ヴェズレー 聖マリ=マドレーヌのバシリカ
La Basilique de Sainte-Marie-Madeleine, Vézelay




 フランスの中心部から少し北東にあるヴェズレー(Véezelay ブルゴーニュ地域圏ヨンヌ県)は古い歴史がある小さな町で、フランスで最も美しい村(仏 Les plus beaux villages de France)のひとつにも選ばれています。当地には十二世紀に建てられたクリュニー派修道院付属聖堂が残っています。この付属聖堂は翼廊を持たないバシリカ式のロマネスク建築で、1920年に重要な聖堂として「バシリカ」の称号を与えられ、ラ・バジリク・ド・サント=マリ=マドレーヌ(仏 La Basilique de Sainte-Marie-Madeleine, Vézelay 聖マリ=マドレーヌのバシリカ)となって今日に至ります。


 サン・ジャックの道 レモン・ウルセルによる


 サンティアゴ・デ・コンポステラに通じる四つの主要な巡礼路は、サン・ジャックの道(仏 Les chemins de Saint Jacques)と呼ばれます。ヴェズレーはリモージュとペリグー (Perigueux) を経由するルート、ウィア・レモウィーケーンシス(羅 VIA LEMOVICENSIS レモウィーケース人の地を通る道、すなわちリモージュを通る道 註1)の起点とも見做されています。

 クリュニー会はサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼を推進し、サン・ジャックの道のうち二本の起点、すなわちヴェズレーとサン=ジル(St-Gilles)には、いずれもクリュニー会修道院が置かれていました。当時のヴェズレー修道院付属聖堂は聖マリ=マドレーヌ(マグダラのマリア)崇敬の中心地であり、サン・ジャックの道が通ることと相俟って、中世フランスの一大巡礼地として繁栄を誇りました。



【ヴェズレー修道院におけるマグダラのマリア伝承の創出】

 ヴェズレーの修道院はブルゴーニュの貴族ジラール(Girart de Roussilon, c. 810 - c. 877)によって 858年頃に創建された修道院です。この修道院はベネディクト会に属しており、最初は救い主(仏 Saint Sauveur)と聖母(仏(Notre-Dame)に捧げられて、マグダラのマリアとは何のかかわりも有していませんでした。

 1037年、ヴェズレーの修道院長に着任したジョフロワ(Geoffroy 在職 1037 - 1050)は規律が緩んで衰退していたこの修道院の改革に取り組み、クリュニー会の戒律を受け入れました。また当時はマグダラのマリアに捧げた西ヨーロッパで最初の聖堂がヴェルダンにおいて建設中でした。院長ジョフロワはこの聖女に目を付けて、ヴェルダンからマグダラのマリアの信仰を導入しました。この思いつきは功を奏し、聖女の遺体があると思われたヴェズレーには巡礼者が押し寄せました(註2)。サンティアゴ・コンポステラ巡礼の出発点であったことも手伝って、修道院は飛躍的な繁栄を遂げます(註3)。

 しかしながら有名な巡礼地となるにつれて、パレスティナから遠く離れたヴェズレーになぜマグダラのマリアの遺体があるのかを合理的に説明して、巡礼者たちを納得させる必要が出てきました。そこで考案されたのが、聖女たちが迫害を逃れるために舟に乗って聖地を脱出し、フランスに来たという説明でした。すなわちマグダラのマリアを含む聖女たちはカマルグに上陸した。マグダラのマリアはサント=ボームに移ってそこで生涯を終え、当地の聖堂サン=マクシマンに葬られた(註4)。ヴェズレーではサン=マクシマンに修道士を派遣して、その遺体を盗み出すことに成功した。それゆえマグダラのマリアの遺体はヴェズレーにある、というのです。


(下) Giotto di Bondone,Scenes from the Life of Mary: Magdalene: Mary Magdalene's Voyage to Marseilles (details), 1320s, fresco, Magdalene Chapel, Lower Church, San Francesco, Assisi





【伝承の発展とジラール・ド・ルシヨン伝説】

 なぜヴェズレーにマグダラのマリアの遺体があるのかという疑問に対する回答は、一度に用意されたものではありません。ヴェズレーにマグダラのマリアの遺体があると思われ始めた十一世紀中ごろの段階では、どのような事情で聖女の遺体がヴェズレーにあるのかということに関して具体的な説明は未だ案出されていませんでした。この問題に関して、この頃成立した聖人伝には、「神にはあらゆることが可能である」としか書かれていません。

 やがてヴェズレー修道院は聖女たちのカマルグ上陸とサン=マクシマンからの移葬(聖物盗掠 SACRA FURTA)の物語を案出しました。そして最終段階、すなわち十二世紀後半に成立したヴェズレー修道院の公式年代記においては、サン=マクシマンにマグダラのマリアの遺体があると知ったヴェズレー修道院長とルシヨン伯ジラールがバディロンという修道士を派遣し、この修道士が危険を冒して遺体を盗み出したということになりました。当時誰もが知っていたジラール・ド・ルシヨン伝説を移葬の物語に絡めて物語性と信憑性を高めたこの説明は、カリクストゥス本("CODEX CALLIXTUS")とも呼ばれる「聖ヤコブの書」("LIBER SANCTI IACOBI")、及びヤコブス・デ・ヴォラギネの「レゲンダ・アウレア」 ("LEGENDA AUREA") にも採用されました。


 ジラール・ド・ルシヨン伝説とは王シャルルと対立した家臣ジラールを主人公とする物語で、ブルゴーニュにおいてたいへん人気がありました。1100年前後に成立したラテン語「ジラール・ド・ルシヨン伝」("VITA GIRARDI DE ROUSSILON") や十二世紀後半に成立したプロヴァンス語の武勲詩「ジラール・ド・ルシヨンの歌」("La Chanson de Girart de Roussillon") を初めとする作品群が残っています。




(上) ジラール・ド・ルシヨンの結婚 1450年頃の写本細密画 オーストリア国立文書館蔵


 ジラール・ド・ルシヨン伝説における「ジラール」は、ヴェズレー修道院及びポワチエ修道院の創建者であるカロリング時代の貴族、ブルゴーニュのジラール(Girart de Roussilon, c. 810 - c. 877)をモデルにした人物であると考えられています。実際、シャルルマーニュの子であるルイ一世(Louis/Ludwig I, dit le Pieux, 778 - 814 - 840)の死後、その息子ロタール一世(Lothar I, 795 - 840 - 855)とシャルル二世(Charles II, dit le Chauve, 823 - 843 - 877)の間に起こった争いにおいて、ブルゴーニュのジラールはロタール一世側に付いてシャルル二世と干戈(かんか)を交え、敗れています。


 ジラール・ド・ルシヨン伝説はこのような歴史的事実を下敷きにしてはいるのですが、物語の具体的な内容はまったくの虚構です。伝説によると、ジラール夫妻は王との争いに敗れ、内乱によって荒廃した国土を放浪するうちに、マグダラのマリアに祈る隠修士に出会って信仰に導かれ、国土を荒廃させた罪を償うまでは再び剣を手にしないと誓います(註5)。やがてジラールは王と和解し、早世した愛児ふたりのためにヴェズレー修道院を創建し、マグダラのマリアの遺体を安置しました。ヴェズレーにはフランス全土から巡礼者が集まりました。


 既に述べたように、マグダラのマリアの信仰がヴェズレーに導入されたのは創建当時ではなく、院長ジョフロワの時代、すなわち十一世紀中ごろにすぎません。それゆえ上記のような形で伝わるジラール・ド・ルシヨン伝説は、おそらくヴェズレー自身の手による捏造(でつぞう 捏ち上げ)であると思われます。しかし修道院の公式年代記をこの伝説に絡めたことにより、なぜヴェズレーにマグダラのマリアの遺体があるのかという疑問に対する整合的な回答が可能になったのでした。


【十二世紀以降のヴェズレー修道院史】

 マグダラのマリアの聖遺物を所有するヴェズレー修道院への巡礼熱は十一世紀後半、とりわけ 1090年代に急に高まり、修道院付属聖堂が手狭になったので、新しい聖堂が建設され、1104年4月21日に聖別されました。その後も増え続ける巡礼を収容するためにナルテクス(前室)を延伸する改築が行われ、1132年に教皇インノケンティウス二世によって聖別が行われました。

 1146年の復活祭にはルイ七世(Louis VII, 1120 - 1180)の臨席を得て、クレルヴォーの聖ベルナール(St. Bernard de Fontaine, abbé de Clairvaux, 1090 - 1153)がこの聖堂で説教を行い、第二回十字軍への参加を諸侯に求めました。1190年にはイングランド国王リチャード一世(Richard I, 1157 - 1189 - 1199)と フランス国王フィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste; 1165 - 1223)はヴェズレーに三ヶ月間滞在した後、合同軍を率いて第三回十字軍に出発しました。

 カンタベリー大司教聖トーマス・ベケット(St. Thomas Becket, 1117 - 1170)は、1166年、ヴェズレー修道院滞在中に、教会に対する支配強化を試みるイングランド国王ヘンリー二世(Henry II, 1133 - 1154 - 1189)を批判し、その支持者を破門して、ヘンリー二世自身の破門も辞さないと言明しました。


 1265年、聖遺物の検認が行われ、マグダラのマリアの名前を記した書類が棺の中から見つかり、ヴェズレーの遺物(頭蓋骨)が確かにマグダラのマリアのものであると確認されました。

 ところが 1279年に大事件が起こります。ヴェズレーにあるマグダラのマリアの聖遺物は、もともとサント=ボームの聖堂サン=マクシマンから移葬したものとされていました。しかし 1279年、ナポリ王シャルル二世(Charles II d'Anjou, 1254 - 1309)の命によりサント=ボームにドミニコ会修道院が設立された際に、非常に古い地下礼拝堂が見つかり、ここでマグダラのマリアの遺体が発見されたのです。聖女の遺体と同時に、由来を記した書類が見つかりました。それによると、イスラム教徒による破壊を恐れて、サント=ボームの人々は聖女の遺体を別人の遺体とあらかじめすり替えていたのでした。今回見つかったのが真正の聖女の遺体であって、ヴェズレーの修道士が当地から盗み出したと主張する遺体は替え玉だったということになります。聖女の遺体が発見されるや否や、サン=マクシマンでは奇跡が続発して、その真正性を裏付けました。




(上) サン=マクシマン=ア=ラ=サント=ボーム 聖マリ=マドレーヌのバシリカ


 ヴェズレーとサン=マクシマンが互いの正統性を主張し合う状況がしばらくの間続きましたが、形勢はやがてヴェズレーに不利になります。サント=ボームにドミニコ会修道院を設立したナポリ王シャルル二世はフランス国王ルイ九世の甥であり、プロヴァンス伯、両シチリア王国国王でもある有力者であったのです。シャルル二世が支配するナポリで 1294年に教皇に選出されたボニファキウス八世(Bonifacius VIII, c. 1235 - 1294 - 1303)は、翌 1295年、サン=マクシマンの遺骸こそが真正の聖女のものであることを宣言しました。これによって巡礼地としてのヴェズレーの命運は断たれてしまいました。

 その後のヴェズレーは衰退の一途をたどり、1347年頃、ゴシック様式による西側の塔が建てられたのを最後に、大規模な改築も行われなくなりました。1537年の時点でヴェズレーの修道士はわずか十五人にまで減り、ヴェズレーは修道院から格下げされて、聖堂参事会の施設になりました。ユグノー戦争(1562 - 1598年)の時代であった 1569年、ヴェズレーはユグノーの避難場所となり、マグダラのマリアの聖遺物は焼却されてしまいました。ユグノーたちは聖堂参事会員たちを首まで土に埋めて、斬首した別の参事会員たちの頭を投げつけたと伝えられています。フランス革命期であった 1793年頃、もと修道院であった建物は取り壊されて石材が売却され、ほぼ完全に姿を消しました。付属聖堂は徹底的な破壊を免れましたが、タンパンは打ち壊されてしまいました。


 プロスペル・メリメ(Prosper Merimée, 1803 - 1870)が 1834年に現地を調査したとき、ヴェズレーは崩壊の危機に瀕していました。メリメの依頼によって、1840年、ヴィオレ=ル=デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc, 1814 - 1879)による修復工事が始まりました。修復工事では、経年によって劣化し、また人為的に破壊された付属聖堂の彫刻群が再制作され、身廊を支える飛梁が付け加えられました。工事は 1861年に完了しました。

 教皇マルティヌス四世(Martinus IV, 1210/20 - 1281 - 1285)は 1281年、サン(Sens ブルゴーニュ地域圏ヨンヌ県)の司教にマグダラのマリアの聖遺物を贈りましたが、サン大司教はこの聖遺物を 1876年にヴェズレーに贈り、ヴェズレーは再び巡礼地の地位を取り戻しました。巡礼は 1912年にいったん中止されますが、1920年、聖堂がバシリカとされたことをきっかけに再開し、現在に至っています。



【ヴェズレー修道院付属聖堂とタンパン】

 ほとんどのロマネスク聖堂において、タンパン(註6)の彫刻のテーマはキリストの再臨と最後の審判です。しかしながらヴェズレー修道院付属聖堂のタンパンは稀な例外で、最後の審判ではなく、「使徒言行録」二章にある聖霊降臨(ペンテコステ)の場面が表現されているのが大きな特色です。これはヴェズレーのタンパンが十字軍の理念を表現するものとして制作されたことを示します。

 既に述べたように、1146年の復活祭において、クレルヴォーの聖ベルナールは第二回十字軍を推進する説教をヴェズレーの聖堂で行いました。さらに 1190年にはイングランド国王リチャード一世とフランス国王フィリップ・オーギュストはヴェズレーに三3ヶ月間滞在した後、第三回十字軍に出発しました。これらの出来事は十字軍運動においてヴェズレーが果たした役割を端的に表しています。


【聖堂全体の構造】

 ヴェズレー修道院付属聖堂はバシリカ様式のロマネスク聖堂です。

 ヴェズレー修道院付属聖堂の平面プラン

 身廊


【中央扉口のタンパン】




 ナルテクスを入ると、正面扉口にロマネスク彫刻の傑作とされる異色のタンパンがあります。この作品においては、上述のように、最後の審判ではなく、聖霊降臨(ペンテコステ)の場面が表現されています。





 タンパン中央、マンドーラ型の光背に表された柔和な表情のキリストは、両手を優しく広げて万人を受け入れるポーズを取ります。キリストの両脇には、福音の教えを象徴する巻物を手にして使徒たちがいます。キリストの指先から発出するリボン状のものが、使徒たちに向かって伸びています。これは聖霊によって使徒たちに与えられる力、すなわち福音を諸国に伝えるためにさまざまな言語を操る力を表します。

 聖霊降臨の場面とは、すなわち使徒たちを福音宣教に送り出す場面に他なりません。新約聖書中のこの出来事を、ヴェズレーのタンパンが制作された時代の状況に置き換えると、キリストが送り出しているのは十字軍兵士たちであることがわかります。十字軍はキリスト教圏を回復・拡大するという宗教的な使命を有し、兵士たちは十字軍への参加によって罪の赦しを保証されていました。


【まぐさ石に彫られた奇怪な異教徒たち】

 タンパンを支える横長の石材、まぐさ石には、キリスト教圏に含まれない遠い国々の異教徒たちが刻まれています。異常に大きな耳や鼻を持つ者、全身が羽毛に覆われた者など、その奇怪な肉体は、キリストの福音を知らない精神の劣悪さ、救いを必要とする異教徒の惨めさを表しています。

(下) スキティア付近に住むとされた大耳のパノティア人



 ヴェズレーにおいてまぐさ石の彫刻を制作したのは、オータン司教座聖堂中央扉口のまぐさ石に彫刻を制作したのと同じ人物、ジスルベール (Gislebert/GISLEBERTUS, fl. 12 c.) です。


【タンパン外周の彫刻】

 タンパンの外周には左右四つずつ、計八つの扇型の空間があります。

 このうち下部の四つにはビザンティンやアルメニアのようなキリスト教圏の外国人が表されています。まぐさ石の異教徒たちとは違って、キリスト教徒である外国人たちはまったく正常な人間の姿形をしています。これは十字軍の掲げる目標がすべてのキリスト教徒に共通するものであること、すべてのキリスト教徒は、国の違いにかかわらず、異教徒に対して一致団結すべきであることを教えています。

 上部の四つの空間には新約聖書に記された使徒の働きが表されています。使徒言行録に記録されているように、使徒たちは悪霊を追い出し、病気をいやしています。人間に取り憑く悪霊や病気を、聖地エルサレムにいる異教徒たちのメタファーと考えるならば、これらの彫刻は直接的には使徒の働きを表現しながらも、やはり十字軍の理想と無関係ではないことがわかります。




註1 レモウィーケース(羅 LEMOVICES 複数形)はリムザンに住んでいたゴール人の部族名。ウィア・レモウィーケーンシスはフランス語でラ・ヴォワ・リムジン(仏 la voie limousine リムザンの道、リモージュの道)あるいはラ・ヴォワ・ド・ヴェズレー(仏 la voiie de Vézelay ヴェズレーの道)とも呼ばれる。


註2 ヴェズレーの修道院とマグダラのマリアを結びつける最初の文献は、教皇レオ九世(Leo IX, 1002 - 1049 - 1054)がヴェズレーの修道院長ジョフロワに宛てた 1050年の特許状である。教皇はこの書簡において、ヴェズレーを「救い主と聖母、ペトロとパウロ、マグダラのマリア」に捧げられた修道院と呼んでいる。12世紀の年代記では、ヴェズレーは単に「マグダラのマリアの修道院」と呼ばれて、この修道院が本来捧げられた救い主と聖母はほとんど忘れ去られている。


註3 ヴェズレーのマグダラのマリアに対する崇敬は十一世紀後半、とりわけ 1090年代に急に広まり、ヴェズレー修道院は多くの寄進を受けて、広大な領地を有するようになった。またマグダラのマリアに捧げられた礼拝堂が、数多くの聖堂に造られた。マグダラのマリア崇敬は急速かつ強力に伝播したため、建設中の聖堂、あるいは完成間近であった聖堂の多くに、当初の設計に含まれていなかった聖女の礼拝堂が急遽追加された。その結果マグダラのマリアの礼拝堂は、多くの事例においてナルテクス(前室)の階上や鐘楼に設けられている。この事実はあらゆる地域の人々がこぞって熱心にマグダラのマリア崇敬を受け入れたことを物語る。


註4 ヴェズレーの修道院が案出したこの物語は、聖女たちがカマルグに上陸したという伝承を生み出しただけでなく、聖女マグダラのマリアの本来の墓所であったとされる聖堂(La basilique de Sainte Marie-Madeleine de Saint-Maximin-la-Sainte-Baume)の名前にもなっている聖マクシマンという聖人を創出し、ヴェズレーに対抗したオータン司教座聖堂にラザロの遺体を出現させ、タラスコンにマルタの遺体を出現させた。


註5 十一世紀から十二世紀の西ヨーロッパでは、隠修士たちを原動力とする悔悛運動が民衆を巻き込み、大きなうねりとなっていった。その過程でマグダラのマリアは民衆にとって非常に大きな存在となった。

 隠修士(hermit, ermite, Eremit)とは、南イタリアに多かったギリシア系の修道士たちの間に十世紀末から十一世紀にかけて現れた信仰生活の形態で、罪を償うために森に入って、瞑想と禁欲の生活を送る者を指す。隠修士たちにとって、悔い改めた娼婦であるマグダラのマリアは最も親しい聖人であり、多くの隠修士がマグダラのマリアに帰依して、その庵を聖女の保護に委ねた。当時まさに進行中であったグレゴリウス改革において、理論家のひとりと考えられるペトルス・ダミアニ(Petrus Damianus, 1007 - 1072)は隠修士であった。シトー会の創立者モレームの聖ロベール(St. Robert de Molesme, 1029 - 1111)もまた隠修士である。信仰に明け暮れた当時の社会に生きる人々にとって、彼ら隠修士がいかに重要な存在であったかということを、これらの事実が端的に示している。


註6 聖堂入り口のアーチとまぐさ石に囲まれた半円形の部分を、ティンパヌム(羅 TYMPANUM)またはタンパン(仏 tympan)と呼ぶ。タンパン下部に連続する支柱、及びファサード(とくに西側ファサード)と並んで、タンパンは聖堂外部を飾る最も重要な装飾のひとつである。




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