ル・ピュイ=アン=ヴレ ノートル=ダム・ド・フランス フランスの聖母
Notre-Dame de France, Le Puy-en-Velay, Haute-Loire, Auvergne




(上) ル・ピュイ市街。右後方の岩山ル・ロシェ・コルネイユの頂上に、ノートル=ダム・ド・フランスが見えます。


 六角形のフランス国土の中心よりも少し南、オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県に、中世以来の巡礼地、ル・ピュイ=アン=ヴレ (Le Puy-en-Velay 以下ル・ピュイ) があります。ノートル=ダム・ド・フランス(フランスの聖母)は、ル・ピュイを見晴らす標高 757メートルの岩山「ル・ロシェ・コルネイユ」(le rocher Corneille コルネイユの岩)の頂上に建てられた巨大な聖母子像です。


【ノートル=ダム・ド・フランス建立の計画】

 19世紀半ばのフランスで高名な説教師であったド・ラヴィニャン師 (Gustave-Xavier de La Croix de Ravignan, 1795 - 1858) は、1846年、ル・ピュイ近郊に滞在してノートル=ダム・ド・パリで行う説教の想を練っていました。このときド・ラヴィニャン師はル・ロシェ・コルネイユを台座にして大きな聖母像を建てることを考えつき、当時のル・ピュイ司教ダルシモル師 (Pierre-Marie-Joseph Darcimoles 在職 1840 - 1846) に相談しました。

 19世紀半ばに力を得てきた近代主義的思潮、すなわち自由主義や汎神論、高等批評、共和主義、社会主義などに対して、当時のカトリック教会は脅威を感じていました。(註1) また当時は帝国主義の時代であり、各地で戦争が行われていました。カトリック教会はこれら近代主義や戦争に対抗するため、フランス各地に巨大な聖母像を建設します。それらはヨハネの黙示録 12章において竜、すなわち教会の敵である悪魔を打ち負かす力強い聖母の姿でした。

 ド・ラヴィニャン師がダルシモル師に建設を提案した聖母像も、このような歴史的文脈に位置づけられるものでした。しかしダルシモル師は司教座聖堂の改築に手一杯であったため、計画がこの時点で具体化することはありませんでした。


 ノートル=ダム・ド・フランスの建設計画が実際に動き出したのは、1850年のことでした。ド・ラヴィニャン師の構想に乗り気でなかったダルシモル師は 1846年にエクスに移って当地の司教となり、ル・ピュイでは後任のド・モルロン師 (Mgr. Joseph Auguste Victorin de Morlhon, 1799 - 1862) が司教になっていました。

 この年、ド・モルロン師は有能な説教師として知られるコンバロ師 (L'Abbé Marie-Théodore Combalot, 1798 - 1873 註2) を司牧者の集いに呼んだのですが、コンバロ師はその席でド・ラヴィニャン師の構想に言及し、聖母像の建立を強く勧めました。ド・モルロン師も以前から同じ意見でしたので、1853年3月5日、聖母像建立のための委員会が組織されました。

 同年、ノートル=ダム・ド・フランスのデザインのコンペが開催されました。ノートル=ダム・ド・フランスには、神の母としての「母性」、天の元后の「高貴さ」、無原罪の御宿りの乙女の「清らかさ」という三つのイメージを同時に実現することが要求されました。デザイン上の要求がこのように厳しいものであったにもかかわらず、コンペには53件の応募がありました。

 審査員の全員一致で大賞に選ばれたのは、1836年のローマ賞受賞者であるジャン・ボナシユ (Jean-Marie Bienaimé Bonnassieux, 1810 - 1892) のプランで、 球体の上で蛇を踏み砕き、幼子イエズスを抱いた右腕を差し出してル・ピュイの町を祝福する聖母の姿でした。


【建設資金の問題とその解決】

 ル・ピュイ司教区では聖母像建設のために献金が行われ、ド・モルロン司教自身が寄付した1万フランを含め、10万フランの寄付が集まりました。しかしこれは見積もられた建設資金の約十分の一に過ぎませんでした。

 そこでフランス中に献金が呼びかけられ、キリスト教学校修士会(ラ・サール Frère des Écoles Chrétiennes)の学校に通う30万人の子供たちが聖母像の台の建造費用を献金したのをはじめ、多くの人から献金が集まりました。ナポレオン3世は1万フラン、皇后ウジェニーは2,000フランを個人資産から寄付しました。

 ノートル=ダム・ド・フランスの定礎が行われたのは 1854年12月8日で、教皇ピウス9世によって無原罪の御宿りがカトリック教会の教義とされたのと同じ日でした。この時点で合計 14万フランが集まっていましたが、建設資金はまだ不足していました。当初、像にはブロンズを使用する計画でしたが、この金額では十分な材料を確保することができません。

 この問題を解決は思いがけないところからもたらされました。後にクリミア戦争の英雄として元帥に昇進するペリシエ少将 (Aimable Jean Jacques Pélissier, 1794 - 1864) は聖母崇敬に熱心な人物でしたが、当時ル・ピュイから近いセサック (Ceyssac) で休暇を過ごす習慣でした。ペリシエは聖母子像の材料となる金属の調達が困難であるという問題を耳にし、間もなくセヴァストーポリで捕獲されるはずのロシア軍の大砲を聖母像のために譲ってもらえるように、ナポレオン3世に依頼することを、ル・ピュイ司教モルロン師に提案したのでした。

 1855年9月5日、モルロン師はナポレオン3世と面会し、大砲が手に入ればル・ピュイの聖母のために譲り受けるという取り決めを交わすことができました。そして翌1856年3月30日にはクリミア戦争が終結し、鉄 150トン分に相当する 213台の大砲が、ル・ピュイ司教のもとに届けられたのでした。(註3)


【ノートル=ダム・ド・フランスの建設】

 翌月以降、ル・ピュイの北東 90キロメートルの町ジヴォール (Givors) にある精錬・鋳造業者 E. プレナ社 (la Société des Hauts-Fourneaux et Fonderies de Givors E. Prénat & Cie) が、3年がかりの作業を開始しました。

 最初に重量80トンの粘土の像が製作され、その上から石膏が被せられました。1857年10月13日、聖母像の設計者ジャン・ボナシユから承認を受けた後、像は 105個に分割され、それぞれの部分ごとに鋳造が行われました。次に鋳造された各部分を調整しながら再び組み上げ、ボルトで固定して全体の完成度を確かめました。各部分の鋳造から組み上げまでには 1年半の時間がかかっています。

 (左) E. プレナ社で製作中のノートル=ダム・ド・フランス

 いったん組み上げられた聖母像は、現地への輸送のためにふたたび105個の部品に分解され、900個の小部品とともに3日がかりでジヴォールからル・ピュイに運ばれ、1859年7月28日、ついに現地に到着しました。

 一方、ル・ピュイの岩山ル・ロシェ・コルネイユにおいても工事が進められました。680トンに上る石材が山上に運び上げられて聖母像のために広場が造成され、さらに 45トンの鋳鉄で八角形の台が造られ、内部に螺旋階段が設置されました。20メートル以上の高さがある頑丈な足場が組まれ、聖母像は西南西を向く形で無事組み上げられました。


【ノートル=ダム・ド・フランスの祝別】

 ノートル=ダム・ド・フランスの祝別は 1860年9月12日、聖母マリアの御名の祝日に、ドネ枢機卿 (Mgr. Ferdinand François Auguste Donnet, 1795 - 1882) の司式により、12万人が参加して行われました。式典にはル・ピュイ司教、トゥール大司教、アルビ大司教の他、近隣のヴィヴィエ (Viviers, Ardeche, Rhône-Alpes)、サン=フルール (Saint-Flour, Cantal, Auvergne)、ヴァランス (Valence-sur-Rhône, Drôme, Rhône-Alpes)、マンド (Mende, Lozère, Languedoc-Roussillon)、チュール (Tulle, Correze, Limousin)、オータン (Autun, Sâone-Loire, Bourgogne)、クレルモン=フェラン (Clermont-Ferrand, Puy-de-Dôme, Auvergne) からの各司教に加えて、カナダからトロント司教も参列しました。

 式典では聖母子像の前に大きな壇が設置され、その上に祭壇が置かれました。聖歌隊が聖母への賛歌を歌い、号砲を合図に、聖母子像を覆うヴェールが滑り落ちると、ノートル=ダム・ド・フランスが姿を現し、人々は讃嘆の声を上げました。

 聖職者たちが立ち上がって祝別の祈りを捧げたまさにそのとき、それまで10日間に亙って天候不順であった空が急に晴れ始め、厚い雲を貫いた光が最初に像を照らして聖母の全身を金色に染め上げ、続いてル・ピュイの町に光が降り注ぎました。その光景は、あたかも天の聖母自身がノートル=ダム・ド・フランスを祝別するかのようでした。


【ノートル=ダム・ド・フランスの姿】

 聖母子像が建つ岩山ル・ロシェ・コルネイユは標高 757メートル、ル・ピュイ市街の市役所前広場と比べても 132メートルの高低差があります。ノートル=ダム・ド・フランスの高さは 16メートル、台座を入れると 22.7メートルあります。聖母子像の重さは110トン、聖母の髪の長さは7メートル、聖母に踏み砕かれる蛇の長さは 17メートルです。

 聖母はフランスの女王として、ヨハネの黙示録 12章1節にある12の星の冠をその頭上に戴いています。聖母の体内には 107段の階段があり、この冠まで登れるようになっています。また花と宝石をちりばめたマントは、聖母の徳を象徴しています。


 ノートル=ダム・ド・フランス

 プロヴァンス語で書いた詩人として有名なフレデリック・ミストラル (Frederic Mistral, 1830 - 1914) は「無原罪の聖母頌」("Ode à l'Immaculée Conception") のなかで次のように歌っています。
 「トゥールなる汝はドラードの聖母、混じり気無き黄金なる日の光も、汝によりて翳るなり。我アヴィニヨン、マルセイユ、ヴァンスに入らば、汝はプロヴァンスの聖母。ル・ピュイなるコルネイユの岩の上、愛さるる聖母よ、汝はフランスの聖母。これこそ我らの汝に奉りたる御名なり。」




註1 教皇ピウス9世が 1864年12月8日に出した回勅「クアンタ・クーラ」("QUANTA CURA") には「誤謬表」(SYLLABUS ERRORUM) が含まれます。これは自然主義、合理主義、汎神論、社会主義、共産主義、信教の自由など、あらゆる近代思想を批判し、「異端」として断罪するものでした。

註2 コンバロ師は聖母被昇天修道会の創始者、イエズスの聖マリ=ウジェニー (Sainte Marie-Eugenie de Jésus, 1817 - 1898) を指導したことでも知られています。

註3 ペリシエは 1855年5月、クリミアに派遣されていたフランス軍の司令官となり、同年9月7、8日のマラコフの戦いにおいてセヴァストーポリのロシア軍を陥落させました。この功績によって、同月12日、ペリシエは元帥に昇進し、パリに帰るとナポレオン3世から元老院議員の地位とマラコフ公 (duc de Malakoff) の称号、10万フランの年金を授与されました。



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