Dame des Victoires フランス語で「勝利の聖母」)と刻まれています。
上の写真に写っている定規は、ひと目盛 1ミリメートルです。人体各部の正しい均整が写し取られているばかりでなく、聖母子の表情、王冠や手、イエスが乗る球体に描かれた星などの細部、衣の自然な流れ、聖母子の足下に見える不定形な雲等、あらゆる部分が臨場感豊かに再現され、これが直径
15ミリメートルあまりのメダイに施された浮き彫りであることを忘れさせます。
メダイ裏面には聖母を象徴する百合の花が刻まれています。百合が聖母の象徴とされるのは、旧約聖書の愛の歌「雅歌」にある次の聖句に由来します。
Sicut
lilium inter spinas, sic amica mea inter filias.
おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。(雅歌 2:2 新共同訳)
百合は純潔、徳の高さを表すとともに、神による「選び」を象徴しています。また本品には三輪の百合が彫られています。これは三位一体なる神が、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」を「罪びとの避け所」(le
refuge des pécheurs) として選び給うたことを表しています。いちばん上に見える四輪めのつぼみは、神に選ばれた聖母を象徴しています。
【ノートル=ダム=デ=ヴィクトワールにゆかりの聖人など】
テオドール・ラティスボンヌ神父 (P. Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884 註9) は、1840年からノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにおいて信心会の会長補佐を務めました。同じ頃、後に尊者となるフランソワ=マリ=ポール・リーバーマン神父
(Ven. François-Marie-Paul Libermann) がノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに創設した「マリアの聖心会」(la
Société du Saint-Coeur de Marie) は、現在の「聖霊修道会」(La Congrégation du Saint-Esprit,
Spititain) の源流となりました。
また既述のように、パリ外国宣教会もノートル=ダム・デ・ヴィクトワールと深いつながりがあります。1861年2月2日にハノイで殉教することになるジャン=テオファン・ヴェナール師
(St Théophane Vénard, 1829 - 1861)
は、神学校在学中の1847年にノートル=ダム・デ・ヴィクトワール大信心会に加入し、ヴェトナムに出発する前にはヴェトナムにおける司祭としての働きをノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに委ねました。
イギリス国教会の司祭から1845年にカトリックに改宗し、後に枢機卿となったジョン・ヘンリー・ニューマン師
(Mgr. John Henry Newman, 1801 - 1890)
は、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールを訪れて、自身の改宗を聖母に感謝しています。
テレーズ・マルタン、後のリジューの聖テレーズ (Ste. Therese de Lisieux, 1873 - 1897) は14歳のときに家族とローマを訪れていますが、リジューからローマに向かう途中でノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに立ち寄って、カルメル会に入る望みがかなうように祈っています。
テレーズは愛読の「イミターティオ・クリスティー」("Imitatio
Christi" 「キリストに倣いて」)に、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の聖母像のカードを挟んでいました。カルメル会に入会したいという望みを父ルイ・マルタンに伝えたとき、父は娘に小さな花を贈りましたが、テレーズはその花をカードに貼り付けていました。亡くなる数日前、テレーズはカードの裏に名前を書きましたが、これはテレーズの最後の署名となりました。
テレーズはカルメル会修道院の病室で亡くなりましたが、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の像はここにも安置されており、地上におけるテレーズの最後の日々を見守りました。
19世紀のフランスにおいて、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールはこのように大きな役割を果たしましたが、それにもかかわらずこの聖母子像のメダイは不思議なほど少なく、めったに手に入りません。
このメダイには、上部の環に 800シルバー製を示す「イノシシの頭」のポワンソン(ホールマーク)が刻印されています。800シルバーはフランスの信心具に使われる最も高級な素材であり、小さいながらも銀無垢製の本品には、聖母に最高のものを捧げたいという思いが籠められていることがわかります。
1914年から 1918年まで戦われた未曾有の世界大戦によって、フランスの国土は戦場となり、軍人軍属の戦死者のみならず、戦災死者、戦争寡婦、戦争孤児が国中に溢れた時代でした。この世界大戦によって、19世紀末以来フランス、特にパリが豊かさを享受した「ベル・エポック」(la Belle Époque フランス語で「美しき時代」)は終焉を迎えます。
19世紀に開花したメダイユ彫刻の粋を結集し、高価な銀を用いて制作した本品は、ベル・エポックの最後の輝きともいえる工芸品水準の信心具であり、第一次世界大戦前のパリの輝きをいまに伝えています。本品の保存状態は非常に良好で、突出部分にも磨滅はほとんど認められず、細部まで制作当時の状態を残しています。