ピザネッロのメダイユ
Les médailles par Pisanello
近代西ヨーロッパのメダイユ芸術は、ピザネッロ (Pisanello, Antonio di Puccio Pisano
ou Antonio di Puccio da Cereto, c. 1395 - c. 1455) の作品群にまでその源を遡ることができます。ピザネッロはクアットロチェント(15世紀)で最も重要な芸術家のひとりで、ゴシック末期、及びイタリア・ルネサンス初期を代表する人物と考えられています。
【ピザネッロの生涯と作品】
ピザネッロは生没年とも不明です。出生地を示す確実な資料もありませんが、父親がピーザ(ピサ 註1)市民であったこと、及び「ピーザっ子」を表す本人の通称(「ピザネッロ」)から、ピーザの出身であろうと考えられています。
1410年代の後半に、ピザネッロは末期ゴシックの画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ (Gentile da Fabriano, c. 1370
- 1427) の下、ヴェネツィアでパラッツォ・ドゥカーレのフレスコ画制作に関わります。師ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは細密画家としても有名な人で、ピザネッロの繊細な作風はこの人の下で学んだことによります。
ピザネッロは 1422年にはマントヴァに移り、僭主ジャンフランチェスコ・ゴンツァガ (Gianfrancesco Gonzaga, 1395
- 1444) の息子で、後にマントヴァ侯となるルドヴィコ3世 (Ludovico III Gonzaga, 1412 - 1478) に仕えます。ピザネッロとゴンツァガ家の関係は
1440年代まで続きます。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノのフレスコを制作中であった師ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが、フレスコの完成を待たずに亡くなると、ピザネッロは師の仕事を引き継ぎ、1431年から32年頃にかけてフレスコを完成させます。このときローマに滞在したことで、ピザネッロはローマのルネサンス美術に強い影響を受けています。
1433年から38年の間に、ピザネッロはヴェローナの聖アナスタシア教会ペレグリーニ礼拝堂で、有名な作品のひとつであるフレスコ画「聖ジョルジョとトレビゾンドの女王」を制作しました。このフレスコ画のための多数の習作が、ルーヴル美術館に収蔵されています。
(上) 「聖ジョルジョとトレビゾンドの女王」(部分)
"San Giorgio e la Principessa"(details), 1433/38, fresco, La chiesa di Santa Anastasia, Verona
ピザネッロは1435年頃から肖像画に力を注ぐようになります。名画として知られる「エステ家の侯女」はこの頃の作品です。
(下) 「エステ家の侯女」
"Ritratto di principessa estense" , 1435/45, tempera su tavola, 43 x 30 cm, Louvre, Paris
この時期のピザネッロが肖像画と並んで取り組んだのが、メダイユ(メダル)制作です。
東ローマ皇帝ヨハネス8世パライオロゴス (Johannes VIII. Palaiologos, 1392 - 1448 註2) は、東ローマを脅かすオスマン帝国に力で対抗することを目指していましたが、十字軍の派遣を要請するため、1437年にイタリアに赴き、1439年にはフェラーラ・フィレンツェ公会議(バーゼル公会議の後半期)に東西教会を和解させることに成功します。ただしこの和解は、皇帝の帰国後、すぐに破られました。
皇帝のイタリア訪問に際して、ピザネッロが注文を受けて制作したのが、下に示したメダイユで、ヨーロッパのメダイユ芸術の第一作となりました。
(下) ピザネッロのメダイユ第一作「ヨハネス8世パライオロゴス」
"Johannes VIII. Palaiologos", 1438, bronze, 102 mm, Bibliotheque Nationale, Paris
ピザネッロは1440年から41年にかけてミラノに滞在した後、同年にフェラーラに戻り、同地でレオネッロ・デステの肖像画とメダイユを制作しました。
(下) 「レオネッロ・デステ」
"Ritratto di Leonello d'Este" , c. 1441, tempera su tavola, 28 x 19 cm, L'Accademia Carrara, Bergamo
よく知られた作品「修道院長聖アントニウスと聖ゲオルギウスのいる聖母子像」も、この時期に制作されたと考えられています。
(下) 「修道院長聖アントニウスと聖ゲオルギウスのいる聖母子像」 "La Madonna tra i santi Antonio Abate
e Giorgio", c. 1445, tempera su tavola, 47 x 29 cm, the National Gallery,
London
ピザネッロは1448年12月からナポリに滞在し、当時ナポリを支配していたアラゴン王アルフォンソ5世 (Alfonso V, 1396 - 1458)
の宮廷で寵児となりました。ピザネッロはその後同地を離れることなく、1455年頃に没したと考えられています。
【ピザネッロのメダイユの特徴と作例】
メダイユの制作方法には
「打刻」と「鋳造」のふたつがあります。古来、硬貨は打刻により製作されてきましたが、ピザネッロはこの方法を採らず、失蝋法(ロスト・ワックス lost wax、シール・ペルデュ
cire perdue)によってメダイユを鋳造しました。
失蝋法では、まず蝋で原型を作ります。これを粘土で覆って加熱すると、原型が融けて流失し、中空の鋳型ができます。これに融けた金属を流し込むと、一枚目のメダイユができます。一枚目のメダイユから鋳型を取ることによって、二枚目以降のメダイユを鋳造することができます。
ルネサンス期イタリアの君主たちやユマニストたちの間で、ピザネッロのメダイユはたいへん人気がありました。ピザネッロはマントヴァのゴンサガ家、ミラノのスフォルツァ家とヴィスコンティ家、フェラーラのエステ家、リミニのマラテスタ家をはじめとする多数の君主、領主たちのために、作品を制作しました。ピザネッロのメダイユは鋭い観察眼と表現力によって肖像画の人物の性格までを浮き彫りにするとともに、裏面にはその人物の徳を表すシンボルを配して、いずれの面も魅力ある作品に仕上げています。いくつかの作例を挙げます。
(上) ピザネッロのメダイユ第一作「ヨハネス8世パライオロゴス」
"Johannes VIII. Palaiologos", 1438, bronze, 102 mm, Museo Nazionale del Bargello, Firenze
「ヨハネス8世パライオロゴス」はピザネッロが最初に制作したメダイユです。表(おもて)面中央に皇帝の横顔を浮き彫りにし、周囲に次の言葉をギリシア語で記しています。
Παλαιολόγος Ἰωάννης βασιλεύς καὶ αὐτοκράτωρ Ῥωμαίων パライオロゴス・ヨーアンネース、ローマ人の王にして皇帝(註3)
裏面には路傍の十字架の傍らで祈る騎馬姿の皇帝を浮き彫りにし、周囲にラテン語とギリシア語で「画家ピザネッロの作品」(直訳「ピサの画家の作品」)と記しています。
OPUS PISANI PICTORIS オプス・ピーサーニー・ピクトーリス(ラテン語)
ἔργον τοῦ πισανοῦ ζωγραφοῦ エルゴン・トゥー・ピーサヌゥ・ゾーグラフゥ(ギリシア語 註4)
(上) 「フェラーラ侯レオネッロ・デステ」 "Leonello d'Este, Marchese de Ferrara",
c. 1441, bronze, 68 mm
レオネッロ・デステ (Leonello d'Este, 1407 - 1450) はフェラーラ侯の庶子として生まれました。単に血統によるよりもむしろ自らの徳によって人望を得る必要があったレオネッロは、知恵、正義感、平和の守護者としての有能さ等を表す一連のメダイユの制作を、フェラーラの宮廷に縁が深く、当時イタリアで最も高名な画家でもあったピザネッロに依頼しました。
このメダイユにおいて、レオネッロの髪型はライオンのたてがみを思わせます。「レオネッロ」は「小さなライオン」という意味ですから、ライオンを連想させる表現は言葉遊びであるとともに、百獣の王ライオンに因む名を持つ者にふさわしく、王者の徳と人格を有する人物としてレオネッロを描く意図も籠められています。
レオネッロはギリシア、ローマのコインを熱心に収集していましたが、ピザネッロのこの作品にはアレクサンドロス大王の4ドラクマ貨との類似が感じられ、レオネッロをアレクサンドロスに擬していると解釈できます。
(下) アレクサンドロス大王の4ドラクマ貨。大王自身を、ネメアのライオンの革を頭に被ったヘラクレスに擬しています。
(上) 「チェチリア・ゴンツァガ」
"Cecilia Gonzaga", 1447, bronze, 87 mm, the National Gallery of Art, Washington
表(おもて)面には、名画「エステ家の侯女」に類似した姿勢のチェチリアを浮き彫りにし、周囲にはラテン語で次の言葉を刻みます。
CICILIA VIRGO FILIA IOHANNIS FRANCISCI PRIMI, MARCHIONIS MANTVE 処女にして、マントヴァ侯ジャンフランチェスコ1世の娘、チェチリア
裏面には「無垢」を擬人化した女性が腰掛け、傍らには一角獣が寄り添っています。一角獣は凶暴な動物でありながら、純潔な処女にのみ従順であると言われています。右側には次の銘がラテン語で記されています。
OPUS PISANI PICTORIS, MCCCCXLVII 画家ピザネッロの作品 1447年
註1 司教座聖堂の鐘楼が傾いていることで有名なピーザ(Pisa トスカナ州ピーザ県)は、わが国では「ピサ」という呼び名で知られています。これに準じてピザネッロはピサネッロと呼ばれています。
註2 「パライオロゴス」はわが国において「パレオロゴス」とも表記します。
註3 ローマ字に転写すると、"PALAIOLOGOS IOANNES BASILEUS KAI AUTOKRATOR ROMAION"
"βασιλεύς καὶ αὐτοκράτωρ Ῥωμαίων"(バシレウス・カイ・アウトクラトール・ローマイオーン 「ローマ人の王にして皇帝」)は、ビザンティン皇帝の正式な称号です。
「バシレウス」(βασιλεύς) はギリシア語で「王」のことですが、ビザンティン、特に8世紀以降の硬貨において、「皇帝」の意味で使われます。「アウトクラトール」(αὐτοκράτωρ)
は文字どおりには「自らを治める者」、すなわち他の誰にも支配されない最高の権力者という意味で、ラテン語「インペラートル(IMPERATOR 「皇帝」)のギリシア語訳として使われます。
註4 ローマ字に転写すると、"ERGON TOU PISANOU ZOGRAPHOU"
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