ジェイムズ・ベルトラン作 「聖母子の前のマルガレーテ」 ドゥブロワによる超絶技巧のスティール・エングレーヴィング 心を可視化した芸術品 1876年
Margarete
原画の作者 ジェイムズ・ベルトラン (James Bertrand, 1823 - 1887)
版の作者 シャルル=アルフォンス・ドゥブロワ (Charles-Alphonse Deblois, 1822 - 1883)
画面サイズ 縦 250 mm 横 160 mm
ゲーテ(Johann Wolfgang von Göthe, 1749 - 1832)が六十年以上かかって書き上げた「ファウスト」(
"Faust")から主題を取った作品。
悪魔メフィストフェレスの力を借りて若返ったファウスト博士は信心深く清純な乙女マルガレーテ(グレーテ、グレートヒェン)を誘惑し、マルガレーテはファウストに身も心も捧げます。マルガレーテは母親を裏切って眠り薬を飲ませることをファウストに約束させられますが、町外れにある悲しみの聖母像を訪れて、聖母にすがって不安と悲しみを訴えます。
(3587 - 3619行)
私の哀れな胸がなぜ不安なのか、
何を恐れて何を願っているのか、
ご存知なのはあなた様だけです。
お助けください。恥と死から、どうか私を救ってください。
悲しみの聖母様!
慈しみをもって、お顔を私の苦しみに
向けてくださいませ!
マルガレーテはファウストを家に招き入れて逢引したいばかりに、彼に渡された眠り薬を母親に飲ませますが、薬の量を誤って母親を殺してしまいます。さらにファウストの子を身ごもってしまい、彼女の兄ヴァレンチンはファウストと決闘しようとしてファウストに殺されてしまいます。悲しみのあまり気が狂ったマルガレーテは、生まれた子供を自らの手で池に沈めて殺し、罪に問われて投獄されてしまいます。
マルガレーテの悲劇は「ファウスト」第一部の中核です。ファウストはメフィストフェレスの力を借りて、処刑目前のマルガレーテを獄中から逃がそうとしますが、彼女は逃げることを拒んで神にすがり、魂の救いを得ます。「ファウスト」の結び(12110
- 12111行)にある神秘の合唱は、「永遠の女性が我らを引き上げる」と歌います。「永遠の女性」あるいは「女性の魂」とは、神の愛の具現である女性原理のことであり、少女マルガレーテは聖母マリアと並ぶその象徴に他なりません。
《原画の作者について》
Aurora, Oil on canvas, 226.1 x 101.6 cm
ジェイムズ・ベルトラン(James Bertrand または Jean-Baptiste Bertrand, 1823 - 1887)は、リヨン生まれの画家及びリトグラフ作家です。リヨンとパリの美術学校に学び、サロン展へは1857年に初出展しています。
オルセル(Victor Orsel, 1795-1850)とペラン(Alphonse Périn, 1798 - 1874)が共同で取り組んだパリのノートル・ダム・ド・ロレト教会の装飾を、ベルトランは弟子として十一年間手伝い、また1854年にはオルセルの一連の作品をエスタンプ(リトグラフ)にしています。1857年から1862年までのイタリア滞在中にナザレ派の画家たち(Friedrich
Overbeck, Gebhard Flatz, Franz Riepenhausen)と出会ったらしく、このころの作品にはナザレ派的な影響が見られます。
パリに戻ってからは カルポー(Jean-Baptiste Carpeaux, 1827 - 1875)、ファルギエール(Jean-Alexandre-Joseph
Falguière, 1821 - 1900) クレサンジェ(Auguste Clésinger, 1814 - 1883)といった彫刻家との親交を深めるなかで
1866年以降はナザレ派的な作風から離れ、歴史や文学に現れる有名な女性たちを描くようになります。ベルトランによるこれらの作品はたいへん人気があり、数々の美しい版画になっています。
Omphale Sleeping, 1869
Oil on canvas, 83 x 60.1 cm
Ophelia, 1872, Oil on canvas, 65.4 x 49.5 cm
ナザレ派の画風から離れて以降のベルトラン作品は、ほとんど例外なく女性の単独像です。この作品「マルガレーテ」では、母親を裏切ることを約束させられ、自分が犯した過ちに思い悩む信心深い少女マルガレーテが描かれています。マルガレーテは恥じるように少し目を伏せて、手ずから摘んできた美しい花を聖母に捧げようとしています。
《参考写真 ベルトランにかかわる諸家による彫刻作品》
Auguste Clésinger,
Woman with Snake, 1847, Musée d'Orsay, Paris
Jean-Baptiste Carpeaux,
Eve Tempted, 1871, marble, public collection
Jean-Alexandre-Joseph Falguière,
La Source, marble
《この版画について》
ひとりでは抱えきれない大きな悩みと苦しみを、街角の聖母像に打ち明けるマルガレーテ。1876年の「アート・ジャーナル」から採られた作品です。
まじめで信心深い娘であるマルガレーテは、黒い服を着、同色の頭巾を被っています。腰から提げた小さなパウチに入っているのは、施しための献金でしょうか。しかし黒い頭巾で覆いきれない豊かな金髪が象徴するように、青春期の只中にあるマルガレーテは、魅力的な男性に見えるファウストへの思いを抑えきれません。マルガレーテの良心と理性は恋人からの依頼に抗(あらが)いますが、女性としての感情はファウストを強く慕います。マルガレーテの美しく整った横顔には、ふたつの心に引き裂かれる少女の苦しみが浮かびます。
マルガレーテは美しい花々を聖母に捧げようとしています。しかしながら彼女は、ファウストの依頼に屈しようとする自分の心が、もはや野の花のように清らかではなくなったことを感じています。マルガレーテが聖母に花を捧げるのは、無心に咲く野の花のようであった自分の心を確かめるためでしょうか。自分がまだ聖母の祝福と加護を失っていないことを、確かめたいのでしょうか。しかし咲き乱れる花々を両手に捧げ持ったマルガレーテは、いつものようにすぐさま花を捧げることもせず、悄然と立ち尽くしています。これまでマルガレーテにとって親しい存在であった街角の聖母子は、いまの彼女の眼から見ると、きっと自分を拒むかのように見えているのでしょう。
本品の版を制作したシャルル=アルフォンス・ドゥブロワは、背景及び草花をエッチングで、それ以外の部分をエングレーヴィングで制作しています。マルガレーテは全面的にエングレーヴィングです。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。インタリオの線の間隔は 0.3ミリメートルから 0.5ミリメートルほどですが、位置がわずかでもずれれば各部の均整が崩れますから、線を刻む位置の精度は数十分の一ミリメートル以下であることがわかります。上目遣いの眼もと、眉と睫毛(まつげ)、品良くまっすぐに通った鼻筋、言問いたげな口もと、形の良い耳、耳の前のおくれ毛、軟らかな喉もとなど、マルガレーテの顔の各部が、あたかも生身の女性を眼前に見るかのような質感で描き出されています。少女の艶やかな髪は一筋ずつ丁寧に彫られ、頭巾の縁に浮かび出た織り柄も、巧みに再現されています。
あたかも心に懸かる暗い雲を象(かたど)るように、マルガレーテの額には影が射しています。影はクロスハッチで表現されていますが、一辺一ミリメートル未満の菱形内部には、細心の力加減でひとつひとつ点が穿たれ、明度を落とすとともに、線の強さを和らげています。クロスハッチの菱形内部に点状の溝を刻むのは気の遠くなるような作業ですが、ドゥブロワは本品においてこの技法を多用しています。喉もとや項(うなじ)にも同じ技法が駆使されていますし、胴衣とスカートの大きな面積も、クロスハッチの菱形内部に点を伴っています。
マルガレーテが捧げる花は、エッチングで描かれています。これはエングレーヴィングの手間を惜しんだのではなく、エングレーヴィングが描き出す輝くような美に比べて、より控えめな野の花の美を、エッチングで表しているのです。
上の写真には胴衣の袖の端が写っています。袖の端はクロスハッチの菱形内部に、尖った器具の先端で針先のような点が穿たれ、明度をごくわずかに落としています。
写真が版画の社会的地位を奪った現在、本品を制作した版画家シャルル=アルフォンス・ドゥブロワは、半ば忘れられた芸術家となっています。しかしながら十九世紀のフランスにおいて、ドゥブロワは人物像専門のグラヴール(仏
graveur エングレーヴァー)として極めて高く評価され、その作品はたいへん人気がありました。フランスの政治家や文化人、名だたる作曲家たちが、ドゥブロワに肖像版画制作を依頼しています。本品「マルガレーテ」において、シャルル=アルフォンス・ドゥブロワの丁寧かつ繊細なスティール・エングレーヴィングは、孤独な乙女の姿を見事な質感で再現するだけでなく、生身の少女マルガレーテの内面をも、手に取るように描き出しています。
写真術による機械的複写は、レンズを通して感光版に投影される像の各部を、同じ比重を以て、すべて克明に再現します。写真には可視的事物の全体が、最も些末な部分まで、すべて忠実に写し取られます。しかしながら心を持つ我々の目は、カメラのような機械とは違って、見るべきものを選択し、心のフィルターを通して見ています。画家や版画家が生み出す作品が、この点において、被写体を機械的に複製した写真と異なります。画家や版画家の作品は、心を持つ生身の人間が描いた絵であるゆえに、描くべきものを選択し、見るべきもののみを描いて、そうでないものを捨て去ります。取捨選択をすることで、版画を含む絵画は、機械的に撮影された写真が決して捉え得ない不可視の心を、写真よりもむしろはるかに正確に捉え、描き出すのです。
ジェイムズ・ベルトランの原画「マルガレーテ」と、ドゥブロワのエングレーヴィング「マルガレーテ」は、いずれも芸術に属する絵画です。写実的でありながらも決して機械的な写真ではない「マルガレーテ」のような作品は、版画家を含む芸術家の仕事が、カメラによって決して奪われていないことを、われわれにい思い知らせてくれます。
《額装について》
版画は未額装のシートとしてお買い上げいただくことも可能ですが、当店では無酸のマットと無酸の挿間紙を使用し、美術館水準の保存額装を提供しています。下の写真は額装例で、外寸
40 x 31センチメートルの木製額に、赤色ヴェルヴェットを張った無酸マットを使用しています。この額装の価格は 24,800円です。
額の色やデザインを変更したり、マットを替えたりすることも可能です。無酸マットに張るヴェルヴェットは赤や青、ベージュ等に変更できますし、ヴェルヴェットを張らずに白や各色の無酸カラー・マットを使うこともできます。
版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。
このリンクをクリックしてお読みください。
エングレーヴィングの本体価格 65,800円 (額装別)
電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。
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