パリの聖ジュヌヴィエーヴ
Ste. Geneviève de Paris



(上) Puvis de Chavannes, "L'Enfance de Sainte Geneviève" (details), 1876 - 1878


 パリ市の守護聖人として知られる聖ジュヌヴィエーヴ (Ste. Geneviève, c. 419/422 - 512) は、パリ近郊のナンテール (Nanterre) に生まれました。裕福な市民の娘であったと言われています。


【聖ジュヌヴィエーヴの生涯】

 ペラギウス主義と戦うためにイギリスに向けて出発したオセールの聖ジェルマン (St. Germain d'Auxerre, c. 378 - 448) とトロワの聖リュプス (St. Lupus de Troyes, c. 383 - c. 478) が429年にナンテールに立ち寄った際、聖ジェルマンの説教を聴くために集まった村人たちのなかに、たいへん敬虔な一人の少女がありました。この少女こそがジュヌヴィエーヴでした。聖ジェルマンは説教の後でこの少女を呼び寄せ、彼女が神に仕えたいという強い気持ちを持っていることを知ります。聖ジェルマンはジュヌヴィエーヴの両親に、彼女が将来聖性の道を歩むであろうこと、多くの処女たちが一生を神に捧げる手本となるであろうことを話しました。

 次の日、聖ジェルマンはナンテールを発つ前に再びジュヌヴィエーヴに会ってその決心を確かめると、彼女を祝福して十字架が彫られたメダイを渡し、自身をキリストに捧げたことを忘れないために、金や真珠の替わりにそのメダイを身に着けるようにと言いました。



(上) Puvis de Chavannes, St. Genevieve as a Child in Prayer, 1876, oil on canvas, 1365 x 1763 mm, Van Gogh Museum, Amsterdam


 ナンテールには修道院は無かったので、ジュヌヴィエーヴは両親の家で敬虔な生活を送り、両親の死後は名付け親ルテティア(Luthetia) とともにパリに住んで、肉食をせず、一週間にわずか2回の食事を摂り、慈善に励む生活を続けました。ジュヌヴィエーヴの厳しい禁欲生活は、教会の長上によって止められるまで、30年以上にわたって続きました。

 聖性に満ちた生活を送るジュヌヴィエーヴに対して嫉妬した人たちは、彼女を偽善者とののしってその幻視や預言を偽物であると主張し、ついにはジュヌヴィエーヴを溺殺しようとさえしましたが、オセールの聖ジェルマンが執り成して事は収まりました。聖ジェルマンはジュヌヴィエーヴに神に身を捧げた処女たちの世話を任せ、ジュヌヴィエーヴは少女たちに良き手本を示して聖性へと導きました。


 451年にアッティラ (Attila, c. 406 - 453) の率いるフン族がガリアに侵入し、パリの人々も浮き足立ちますが、ジュヌヴィエーヴは神を信頼して悔い改めの業を為すように人々に勧め、そうすればパリは救われると説きます。パリの人々はジュヌヴィエーヴに従い、フン族はパリを攻めずにオルレアンに向かいました。

 464年にシルデリク (Childeric I, c. 440 - c. 481) がパリを攻囲して市中に食料がなくなったときも、ジュヌヴィエーヴは船を使って包囲を突破し、トロワからパリに穀物を運び込みました。またジュヌヴィエーヴは、捕虜となった兵士を人道的に扱うようにシルデリクに願い出ています。ジュヌヴィエーヴの愛と自己犠牲はシルデリクの息子クローヴィス (Clovis I, c. 466 - 511) を動かし、捕虜たちは後に解放されました。

 ジュヌヴィエーヴは聖ペテロと聖パウロに捧げた教会をパリに建設することを考え、クローヴィスは511年に建設に取り掛かります。ジュヌヴィエーヴは512年に亡くなり、その遺体は完成した教会に埋葬されて多数の奇跡を惹き起こしました。ジュヌヴィエーヴが聖女とされると、この教会の名前はサント・ジュヌヴィエーヴ教会に改められました。


 羊飼いであった少女時代の聖ジュヌヴィエーヴ


【聖ジュヌヴィエーヴの図像学】

 聖ジュヌヴィエーヴは羊飼いまたは修道女の姿で表されます。羊飼い姿の場合、たいていは羊を伴い、糸巻き棒を抱えています。

 また聖ジュヌヴィエーヴはろうそくや祈祷書を持っている姿で表されることもあります。ろうそくを持っている場合、聖女のろうそくに灯をともそうとし、あるいは火が消えないように守ろうとする天使と、火を消そうとする悪魔が、聖女とともに表されます。

 聖ジュヌヴィエーヴはメダイを身に着けていることもあります。このメダイは聖ジェルマンが429年にナンテールに立ち寄った際、少女ジュヌヴィエーヴに与えたものです。


【聖ジュヌヴィエーヴと麦角病】



(上) 19世紀後半のカニヴェに、インタリオで描かれた麦角病治癒の奇蹟。画面左には、サン=テティエンヌ=デュ=モン (L'église Saint-Étienne-du-Mont) に残る聖ジュヌヴィエーヴの石棺が彫られています。当店の商品です。


 12世紀のフランスでは麦角病がたびたび流行しました。これは小麦、大麦、ライ麦などの穀物に寄生する麦角菌による食中毒ですが、死にいたる重篤な症状を惹き起こすことも多くあり、中世ヨーロッパではたいへん恐れられていました。

 1129年、パリ司教エチエンヌの提案によって、ジュヌヴィエーヴの遺体を運ぶ行列がジュヌヴィエーヴ教会からノートル・ダムまでの市中を歩いた際、ジュヌヴィエーヴの棺を見たりこれに触れたりした1万4千人もの市民が癒されたと伝えられます。翌1130年、ローマ教皇インノケンティウス2世はパリを訪れてこれが真正の奇跡であることを確かめ、後世に伝えるために毎年11月26日に祭礼を行うことを命じました。


【聖ジュヌヴィエーヴとパンテオン】

 クローヴィスが建設を始めた聖ジュヌヴィエーヴの教会には王族から一般市民まで多数の人々からの献納物が納められていましたが、847年、ノルマン人によって略奪と破壊の被害に遭います。1177年に教会の修繕は完了しますが、その後再び荒れ果ててしまったので、1764年、国王ルイ15世は新しい教会の建設を始めましたが、完成前に革命が起こり、国民議会時代の1791年にパンテオンとして完成しました。

 聖ジュヌヴィエーヴの遺体の大部分は革命のさなかの1793年にグレーヴ広場で焼却されてしまいましたが、パンテオンは1821年にカトリック教会に返還されました。1831年には教会の手を離れて国民廟となりますが、1852年、再び教会に返還されます。その後 1871年のパリ・コミューンで、遺体の焼け残った部分もあらかた失われましたが、1885年、教会はパンテオンを聖ジュヌヴィエーヴ教会として再び聖別しました。今日パンテオンは国民廟としても教会としても使われています。聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物は指の骨一個だけが残り、パリのサン=テティエンヌ=デュ=モン教会 (l'Église Saint-Étienne-du-Mont) に安置されています。


 パンテオンには、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (Pierre Cécile Puvis de Chavannes, 1824 - 1898) が聖ジュヌヴィエーヴの生涯を描いた連作が飾られています。特に「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」("Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi") は、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが生涯の最期に描き上げた傑作として広く知られています。

(下) Puvis de Chavannes, "Ste. Geneviève ravitaillant Paris", "Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi", 1893 - 98, huile sur toile, Panthéon, Paris




 聖ジュヌヴィエーヴの祝日は1月3日です。



関連商品

 聖ジュヌヴィエーヴのメダイ

 聖ジュヌヴィエーヴのカニヴェ


 アンリ・ドロプシによる聖ジュヌヴィエーヴのメダイユ




天使と諸聖人のレファレンス インデックスに戻る

キリスト教に関するレファレンス インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する

キリスト教関連品 その他の商品とレファレンス 一覧表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する




Ἀναστασία ἡ Οὐτοπία τῶν αἰλούρων ANASTASIA KOBENSIS, ANTIQUARUM RERUM LOCUS NON INVENIENDUS