フランス国王ルイ9世 (聖王ルイ)
Louis IX de France / St. Louis




(上) Guillaume Coustou (1677 - 1746), Saint Louis, Dôme et tombeau de Napoleon Ier, Les Invalides, Paris


 フランス国王ルイ9世(Louis IX de France, 1214 - 1270 在位 1226 - 1270)はカペー朝第9代の国王です。ルイ9世治下のフランスはヨーロッパで最強の国家であり、政治、経済、学術のいずれにおいても高度の発達を見た時代でした。また国王ルイ9世は優れた知性と高潔な人柄で知られ、「同等なる者のうちの第一人者」(primus inter pares) として諸国の元首から紛争の調停を任されました。



(上) Luis Tristan de Escamilla (1586 - 1624), Saint Louis, roi de France, distribuant les aumones, c. 1620, 245 x 183 cm, huile sur la toile, Louvre, Paris


 ルイ9世は自国民を救いに導くため、売春、賭け事、貸付金に利息を取ることを禁じました。1297年8月11日、ルイ9世は教皇ボニファティウス8世により、「フランスの聖ルイ」(Saint Louis de France) として列聖されました。


【ラ・サント=シャペルの建設】

 ルイ9世は信心深い母の影響で宗教に深く帰依しました。「フランスはカトリック教会の長姉である」(La France est la fille aînée de l'Eglise.) という言葉がありますが、この言葉を初めて使ったのはルイ9世であると言われています。ルイ9世はフランスを教会の長姉とし、パリを信仰の一大中心地とすることを目指しました。



(上) Simon Vouet (1590 - 1649), Saint Louis recevant la couronne d'épines des mains de Jésus, 1639, huile sur la toile, Eglise Saint-Paul-Saint-Louis, Paris


 ルイ9世は聖遺物の収集に熱心で、キリスト受難の際の荊の冠やマンディリオン(le Mandylion, ou l'Image d'Edesse キリストの顔が奇蹟的に転写された布)、聖十字架の破片など、コンスタンティノープルからもたらされたキリストの聖遺物を納めるため、1243年から1248年にかけて王宮の礼拝堂ラ・サント=シャペル (la Sainte-Chapelle) をシテ島に建設しました。

シテ島のサント=シャペル

 またパリの西20キロメートル足らず、サン=ジェルマン=アン=レイにある王宮 (Le chateau de Saint-Germain-en-Laye, ou Chateau-Vieux) にも、礼拝堂ラ・サント=シャペル (la Sainte Chapelle) を造らせています。


 ちなみにアミアン、ルーアン、ボーヴェ、オセールの各司教座聖堂も、ルイ9世の治世に建設されたものです。



【第7回十字軍】

 1244年、赤痢に罹ったルイ9世は、もしも快復すれば東方遠征を行うことを神に誓い、病から立ち直るとすぐ十字軍の準備に取りかかりました。遠征の準備には4年の歳月が費やされ、その間カマルグにエギュ=モルト (Aigues-Mortes) の港が建設されました。1248年6月12日、ルイ9世は王妃マルグリット・ド・プロヴァンス (Marguerite de Provence, 1221 - 1295) 及びいずれも王弟であるアルトワ伯ロベール1世 (Robert Ier d'Artois, 1216 - 1250)、シャルル・ダンジュー (Charles d'Anjou, Charles Ier de Sicile, 1227 - 1285) とともに、サン=ドニ聖堂でカペー家のオリフラム(oriflamme 軍旗)を受け取りました。

 船に乗り込むルイ9世 15世紀の写本挿絵より

 エジプトに向けてエギュ=モルトを出発したルイ9世の艦隊は、キプロスに寄港した後、1249年5月、カイロの北東約200キロメートルにある港町ダミエッタに到達し、6月8日に攻略に成功しました。ルイ9世の軍はカイロを目指し、カイロの北東約130キロメートルのマンスーラ (Mansoura) を攻囲しましたが、兵士の間に赤痢と壊血病が蔓延して多数の死者を出しました。

 マンスーラで死者を葬るルイ9世


 1250年4月6日、フランス軍はファリスクール (Fariskur) の戦いにおいて惨敗して、多数の兵士とともにルイ9世自身が捕虜になってしまいました。国王が捕虜となっている間は王妃が軍の指揮を執り、同年5月、テンプル騎士団が多額の身代金を支払ったことにより、国王と兵士たちはようやく解放されました。

 この後ルイ9世はフランスに残って統治する母后ブランシュ・ド・カスティーユ (Blanche de Castille, 1188 - 1252) を補佐させるために、王弟アルフォンス・ド・ポワチエ (Alphonse de Poitier, 1220 - 1271) とシャルル・ダンジューをフランスに帰しましたが、自身はすぐに帰国せず、レヴァントのラテン諸国家を現地で支援することとし、1250年から53年の間にアッコン (Acre)、カイサレア (Caesarea Maritima)、ヤッファ (Jaffa)、シドン (Sidon) の各砦の補強と防衛に携わりました。

 母后ブランシュ・ド・カスティーユが1252年に亡くなり、翌年の春にその知らせを受け取ると、ルイ9世は帰国を決意し、1254年4月24日にティルス (Tyr) を出港してフランスに戻りました。



【教皇ウルバヌス4世の野望と、王弟シャルル・ダンジューによるシチリア攻略】

 シチリアは本来ローマ教皇の封土でしたが、当時は神聖ローマ帝国の実効支配下にありました。神聖ローマ帝国はその「イタリア政策」ゆえに、皇帝フリードリヒ1世 (Friedrich Barbarossa, 1123 - 1152 - 1190) の治世であった1157年以来、教皇と対立関係にありました。1250年に皇帝フリードリヒ2世 (Friedrich II, 1194 - 1220 - 1250) が没すると、後を襲った次男コンラート(コンラート4世 Konrad IV, 1228 - 1254)は庶兄マンフレディと協力してシチリア王国を確保しました。しかし歴代の教皇はシチリアを決してあきらめませんでした。

 教皇ウルバヌス4世 (Urbanus IV, c. 1195 - 1261 - 1264) はルイ9世を唆(そそのか)して、シチリアに出兵させようとします。このときシチリア王コンラート(神聖ローマ皇帝コンラート4世)はすでに没していましたが、ドイツには息子コンラディン (Konradin, 1252 - 1268) がいました。コンラディンは父の帝位を継ぎませんでしたが、シチリア王位の正当な後継者でした。

 ルイ9世は1248年以来十字軍に携わっており、東方への前線基地を確保したいと考えていましたから、シチリアを手に入れられればこんなに都合のよいことはありません。しかしながら義人、聖者の名声が高かったルイ9世としては、正当な王位継承者である少年コンラディンがいるシチリアを横取りするわけにはゆきません。シチリアが欲しければ、何らかの方法でコンラディンを亡き者とするしかありません。

 そこでルイ9世はこの汚れ仕事を弟シャルル・ダンジュー (Charles d'Anjou, 1227 - 1285) に任せます。シャルルはプロヴァンス伯の四女ベアトリス (Beatrice de Provence, 1234 - 1267) を妻に迎えていましたが、このプロヴァンスはアルル・ブルグンド王国の一伯領であり、アルル・ブルグンド王は神聖ローマ皇帝の臣下でした。要するにシャルルはフランス王の弟でありながら、神聖ローマ皇帝の宋主権下にあったのです。これはシャルルが聖人と慕われる兄王の名声を傷つけることなく、その意思を汲んで汚れ仕事を遂行できる立場にあったことを意味します。(註1)

 1263年、教皇ウルバヌス4世の命を受けたシャルル・ダンジューは、翌年マルセイユからイタリアに入り、1266年にマンフレディ、1268年にコンラディンを破ります。シャルルは16歳のコンラディンを捕縛し、ナポリに連行して斬首しました。

 コンラディンはホーエンシュタウフェン朝を支持するギベリン党の諸都市によって、正当なシチリア王と認められていました。封建法は捕虜となった君主の処刑を禁じていましたから、これは非常に問題のある暴挙というべき措置でした。コンラディンの処刑によってホーエンシュタウフェン朝は断絶し、ルイ9世は東方への足がかりを確保しました。



【第8回十字軍】

 ルイ9世はチュニスのスルタンをキリスト教に改宗させて、エジプトのスルタンに対抗させることを望み、カルタゴ遠征である第8回十字軍を実行しました。カルタゴは容易に攻略できましたが、このときも兵士の間に赤痢が蔓延し、ルイ9世自身も罹患して、1270年8月25日、チュニス攻略戦のさなかに亡くなりました。国王の死亡により、第8回十字軍は終了しました。

 カペー朝第10代国王としてルイ9世の跡を継いだ息子フィリップ3世 (Philippe III de France, ou Philippe le Hardi, 1245 - 1285) の妃イザベル (Isabelle d'Aragon, c. 1247 - 1271) も、フランスに帰国する途中、シチリアで亡くなりました。また王弟アルフォンス・ド・ポワチエと妃ジャンヌ (Jeanne de Toulouse, 1220 - 1271) も相次いでイタリアで亡くなりました。


 ルイ9世は死後に解体され、一部がチュニジアに、別の一部がパレルモ近郊のモンレアーレ (Monreale) に、また骨と心臓はサン=ドニのバシリカに埋葬されました。サン=ドニに安置された遺体はユグノー戦争の時代にあらかた失われ、現在では指の骨が一本だけ残っています。モンレアーレの遺体はカルタゴ司教座聖堂サン=ルイが祝別された際にカルタゴに移されましたが、チュニジアの独立に伴い、シテ島のサント=シャペルに移葬されました。

 カルタゴ司教座聖堂サン=ルイ




註1 ルイ9世に限らず、蓋(けだ)し国家元首は聖人とまではいかないまでも義人であるべきですが、実際王が義人であるのは古来当然とされたことでした。王を義人とする観念は、「ロワ」(roi 王)というフランス語そのものにも表れています。フランス語「ロワ」の語源は、ラテン語「レークス」(REX 王)です。「レークス」の語根は REG- であり、これは「真っ直ぐ」を表す印欧基語 * reg^- に由来します。王とは「真っ直ぐに導く人」であり、「正しき統治者」なのです。

 「正しい」を表すフランス語「ドロワ」(droit)、スペイン語「デレチョ」(derecho)、イタリア語「ディリット」(diritto) は、いずれもラテン語「ディーレークトゥス」(DIRECTUS 真っ直ぐの)に由来します。ラテン語「レークトゥス」(RECTUS)、「ディーレークトゥス」(DIRECTUS) はそれぞれ動詞「レゴー」(REGO 正しく導く、統治する)とその派生語「ディーリゴー」(DIRIGO 真っ直ぐにする)の分詞に他ならず、やはり * reg^- に由来します。「レークス」(REX) と「レゴー」(REGO) は母音の長短が異なりますが、まったくの同根語です。

 * reg^- は印欧基語ですから、ゲルマン諸語の祖形でもあります。英語「ライト」(right) やドイツ語「レヒト」(recht) も、* reg^- から派生した語です。



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