シャルトル司教座聖堂で崇敬を受けるふたつの聖母子像のメダイ。長方形の両端に半円を付加した形状は、19世紀半ばのフランス製メダイユに特有の形です。フランスにおいて 800シルバーを示す「イノシシの頭」のポワンソン(ホールマーク 貴金属検質所の印)が上部の環に刻印されており、この時代には珍しい銀無垢製品であることがわかります。
メダイの浮き彫りを鋳造すると非常に手間がかかりますが、本品は鋳造ではなく打刻によって制作されており、ある程度多くの数が作られたことがうかがえます。しかしながらその一方で、本品は
19世紀半ばには贅沢品であった銀を材料に使っています。それゆえ本品は、高価な銀無垢メダイが数多く作られて頒布されるような、特別な出来事を記念していることがわかります。
一方の面には司教座聖堂のクリプト(地下礼拝堂)に安置されている「ノートル=ダム・ド・ス=テール」(Notre-Dame de Sous-Terre 地下の聖母)が刻まれています。ノートル=ダム・ド・ス=テールは正面を向いて玉座に座り、膝に乗せた幼子イエスに両手を添える「上智の座」の聖母像です。本品の浮き彫りは突出部分に磨滅が認められますが、聖母の衣の流れるような襞も、上智の座にある幼子イエスの姿勢も、良く残っています。聖母子を取り巻くように、「シャルトルのノートル=ダム・ド・ス=テール」(Notre-Dame
de Sous-Terre à Chartres) とフランス語で記されています。
杉材のノートル=ダム・ド・ス=テール(二代目)
初代のノートル=ダム・ド・ス=テールは梨材で作られた十一世紀の像で、十二世紀にクリプトに安置されたと考えられています。しかしながらこの像は、フランス革命期の
1793年12月20日に、司教座聖堂西側正面前の広場で焼却されてしまいました。それから六十四年が経った1857年、シャルトル聖パウロ修道女会
(Sœurs de St. Paul de Chartres, Congregatio Sororum Carnutensium a S. Paulo,
S.C.S.) が杉材のノートル=ダム・ド・ス=テールを寄進し、クリプトに安置されました。像の基部には「ウィルギニー・パリトゥーラエ」(VIRGINI
PARITURAE ラテン語で「子を産む処女に」の意)の文字が刻まれていました。
(下) "Sœur de St. Paul de Chartres" (Bouasse-Lebel, No. 672) シャルトル聖パウロ修道女会員を描いた19世紀中頃のカニヴェ。サイズ 105 x 67 mm 当店の商品です。
このメダイは二代目のノートル=ダム・ド・ス=テールを刻んでおり、後述するように、この聖母子像がシャルトルに安置された記念に制作されたものと思われます。聖母子像の左右にはシエルジュ(大ろうそく)が捧げられ、革命時の狼藉(ろうぜき 乱暴)を悔いるフランスの信仰心を表しています。
メダイのもう一方の面には、閉鎖されたクリプトにあったためにフランス革命の破壊を免れた十六世紀初めの聖母、ノートル=ダム・デュ・ピリエ(Notre-Dame
du Pilier 柱の聖母)が彫られています。1854年12月8日に「無原罪の御宿り」が教義化されたことを記念して、翌 1855年、ノートル=ダム・デュ・ピリエは戴冠しました。
本品に浮き彫りにされたノートル=ダム・デュ・ピリエは聖母子とも戴冠しており、このメダイの制作年代を特定する手がかりとなっています。すなわち革命期の
1791年以来閉じられたままとなっていたクリプトは 1854年になって開かれました。1854年は「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として正式に宣言された年でもあります。翌
1855年、ノートル=ダム・デュ・ピリエはクリプトから地上に運ばれ、「無原罪の御宿り」として戴冠しました。その二年後である 1857年、革命で失われたノートル=ダム・ド・ス=テールが新たに制作され、クリプトに安置されました。このように振り返ると、1854年から
57年までの短期間に、シャルトル司教座聖堂にとって重要な出来事が相次いだことがわかります。したがって本品は二代目のノートル=ダム・ド・ス=テールが司教座聖堂に戻って来た
1857年に、これら一連の出来事を記念して制作されたものと考えられます。長方形と半円形を組み合わせた形状をはじめ、本品の様式は 1857年という年代に合致し、この時代に珍しい銀無垢の材質は、記念されるべき出来事の重要性に合致しています。
ノートル=ダム・デュ・ピリエ 19世紀末から 20世紀初頭頃の絵葉書より。
ノートル=ダム・デュ・ピリエを取り巻くように、「ノートル=ダム・ド・シャルトル」(Notre-Dame de Chartres シャルトルの聖母)の文字が彫られています。「ノートル=ダム・ド・シャルトル」は司教座聖堂の名前でもありますが、本品においてはノートル=ダム・デュ・ピリエが「ノートル=ダム・ド・シャルトル」の名で呼ばれています。
シャルトル司教座聖堂には聖遺物「ラ・サント・チュニク」があって、これは受胎告知の際にマリアが身に着けていたヴェールとされています。この聖遺物を有するゆえに、フランス革命前のシャルトルでは、安産祈願をしたブラウスを歴代の王妃に献上するのが習わしでした。献上されるブラウスは、クリプトにあるノートル=ダム・ド・ス=テールの礼拝堂でノヴェナ(九日間の祈り)を行う間、「ラ・サント・チュニク」のシャス(聖遺物容器)の上に置かれたものでした。
聖遺物「ラ・サント・チュニク」は革命期に切り裂かれて略奪されましたが、やがてかなりの部分が回収され、1876年に最大の切れ端がガラス張りの顕示台に納められました。しかしながらノートル=ダム・ド・ス=テールは革命後六十八年間に亙り、またラ・サント・チュニクは革命後八十七年間に亙り、いずれも失われたままの状態が続きました。
マリ=ルイーズ・ドートリシュ (Marie-Louise d'Autriche, 1791 - 1847) は 1810年に皇帝ナポレオン一世の妃(後妻)となり、翌年に初めての嫡子を産みましたが、この出産前、シャルトル司教座聖堂では革命前の伝統を復活し、皇妃にブラウスを献上することとしました。ただしこのときは「ノートル=ダム・ド・ス=テール」も「ラ・サント・チュニク」もまだ失われたままでした。そこで司教座聖堂では、ブラウスを祝別した後に、ノートル=ダム・デュ・ピリエの行列で運び、これを皇妃マリ=ルイーズに献上しました。1811年
3月 20日、皇妃はローマ王を出産し、同年 6月3日、皇帝夫妻はシャルトルを訪れ、「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」の前で、ローマ王を聖母の保護に委ねました。この出来事の後、「ノートル=ダム・ド・シャルトル」の別名でも呼ばれるようになったノートル=ダム・デュ・ピリエは、子供を守り給う聖母と考えられるようになりました。1866年からはフランス国内のみならず海外の親たちからも申し込みを受け付けて、誕生前から六歳までの子供のために、ノートル=ダム・デュ・ピリエの前で祈りが捧げられるようになり、現在に至っています。
上記のような歴史的事情により、ノートル=ダム・デュ・ピリエは「ノートル=ダム・ド・シャルトル」とも呼ばれています。ノートル=ダム・デュ・ピリエが「ノートル=ダム・ド・シャルトル」と呼ばれる場合、妊産婦と幼い子供たちを守り給う聖母の愛と恩寵が特に強調されています。
(上) H. ベルトラン作カニヴェ 「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」 112 x 71 mm (シャルトル、アドリアン・ラングロワ 図版番号不明) H.
Bertrand, sc. "Notre-Dame de Chartres", pl. inconnu, Adrien l'Anglois, Chartres 当店の商品です。
ノートル=ダム・デュ・ピリエは、サラゴサのヌエストラ・セニョラ・デル・ピラル(Nuestra-Señora del Pilar 柱の聖母)と同様に、柱上に安置されています。ノートル=ダム・デュ・ピリエの「ピリエ」(pilier) とは中世の建築用語で、ヴォールト(穹窿 きゅうりゅう)の重みを支える垂直の柱を指します。キリスト教の象徴体系において、完全な図形である円は、神のいます天空を表します。高みにあって丸みを帯びたヴォールトは、天の象徴です。これに対して聖堂下部の四角い床は、地を象徴します。それゆえピリエ(柱)は「天を象徴するヴォールト」と「地を象徴する床」を結ぶアークシス・ムンディー(AXIS MUNDI ラテン語で「世界軸」の意)であるといえます。シャルトルのノートル=ダム・デュ・ピリエやサラゴサのヌエストラ・セニョラ・デル・ピラルのように柱上にある聖母子像は、神の母マリアが天地を繋ぐ存在であることを象徴しています。
ノートル=ダム・ド・シャルトル(シャルトル司教座聖堂ノートル=ダム)は、パリを通ってサンティアゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼路が通過する場所に建っており、中世以来、サンティアゴを最終目的地とする巡礼者が立ち寄る聖地でしたが、とりわけ近年においては、高名な作家であり詩人であったシャルル・ペギー
(Charles Péguy, 1873 - 1914) が、1912年から13年にかけて病気の息子のために徒歩によるシャルトル巡礼を行って以来、フランスにおいて全国的な注目を集めるようになりました。それゆえシャルトルのメダイは巡礼地としての古さの割に新しい年代の作品が多く、20世紀前半に制作されたものが中心となります。
しかるに本品は 19世紀半ばの作例であり、革命後のシャルトルのメダイとしては最も古い年代に属します。社会に中間層が無く、上位数パーセントの富裕層を除く圧倒的多数の人々が貧困の中に暮らしていた時代に、薄いながらも無垢の銀を使用し、ある程度多くの枚数が制作された本品には、聖母を自らの母と慕う当時のシャルトルの人々が、衷心から捧げる愛と祈りが籠められています。
本品は百五十年以上前に制作された真正のアンティーク品ですが、非常に古い年代にも関わらず、十分に良好な保存状態です。突出部分の磨滅は篤い信仰の証しです。