見事な浮き彫りの名品 《エッケ・ホモーと悲しみの聖母 直径 23.7 mm》 逸名彫刻家による芸術水準のメダイユ フランス 1920 - 30年代


突出部分を除く直径 23.7 mm  最大の厚さ 3.3 mm  重量 5.4 g



 受難し給う救い主のエッケ・ホモー像を一方の面に、マーテル・ドローローサ(悲しみの聖母)像をもう一方の面に、それぞれ浮き彫りにしたメダイ。いまから八十年ないし九十年前、戦間期のフランスで制作された品物です。メダユール(仏 médailleur メダイユ彫刻家)の署名はありませんが、数ある同種のメダイの中でもとりわけ優れた出来栄えであり、充分に芸術作品と呼べる水準に達しています。





 一方の面にはキリストの胸像が大きく浮き彫りにされています。キリストの頭髪は肩にかかる巻き毛で、ユダヤ人らしく髭を蓄えています。ローマ兵たちは王笏を模して一本の葦をキリストに持たせ、頭には茨の冠を被らせています。メダイの下部、縁に近いところに、製造国を示す「フランス」(FRANCE)の文字があります。


 イエス・キリストが受難し給うた際、ローマ兵たちから侮辱され、ローマ総督ポンティウス・ピラトゥス(ポンテオ・ピラト)によって群集の前に引き出されたときの様子は、すべての福音書に記録されています。「マタイによる福音書」には次のように書かれています。

      それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの前に集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
    「マタイによる福音書」 二十七章二十七節から三十一節 新共同訳


 キリストが侮辱され、民衆の前に引き出された時の様子を描写した図像を、美術史では「エッケ・ホモー」と呼んでいます。通常「この人を見よ」と訳されるラテン語「エッケ・ホモー」(羅 ECCE HOMO)は、の冠をかぶせられ、緋色のガウンを着せられたイエスを、ピラトが民衆の前に連れ出して、「ほら、この人だ」と示したときの言葉です。すなわち「エッケ・ホモー」とはラテン語で「ほら、この人だ」「見よ、この男だ」という意味です。「ヨハネによる福音書」十九章四節から五節に次の記述があります。

      ピラトはまた出てきて、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところに引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは「見よ、この男だ」と言った。
    「ヨハネによる福音書」 十九章四節から五節 新共同訳





 キリストが受難し給うたのは三十三歳頃のことです。しかしながら近代の聖画は救い主の精神の偉大さを反映し、キリストを実年齢よりずっと年上に見える姿に描く作例が多く見られます。上の写真はそのような聖画のひとつで、ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂で奇跡を起こしたと伝えられるマンティリオン(希 μανδύλιον キリストの顔が転写された布)を、グラヴュールとして複製したものです。1849年1月6日、主のご公現の祝日にこのマンディリオンが公開されたとき、そこに転写された救い主の聖顔が、拝観に集まった大勢の信徒たちの目の前で突然鮮明度を増し、しかも立体的に浮き出て、救い主の顔を完全に再現したと伝えられます。

 レオン・パパン・デュポン(Vénérable Léon Papin Dupont, 1797 - 1876)は 1851年にこの複製画を自宅の礼拝堂に掛けて聖顔の信心会を始めました。同会は 1885年に教皇レオ十三世によって公認され、当時はまだ少女であったリジューのテレーズ(Ste. Thérèse de Lisieux, 1873 - 1897)の一家は、認可直後の同会に入会しています。テレーズが亡くなった翌年の 1898年、上に示した聖画は写真となって流布し、フランス社会にいっそう広く知られるようになりました。





 しかしながらこのような描き方は、時代が下って以降のものです。一世紀、二世紀のキリスト教徒にとって聖画像の作成は異教的風習に他ならず、厳しく排されるべき禁忌でした。イエス・キリストが描かれた最初の例は三世紀のフレスコ画で、カタコンベで見つかっています。初期の作例に見られるイエスは髭が無い短髪の若者で、同時期のアレクサドリアでも同様のキリスト像が描かれます。この後、小アジアではキリスト像が長髪になり、四世紀後半のイタリア及び東方において、キリスト像はひげを持つようになります。

 本品に浮き彫りにされたイエス・キリストは若々しく、三十三歳という実年齢にふさわしい姿です。それゆえ本品は二十世紀の作品でありつつも、近世以前の描法によるクラシカルな作例といえます。





 もう一方の面には悲しみの剣に心臓を刺し貫かれるマーテル・ドローローサ(羅 MATER DOLOROSA 悲しみの聖母)が浮き彫りにされています。

 「ヨハネによる福音書」十九章にはイエスがローマ兵たちに侮辱され、ローマの総督ピラトによって群衆の前に引き出され、十字架に付けられて死に、十字架から降ろされて墓に葬られたことが記録されています。十九章二十五節から二十七節には次のように書かれています。

   25    イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
   26   イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
   27   それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


 福音書の唯一の目的は、救済の経綸を明らかにすることです。すなわち福音書は文芸作品ではないゆえに登場人物の感情には無関心で、わずかな例外を除き、喜怒哀楽はほとんど描写されません。上の引用箇所にも人物の感情は一切描写されていません。

 描写されていないからと言って、感情の動きが無かったことにはなりません。描写の有無と、実際の感情の有無は別問題です。しかしながら通常の文学作品を読むときと同様の感覚で上記引用箇所を読むならば、十字架のそばに立つ女性たちは悲しんでいなかったかのようにも感じられます。





 実際のところ古代から十世紀の神学者たちは、イエスが十字架刑に処せられるのを見ても、聖母は動揺せず涙も流さなかったと考えました。なぜならばマリアは普通の母親、普通の女性ではなく、アブラハムやヨブに勝る信仰の持ち主であり、早ければ受胎告知のときから、遅くともシメオンによる「悲しみの剣」の預言を聴いてから、救済史におけるイエスの役割を理解していたと考えられていたからです。当時の神学者から見れば、イエスの受難に際してマリアが悲しんだと考えるのは、聖母を冒瀆するにも近いことでした。

 典礼上の日割りにおいて土曜日がマリアの日とされるのも、マリアの信仰が堅固であったとする思想に基づきます。イエス・キリストは金曜日に受難し、日曜日に復活し給いました。土曜日はその間の日であり、キリストの弟子たちが信仰を失いかけていたときに当たります。マリアはこのときもイエスが救い主であるとの信仰を失わなかったゆえに、土曜日がマリアの日とされたのです。


 そうは言っても息子が十字架上に刑死したとすれば、慈母は死ぬほどの悲しみを味わったと考えるのが人情でしょう。教父時代にはキリストの受難にも動じなかったとされていた聖母は、中世の受難劇において、恐ろしい苦しみと悲しみを味わう母として描かれるようになります。十二世紀の修道院において聖母の五つの悲しみが観想され、1240年頃にはフィレンツェに「マリアのしもべ会」が設立されました。同じ十三世紀には、ヤコポーネ・ダ・トーディ(Jacopone da Todi, c. 1230 - 1306)がスターバト・マーテル(羅 "STABAT MATER")を作詩しています。十四世紀初頭にはイエスの遺体を抱いて離さない聖母像が表現されるようになりました。聖母の悲しみの数は十四世紀初頭に七つとなって定着しました。

 十五世紀になると、十字架の下に立ったマリアはその苦しみゆえに共贖者(羅 CORREDEMPTRIX)であるとする思想が力を得ました。マリアを共贖者と見做すのは主にフランシスコ会の思想で、ドミニコ会はこれに抵抗しました。しかしドミニコ会はマリアが悲しまなかったと考えたわけではありません。トマス・アクィナスの師で、トマスと同じくドミニコ会士であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, + 1280)は、預言者シメオンの言う「剣」(ルカ 2: 35)をマリアの悲しみの意に解し、キリストが受け給うた肉体の傷に対置しました。




(上) レットゲンのピエタ Die Röttgen Pietà, c. 1350, Holz, farbig gefaßt, 89 cm hoch, Rheinisches Landesmuseum, Bonn


 十四世紀初頭に出現したイエスの遺体を抱く聖母像を、美術史ではピエタ(伊 Pietà)と呼んでいます。ピエタは絵画にも表されますが、最初は彫刻として制作されました。十三世紀までの聖画像では、十字架から撮り下ろされたイエスの遺体はただ地面に横たえられていましたが、ピエタのマリアはイエスを膝の上に取り上げ、ひしと抱きしめました。イタリア語ピエタの原意は「憐み」「信仰」で、ラテン語ピエタース(羅 PIETAS 敬神、忠実)が語源です。ピエタース(羅 PIETAS)の語根 "PI-" を印欧基語まで遡ると、「混じりけが無い」「清い」という原義に辿り着きます。





 教父たちは聖母マリアが混じりけの無い信仰を有した故に、その信仰は無条件的であり、イエスの受難を目にしても聖母は悲しまなかったと考えました。これに対してピエタの図像を生み出した十四世紀の人々は、聖母が死ぬばかりに悲しんだと考えました。イタリア語ピエタには「肉親に対する親愛の情」という意味が加わる一方で、印欧基語に遡る「清らかさ」のニュアンスも失っておらず、古代の教父たちが説く「純粋な敬神」に、ゴシック期らしい人間味の加わった語となっています。




(上) Michelangelo Buonarroti, "La Pietà vaticana", 1497 - 1499, Marmo bianco di Carrara, 174×195×69 cm, la Basilica di San Pietro in Vaticano, Città del Vaticano


 数あるピエタ像のうち、もっとも有名な作品の一つは、ヴァティカンにあるミケランジェロのピエタでしょう。この像は 1972年5月、ハンマーを振るう狂人によって聖母の顔と片手が損壊されましたが、その後修復されて現在に至っています。

 マリアが十五歳の頃にイエスを産み、イエスが三十三歳で亡くなったとすると、この時のマリアは四十八歳ということになります。しかるに「ヴァティカンのピエタ」のマリアはこれよりもはるかに若々しい顔立ちです。聖母の外見が若過ぎる理由を訊かれて、ミケランジェロは処女だから若さを保っているのだと答えましたが、処女性と若さに関連性があるとは思えません。フェリス女子大学の弓削達教授は、あまりにも若いマリアは聖母ではなく、マグダラのマリアであろうと考えました。弓削教授の説にはローマ史学に裏付けられた説得力がありますが、筆者(広川)はピエタが宗教的主題の作品である以上、聖母が四十八歳という実年齢通りに表現される必要はないと考えます。




(上) Jan van Eyck, "De aanbidding van het Lam Gods", 1432, Olieverfschilderij, 340 × 440 cm, Sint-Baafskathedraal te Gent


 宗教に関わる作品にアナクロニズムはありがちですが、これは作者の不注意のせいではなく、作品が時間を超越し、いわば永遠の視点から作られているからです。聖母マリアに関して言えば、シリア語による新約外典「トラーンシトゥス・マリアエ」(羅 "TRANSITUS MARIÆ" マリアの死)には、聖母マリアが地上の生を終わるときに、キリストが旧約の義人たち、預言者たち、殉教者たち、証聖者たち、処女たち、天使たちを伴って降臨したと書かれています。この光景は「ゲントの祭壇画」中央パネル下段の「子羊の礼拝」を想起させます。

 「トラーンシトゥス・マリアエ」のテキストでキリストに伴われていた者のうち、旧約の義人たち、預言者たち、天使たちは良いとして、殉教者たち、証聖者たち、処女たちは明らかに時代錯誤でしょう。「トラーンシトゥス・マリアエ」の著者がこのことに気づかなかったはずはないので、この時代錯誤は永遠の相の下では問題にされていないのだと考えられます。




(上) 「マリアを通してイエズスへ」 マリアの子ら会最初期のメダイ 26.1 x 19.0 mm フランス 十九世紀中頃 当店の販売済み商品


 子供や若者の死亡率が高かった時代の人々は、息絶えたイエスを抱いて嘆く聖母の姿、また悲しみの剣に心臓を刺し貫かれた聖母の姿を見て、心を激しく揺さぶられたに違いありません。人々はそこに共贖者(羅 CORREDEMPTRIX)の姿を見、自分たちと同様の苦しみに遭って悲しみ嘆く聖母は、最良の執り成し手(羅 MEDIATRIX)ともなりました。十一世紀から十二世紀にかけて、マリアは人と神を繋ぐ存在、すなわちこの世に救い主をもたらすとともに、救い主に至る道(「マリアを通してイエスへ」)でもある方となりました。




(上) ジェイムズ・ベルトラン作 「聖母子の前のマルガレーテ」 1876年 画面サイズ 縦 250 x 横 160 mm 当店の商品


 マーテル・ドローローサは宗教を離れ、広い分野に影響を及ぼしました。上の写真のエングレーヴィングは、世俗文学及び世俗美術の分野でマーテル・ドローローサから生まれた作品の例です。

 ゲーテの「ファウスト」において、悪魔メフィストフェレスの力を借りて若返ったファウスト博士は信心深く清純な乙女マルガレーテ(グレーテ、グレートヒェン)を誘惑し、マルガレーテはファウストに身も心も捧げます。マルガレーテは母親を裏切って眠り薬を飲ませることをファウストに約束させられますが、町外れにある悲しみの聖母像を訪れて、聖母にすがって不安と悲しみを訴えます。3711行から 3713行、および 3728行から 3731行のドイツ語テキストを、筆者(広川)による和訳を添えて示します。筆者の和訳はこなれた日本語を心掛けたために、所により行の順序がテキストと食い違っています。

   3711   Was mein armes Herz hier banget,    私の哀れな胸がなぜ不安なのか、
   3712   Was es zittert, was verlanget,    何を恐れて何を願っているのか、
   3713   Weißt nur du, nur du allein!    ご存知なのはあなた様だけです。
         
   3728   Hilf! rette mich von Schmach und Tod!    お助けください。恥と死から、どうか私を救ってください。
   3729   Ach neige,    悲しみの聖母様!
   3730   Du Schmerzenreiche,    慈しみをもって、お顔を私の苦しみに
   3731   Dein Antlitz gnaedig meiner Not!    向けてくださいませ!


 上で「悲しみの聖母様!」としたのは、3730行「ドゥー、シュメルツェンライヒェ」の和訳です。ドイツ語のシュメルツェンライヒェ(独 Schmerzenreiche)は、「悲しみと苦しみに満ちた女性」と言う意味です。悲しみと苦しみの只中にあるグレートヒェンは、気持ちを分かってくれる方として、御自ら悲しみ、苦しみ給うた聖母に祈り、すがっています。





 本品メダイに浮き彫りにされたマリア像は、生身の女性を眼前に見るかのような写実性を有するとともに、悲しみに大きく見開いた眼で受難のイエスを見上げる姿は、観る者の心を激しく揺さぶります。我々は悲しむ母の姿に心を寄せ、マリアと一体となって悲しむとともに、悲しみを知り給うマリアこそが、われらの悲しみを知り、憐れみ、庇い給う御方であることを感じ取ります。

 本品メダイの浮き彫りにメダユール(仏 médailleur メダイユ彫刻家)の署名はありませんが、マーテル・ドローローサ(悲しみの聖母)を刻んだ数々のメダイの中でも、本品は群を抜いて優れた出来栄えです。フランスはメダイユ彫刻が最も発達した国であり、筆者は長年に亙って数多くのフランス製メダイを扱ってきましたが、少なくともマーテル・ドローローサに関しては、本品に勝る作品を知りません。





 上の写真は本品をほぼ真横から撮影しています。エッケ・ホモーの面も、マーテル・ドローローサの面も、いずれも肉厚の浮き彫りによって優れた立体表現がなされていることがわかります。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。





 本品はいまから八十年ないし九十年前、戦間期のフランスで制作された真正のアンティーク品です。本品は二千年のキリスト教史を秘めつつ、平和の君キリストが嘲弄される姿と、愛の深さゆえに悲しみ給う聖母の姿のうちに、人智を絶する神の愛が地上に生きる我々に寄り添うさまを形象化しています。

 本品は長い歳月を大切に伝えられ、保存状態は極めて良好です。芸術性、稀少性のいずれに関しても最高度の評価に値するメダイユです。





本体価格 28,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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