カタコンベ
羅 CATACUMBAE 伊 catacombe 仏 catacombes



(上) ローマ、サン・カリストのカタコンベにあるカペッラ・ディ・サンタ・チェチーリア(伊 la capella di Santa Cecilia。右下奥の大理石彫刻はステファノ・マデルノ(Stefano Maderno, 1576 - 1636)が 1599年に製作した像のコピーで、元の作品はサンタ・チェチーリア・イン・トラヴェステレ聖堂にあります。


 ローマを始めとするイタリア各地には、紀元二世紀から七世紀ころにかけて造られた地下墓地の遺跡が見られます。これらの地下墓地をラテン語でカタクンバ(CATACUMBA 単数形)あるいはカタクンバエ(CATACUMBAE 複数形)、イタリア語でカタコンバ(catacomba 単数形)あるいはカタコンベ(catacombe 複数形)といいます。カタコンベは古代のキリスト教徒の墓地として有名ですが、この様式の地下墓地に葬られたのはキリスト教徒とは限りません。

 十九世紀以来、古代のキリスト教徒が迫害を逃れ、カタコンベに集まって秘密の礼拝を行ったというイメージが定着しました。しかしながらこのイメージはロマン主義の虚構であり、カタコンベが実際に有する機能は、遺体の安置所すなわち墓所に限られていました。キリスト教徒が殉教者の墓に詣でることはありましたが、カタコンベが秘密の教会、日常的な礼拝所として機能することはありませんでした。

 初期のキリスト教美術では、キリストや聖母、聖人たちの直接的描写が忌避され、信望愛など抽象的価値を表現する場合と同様に、象徴によってのみ可視化さました。カタコンベは初期キリスト教美術における象徴的図像表現の宝庫でもあります。


【カタコンベの語源】

 イタリア語カタコンバ/カタコンベ(単 catacomba 複 catacombe)の語源は、ラテン語カタクンバ/カタクンバエ(単 CATACUMBA 複 CATACUMBAE)です。しかるにラテン語カタクンバ/カタクンバエの語源については定説がありません。リトレ仏語辞典(le Littré)には下記の説が列挙されています。

   1.    ギリシア語で「下に」を表す接頭辞カタ(ϰατὰ)に、ギリシア語起源のラテン語クンバ/キュンバ(CUMBA/CYMBA)を続けた語。
          ギリシア語キュンベー(κύμβη)は「小舟」の意。ローマの地下墓地は船着き場の近くにあった。この説によると、カタクンバは「船着き場の下(の墓地)」が原意である。
         
   2.    ギリシア語で「下に」を表す接頭辞カタ(ϰατὰ)に、ラテン語トゥンバ(TUMBA 墓)を続けた語。すなわち「地下墓地」の意。
          この説は、トゥンバが訛化(がか)してクンバになったと考える。
         
   3.    ギリシア語で「下に」を表す接頭辞カタ(ϰατὰ)に、古ロマンス語クンバ(cumba 谷、窪み)を続けた語。すなわち「地下の窪み」の意。
         
   4.    俗ラテン語で「見る」を表すカターレ(catare)に、「墓」を表すトゥンバまたはクンバを続けた語。すなわち「訪れて目にする墓」の意。
          俗ラテン語カターレは、カタファルク(catafalque 棺台)、シャリ(châlit 寝台の床架、骨組み)の語源でもある。
         
   5.    ギリシア語で「下に、…の方に」を表す接頭辞カタ(ϰατὰ)に、ギリシア語キュンベー(κύμβη 窪み)を続けた語。すなわち「窪みに」の意。
          第一説はギリシア語キュンベー(κύμβη)を「小舟」の意に解した。しかしながらキュンベーの原意は「窪み」「容器」であり、第五説はこの語の原意に拠る。この解釈が正しければ、カタクンバという名称は、「遺体を窪みに置く場所」という意味に解せる。


 第二説と第四説を補強する傍証として、スペイン語にカタトゥンバ(catatumba)、イタリア語ミラノ方言にカタトンバ(catatomba)の語形が見られます。第四説はフリードリヒ・クリスティアン・ディーツ(Friedrich Christian Diez, 1794 - 1876)によります。ディーツはボン大学の言語学者で、ロマンス語比較文法の礎を築いた人物です。ル・リトレ自体は第五説を最も有力視しています。


【ローマにおけるカタコンベの歴史】

 最古のカタコンベは二世紀に遡ります。大部分のカタコンベは使われなくなった採石場、砂の採取場、貯水場を再利用し、地下にトンネルを延長して、ポモエリウム外の地下墓地としています(註1)。

 カタコンベへの埋葬が盛んになった時代は、ローマ市域が拡大した時代と重なります。市域が拡大して土地の需要が高まると、地価が上がります。さらにこの時代には火葬ではなく土葬される死者が多くなったことも、土地不足に拍車を掛けました。この結果コルンバリウム(COLUMBARIUM 遺灰安置所、納骨堂)やマウソレウム(MAUSOLEUM 貴人の霊廟)の建設用地が確保しづらくなり、火山灰土や凝灰岩など掘削が容易な地区において、カタコンベの規模が拡大しました。

 カタコンベは上記のようにして発生した地下墓所であり、特定の文化や宗教の産物ではありません。次に述べる事情によって、主要なカタコンベはキリスト教徒専用墓地の様相を呈しましたが、ローマ古来の多神教徒のカタコンベ、フェニキア人のカタコンベ、ユダヤ人のカタコンベ等、キリスト教徒以外のカタコンベも多くありました。


 キリスト教が未だ公認されていなかった時代、信徒たちは殉教者を葬る独自の墓所を持ちませんでした。それゆえ初代教会の最重要人物である使徒ペトロや使徒パウロも、一般市民と同じネクロポリス(地下の公共墓地)に埋葬されました。当時のキリスト教徒たちは殉教者の近くに埋葬されることを望みましたから、殉教者の墓所は自然とキリスト教徒の墓所となりました。殉教者の墓所として知られるカタコンベがキリスト教徒専用の墓所のようになっているのは、このような理由によります。

 ローマに残るキリスト教徒のカタコンベは、サン・セバスティアノのカタコンベ(伊 le catacombe di San Sebastiano)、及びそのすぐ西側にあるサン・カリストのカタコンベ(伊 le catacombe di San Callisto)がもっともよく知られています。後者にはクリプタ・デイ・パーピ(伊 la Cripta dei Papi 教皇の地下聖堂)またはカペッラ・デイ・パーピ(伊 la Cappella dei Papi 教皇の礼拝堂)と呼ばれる区画があって、二世紀から四世紀のローマ司教(教皇)の墓所となっています。クリプタ・デイ・パーピに隣接する区画は聖セシリアの墓所となっており、セシリアが祈る姿のフレスコ画が描かれています。聖セシリアの墓所から少し進むとクビコーリ・デイ・サクラメンティ(伊 i Cubicoli dei Sacramenti 秘跡の部屋)と呼ばれる区画があり、三世紀前半のフレスコ画に洗礼、エウカリスチア、肉体の復活が描かれています。


 313年、キリスト教を公認するミラノ勅令が発布されると、新しい場所に聖堂を建てて殉教者の遺体を移葬することが可能になりました。未だ弱小であったキリスト教会にとって聖堂建設は大きな負担でしたから、第三十七代ローマ司教ダマスス一世(Damasus I, c. 305 - 366 - 384)は、殉教者が眠るカタコンベを修繕して維持し、巡礼の場とすることを推奨しました。しかしながら 392年にローマ帝国がキリスト教を国教化する頃には、教会の資金は潤沢になって多くの聖堂建設が可能になり、死者はそれらの聖堂に葬られるのが普通になりました。このようにして新しい死者がカタコンベに葬られることは無くなり、カタコンベは墓所としての役割を終えました。


【カタコンベにおけるキリスト教徒の墓碑銘二例】

 カタコンベに葬られる人々には、ローマ司教(教皇)のような高位聖職者や名高い殉教者も含まれていましたが、大部分は庶民でした。遺体は蚕棚状の龕(がん 壁面の窪み)に横臥の姿勢で安置され、龕の開口部には墓碑が設けられました。


64 x 37.5 cm, depth 3 cm ラテラノ美術館蔵

 上の画像は ローマ、サン・カリストのカタコンベにあったキリスト教徒の墓碑のレプリカで、アルファとオメガ、及びクリスム(キーXとローPの組み合わせ文字)の隣に、オリーヴを咥えたが描かれています。ラテン語の銘の内容は、次の通りです。

NICELLA, VIRGO DEI, QUAE VIXIT ANNOS PM XXXV, DEPOSITA (EST) XV (ANTE DIEM) KAL(ENDAS) MAIAS. BENE MERENTI. IN PACE.

神の処女ニケッラはおよそ三十五年を生きて、二月十七日(直訳 第三の月マイウスの十五日前)に埋葬された。救いに値するこの女性のために。平安のうちに。


 ベネ・メレンティー(羅 BENE MERENTI)はベネ・メレーンス(羅 BENE MERENS)の与格で、直訳すれば「十分に値する者に」という意味です。ここではキリスト教的価値観に基づき、「救いに値する者に」の意味に解して訳しました。




 上の画像は やはりサン・カリストのカタコンベにあったと思われるキリスト教徒の墓碑のレプリカで、オリーヴを咥えた鳩とイチジクの葉が描かれています。ラテン語の銘の内容は、次の通りです。

ACAPENI BENE MERENTI QUAE VIXIT ANNIS IIII. FECIT FRATER DOLENS. DEPOSITA (EST) XII (ANTE DIEM) KAL(ENDAS) IVNIAS. AGAPE. IN PACE

四年間を正しく生きたアカペニスのために。兄が嘆きつつ(この墓碑を)作った。アカペニスは三月二十一日(直訳 第四の月ユニウスの十二日前)に埋葬された。愛(を込めて)。平安のうちに(やすらえ。)


 上の碑文を始め、当時のラテン語表記はゲー(G)の代わりにケー(C)を使う場合が多くあります。ラテン文字のケー(C)はギリシア文字のガンマ(Γ)を取り入れたもので、もともと有声軟口蓋破裂音 [g] に対応します。ラテン語人名の略号ケー(C)は、男性名ガーイウス(GAIUS)の意味です。


 古代のキリスト教徒たちは世界の終末が間近に迫っていると信じ、肉体の復活に備えて遺体を保存する必要があると考えました。墓所としてカタコンベが使用された時代、火葬を避けて土葬される人々が増えたのは、キリスト教徒が増えたためでもあったでしょう。

 上に示した第一の墓碑銘では、ベネ・メレンティー(羅 BENE MERENTI)を「救いに値する」と訳しました。しかしながらベネ・メレンティーという句は、「このような形で埋葬するに値する」という意味にも受け取れます。被葬者ニケッラは信仰深い女性であったゆえに、最後の審判の日に復活し、天国に入るに値します。それゆえニケッラの遺体は、復活を待つあいだ損なわれることがないように大切に葬られ、カタコンベ内のおそらく殉教者の遺体に近いところに安置されるに値します。第一の墓碑銘のベネ・メレンティーという句には、おそらくこれら両方の意味が籠められていると考えられます。

 第二に示したのは幼気(いたいけ)な少女の墓碑銘で、見る者の涙を誘います。少女のアガペニスという名前は、日本語に訳せば「愛ちゃん」です。両親でなく兄が墓碑を作っているのは、このきょうだいが親を失い、身を寄せ合って生きていたからでしょうか。アガペニスの兄は年齢が離れた若者で、幼い妹を誰よりも大切にし、可愛がっていたはずです。アガペニスの小さな亡骸は限りない愛と悼み、細心の注意を以て墓所に安置されたに違いありません。


【カタコンベに見る古代ローマの墓制と、日本の墓制の比較】

 古代ローマの人々の遺体に対する接し方をわが国の場合と比べると、墓制の極端な違いが目を惹きます。古代ローマの人々は、火葬の場合は遺灰を壺に入れてコルンバリウム(納骨堂)に保管し、土葬の場合は遺体を丁寧に葬るとともに墓碑を制作し、いずれも死者を丁寧に扱いました。

 これに対してわが国では、死者は単に遺棄されました。わが国の古来の墓制はたいへん変化に富んでいますが、遺体を丁寧に扱わない傾向は身分の高低を問わず一貫しています。わが国では遺体が後世まで残るように願われることは無く、風葬の場合はもちろんのこと、土葬された遺体であっても、ほとんどの場合は遺棄に等しい扱いを受けました。


 正確を期するために時代ごとに分けて論じると、縄文時代の貝塚からは石を抱かせた屈葬の遺体が出土します。縄文時代の抱石葬は、死者に付着した凶癘魂(きょうれいこん 註2)を、遺体から離脱させないための工夫でした。貝塚は縄文時代の塵芥捨て場であり、遺体はときに腹部に大きな石を載せてここに遺棄されたのです。屈葬は縄文時代から弥生時代にかけて行われましたが、この埋葬法自体が、おそらく凶癘魂を閉じ込める工夫です。屈葬の遺体がしばしば甕棺に入れられたのも、密閉性の高い甕を用いることにより、凶癘魂を確実に封じ込めようとしたものと考えることができます。

 古墳時代の有力者の遺体は、大規模な土木工事を要する墳墓に入れられました。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)などは世界最大級の墳墓です。しかしながら当古墳の被葬者が仁徳天皇であるかどうかは、実のところ分かっていません。仁徳天皇だけではなく、五世紀の天皇で墓所が判明している人物は一人もありません。天皇のために大量の資材と巨大な労働力を動員して墳墓を築造しながら、どの古墳がどの天皇の墓所であるか分からないという事態は、世界の他の地域の巨大墳墓と比較すると、非常に特異な状況と言わざるを得ません。

 しかしながら古墳を抱石葬の延長と考えると、疑問は氷解します。わが国の古墳は天皇や豪族の威光を高める記念碑として築造されたのではなく、むしろ祭祀王の強力な霊力を封じ込める抱き石であったのではないでしょうか。平安時代初期に編纂された「令集解」(りょうのしゅうげ 註3)は崩御した天皇の凶癘魂に言及し、遊部(あそびべ)と呼ばれる氏に属する二人の役職者が、一人は刀を負い戈を持ち、一人は酒食を持ち戈を負って、殯宮に安置された天皇の凶癘魂を鎮めることを記しています。古墳時代においても祭祀王=天皇を斃した凶癘魂は並外れて威力があり、それを封じ込めるためには巨大な石材で造った石室や、厚い土盛りが必要であったと考えることが可能です。古墳の本質に関するこの解釈が正しければ、巨大な古墳は栄光の記念碑ではなく、むしろチェルノブイリの石棺のようなものであって、天皇の遺体は石室内に遺棄されたことになります。そうであれば、天皇の遺体がいったん安全に封じ込められた後に、これを顧みる人がいなかったとしても不思議ではありません。




(上) 「檀林皇后九相絵縁起」 西福寺蔵


 筆者(広川)はここで橘嘉智子(たちばなのかちこ)を思い浮かべます。橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后で、絶世の美女でした。橘嘉智子は六十五歳で亡くなりましたが、その遺体は右京帷子ノ辻の路傍に遺棄され、腐乱、白骨化して朽ち果てました。京都の西福寺には江戸時代に描かれた「檀林皇后九相絵縁起」があり、嘉智子の体が朽ちてゆく様子を示しています。

 嘉智子本人の遺志であったとはいえ、他国及び現代の日本では、皇后の遺体を路傍に放置するなど、とても有り得ないことです。このようなことが為され得たのは、古来のわが国において、遺棄が通常の遺体処理方法であったからに他なりません。とりわけ貧民の間では風葬が普通でしたし、平安から鎌倉にかけての人々は死穢を忌んだゆえに、死者の親族でもない人が遺体を埋葬することはありませんでした。身寄りのない独居者の遺体は屋内にそのまま放置されましたし、下人や下女は死が近づくと主家から引きずり出され、野に捨て置かれました。貧しい僧の遺体も寺の外に遺棄されました。

 平安京の路傍に多くの死体が遺棄されていた様子は、谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」にも書かれています。この作品において、滋幹の父は夜ごと女の死体のそばに出向き、月明かりの下で女が朽ちてゆく様子を見ながら、諸行無常を観じます。皇后嘉智子の風葬もまた諸行無常を世人に示すためであり、仏教の精神に基づく行為でしたから、凶癘魂を封じ込める措置は講じられませんでした。しかしながら皇后嘉智子の風葬は、遺体保存に意義を見出さない点で、石室内への天皇の遺体遺棄と無関係ではないと考えられます。



註1 ローマは七つの丘から成る。七丘のひとつラティウム(LATIUM)はローマ発祥の地であり、本来的意味におけるローマとされた。ラティウムは城壁で囲まれ、城壁の内側はポモエリウム(POMŒRIUM)と呼ばれて、死者の埋葬が禁じられた。

註2 凶癘魂(きょうれいこん)とは、疫癘(えきれい 疫病)を惹き起こして死をもたらす邪悪な霊のこと。古代人は凶癘魂の付着が死の原因であると考えていた。

註3 701年、唐の律令をまねて、わが国最初の律令である大宝律令が公布された。大宝律令に続いて、757年、養老律令が公布された。「令集解」(りょうのしゅうげ)は養老令の注釈書で、同令の公布からおよそ百年後の九世紀中頃、明法博士惟宗直本(これむねなおもと)によって著された。



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