ル・ピュイ=アン=ヴレ司教座聖堂 ノートル=ダム=ド=ラノンシアシオン(お告げの聖母)
La cathédrale Notre-Dame-de-l'Annonciation du Puy-en-Velay, Haute-Loire, Auvergne




(上) ル・ピュイ=アン=ヴレ司教座聖堂


 ル・ピュイ=アン=ヴレ (Le Puy-en-Velay 以下ル・ピュイ) は六角形のフランス国土の中心よりも少し南、オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県にある人口2万人ほどの町です。

 ル・ピュイは風光明媚な地としても知られます。ジョルジュ・サンドはオート=ロワール(ル・ピュイ、ブリウード Brioude ラ・ロシュランベール La Rochelambert ラ・シェーズ=ディユ La Chaise-Dieu)を旅し、その後に書いた小説「ジャン・ド・ラ・ロシュ」(Jean de La Roche, 1860) のなかで、ル・ピュイについて、「ここはスイスではない。スイスほど恐ろしくないからだ。イタリアでもない。イタリアよりも美しいからだ。」("Ce n'est pas la Suisse, c'est moins terrible; ce n'est pas l'Italie, c'est plus beau") と絶賛しています。



ル・ピュイの歴史と教会建築

 ル・ピュイはキリスト教以前の時代からの聖地として巡礼者を集めるとともに、フランスからサンティアゴ・デ・コンポステラにいたる主要な巡礼路のひとつ、コンクを通るルートの起点として、中世以来大きな役割を果たしてきました。

(下) フランスからサンティアゴ・デ・コンポステラに至る四つの主要な巡礼路 (Les chemins de Saint Jacques) (レモン・ウルセルによる)




【先史時代及び古代のル・ピュイ】

 紀元前2000年頃の青銅器時代、ルピュイはすでに人が住んでおり、現在司教座聖堂が建つ丘モン・アニ (Mont Anis, MONS ANICIUS) では、異教の神アディドン (Adidon) が崇拝されていました。

 また司教座聖堂の建設に再利用された石材はローマ皇帝を祀った神殿(紀元1~3世紀)のものであると考えられています。

 アニキウス(ANICIUS すなわちモン・アニ)という地名、及びアウレリウス (AURELIUS)というル・ピュイ司教の名前が最初に確認できるのは、トゥールのグレゴリウス(Gregoire de Tours, c. 538 - 594) の「フランク人の歴史」(HISTORIA FRANCORUM) においてです。

 19世紀の発掘調査によって、司教座聖堂がローマ時代の神殿跡に建っていることがわかりました。最も最近の発掘では、ローマ時代の大規模な建物遺構と、9世紀のキリスト教聖堂跡が見つかっています。


【ル・ピュイ司教座聖堂】

・聖堂全体の外観と西側ファサード



 ル・ピュイ司教座聖堂は、ビザンチン及び南西フランスの教会建築の影響を強く受けたベイ6つのラテン十字型聖堂です。火山岩を使用して建てられており、最も古い部分は 11世紀ないし 12世紀に遡ると考えられています。

 モン・アニの岩盤上に直接建てられているのは内陣のみで、地下には最初の聖堂の遺構(24 x 12メートル)があります。内陣に続くベイ2つはローマ時代の盛り土の上に建てられています。
 残りのベイ4つ分は 11世紀から 12世紀にかけて増え続ける巡礼者のために増築された部分ですが、この部分はモン・アニの斜面から張り出しており、高低差 17メートルにも及ぶ空間を、モン・アニの斜面に建てた巨大な柱とアーチで支えるという非常に特殊な構造となっています。

 ル・ピュイ司教座聖堂の西側ファサードはロマネスク様式で、5層から成っています。地元産の白い砂岩黒い角礫岩を多色のモザイクのように組み合わせて使用したデザインはイスラム建築に類似し、十字軍の影響とも、スペインの建築の影響とも言われています。建築年代はおそらく 12世紀の終わり頃です。


・聖堂内部

 地下から 102段の階段を昇ると内陣の前に出ることができます。この階段は18世紀終わりにいったん取り壊され、1998年に再建されたものです。

 聖堂内部の石材は単色で、厳粛な雰囲気を漂わせています。ベイの数にあわせて穹窿は6つあります。身廊はふたつの側廊を伴います。側廊の高さは身廊と同じです。

 南北の翼廊はいずれも端に方形祭室とそれを挟むふたつの小礼拝堂を有し、その上にはトリビューン(階上廊)が設けられています。北側の翼廊にはロマネスクのフレスコ画が残っています。

 身廊と翼廊の交差部には二層の窓の上に穹窿を載せた八角形の採光塔が設けられています。この採光塔は4本の大柱で支えられています。この採光塔はかつて鐘楼の役割を果たしており、「小鐘楼」(petit campanier) あるいは「天使の鐘楼」(le clocher angelique) と呼ばれていました

 第3及び第4ベイは 12世紀中頃の建築当初の姿をよくとどめています。他のベイ及びファサードは 12世紀終わりのものです。また内陣と中央の穹窿は、1850年から1865年にかけて改修されています。

 主祭壇は18世紀の建築家ジャン=クロード・ポルタル (Jean-Claude Portal) が製作したもので、受胎告知の浅浮き彫りが施され、フィリップ・カフィエリ (Philippe Caffieri, 1714 - 1774) のブロンズ彫刻で飾られています。主祭壇の基部は中世において愛を象徴する鳥とされたペリカンを象っています。ル・ピュイの聖母はこの主祭壇に安置されています。

 北側側廊の第3ベイには聖遺物を安置した礼拝堂があり、15世紀末に描かれた作者不明のフレスコ画があります。この作品は 1850年にプロスペル・メリメによって発見されたもので、自由学芸7科を描いていますが、損傷が酷く、現在残っているのは文法を象徴するカエサレアのプリスキアヌス (Priscianus Caesariensis, fl. c. 500)、論理学を象徴するアリストテレス、修辞学を象徴するキケロ、音楽を象徴するトゥバルカイン (Tubalcain/Tubal-Cain) のみです。


・鐘楼

 ル・ピュイ司教座聖堂の鐘楼は聖堂から離れた別棟になっており、 56メートルの高さがあります。方形プランによる7層の建物で、上層部ほど窓が多くなっています。一層ごとに区切りがあるデザインのために、立方体を積み上げたように見えます。最下層は参事会員2名と司教1名の墓所になっています。

 鐘楼はフランス革命の破壊を免れましたが、その理由は鐘楼にニワトリが取り付けられていたからだといわれています。敵に対する警戒を怠らないニワトリ、ル・コック・ゴーロワ (le Coq Gaulois) はフランス共和国にふさわしいと考えられたのかもしれません。


・修道院

 ル・ピュイ司教座聖堂の修道院は 12世紀に創建されたロマネスク建築ですが、1850年から 1857年にかけて、ヴィオレ=ル=デュク (Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc, 1814 - 1879) とマレ (Aymon-Gilbert Mallay, 1805 - 1883) により修復されました。

 回廊の列柱

 修道院は赤、黄土色、白、黒の石材をモザイク状に組み合わせてあり、スペインのイスラム建築を彷彿とさせます。玄武岩を多く含む暗色の角礫岩の一部が風化によって赤褐色がかった色となり、色合いの美しい変化を見せています。回廊は南と北がアーチ5つ、東と西がアーチ10基ぶんの長さで、三角小間にはモザイクが施してあります。その上の軒蛇腹は 19世紀の修復の手がかなり入っていますが、ロマネスクの奔放な想像力で「七つの罪」の浮き彫りが施されており、ブドウを食い散らかす山羊(「美食」の象徴)、悪魔の尻尾に噛み付く犬(「怒り」の象徴)、豚の首筋を撫でる修道士(「怠惰」の象徴)を見ることができます。

 修道院から司教座聖堂に通じる通路は、大きな鉄製のロマネスク式格子戸で閉じられるようになっています。この扉は12世紀初めのもので、同じモティーフのパネルを並べて製作してあり、イスラム建築における格子戸(マシュラビーヤ mashrabiya, moucharabieh)との類似性を有します。


【ル・ピュイの建築におけるイスラム文化の影響】

 コルドバのメスキータ

 エミール・マールが指摘しているように、黒い溶岩と白い石材を組み合わせたル・ピュイの修道院回廊と、赤煉瓦と白い石材を組み合わせたコルドバのメスキータ(大モスク)の間には、顕著な類似性があります。この類似は偶然ではなく、次のような理由によると考えられています。

・ル・ピュイ司教アデマール (Adhemar de Monteil, +1098) は騎士たちを率いて第一回十字軍に参加した。司教自身はアンティオキアで戦死したが、ル・ピュイに生還した騎士たちによって、イスラムの建築様式がこの地にもたらされた。

・ル・ピュイはサンティアゴへの巡礼者が出発し、また帰着する町であった。また中世においてル・ピュイの聖母はスペイン人の巡礼も集めていた。両国の巡礼者がこのように交流したことで、スペインのイスラム文化がル・ピュイにもたらされた。

・中世において、フランスの職人たちはナバラ(現在のスペイン北東部)一帯を遍歴して修業を積んだ。それゆえナバラに学んだオーヴェルニュの職人が、モサラベ様式を当地に持ち込んでも、何ら不思議はない。



黒い聖母 ノートル=ダム・デュ・ピュイ

【ル・ピュイにおける聖母崇敬の起源】

 ル・ピュイにおける聖母崇敬の起源に関しては、14世紀のふたつの伝承が伝わっています。ひとつは聖ペトロによって遣わされたガリアの使徒、聖ジョルジュ (St. Georges) と聖フロン (St. Front) の物語、もうひとつはル・ピュイの聖堂の起源に関する物語です。

 ある貴婦人が病気になり、幻視によってモン・アニに登るように命じられます。貴婦人はモン・アニに登り、当時頂上にあったドルメン(新石器時代の巨石建造物)で休んでうとうととしていると、たいへん大勢の聖人と天使が周りを突然取り囲みました。その最も上には聖母マリアがいて、聖母はモン・アニの頂上を聖母の聖地とするように貴婦人に命じました。貴婦人が夢から醒めたとき、病は癒されていました。

 クルノル (Cournols, Puy-de-Dome, Auvergne) のドルメン

 幻視によって力づけられた貴婦人は、この出来事をすぐにル・ピュイ司教聖ジョルジュに知らせます。翌朝、聖ジョルジュと貴婦人がモン・アニの頂上に戻ると、時は7月であったにもかかわらず夜のうちに雪が降り積もっており、鹿の足跡が付いて、将来建てるべき聖堂の輪郭を示していました。聖ジョルジュは輪郭を保存するためにすぐに木の枝を並べましたが、翌朝になると、地面に並べた木の枝には花が咲き、かぐわしい香りを放っていました。


 ル・ピュイ司教座聖堂のこの伝承は、8月の夜に雪が降り積もって将来建てるべき聖堂の輪郭を示したといわれるローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂 (La Basilica di Santa Maria Maggiore / Santa Maria della Neve) の伝承と共通点があります。ふたつの聖堂はいずれもテオトコス(Θεοτόκος/Dei Genitrix 神の母)としての聖母マリアに捧げられています。

 ル・ピュイにおける聖母崇敬は、伝承によると以上のような起源を有することとなっていますが、この地で実際に聖母崇敬が始まったきっかけは定かではなく、聖遺物を起源とする説、聖母像を起源とする説、ドルメンを起源とする説等が考えられます。


【ノートル=ダム・デュ・ピュイ(ル・ピュイの聖母と巡礼)】

 ル・ピュイへの最も古い巡礼の記録は9世紀のものです。ル・ピュイからサンティアゴへの巡礼に関しては、ル・ピュイ司教ゴデスカルク (Godescalc 在職 935 - 962) が950年から951年にかけて旅をしたのが最初の事例と考えられています。ゴデスカルクは聖母の処女性に関する神学の文献をスペインから持ち帰りました。聖母マリア崇敬と大天使聖ミカエル崇敬を結びつけてサン・ミシェル・デギーユ (la Chapelle Saint-Michel d'Aiguilhe) 建設を推し進めたのもゴデスカルクの功績です。

 また、偶像崇拝を禁じるキリスト教では、古代以来、丸彫りの聖像が製作されることはありませんでしたが、994年に開かれたル・ピュイ公会議(註1)において、丸彫りの人物型聖遺物入れの製作が初めて許可されました。このことがきっかけになり、マジェステ(majesté 栄光像)と呼ばれる聖像が中央高地 (Massif Central) で、次いでフランス全土で製作されるようになりました。

 中世以来ヨーロッパ中から多くの巡礼を集めたル・ピュイ司教座聖堂の聖母子像、ノートル=ダム・デュ・ピュイ(ル・ピュイの聖母)も、聖遺物を収納する像として製作されたもので、丸彫りの聖母像としては最も古い年代に属します。当時同様に崇敬を集めていたクレルモンの聖母に比べて類品は少ないのですが、エミール・マールはブルゴーニュのレーヴ (Laives, Sâone-et-Loire)の聖母、トゥールーズのラ・ドラードのバシリカの聖母がル・ピュイ型に属すると推定しています。


 ル・ピュイの聖母像に関する最古の記録は、聖母への寄進に関する1096年の文書にさかのぼることができます。また、アンジェのベルナール (Bernard d'Angers) が 1020年頃に著した「聖フィデースの奇跡の書」(LIBER MIRACULORUM SANCTAE FIDIS aut LIBER DE MIRACULIS SANCTAE FIDIS) には、ル・ピュイの町が「ポディウム・サンクタエ・マリアエ」(PODIUM SANCTAE MARIAE / Le Puy de Sainte-Marie 「聖マリアの高台」の意) という名前で紹介されています。

 1051年、教皇レオ9世はル・ピュイ司教にパリウム (PALLIUM) を授けた際に「神の母なる聖処女は、アニ (Anis) あるいはル・ピュイ=サント=マリ (Le Puy-Sainte-Marie) の教会において、フランスのどの地域におけるよりも特別な崇敬、子の母に対するがごとき崇敬を受けておられる」と述べました。このことから、11世紀にはル・ピュイが巡礼地として名高かったことがわかります。代々のフランス王もル・ピュイの聖母への信仰が篤く、ルイ1世 (Louis Ier le Pieux, 778 - 840) からフランソワ1世 (Francois Ier, 1494 - 1547) までの12代に亙ってル・ピュイに参詣しています。

(下) Charlesmagne et Louis le Pieux, Bibliothéque Nationale



 ローマ教皇もウルバヌス2世 (Urbanus II, 1042 - 1088 - 1099) の例を嚆矢として、6人がル・ピュイ巡礼を行っています。ウルバヌス2世は 1095年8月15日にル・ピュイの聖母を訪れました。この年の3月、ピアチェンツァ公会議の際、セルジュク・トルコの圧迫を受けていた東ローマ皇帝アレクシウス1世 (Alexius I Comnenus, 1048 - 1081 - 1118) の使者から救援の依頼を受けたウルバヌス2世は、同年11月のクレルモン公会議で演説をし、これが第一回十字軍の派遣につながりました。ウルバヌス2世はル・ピュイ司教アデマール (Adhemar de Monteil, +1098) を第一回十字軍を率いる教皇使節に任じ、翌年8月15日の聖母被昇天の祝日に出発することを命じました。


 1254年、第七回十字軍の遠征先であるエジプトから戻ったルイ9世 (Louis IX, 1214 - 1270) はル・ピュイに参詣し、これまでのものに替わるノートル=ダム・デュ・ピュイ像を寄進しています。初代の聖母像がどのようなものであったかは不明ですが、ルイ9世が寄進した聖母子像は黒い聖母でした。

 戦死者を葬るルイ9世

 パリの国立自然史博物館の地質・火山学者フォジャ・ド・サン=フォン (Barthelemy Faujas de Saint-Fond, 1741 - 1814) はノートル=ダム・デュ・ピュイ像を調査し、1777年に詳細な報告書を公にしています。それによると聖母は玉座に座して幼子イエズスを膝に乗せています。聖母子とも顔は黒ですが、手は白く塗られていました。聖母の鼻は大きく、ガラスの眼が嵌めてあり、古いカメオで飾られ金を被せた銅の冠を被っていました。冠は耳を覆う形でした。聖母の衣は中近東風のデザインで、赤、青緑、黄土色が使われていました。フォジャ・ド・サン=フォンはノートル=ダム・デュ・ピュイを、オシリスを膝に乗せたイシス像であろうと考えました。


 ル・ピュイが巡礼地として最も栄えたのは 13世紀で、宗教改革後は巡礼が衰退しました。

 ロベスピエールによる独裁が行われていた当時の 1794年1月、祭壇から取り払われたノートル=ダム・デュ・ピュイは、宝石や金を剥ぎ取られて公文書館にしまわれ、同年6月8日、「最高存在の日」(le jour de l'Être Suprême) となったペンテコステの日に、オート・ロワール選出の国民公会議員ルイ・ギヤルダン (Louis Gyuardin) によって広場で焼却されてしまいました。焼却の際、聖母子像を覆う布が燃え落ちると、像の背にあった秘密の扉が開いて、丸めた羊皮紙文書が転がり出ました。文書にはおそらく像の由来が書かれていたはずですが、文書は開かれることもなく、像と一緒にそのまま燃やされてしまいました。


 1687年に創建されたル・ピュイのサン・モーリス・デュ・ルフュージュ修道院(couvent Saint-Maurice du Refuge, Le Puy-en-Velay 現聖母訪問会修道院 couvent de la Visitation)の礼拝堂に、17世紀に製作された黒い聖母子像が安置されていました。革命の動乱が収まると、主を失った司教座聖堂にこの像が運ばれ、ノートル=ダム・デュ・ピュイとして主祭壇に安置されました。

 現在のノートル=ダム・デュ・ピュイ

 ル・ピュイ=アン=ヴレ司教座聖堂ノートル=ダム=ド=ラノンシアシオンは、1856年2月11日、教皇ピウス9世によって小バシリカとされ、ノートル=ダム・デュ・ピュイは 1856年6月8日、元の像が焼かれたのと同じ日に、教皇ピウス9世の代理であるル・ピュイ司教によって戴冠されました。1859年にはノートル=ダム・ド・フランスの像も建てられ、ル・ピュイにおける聖母崇敬は往時の勢いを取り戻しました。

 ル・ピュイを訪れた巡礼者たち


 現在、毎年8月15日には聖母の行列がル・ピュイ市街を練り歩きます。

 また教皇ヨハネス15世 (Ioannes XV, + 996) の布告以来、聖金曜日が受胎告知の祝日と一致する年はル・ピュイ巡礼において特別な年とされています。聖金曜日が受胎告知の祝日と一致する年は 20世紀には3回あり、1932年の復活祭シーズンには 30万人の巡礼者が集まりました。21世紀は 2005年と 2016年がこれにあたります。その次に聖金曜日と受胎告知の祝日が一致するのは 2157年です。



註1 この頃、聖母崇敬が盛んになり、教皇や国王も帰依するようになるにつれて、ル・ピュイ司教の影響力も大きくなりました。994年のル・ピュイ公会議においてル・ピュイ司教ギィ・ダンジュー (Guy d'Anjou, 932 - 996) が「神の平和」(La Paix de Dieu) を説きました。

 カロリング朝が途絶えたあと、割拠する諸侯のあいだに弱肉強食の争いが起こり、フランスは内戦状態に陥りました。野盗に等しい騎士たちの狼藉を憂えた聖職者たちが、武力によらない平和をもたらすために始めたのが、「神の平和」運動です。

 この運動は最初は小規模でしたが、徐々に力を得て、13世紀まで続きました。長期に亙って全ヨーロッパに影響を及ぼした神の平和運動がル・ピュイ司教によって提唱されたものであるという事実は、巡礼地ル・ピュイが有した強い影響力を象徴しています。



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