14世紀に生きたドミニコ会の聖女、シエナの聖カタリナ (Santa Catarina da Siena, 1347 - 1380) を刻んだ小さなメダイ。信心具の最も高級な素材である銀を用いて鋳造されています。
メダイの一方の面には、シエナの聖カタリナの横顔を浮き彫りにし、聖女に執り成しを求める祈りを、周囲にフランス語で刻んでいます。
Sainte Catherine de Sienne, priez pour nous. シエナの聖カタリナよ、我らのために祈りたまえ。
ドミニコ会第三会の修道衣を着たカタリナは、茨の冠を被っています。あるときカタリナはキリストを幻視し、茨の冠、または黄金と宝石でできた冠のどちらかを選ぶように告げられて、茨の冠を選びました。この出来事ゆえに、茨の冠はシエナの聖カタリナのアトリビュート(聖人の図像に描かれる特有の持ち物)となっています。
(下・参考画像) Giovanni Battista Tiepolo, "Hl. Katharina von Siena", zirka 1746, Öl auf Leinwand, 70 x 52 cm, Kunsthistorisches Museum,
Wien
本品は20世紀初頭頃を中心に優れた作品を数多く生み出したフランスのメダイユ彫刻家、ルイ・トリカール (Louis Tricard) によります。直径
15ミリメートルあまりの小さなサイズにもかかわらず、聖女の目鼻立ちをはじめとする細部は大型の彫刻作品に勝るとも劣らない正確さで造形されています。
フランスにおけるメダイユ彫刻中興の祖、ダヴィッド・ダンジェ (Pierre-Jean David d'Angers, 1788 - 1856) は、モデルの横顔を好んで作品にし、「正面から捉えた顔はわれわれを見据えるが、これに対して横顔は他の物事との関わりのうちにある。正面から捉えた顔にはいくつもの性格が表われるゆえ、これを分析するのは難しい。しかしながら横顔には統一性がある。」と言っています。
ルイ・トリカールはこの作品においてシエナの聖カタリナの横顔を捉えていますが、カタリナはひたすら神とキリストにのみ目を注ぎ、最愛の夫であるイエスのもとに一日も早く駆け寄りたいと願う気持ちが、聖女の横顔に表れています。
イエスを愛したカタリナは、1375年に両手、両足、脇腹に聖痕を受け、1380年、神秘的結婚による「夫」イエス・キリストと同じ年齢である33歳で亡くなりました。カタリナが聖痕を受けていたことは、聖女が亡くなって初めて明らかになりました。
(下) Fra Bartolommeo, "Le Mariage mystique de Sainte Catherine", 1511, huile sur bois, 257 x 228 cm, musée du Louvre, Paris
ルイ・トリカールはカトリック信仰をテーマに美しいメダイユを作り続けた彫刻家です。宗教以外のテーマの作品を一点も作らなかったかどうかは不詳ですが、私がこれまでに見たトリカールの作品は例外なくカトリック信仰をテーマにしており、たいへん信仰心の篤い芸術家であったことがわかります。トリカールに拠る幾つかの作例を示します。
聖ペトロ 直径 103ミリメートル
ピブラックの聖ジェルメーヌ・クザン 直径 160ミリメートル
聖母マリア
使徒聖アンドレアス 当店の商品
もう一方の面には、ロザリオあるいは薔薇の花環が浮き彫りにされています。
カトリックの数珠をわが国では「ロザリオ」(rosario) と呼んでいますが、イタリア語「ロザリオ」の語源はラテン語「ロサーリウム」(ROSARIUM) で、これは薔薇の花環(花綱、冠)のことです。薔薇は聖母の象徴であり、聖母像に捧げる薔薇の花環あるいは薔薇の花の冠を、「ロサーリウム」(ロザリオ)と呼んだのです。
ロザリオのことを、フランス語では「ロゼール」(rosaire) または「シャプレ」(chapelet) といいます。「ロゼール」は特に15連のロザリオを指す語で、語形から明らかなように、ラテン語「ロサーリウム」に由来します。「シャプレ」は5連のロザリオを指しますが、この語は本来「被り物」を表す「シャペル」(chapelle)
に縮小辞が付いたものであり、やはり花の冠を表します。ドイツ語ではロザリオを「ローゼンクランツ」(Rosenkranz) といいますが、これは文字通り「薔薇の花環」という意味です。
ロザリオの祈りでは、天使祝詞(アヴェ・マリア)、すなわち救い主の生誕を予告するガブリエルの言葉が唱えられます。下の参考画像はルネサンス期の画家ボッティチーニの作品で、生誕した救い主イエズスを礼拝する聖母とともに、薔薇の花綱(ロサーリウム)が描かれています。
(下・参考画像) Francesco Botticini, Adorazione del Bambino (dettaglio), 1482, tempera su tavola, 123 cm di diametro, Galleria
Palatina, Palazzo Pitti, Firenze
ロザリオの祈りはカタリナが属したドミニコ会によって広まりました。「ロザリオの聖母」の図像では、グスマンの聖ドミニコとシエナの聖カタリナが聖母子の前に跪き、ロザリオを受け取る様子が描かれます。
薔薇はキリストの五つの御傷の象徴でもあり、愛の象徴でもあります。イエスだけを愛し、イエスと同じ傷を受けたカタリナに、薔薇はこの上なくふさわしい花といえましょう。伝説によると、カタリナの聖遺物(遺体)は、ローマからシエナに移される際、薔薇の花に変わったと言われています。
上の写真に写っている定規のひと目盛は 1ミリメートルです。ルイ・トリカールがメダイに刻んだ薔薇は、花の直径が 2ミリメートル、葉の長さが 1ミリメートル程しかありませんが、八重咲きの花びらは立体的で、葉は鋸歯状の縁や凹凸、葉脈までが、柔らかい表現のうちにも判別可能であり、生花のようなみずみずしさを感じます。メダイユ彫刻になることで永遠の生命を得た薔薇は、カタリナがイエスに捧げた永遠の愛の表れです。
本品はおよそ百年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、まったくと言ってよいほど磨滅しておらず、カタリナの表情、修道衣とヴェールの襞、薔薇の花びら等の細部まで、制作当時のままの状態で残っています。特筆すべき瑕疵(かし 欠点)は何ひとつありません。
フランスではカトリーヌという名の女児の誕生記念に、アルテュス=ベルトランなどで、本品と同じ大きさの「シエナの聖カタリナ」の金製メダイユを7,
8万円程度で売っていますが、浮き彫りはずいぶんと大味で、ルイ・トリカールの作品と比べると、芸術的完成度に大きな差があるように感じられます。これは時代による嗜好の違いのせいもあるでしょうが、19世紀から20世紀初頭ころに最盛期を迎えた古典的メダイユ彫刻の技術が、その後に失われてしまったのが最も大きな要因でしょう。
ルイ・トリカールの作品はいずれもたいへん美しいですが、小さなサイズの作品はほとんどが貴金属(金あるいは銀)の無垢製品であるために、制作数が少なく、入手は極めて困難です。とりわけ本品は彫刻の出来栄えが優れていることに加え、保存状態も極めて良好で、手放しがたい品となっています。