極稀少品 フィリップ・シャンボー作 《聖テレジアと愛の薔薇 神に焼きつくされた魂のメダイ》 エマイユ・シャンルヴェによる大型の作品 直径 30.4 mm フランス 1960年代


突出部分を除く直径 30.4 mm  最大の厚さ 3.8 mm  重量 12.5 g



 すっきりと清楚なモダニズム・デザインのメダイで知られるフランスの彫刻家、フィリップ・シャンボー(Philippe Chambault, 1930 - )の作品。二十世紀美術の大きな潮流の一つであるミニマリズムは、古代以来のキリスト教神学と強い親和性を有します。本品は 1960年代のものですが、より後に制作されたものを含め、シャンボーの全作品はミニマリスムの強い影響を受けています。

 たいへん珍しいことに、本品は未販売のまま残っていたヴィンテージ品です。未使用の新品ゆえに摩滅は全く見られず、細部まで制作当時のままの状態を保っています。その一方で五十年以上の歳月ゆえに美しい古色を獲得し、愛惜すべき一点となっています。





 メダイの表(おもて)面には、修道女姿の聖テレーズを正面観で浮き彫りにしています。跣足カルメル会の茶色いヴォワル(仏 voile ヴェール)とアビ(仏 habit ハビット、 修道服)、白いコワフ(仏 coiffe ウィンプル)を身に着けたテレーズは、ほほ笑みを浮かべつつ目を閉じて、救い主と対話しています。テレーズの左右にはフランス語でサント・テレーズ(仏 Sainte Thérèse 聖テレーズ)の文字が立体的に刻まれています。向かって右下に見えるセ・ペ(CP)の組み合わせ文字は、浮き彫りの作者フィリップ・シャンボーのモノグラムです。





 胸の前に両手を広げ、その間に薔薇の花々を配した本品のテレーズ像は、マリ=ベルナール修道士によるテレーズ像を発展させたものです。しかしながら図像様式から言えば、本品のテレーズは正面観の祈る女性単身像であり、とりわけ胸の前に両手を広げたその姿は、カタコンベに多く描かれた女性単身像と強い類似性を有します。上に示したのはローマ、サン・カリストのカタコンベにあるカペッラ・ディ・サンタ・チェチーリア(伊 la capella di Santa Cecilia)の内部で、祈る女性像は写真の左上部、全能のキリスト像の真上に描かれています。

 カタコンベ内部に描かれる祈る女性は、魂(希 ψυχή 羅 ANIMA)、あるいは信仰(希 πίστις 羅 FIDES)、あるいは祈り(希 προσευχή 羅 PREX)の象徴でしょう。これらはギリシア語においてもラテン語においても女性名詞であるゆえに、女性の姿に擬人化されているのです。





 本品は二十世紀の作品であり、女性像はリジューのテレーズの肖像です。しかしながら祈る女性を表現した本品浮き彫りは、第一義的には現実の女性であるテレーズ像であるとしても、キリスト教美術史上の祖型として、魂、信仰、祈りといった抽象的観念の女性像を有します。

 メダイには聖人たちが表されます。しかるにそもそも聖人たちは我々にとって他人に過ぎません。それなのにわれわれが聖人を我々と関わり深い人々と見做し、そのメダイを身に着ける理由は、聖人の魂の在りようが、我々の模範であるからです。したがって我々はテレーズの魂の在りようを、あるいは信仰と祈りを、我々自身のものとすべきなのであり、その意味で本品のテレーズ像は、我々自身の魂、信仰、祈りのあるべき姿を表しています。

 このように考えると、本品浮き彫りとカタコンベの祈る女性像が宗教美術の本質を共有していることに気付きます。カタコンベの祈る女性像は、女性の墓所だけでなく男性の墓所にも描かれました。それゆえこの種の女性像は被葬者の肖像ではなく、魂、信仰、祈りの象徴表現であることは明らかです。祈る聖女を表す本品浮き彫りもカタコンベの女性像と同様に、男性を含めたあらゆる魂の在るべき姿、持つべき信仰と祈りの象(かたど)りとなっています。





 フィリップ・シャンボーによる本品浮き彫りはミニマリスムの影響を受け、ヴォワル(ヴェール)とコワフ(ウィンプル)の衣文(えもん 衣の襞)が省かれ、あるいは簡略化されています。最も目を惹くのは薔薇の描写です。五枚の花弁によって薔薇とわかるこの花々は、高透明度のガラス・エマイユが施されているゆえに、地上の花の物質性を失い、重力から解放されて宙に浮かぶかのように見えます。


 薔薇はアフロディーテーの花であり、性愛を象徴します。しかるに薔薇は五弁の花であり、深紅の花弁がキリストの五つの傷口(両手両足と脇腹)を連想させるゆえに、中世ヨーロッパにおいて、薔薇は神の愛の象徴へと昇華されました。

 性愛はギリシア語でエロース(希 ἔρως)といいます。「シュンポシオン」(希 Συμπόσιον 饗宴)203b - 203eにおいてプラトンが巫女ディオティマに語らせる物語によると、エロースはポロス(希 Πόρος 物事を成し遂げる能力、お金を稼ぐ才能)を父、ペニアー(希 Πενία)を母として生まれてきました。このような出自を持つゆえに、エロースは母の貧しさを受け継ぎつつも父の豊かさを知っており、自分に足りないものを常に追い求めます。われわれが異性を求めるのは、エロースのこのような性質によります。金銭や名誉への欲求も、同じエロースに由来します。

 いっぽう神の愛はアガペー(希 ἀγάπη)といって、エロースとは全く異質の愛です。神には何も欠けておらず、足りないものはありません。それゆえ神が人を愛するとき、それは理由が無い無償の愛です。神は何かと引き換えに人を愛するのではなく、ご自身にとって何の価値も無いものを、理由なく愛し給います。理由が無いということは、神の愛と善性が愛の対象を圧倒し、被造物が有する悪を燃やし尽くすということでもあります。地上の罪びとたちは救世主の声に耳を貸すどころか、十字架に架けて殺してしまいましたが、神と救世主はこの人々をも無償の愛で愛し給うのです。このような愛に触れるとき、被造物である人間の魂には神の愛の火が燃え移り、その火によって焼き尽くされます。





 古代ギリシアの四元素説を引き継いだ中世ヨーロッパの科学思想において、火は上方へと向かうナートゥーラ(羅 NATURA 自然本性)を有するとされました。人間の魂は神の愛に触れることにより、神へと向かうようになりますが、これは魂に神の愛が着火され、燃える魂から出る炎が神を目指して上方へ向かうさまとして視覚化され得ます。トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第1部108問5項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum convenienter nominentur.") において、熾天使(セラフィム)の本性を神に向かう愛であると論じ、セラフィムを介して愛の火を着火された人間の魂が、その火によって清められ、神へと向かうようになるさまを描写しています。この項の異論五に対するトマスの回答を全訳いたします。ラテン語テキストはレオニナ版、日本語訳は筆者(広川)によります。なお異論五に対する回答の後半は、ケルビムに関する考察になっています。

    Ad quintum dicendum quod nomen Seraphim non imponitur tantum a caritate, sed a caritatis excessu, quem importat nomen ardoris vel incendii. Unde Dionysius, VII cap. Cael. Hier., exponit nomen Seraphim secundum proprietates ignis, in quo est excessus caliditatis.    第5の異論に対しては、次のように言われるべきである。セラフィムという名前は単なる愛ゆえに付けられたというよりも、愛の上昇ゆえに付けられているのである。熱さあるいは炎という名前は、その上昇を表すのである。ディオニシウスが「天上位階論」第7章において、熱の上昇を内に有するという火の属性に従って、セラフィムという名を解き明かしているのも、このことゆえである。
         
    In igne autem tria possumus considerare. Primo quidem, motum, qui est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur quod indeclinabiliter moventur in Deum.
   ところで火に関しては三つの事柄を考察しうる。まず第一に、動き。火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている。
    Secundo vero, virtutem activam eius, quae est calidum. Quod quidem non simpliciter invenitur in igne, sed cum quadam acuitate, quia maxime est penetrativus in agendo, et pertingit usque ad minima; et iterum cum quodam superexcedenti fervore. Et per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium purgantes.    しかるに第二には、火が現実態において有する力、すなわち熱について考察される。熱は火のうちに単に内在するのみならず、外部のものに働きかける何らかの力を伴って見出される。というのは、火はその働きを為すときに、最高度に浸透的であり、最も小さなものどもにまで、一種の非常に強い熱を以って到達するからである。火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである。
    Tertio consideratur in igne claritas eius. Et hoc significat quod huiusmodi Angeli in seipsis habent inextinguibilem lucem, et quod alios perfecte illuminant.    火に関して第三に考察されるのは、火が有する明るさである。このことが示すのは、セラフィムが自身のうちに消えることのない火を有しており、他の物どもを完全な仕方で照らすということである。
         
    Similiter etiam nomen Cherubim imponitur a quodam excessu scientiae, unde interpretatur plenitudo scientiae.    さらにケルビムという名前も、知恵のある種の上昇に基づいて、同様な付けられ方をしている。それゆえケルビムという名前は知恵の充溢という意味に解される。
    Quod Dionysius exponit quantum ad quatuor, primo quidem, quantum ad perfectam Dei visionem; secundo, quantum ad plenam susceptionem divini luminis; tertio, quantum ad hoc, quod in ipso Deo contemplantur pulchritudinem ordinis rerum a Deo derivatam; quarto, quantum ad hoc, quod ipsi pleni existentes huiusmodi cognitione, eam copiose in alios effundunt.    ディオニシウスはこのことを4つの点に関連して説明している。すなわち第一に、ケルビムが神を完全に見ることに関して。第二に、ケルビムが神よりの光を受けて充ち足りていることに関して。第三に、神から発した諸事物の秩序が有する美しさを、ケルビムは神ご自身のうちに観想するということに関して。第四に、かかる認識に満たされて存在するケルビムは、その認識を他の者たちへと豊かに注ぎ込むということに関して。






 本品はテレーズの後光と薔薇の花々に二色のエマイユ・シャンルヴェが施されています。このうち薔薇に透明なガラスが使用されているのは示唆的です。地上の植物である薔薇はソリッドな実体性を備えますが、本品の薔薇は透明で、テレーズの胸に浮遊しています。この薔薇は祈りの視覚化です。薔薇の形で視覚化されている祈りは願掛けではなく、神へと向かう愛に他なりません。神の愛によって着火されたテレーズの魂は、神の愛を反映するカルブンクルス(羅 CARBUNCULUS 小さな熾火)となって宝石のように輝きます。神の愛に圧倒され呑み込まれたテレーズの魂は、炎を発して地上から上方へと立ち昇り、神と一体化しようとしています。

 薔薇が六輪であるのにも意味があります。アウグスティヌスをはじめとする教父たちは、完全数である六にキリスト教的な意味を見出していました。本品に刻まれた六輪の薔薇は、神の愛の完全性と無限性、すなわちその絶対性・無条件性・無選別性・自存性を象徴します。本品において、薔薇は愛の火として視覚化されています。しかるに火は対象を選ばず、あらゆる可燃物を燃やし尽くし、清め、物質のエネルギーを解放して上方へと向かわせます。完全数である六輪の薔薇は、あらゆる被造物を圧倒する神の愛の絶対性を、あらゆる物を燃やし尽くす火の無限性、無選別性として表現しています。





 本品は真正のエマイユ細工で、メダイの凹部に色ガラスのフリットを入れ、高温の窯で焼成してエマイユ・シャンルヴェとしています。

 エマイユ・シャンルヴェ(仏 l'émail champlevé)は最も古典的なエマイユ技法です。中世のリモージュ(Limoges ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県)は、ヨーロッパで最大のエマイユ・シャンルヴェ産地でした。1768年、リモージュの南四十キロメートルにあるサン=ティリエ=ラ=ペルシュ(Saint-Yrieix-la-Perche ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県)でカオリンが発見されると、リモージュの産業構造はエマイユ製造から磁器製造へと急速に転換し、エマイユはほとんど作られなくなりました。しかしながら十九世紀にリモージュのエマイユは再び息を吹き返し、今日に至っています。

 フランスのエマイユは、十九世紀以来、ブル=カン=ブレス(Bourg-en-Bresse オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アン県)でも制作されています。しかしながら技法と作風の両方において、リモージュのエマイユとブル=カン=ブレスのエマイユは大きく異なります。本品メダイはソミュール(Saumur ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県)のメダイユ工房ジ・バルム(la société J. Balme)が制作したものですが、ジ・バルムは本品をソミュールからリモージュに運び、エマイユ・シャンルヴェを施したものと考えられます。





 本品のテレーズは青色エマイユの後光を戴いています。

 聖女像に二色を使うとすれば、クラシカルな選択肢は赤と青でしょう。重要な対比的象徴性を有する色として赤と青を選ぶのは、キリスト教だけではありません。チベット仏教の歓喜仏は、青で慈愛を、赤で智慧を表しています。しかるにキリスト教では二色の役割が逆転し、赤が慈愛を、青が智慧を、それぞれ表します。「神学大全」の上記引用箇所において、トマスはセラフィムとケルビムについて論じていますが、キリスト教の伝統的象徴体系において、セラフィムあるいは慈愛は赤で、ケルビムあるいは智慧は青で象徴され、写本挿絵においてもこの色遣いは遵守されます。





 メダイユの制作方法には鋳造と打刻の二種類があります。美術品としてのメダイユは常に鋳造されますが、信心具のメダイユ、いわゆるメダイは打刻して作られる場合が多くあります。本品は打刻ではなく鋳造で制作されているうえに、美しいエマイユ・シャンルヴェが施され、数あるテレーズのメダイユのなかでも無二の作品に仕上がっています。





 本品は突出部分を除く直径が 30.4ミリメートル、厚さ 3.8ミリメートルとたいへん大きな作品です。12.5グラムの重量は五百円硬貨二枚分弱に相当し、手に取ると心地よい重量を感じます。上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。





 筆者(広川)はフランス製メダイユを愛好して、様々なメダユール(仏 médailleurs メダイユ彫刻家)の作品を長年に亙って取り扱ってきました。フランスはメダイユ彫刻がもっとも発達した国で、その頂点は十九世紀末から二十世紀初頭にあると筆者は考えます。しかしながらメダイユ制作のフランス的伝統は、これ以降の時代のメダユールにも確実に受け継がれています。二十世紀のフランスに出たメダユールのうち、フィリップ・シャンボーは最も優れた才能を持つ一人です。それゆえ筆者はこの芸術家に注目し、作品についてもある程度の知識がありますが、このテレーズ像は本品によって初めて知りました。エマイユが掛けられているのも珍しく、フランスが誇る二つの工芸分野、メダイユとエマイユが手を取り合った芸術品に仕上がっています。

 本品は五十年以上前のフランスで制作された真正のヴィンテージ品ですが、珍しいことに未販売のまま新品の状態で残っていました。保存状態は極めて良好で、特筆すべき問題は何もありません。保存状態の良し悪しに関わらず、この作品が再入荷することは恐らく無いと思われ、お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。

 下記は本体価格です。当店の商品は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、現金の分割払いでもご購入いただけます。ご遠慮なくご相談くださいませ。





本体価格 38,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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