フィリップ・シャンボー作 《聖母子を包む恩寵の光 愛のペンダント 直径 22.6 mm》 ヴィンテージ未使用品 フランス 1960年代
突出部分を除く直径 22.6 mm 最大の厚み 2.8 mm
重量 5.4 g
優しい雰囲気に包まれた聖母子のメダイ。フランスのメダイユ制作会社ジャン・バルムがおよそ六十年前に制作し、販売されないまま見本として残されていた品物です。浮き彫りの作者はジャン・バルムの作品を多く手掛けている彫刻家
フィリップ・シャンボー(Philippe Chambault, 1930 - )です。上部に突出した半円状の環に、フランス(FRANCE)の文字が刻印されています。
(上) ロマネスクの聖母子の例 ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュのカニヴェ (メゾン・バセ 図版番号不明) 108 x 67 mm 1859年
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聖母子像には時代ごとに定型的表現があります。
ロマネスク期の図像では母子が向き合うことはなく、マリアとイエスがそれぞれ正面観で表されます。これはロマネスク美術が救済の経綸(神の計画)の視覚化に他ならないからです。すなわち普通の母子に通い合う愛は、生身の人間の間に成立する地上の愛の一つですが、純然たる宗教美術であるロマネスク期の聖母子像は、いわば天上にのみ目を向けているゆえに、母子愛のような地上の感情を表現することに関心を持っていないのです。ロマネスクの聖母子像において、イエスは智慧あるいはロゴス(希
λόγος 言葉)、聖母は智慧の座(羅 SEDES SAPIENTIÆ)です。イエスは救いに至る道として、聖母はその道を人々に示す案内人として、いずれも人々を正視する姿で表されます。
(上) レットゲンのピエタ
Die
Röttgen Pietà, c. 1350, Holz, farbig gefaßt, 89 cm hoch, Rheinisches Landesmuseum,
Bonn
時代が下ってゴシック期になると、聖母子の心的イメージに変化が現れます。この変化がもっとも明瞭に現れるのは、
マーテル・ドローローサの図像です。
古代教会の教父たちの考えによると、心の動揺や悲しみは不完全な信仰の結果でした。悩みや悲しみは、神への信頼が欠如しているゆえに起きる感情であると考えられたのです。聖母の図像はしばしば白百合と共に表されますが、「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節、及び「ルカによる福音書」 12章 22節から 34節に記録されたイエスのたとえ話に基づいて、白百合は
神の摂理に対する絶対的信頼の象徴とされました。しかるにヴルガタ訳「雅歌」 2章 1節において、聖母は「リーリウム・コンヴァッリウム」(LILIUM CONVALLIUM 谷間の百合、野の百合)
と呼ばれています。百合に譬えられる聖母はいわば神への信頼そのもののような人物、キリスト者の完全な模範であり、聖母が悩んだり悲しんだりすることはあり得ないと考えられました。早ければシメオンの預言を聞いた段階で聖母はイエスの受難を既に知っており、現実の事態が予測通りに展開しても何ら動揺することなく、十字架の下に平然と立っていたと考えられたのです。
(上) 剣に貫かれた聖母の聖心 日本趣味の切り紙によるダンテル・メカニーク
Bénie soit la sainte et immaculée conception, Dopter, numéro inconnu, 108 x 66 mm フランス 1860年代後半から 1870年代
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そうは言っても息子が十字架上に刑死したとすれば、慈母は死ぬほどの悲しみを味わったと考えるのが人情でしょう。教父時代にはキリストの受難にも動じなかったとされていた聖母は、中世の受難劇において、恐ろしい苦しみと悲しみを味わう母として描かれるようになります。十二世紀の修道院において聖母の五つの悲しみが観想され、1240年頃にはフィレンツェに
「マリアのしもべ会」が設立されました。同じ十三世紀には、ヤコポーネ・ダ・トーディ(Jacopone da Todi, c. 1230 - 1306)がスターバト・マーテル(羅
"STABAT MATER")を作詩しています。十四世紀初頭にはイエスの遺体を抱いて離さない聖母像が表現されるようになりました。聖母の悲しみの数は十四世紀初頭に七つとなって定着しました。
十五世紀になると、十字架の下に立ったマリアはその苦しみゆえに共贖者(羅 CORREDEMPTRIX)であるとする思想が力を得ました。マリアを共贖者と見做すのは主にフランシスコ会の思想で、ドミニコ会はこれに抵抗しました。しかしドミニコ会はマリアが悲しまなかったと考えたわけではありません。トマス・アクィナスの師で、トマスと同じくドミニコ会士であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, + 1280)は、預言者シメオンの言う「剣」(ルカ 2: 35)をマリアの悲しみの意に解し、キリストが受け給うた肉体の傷に対置しました。
(上) ゴシックの聖母子の例 ラウル・ラムルドデュ作メダイユ 《ノートル=ダム・ド・パリ》 24.1 x 11.0 mm フランス 1910
- 20年代
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マーテル・ドーローローサの例が端的に示すように、ゴシック期の宗教美術は感情表現を排除せず、むしろ積極的に感情を表現することで、イエスや聖母を身近に感じられる存在にしました。ゴシック美術において、聖母子はいわば地上の人間界に迎え入れられ、どこにでもいる母子と同様の姿で表されるようになったのです。
上の写真はノートル=ダム・ド・パリ(仏 Notre-Dame de Paris パリの聖母)のメダイユで、
ラウル・ウジェーヌ・ラムルドデュ(Raoul Eugène Lamourdedieu, 1877 - 1953)によります。浮き彫りのモデルとなった像は十四世紀の丸彫り像で、パリ司教座聖堂ノートル=ダムの南翼廊東側にあります。昔、司教座聖堂の北側には参事会修道院があり、聖母子像ノートル=ダム・ド・パリは参事会修道院のサン=エニャン礼拝堂(la
chapelle Saint-Aignan)に安置されていました。司教座聖堂の聖母の門(le Portail de la Vierge)には扉口の間の柱に十三世紀の聖母子像が刻まれていましたが、この像はフランス革命期の 1793年に破壊されてしまいました。1818年、サン=エニャン礼拝堂の聖母子像は司教座聖堂に運ばれて破壊された像と置き換えられ、1855年、ヴィオレ=ド=デュク(Eugène
Viollet-le-Duc, 1814 - 1879)によって現在の位置に移されました。
聖母子像ノートル=ダム・ド・パリは十四世紀のゴシック彫刻です。ロマネスク期の聖母子像は聖母の幼子も正面観でしたが、ゴシック期の聖母子像はこれとは打って変わって聖母と幼子が互いに向き合い、見つめ合っています。聖母はどこにでもいる女性と同様に母の愛情を子に注ぎ、イエスも幼い子供に相応しく母に甘える姿が自然に表現されています。
聖母子像ノートル=ダム・ド・パリが制作された十四世紀に、イタリアではルネサンスが始まります。人間のあらゆる営為は連続的ですが、ゴシックとルネサンスもその例に洩れません。初等教育の教科書が記述するような通俗的史観は、暗黒の中世と明るいルネサンスを対比して描きますが、そのような浅薄な史観は特定のイデオロギーによって歪められた虚構であって、現実の歴史は全ての位相において繋がっています。美術史も例外ではなく、ゴシックはルネサンスの源流のひとつといえます。
(上) フランスにおけるメダイユ彫刻 近代の作例 フレデリック・ヴェルノン作 《ウィルゴー・ウィルギヌム 乙女たちのなかの乙女》 直径 23.3
mm フランス 1917年
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フランスのメダイユ彫刻に目を向けると、十九世紀後半から二十世紀初頭は非常に優れた彫刻家たちが活躍した黄金時代でした。上の写真は
フレデリック・ヴェルノン(Charles-Frédéric Victor Vernon, 1858 - 1912)の作品で、
ロレトの連祷と
メモラーレにあるマリアの称号のひとつ、ウィルゴー・ウィルギヌム(羅 VIRGO VIRGINUM 乙女たちのなかの乙女)を主題に制作されています。
本格的なメダイユ彫刻は、末期ゴシックまたはルネサンス期の芸術家
ピザネッロ(Pisanello, Antonio di Puccio Pisano ou Antonio di Puccio da Cereto, c. 1395 - c. 1455)が始めました。ピザネッロから近代に至るメダイユ彫刻は写実的表現を旨とし、あたかも生身の人物を眼前に見るように優れた浮き彫りを生み出します。これらの作品において芸術の自立・自律は考えられず、マリア像のような宗教的作品においては聖なる人が地上にあったときの姿を、永遠の相の下に固定することが目指されました。
十九世紀後半から二十世紀は、いわゆる純粋芸術が「芸術の自律」を目指した時代です。古典的な美術においては事物の本質を描写する手段として、その時々の光に左右されない彫刻や素描が重視されました。しかるに印象派は事物の本質に関心を持たず、そのときどきの見え方のみを追い求めました。ポール・ゴーギャンは黄色いキリストを描いて、目に見える現実から色彩を切り離しました。ピカソやブラックは、キュビズムをはじめとする実験的手法によって、目に見える対象の形態から絵画や彫刻を切り離しました。
芸術の自立を極端まで推し進めたのが抽象絵画や抽象彫刻です。ここに至って芸術は表現する対象が持つすべての属性から切り離され、完全な自律・自立を獲得しました。
二十世紀半ばに力を得た
ミニマリスム(仏 le minimalisme)は、抽象主義の最も先鋭的な形態です。バウハウスの流れを汲む建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デア・ローエ(Ludwig Mies van der
Rohe, 1886 - 1969)の「レス・イズ・モア」(Less is more.)という言葉は「最小限に切り詰めた表現によって、より豊かな内容をあらわすことができる」という意味で、ミニマリスムの思想をよく表しています。
ここで奇妙な逆転が起こります。目に見える物から出発し、可視的事物の忠実な描写を捨て去って抽象へと突き進んだ現代美術は、しばしば数学的点として表象される神の表現へと気付かぬうちに接近してゆきました。徹底的に世俗的であったはずの抽象美術は、外界から自立するに従って、宗教美術と融合するに相応しい特質を得ていったのです。
キリスト教神学が神に近づくには二通りの道があって、そのひとつが否定神学と呼ばれる方法です。神と被造物の間には無限の断絶があるゆえに、被造的知性(人間の知性)は神がどのような方であるかを知ることができません。神と被造物の間には無限の断絶があるゆえに、被造的知性(人間の知性)は神がどのような方であるかを知ることができません。
たとえば神は「義」であり、「愛」であると言われます。しかしながら人間の知性が理解する「義」は、「レ・ミセラブル」でジャン・ヴァルジャンを追い詰めるジャヴェール警部のように、罪を赦さず徹底的に追及して罰します。これに対して「愛」は罪を赦し、罪びとをマントに包んで匿います。人間の知性にとって「義」と「愛」は尖鋭に対立する概念であり、両者は決して相容れません。しかるに神において「義」と「愛」は矛盾せず、単一の属性として融合しています。このような義や愛を、人間の知性は全く理解できません。
(上) ミニマリズムによるメダイ 「われは無原罪の御宿りなり。われは天の元后なり」 43.5 x 31.0 mm フランス 1960年代
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神は愛ですが、人間が理解できるような愛ではありません。また神は義ですが、人間が理解できるような義ではありません。このことからも分かるように、人間の知性が確実に知ることができるのは、神が「どのような方でないか」ということだけです。神が「どのような方であるか」を、人間の知性は一切知ることができないのです。このように考える否定神学は、東方教会の思想において大きな力を持ちました。
具象性を徹底的に捨て去るミニマリスムは、否定神学に似ています。「抽象美術は外界から自立する一方で、宗教美術と融合する準備が整った」と筆者(広川)が先ほど書いたのは、このことを指しています。筆者(広川)の考えによると、キリスト教をテーマとしつつも完全に抽象的なメダイユ彫刻は、神学思想に当てはめるならば否定神学に相当します。
しかるにキリスト教神学が神に近づくもうひとつの道は、アナロギア(希 ἀναλογία 羅 ANALOGIA 類比)による方法です。西ヨーロッパの代表的神学者であるドミニコ会のトマス・アクィナス(Thomas
Aquinas, c. 1225 - 1274)は、アナロギアを手掛かりにスンマ・テオロギアエ(羅 SUMMA THEOLOGIÆ 神学大全)をはじめとする著作を著しました。
神と被造物の間には無限の断絶があるゆえに、被造的知性(人間の知性)は神がどのような方であるかを知ることができません。しかしながら被造物は神がお創りになったものである以上、神の属性と無関係ではありえないはずです。神と被造物の断絶ゆえに、神ご自身の属性は人間の知性にとって全く不可知ですが、被造物における微かな反映を手掛かりに、神が何らかの意味で「義なる方である」とか「愛なる方である」とかと論じることは許されると考えるのです。ここで「義」とか「愛」とかと言うのは、人間に知られている被造的世界の義や愛ではありませんが、神の義や愛と被造的世界の義や愛の間には何らかのシミリトゥードー(羅
SIMILITUDO 類似性)が成立するゆえに、神はアナロギアに基づいて「義である」「愛である」と言うことが可能であるとトマスは考えました。
筆者(広川)の考えによると、細部を捨象しつつも具象の範囲に留まるフィリップ・シャンボーの作風は、トミスト(トマス主義)の神学に親和的です。
本品はヴェールの襞や髪の流れといった細部が大胆に単純化されています。1960年代に制作されてミニマリスムの影響を受けつつも、具象的表現の枠内に留まる本品は、如何にも西ヨーロッパの作品らしい宗教彫刻であると思います。
本品の聖母子像において、聖母に抱かれる幼子イエスはほぼ直立しているように見えます。赤ん坊を横向きに寝かせるように抱くと、抱かれる赤ん坊は快適ですぐに眠ってしまい、乳を飲みません。それゆえ授乳するときは赤ん坊を立たせるように抱く必要があります。本品の聖母子像は聖母が幼子に優しく口づけしているのに対し、幼子は満足げな表情で目を閉じています。幼子イエスはきっと乳を飲んで、おなかが満たされたのでしょう。
キリスト教の考えによると救世主イエスは三位一体の第二位格「子なる神」である一方、全くの人間でもあります。かといってイエスは半神ではありません。これもまた人間の知性では理解しがたいことですが、イエスは神でもあり、同時に全くの人(ふつうの人間)でもあるのです。イエス・キリストにおいて、神性と人性は混合せず、分離せず、ひとつの実体を為します。神学では、これをキリストにおける神人二性のウニオー・ヒュポスタティカ(羅
UNIO HYPOSTATICA 位格的結合)と呼んでいます。
イエスが幼子として聖母に抱かれる図像においては、神と人の二性のうち、人間としての側面が描写されます。すなわち本品に刻まれた聖母子像において、イエスは神ではなく、ひとりの普通の赤ちゃんです。
昔は成長できずに亡くなる子供が多く、わが国においてもほんの数十年前まで、子供はよく亡くなりました。わが国における 1920年代の乳児死亡率は十五パーセント前後です。これは一歳の誕生日を迎えるまでに、十五パーセントの子供が亡くなったことを意味します。一歳になったからといって急に体が強くなるわけでもなく、七歳になるころまでにおよそ半数の子供が亡くなりました。
子供の死亡率は時代を遡るほど高くなります。イエスが生まれたのはいまから二千年も前ですから、子供が無事に大きくなるのは非常に難しい時代でした。それでもイエスは両親の愛に包まれて順調に生長してゆきました。「ルカによる福音書」二章四十節には「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(新共同訳)と書かれています。
本品の聖母子は柔らかな金の光に包まれています。聖母子を包む柔らかな光は、「ルカによる福音書」の上記引用箇所にあるカリス・テウゥ(希 χάρις
θεοῦ 神の恵み)の可視的表現です。「神の恵みに包まれていた」という新共同訳は意訳で、この部分のギリシア語原文(χάρις θεοῦ ἦν
ἐπ' αὐτό.)を直訳すると、「神の恵みは彼(イエス)の下にあった」「神の恵みが彼を支えていた」となりますが、聖母子像をともに包み込む柔らかな光は神の愛と恩寵をよく表しています。
本品は二十世紀半ばのフランスで制作された古い品物にもかかわらず、未販売のまま残っていた稀少なデッド・ストック品(未使用品)です。アンティーク品の摩滅や変色は品物の価値を減ずるものではありませんが、品物の作り手の意図と無関係に進行する経年変化であり、芸術作品の場合は本来の作風が薄められる事態も起こり得ます。しかるに本品は彫刻家フィリップ・シャンボーの意図したとおりの姿で作品が伝わっており、美術品としては最高の保存状態と言えます。
本品をメッセージ性の観点から見れば、母子の愛は時代、民族、宗教の違いに関わらず、全世界の全時代に共通します。およそ動物が抱(いだ)き得る感情で母子の愛ほど強いものはあり得ず、本品のテーマはキリスト教美術を超えた普遍性を有します。子供が無い方の場合も、その方自身が誰かの子供であり、両親と神の庇護の下、無事に育って大人になっています。それゆえ本品はすべての大人と子供にふさわしい《愛のメダイ》といえます。
本体価格 13,800円 販売終了 SOLD
電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。
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