十九世紀末から二十世紀初頭のフランスで制作された銀無垢メダイ。不規則なシルエットに複雑な透かし細工を施した美しい品物です。ロココ風のロカイユに草花文を組み合わせた意匠は、銀を鋳造した贅沢な作りとともに、ベル・エポック期の華やぎを今に伝えています。
本品の中央には、魚子(ななこ 布目模様)の背景に星を散りばめ、十二の星の冠を被る聖母マリアの全身像を浮き彫りにしています。十二の星の冠は、「ヨハネの黙示録」十二章一章で「身に太陽をまとい、月を足の下にした女」が被っているものと同じです。
執り成しと庇護を願う罪びとたちを匿うために、大きなマントを羽織った聖母は、両腕を伸ばして斜め下に広げ、球体上に蛇を踏みつけています。これは不思議のメダイに彫られているのと同様に、無原罪の御宿リの定型的表現です。
「無原罪の御宿リ」や「サルヴァートル・ムンディ」をはじめとする宗教画において、球体は天球すなわち被造的世界を表します。地球は天球の中心部分に過ぎず、天球とは別物ですが、人間の生活に直接的に関わるのは被造的世界のうちの地上界ですから、聖母に救いを求める如き生に密着した宗教美術においては、球体を地上界の象徴と考えても実質的に差支えがありません。
本品を始めとする無原罪の御宿リの定型的図像において、球体の上に乗る蛇は地上の王である悪魔、あるいは蛇の誘惑により惹き起こされた神からの離反、原罪を表します。そして蛇を踏み付けて立つ聖母の姿は、最初の女性エヴァと同じく人間の女性でありながらも、罪の支配を受けず、原罪を免れた「新しきエヴァ」(羅
NOVA EVA)、無原罪の御宿り(羅 IMMACULATA CONCEPTIO)を図像化したものに他なりません。
(上) シャルル・フレデリック・ヴィクトル・ヴェルノン作 「エヴァ」 79.3 x 29.9 mm 75.0 g 当店の商品です。
マリアに踏み付けられる蛇は爬虫類の蛇ではなくて、人祖アダムの妻エヴァを誘惑した悪魔の象徴です。エヴァは「生命」という名に関わらず人間に死をもたらしましたが、マリアは救い主を生むことで永遠の命をもたらしました。それゆえマリアはノワ・エワ(ノヴァ・エヴァ 新しきエヴァ)と呼ばれます。
(上) Piero della Francesca, "Madonna della Misericordia", 1460 - 1462, tempera e olio su tavola, 134 x 91 cm, Museo Civico, Sansepolcro
本品を始めとする無原罪の御宿リの定型的図像において、聖母マリアは非常に大きなマントを羽織っています。これは罪人を庇(かば)うマドンナ・デッラ・ミゼリコルディア(伊
Madonna della Misericordia 憐れみの聖母)の姿です。聖母が地上に慈悲の眼差しを向け給うさまは、善人にも悪人にも等しく光と温かみを注ぐ太陽に似ています。
上の写真はピエロ・デッラ・フランチェスカによる「慈悲の聖母」です。この作品はピエロ・デッラ・フランチェスカがサンセポルクロ(Sansepolcro トスカナ州アレッツォ県)のミゼリコルディア信心会(伊
la Confraternita della Misericordia)から注文を受けて制作した多翼祭壇画の中央パネルで、現在は当地の美術館に収蔵されています。聖母の右側(向かって左側)には死刑執行人の姿が見えます。
本品メダイは植物と貝殻を組み合わせた造形、ロカイユ(仏 rocaille)に取り巻かれています。ロカイユは十八世紀に多用された装飾です。ロココ風のロカイユはたいへん華やかですが、本品においては透かし細工が使われているためにひときわ軽やかで、あたかも地上の重力を逃れたように見えるそのさまは、罪の呪いに縛られることのない無原罪の御宿りに相応しく感じられます。
本品は十九世紀末のメダイであるゆえに、十八世紀のロカイユをそのままの形で使わず、十九世紀風に作り変えています。十九世紀後半は日本の開国の時期と重なり、この時代にヨーロッパに流入した日本の美術工芸品は、フランスの装飾美術に深甚な影響を及ぼしました。
日本美術から生まれたアール・ヌーヴォーは、様式化が進んだヨーロッパの意匠に自然のままの写実的な草花を大胆に取り入れました。本品においても十八世紀のロカイユには見られない二輪の大きな花が聖母の両横に咲き誇っています。
聖母の右(向かって左)に咲いているのは、香しい大輪の薔薇です。薔薇は棘を有するゆえ、あざみ等と同様に罪を表すことがあります。しかしながら本品に刻まれた薔薇は棘の無いロサ・ミスティカ(羅 ROSA MYSTICA)、神秘の薔薇であり、無原罪の御宿リとしての聖母マリアその人を象徴します。
聖母の左(向かって右)に咲いているのは、香しき白百合です。マリアの象徴あるいはアトリビュート(英 attributes 聖人の象徴物)は数多くありますが、百合は薔薇とともに最もよく目にするもののひとつです。百合が純潔を象徴することは良く知られています。これに加えて百合は、「神に選ばれた地位」「すべてを神に委ねる信仰、神の摂理への信頼」をも象徴します。これらが聖母の卓越的属性であることを反映し、受胎告知画には常に白百合が描かれます。
本品は純度八百パーミル(八十パーセント)の銀を使用し、鋳造によって制作されています。上部の孔の向かって右側に、八百パーミルの銀を示すパリ造幣局のポワンソン(貴金属の検質印)、テト・ド・サングリエ(仏
tête de sanglier イノシシの頭)が刻印されています。
浮き彫りメダイユを制作する方法には、打刻と鋳造の二種類があります。打刻は手間のかからない方法で、貨幣彫刻のほか、不思議のメダイやルルドのメダイなど、大量の製品を作るのに適しています。打刻による作品はメダイ全体の形が単純で、浮き彫りの高低差も小さいのが特徴です。
これに対して鋳造は、溶融した金属を型に流し込み、一つ一つのメダイを作る方法です。信心具のメダイは小さなサイズですから、溶融した高温の金属を鋳型に流し込み、製品に鬆(す)が入るのを防ぎつつ、全ての細部に金属を行き渡らせるのは至難の業です。本品のように複雑な形状のメダイの場合、冷却後に型から抜くのも簡単ではありません。型から抜いた後には鋳ばりを除去して研磨する必要もあります。本品は複雑な輪郭を有するうえに透かし細工も施されているので、鋳ばりの処理もたいへん手間がかかります。しかしながら手間をかけて生み出された本品の浮き彫りは立体性に富み、たいへん美しく仕上がっています。本品のように表現性豊かなメダイユは、鋳造によらなければ制作できません。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。聖母の顔、手、つま先、聖母に踏まれる蛇などの細部はいずれも一ミリメートル前後の極小サイズです。衣文(えもん 衣の襞)は自然に流れ、胸の膨らみや腰の丸み、左膝を曲げて一歩前に踏み出した太ももの丸みなど、柔らかい布越しにうかがえる女性らしい体つきが、巧みに表現されています。
本品の浮き彫りは肉厚で、突出部分は軽度の摩滅により幾分不分明になっています。しかしながら宗教的な事柄は本来不可視であって、克明な可視化になじみません。それゆえ摩滅により細部が消失した本品は、「無原罪の御宿リ」を主題にした信心具のメダイとして、却って相応しい表情を獲得しているといえます。
銀は信心具に使われる最も高級な素材です。百年以上前のフランスは貧富の差が極めて大きかったので、銀は専(もっぱ)らめっきに使用されました。めっきではない銀無垢(ぎんむく)製品は普通の人が買うにはあまりにも高価で、少数の製品しか作られなかったうえに、薄いものがほとんどでした。
本品は大きなサイズではありませんが、銀無垢製品であり、フランスの都市住民がある程度の豊かさを享受したベル・エポック期、すなわち十九世紀末から二十世紀初頭の品物と判断できます。本品の裏面には名前も日付も彫られていませんが、おそらく少女の初聖体あるいはコミュニオン・ソラネルを記念するペンダントでしょう。突出部分に見られる軽度の磨滅は、大切に愛用された品物であることを物語っています。
本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品です。大きな商品写真は実物の面積を極端に拡大してあるので突出部分の磨滅がよく判別できますが、実物を肉眼で見るとたいへん美しく、古い年代を考えれば十分に良好な保存状態です。突出部分の摩滅や小さな瑕(きず)をはじめ、時を経た物のみが獲得する本品の古色は現代の製品やレプリカには決して備わらない歴史性の証であり、この歴史性こそがアンティーク品をレプリカから分かつ本質的価値となっています。